第24話:神は火刑よりも足を好む
「異端審問官が、自ら足を……?」
「毎日、手入れをしているだと?」
「定められた洗足の儀以外は禁忌のはずだ!」
「教団の信条に反しているではないか!」
静まり返っていた円形法廷が、一息遅れて沸騰した。疑念は隣の人間へ感染し、確信へと変わり、最後には公認の事実として増殖していく。噂は根拠を餌にしなくても育つ優秀な家畜である。誰かが一度鳴き声を上げれば、あとは群れ全体が同じ方向へ走ってゆく。
セラフィナは否定しなかった。切れ長の瞳を伏せ、両膝を僅かに寄せる。法衣の裾を引き下ろすように指先が動いた。隠そうとしているのは足か、後ろめたさか。おそらく本人にも区別がついていない。つい先ほどまで、神の代理人として見下ろしていた女が、今は大勢の視線から自分の脚を守ろうとしている。
「答えられないのか!」
さきほど証言台へ立っていた甲冑男が、セラフィナを指差した。
「沈黙は異端の証明!それはセラフィナ殿、あなた自身が仰ったことだ!」
自分で組み立てた処刑装置へ、設計者本人が押し込まれていく。安全装置を削除した製品は、開発者にも平等に牙を剥く。
「違う……これは……」
セラフィナの唇が動く。その先の言葉が続かない。甲冑男の目に、疑念とは別の光が宿った。自分の捜査が誤っていたと認めるくらいなら、審問官が裏切っていたことにした方が都合がいい。無能な捜査官より、巨大な陰謀に嵌められた忠臣の方が、職務経歴書へ記載した際の見栄えが良い。
「そうか……分かったぞ!」
甲冑男が、何かを発見したように叫んだ。
「セラフィナは、元から反逆者どもと繋がっていたのだ!この裁判も仕組まれていた!初めから決められていた、教団を貶めるための罠だったのだ!」
「なっ……何を言っているのですか!」
「ルミナと旧知であることが何よりの証拠!異端者をわざと法廷へ招き入れ、教団の教義に疑念を抱かせた!」
傍聴席は甲冑男の説へ傾いていた。
「そうだ、すべて仕組まれていたのだ!」
「我々は欺かれた!」
「教団を内部から腐らせるつもりだったのだ!」
自分が何も理解していなかったという惨めな事実より、世界を裏から操る悪人がいるという物語の方が、脳へ優しく、酒場でも説明しやすい。
「まず、この女を火刑に処せ!」
「異端審問官を騙った謀反人だ!」
「神敵を捕らえろ!」
傍聴者たちは、処刑対象が俺からセラフィナへ変更されたことを、驚くほど容易に受け入れた。彼らは正義を見届けに来たのではない。人間の丸焼きを見に来ただけだ。入場券に被処刑者の氏名までは印刷されていないため、出演者の変更にも寛容らしい。
二人の甲冑男が審問席へ踏み込み、セラフィナの両腕を掴もうと身を乗り出す。
「何をしているのですか!私は異端審問官です!」
「その地位を利用していたのだろう!」
「違います、私は教団のために――」
セラフィナが一歩後ずさる。白いブーツの踵が壇上の段差へぶつかり、硬い音を立てた。顔が驚愕に歪み、初めて明確な焦りが浮かぶ。常に他人を裁く側へ立っていた者は、自分が裁かれる可能性を想定していない。猛獣を檻へ入れて安心していた飼育員が、いつの間にか自分も内側にいたと気づいた顔だった。
(何してんだ、こいつら……)
俺はセラフィナを見る。銀髪。冷たい目。無駄なく整った法衣。膝下を隙間なく包む白い儀礼用ロングブーツ。そして、大衆の悪意へ晒された姿。こんな上質な個体を火炙りにしようってか。何回リセマラと厳選を繰り返しても辿り着けないやつだぞ。人命をガチャの排出率で評価する最低の思考だった。だが、そう思うより先に声が出ていた。
「ちょ、ちょっと、セラフィナさん!」
「え……?」
セラフィナが俺を見る。異端審問官ではなく、助けを求める一人の女の目だった。そんな目で見られた経験のない俺の心臓が、急に慣れていない仕事を任されたように暴れ出す。
「この空間の結界……俺の能力を封じてるやつ! あれ、解いてくれ!」
「どうして……」
「は、はやく!」
俺が女性へ強い言葉を使えたのは、人生で初めてかもしれない。直後に申し訳なさで胃が縮んだ。勇気の使用可能時間はわずか二秒だった。セラフィナは戸惑いながらも、胸元で指を組む。
「こ、こう……?」
白い魔法陣が足元へ広がり、法廷の天井まで伸びていた光の柱に亀裂が走った。張り詰めていた空気が砕け、透明な破片となって消えていく。
〖『聖句固定結界』が解除されました〗
〖固有スキル『全肯定・足ケア』の意味補正を再開します〗
〖発言の超翻訳が有効になりました〗
この異世界の神よ、私に純潔と節制をお与えください。ただし、今すぐではなく、後で。できれば、あの白いロングブーツの中身を確認した後で。水泳の授業以来に大きく息を吸う瞬間だった。足が攣った危険な状態なのに、泳ぎが下手だと罵ってきた体育教師の顔がチラついた。
「おい、火刑なんてもったいないだろ!やるならその前に、彼女の足に少し触れさせてくださいよぉ!たのんます!」
それが俺の発した、嘘偽りのない言葉だった。しかし、法廷へ響いたのは、それはそれはありがたい主の御言葉だった。
「それが、民を救うはずの宗教の成れの果てなのですか」
自分の口から出たとは思えない、穏やかで威厳に満ちた声が、円形法廷の壁を震わせる。セラフィナへ伸ばされていた甲冑男たちの手が止まった。
「信じる者だけを救い、疑う者は火へ投げる。ずいぶんと現金な慈悲です。救済を差し出す前に服従を要求し、神の愛を受け取るために教団の承認印を求める。もはや信仰ではありません」
ざわめきが急速に消えていく。一同がこちらへ視線向ける。職場で居眠りこいていたら、膝をぶつけて注目を集めた時の気まずさが蘇る。
「あなた方は、つい先ほどまでセラフィナ殿の言葉を神意として受け入れていた。それが、彼女も自らの足を労わる一人の人間だと知った途端、謀反人と呼び、火へ投げようとしている。変わったのは真実ではありません。処刑台へ載せる人間の名前だけです」
甲冑男の一人が、気圧されたように手を下ろした。
「最初に異端者を焼けば、教義が正しかったことになる。次に異端審問官を焼けば、裁判も正しかったことになる。それでも矛盾が残れば、三人目を探すのでしょう。あなた方が求めているのは罪人ではありません。自らの誤りを認めずに済む材料です。人間を薪としてくべ、帳尻が合うまで燃やし続ける。それを信仰と呼ぶのであれば、神は天上ではなく、火刑場の帳簿に住んでおられるらしい」
誰も口を挟まない。俺自身も口を挟めない。勝手に俺の口が喋り続けているからだ。喉が渇いてきた。動かし慣れていない舌を何度も噛んだ。
「人を救うために教義があるのではなく、教義を守るために人を焼く。昨日まで忠実に仕えた者さえ、一つの疑念で不純物として排除する。そうして信仰の純度を高め続けた先に残るのは、神ではありません。よく磨かれた処刑器具だけです」
セラフィナが、呆然と俺を見つめていた。
「たった一人の女性が、自らの足を手入れしていた。それだけで崩れ落ちる信条を、永遠の真理とは呼べません」
評定官たちの顔から、血の気が引いていく。教団の信仰体系を角質扱いする、極めて不敬な説法である。それなのに、誰も反論できない。俺はその間、セラフィナのロングブーツの留め具が内側にあるのか外側にあるのか、そればかり考えていた。
「救済とは、正しい答えを選んだ者へ与える賞品ではありません。信じる者も、疑う者も、正しい者も、過ちを犯した者も、苦しんでいるならば手を差し伸べる。それが慈悲ではないのですか。信仰を持たぬ者を救えない神より、名も所属も尋ねず、ひたすらに傷を診る村の老婆の方が、よほど神に近い」
自分の口から凄いことが出ている。できれば録音して、後でネットへ投稿したい。匿名アカウントなら、しばらく固定表示にしてもいい。現実の俺は女性の足元に縋りつきたいだけなのに、超翻訳を通した途端、人類の信仰史へ喧嘩を売る聖者へ加工されてしまった。素材偽装にも限度がある。
「この者の言葉に惑わされるな!」
突飛な説法を聞き終えても、最初に声を上げた甲冑男は引き下がらなかった。ここで間違いを認めれば、捜査、証言、反逆者認定のすべてが自分の早とちりだったことになる。人間は信仰より先に、自尊心を守る。
「口先だけなら、何とでも言える!足を労わる行為が異端ではなく、真に人を救う奇跡だと言うのなら――」
甲冑男が、俺とセラフィナを交互に指差した。
「それならば!今ここで!その奇跡を見せてみろ!」
法廷の空気が、再び張り詰める。ルミナだけが楽しそうに口元を歪めた。
「いいわね。教団側が用意した測定器を使い、六人の評定官と傍聴者全員の前で検証する。これなら後から『未知の術式で隠蔽された』なんて言い逃れはできないわよね?」
「無論だ!」
六人の評定官のうち一人が、躊躇いながら片手を上げた。
「……公開検証の間、セラフィナ殿への拘束及び刑の執行を禁ずる」
正直できるかどうかなど知らない。だが今ここで断れば、セラフィナは焼かれる。そして俺も、おそらく順番待ちの列へ戻される。何より、あの白いロングブーツを合法的に脱がせる機会が、永遠に失われる。
「いま、ここで……やります」
声は少し震えていた。それでも、言葉だけは真っ直ぐ前へ出た。ここが俺の人生の極点だった。この瞬間を生きるために、俺は生まれてきたのかもしれない。人間がこの世に生まれることなど、確率の連鎖でしかない。両親が出会ったこと。その時代、その場所、その瞬間に、一つの命が選ばれたこと。俺は生まれることを選んでいない。顔も、身体も、才能も、三十路を越えてなお女性経験がないという輝かしい実績も、自分で発注した覚えはない。存在は、本人の同意も取らず納品される。
そんな偶然へ抗う方法があるとすれば、自分の存在意義だけは、自分で決めることだ。世間が俺を変態と呼ぶ。教団が異端者と呼ぶ。女性が気持ち悪いと叫ぶ。それらは概ね正しい。だが、それが存在すべてを決定するわけではない。与えられた名前ではなく、自ら選び取った行為によって、自分が何者であるかを引き受ける。
故に俺は足ケアをする。足は人間の最も低い場所にあり、泥を踏み、汗を溜め、重さを引き受け、それでも人前では隠すよう求められる。社会も同じく、最も下で全体を支えている者ほど、汚れと疲労を溜めている。その疲労を、醜さを、匂いを、存在してはならないものとして切り捨てない。
足を差し出した彼女たちが歩いてきた時間も、背負わされた重さも、隠したかった痛みも含めて触れる。俺は足ケアによって、彼女たちの存在そのものを肯定する。
「……セラフィナさん。その……嫌なら、断ってもらって大丈夫なので。足、触っても……いいですか?」
超翻訳が戻っていても、情けなさまでは完全に消臭できなかった。セラフィナは俺を見つめ、それから甲冑男たち、評定官、傍聴席へ順番に視線を移した。やがて、白い法衣の裾を握っていた指を解く。
「……許可します」
「ほ、本当に?」
「何度も言わせないでください」
「あっ」
用意された椅子へ、セラフィナが腰を下ろす。大衆の視線が、一斉に彼女の足元へ集まった。セラフィナは両膝を固く閉じる。普段なら異端者を射抜く切れ長の目は伏せられ、雪のように白い頬へ薄い朱が差していた。
教団が「最も厳かで、最も隠されるべき部位」と定めた足を、今から異端者の手へ委ねられる。教会関係者、教授、貴族、かつての被救済者たちが見守る大衆の面前で。
処刑を待つ被告人が、異端審問官の足元へ跪く。見た目だけなら信仰の勝利だが、宗教画として販売する際には年齢制限が必要になる。
「では……失礼します」
革越しにも、閉じ込められた体温が伝わってくる。誰にも見せることを許されなかった足。信仰と羞恥と職務疲労を、白い革の内側へ密封した聖域。俺の指が、セラフィナのロングブーツの留め具へ手をかけた。




