第六章 長い夜
第六章 長い夜
ゴールデンウィークに入り、僕は毎日のようにあのドーナツ屋に向かった。お昼に入店し、閉店時間に出る。そんな日々を過ごしている。そこに、神崎詩織の姿はない。彼女は友達と旅行に行っているのだ。僕にとっては毎日がまさに静かなる安息だ。彼女とは30日に会ってからそれきりで、その日は互いに本を読み続けた。彼女からの提案である。同じ本を買い、読む。ゴールデンウィーク前に買って、明けに語り合う。そんな約束をしたのだ。本を読み、おもしろくないと一蹴する。その繰り返し。読む、貶す、読む、貶す。ただの単調な日々。いつも通りだ。しかし、満たされないという言葉がどこかから聞こえた。
そんな華々しい休日に邪魔をする者が現れた。そう、月島である。
「よっ!文哉」
「月島…」
「おいおい約束忘れたのか?二人きりだぞ?」
「はぁ。わかったよ、渚。」
僕は小学生の頃、月島ではなく渚と呼んでいた。しかし、中学に上がってからは月島と呼んだ。それがお気に召さなかったようで、戻せと言ってきた。それに反抗して僕らは少しの喧嘩をし、結果二人だけの時は渚と呼ぶことに渋々了承した。そもそもクラスの人気者が日陰者とつるもうとするな。周りに変な風に思われるだろ。
「とりあえず飯でも行こうぜ!」
そうして僕は拒否権の行使はできず、月島に連行されるのであった。神崎詩織といい、月島といい、僕の権利を侵害し続けている。そろそろ弁護士を雇って戦いたいものだ。
「おっちゃん!二人で!」
行先は決まっている。近所のラーメン屋だ。昔からよく二人で来てはくだらない喧嘩をして、大将に怒られている。内装はお世辞にも綺麗とは言えないが、昔ながらのビールや水着の女性のポスターが貼られており、隠れた名店だ。
「おう!渚!いつものやつでいいな!」
「たのんまーす!」
少し時間が経ち、ラーメンの香りが店中に広がる。
「大豚チャーシュー一丁!」
月島は大盛の豚骨チャーシュー麺。外見には似合わず、大食いなのである。
「文哉の方はもう少し待ってな!」
「お構いなく。」
「悪いな文哉、先にいただくぜ!」
「お構いなく。」
そう言うと、店内に響き渡る声でいただきますと言う。人が多いところでは目立つのでやめてほしい。ラーメンを食べる月島を横に、僕は神崎詩織のストーリーを見ていた。とても楽しそうに同性の友達とはしゃぐ彼女が見られた。僕はほんの少しの安堵感を感じ、そっと胸を撫で下ろす。
「それなんて名前のインフルエンサー?」
ラーメンしか見ていないはずだった渚が、僕のスマホを覗き見していたのである。人のスマホを覗くとは、僕にプライバシーはないのだろうか。
「いや、ただの知り合い。」
「は?」
月島の箸が止まる。
「し、知り合い?文哉の?俺知らないぞ!そんな美少女!」
なぜか少し口調が荒い。僕に美少女の知り合いがいるのがそんなに気に入らないのだろうか。それとも、渚の好みなのだろうか。もしそうであっても、紹介できるほど仲は良くないのだが。
「いや、大学生だから渚が知らなくてもおかしくないよ。」
「大学生って…どこで知り合ったんだよ。」
少し不貞腐れたように話す。今日はいつもとは様子が違い、変だなと思った。
「いつものドーナツ屋でたまたま。」
「たまたまでこんな美少女と知り合えるか!運命かよ!」
運命。その言葉に僕の体が拒絶反応を示す。僕が嫌いなその言葉に少しぶっきらぼうになって答える。
「運命じゃないよ。同じ本が好きだっただけ。それに渚には関係ないことだから。」
「関係ないって…その人が悪いやつかもしれないだろ!美人局とか!」
その言葉に僕の感情は洪水寸前であった。暴れる心を抑えられる自信がない。自分でも、なぜ胸がざわめくのかわからない。
「詩織さんはそんな人じゃない。会ったこともないのに、変なことを言うなよ。」
僕にしては珍しい感情的な言葉だった。ラーメン屋の熱気にやられて、少し苛立っていたのかもしれない。
「そうか…ごめん。」
案外、素直に謝るのだと思った。だが、謝罪の姿勢とは裏腹に、月島の顔は歪んでいた。しかしながら、イケメンという生物は顔が歪んでもイケメンだ。しょんぼりとした悲しげな表情を見せる月島と、苛立ってそっぽを向く僕の間に、丼が割って入る。
「塩一丁!」
僕が大好きな塩ラーメンだ。あっさりとした味が食べやすいのである。僕がラーメンに箸をつけようとしたとき、大将のおっちゃんが口を開く。
「なんだお前ら、今日はいつもの仲良し喧嘩じゃないんか?」
仲良し喧嘩。聞き慣れないその言葉に僕の箸が止まる。
「いいんだおっちゃん。俺が悪いから。」
「なんだ渚、そんな女々しくなって。いっつも女々しいのは見た目だけで中身は益荒男だってお前言ってるだろ!」
デリカシーのないその発言は、昭和から平成初期を連想させる。この店の時間はやはり止まっているのだ。
「何がなんだか知らんが、文哉も言い過ぎたんじゃねぇか?喧嘩したままだと飯が不味くなる。仲直りしてから食いな!」
その後ガハハという変わった笑い声が僕らの耳に入る。そして、少しの沈黙が流れた後、月島が口を開く。
「悪い文哉。何も知らないのに勝手に決めつけて。」
「僕もごめん渚、感情的になりすぎた。」
このラーメン屋はどこか不思議で、童心に戻ることができる。素直に出た謝罪の言葉からは、いつもの皮肉屋な一面を感じさせない。
「よし!そんじゃ俺のラーメンで腹いっぱいになっていいぞ!ガハハ!」
そうして二人で笑いあってラーメンを食す。たまにあるこういう日常は、僕の細やかな幸せであり、日々のスパイスだ。それに今だけは神崎詩織の存在を忘れられる。
互いに食事を終え、会計を済まし、熱気のこもった店内を出る。外は日中でありながら少し肌寒い。
「よっしゃ文哉!カラオケ行こうぜ!」
「ああ、わかった。でも、僕の知らない曲ばかり歌うのはやめてくれよ。」
「お前が曲知らなすぎるだけだって!」
そう言って渚は小走りで駆け出していく。僕も浮足立った心で駆け出し、気づけばスキップをしていた。
夜になり、自宅のベッドで横になる。インスタを開くと、嫌でも神崎詩織のアカウントが目に付く。結局、DMで話したのはインスタを交換したあの日だけだ。
スマホを閉じ、眠りにつく。数分してトイレに行き、本を読む。数ページをめくり、閉じる。時計を見ると、たったの数分しか経っていなかった。今夜は冷えるようだ。心の湖はまた凍ってしまうだろう。




