第四章 状態変化
第四章 状態変化
目覚ましが鳴り、眠い目を擦って起き上がる。スマホの日付は4月23日を示し、奇しくも読書をするには縁起の良い日である。しかし、僕の心は憂鬱で、心の湖は冷え切ってスケートリンクになっていてもおかしくない。
「また、トーストか。」
「文句言わないの!さっさと食べて、さっさと学校に行く!」
いつもの僕の朝である。朝日が僕の目を焼き、コンクリートを眺める。灰色の人生には、灰色の世界であってほしい。
学校に着くと変わらぬ喧騒がそこにあった。朝の静寂を楽しめない者たちだらけの室内は、常に大時化である。僕の平穏は神崎詩織以外にも崩されてしまうのだ。
「ふーみや!おは!」
「月島…」
こいつは月島渚。僕の幼馴染である。クラスが違うのに僕に話しかけにくる異常者だ。渚という名前で女性と勘違いするかもしれないが、れっきとした男だ。しかし、見た目も声も中性的で勘違いされることも多いのだとか。
「なんだよ~幼馴染なんだから挨拶くらい返せよ~」
「ああ、おはよう。だからさっさとクラスに戻れ。」
「つめて~俺泣いちゃうぞ!」
「お前が泣いたら周りの男たちが慰めてくれるんじゃないか。」
「おいおい今日はどうしたんだよ?いつもより機嫌悪いじゃん」
「今日は朝から月島の顔を見て憂鬱なだけだよ。」
「またまた~こんな美人に会えてほんとは嬉しいくせに~」
「はあ…」
自分で美人と言ってしまうこいつは世界の広さを知らないのだろう。確かに顔は整っており、髪もサラサラ、男子にも告白されたことのある美男子ではあるが、彼女と比べれば井の中の蛙と言わざるを得ない。それほどまでに彼女は目を引く存在なのである。
「お前はもう少し世界を知った方がいい。」
「?…どういうこと?」
同時に朝の予冷が鳴る。面倒な会話もこれで打ち止めだ。
「おっとやべ、行かないとだ」
「またな」という言葉を残し、月島は教室を出て行った。学校が始まる。
担任の長い話が終わり、周りもざわついている。そう、学校の終わりを感じさせるこの時間、僕は形容し難い感情に支配されている。恐らく僕は、誰よりも帰りの号令を待ちわびている。それは何故なのか。僕にはわからない。
「神崎詩織…」
やはり彼女は常人では持ちえない何かを持っている。僕の日常は完全に崩壊してしまったのだ。
「起立、気を付け、礼。」
帰りの号令がクラス全体に響き渡る。僕の心の準備はまだできてはいない。
気づけばあのドーナツ屋の目の前にいた。いつもよりも駆け足で来てしまったのだ。彼女が来る時間は言われていない。なぜここまで急いでしまったのか。わからない。しかし、この気持ちに答えを出さなければ今日は乗り切れない。そんな予感がした。だからこそ、答えを出した。それは一秒でもこの場所を、聖域を僕のものとするためだ。彼女が来るまで、
ここはいつもと変わらない静寂なのである。そうして僕は、栞が挟んであるページから読み進めた。迷える自分の思考をかき消すために。
どれほど時間が経ったのだろうか。気持ちの良い読書は何もかもを忘れさせる。だが、忘れていても現実は変わらない。
「やっほー文哉君!」
元気はつらつ、天真爛漫、そんな言葉が頭に浮かぶ。しかし、前回の失敗は繰り返さない。彼女の言葉にしっかり返答するのだ。
「こんにちは、詩織さん。」
彼女の眼を見て答えた。今日は少し厚手の化粧をしているのだと気づく。幼かったあの日の印象からは少し変わり、大人びた雰囲気を感じた。しかし、僕は前回の方が好みであった。化粧はせずにありのままの方が太陽と呼ぶにふさわしいだろう。
「文哉君早いね~今日は何読んでたの?」
「今日は先週出た新作を読んでいました。」
「あーこれ良さそうだよね!二人で向日葵畑に行くんだよね!」
「はい、それがメインですね。まだ全部は読んでないですけど。」
「えーなんか憧れるな~私、向日葵好きなんだよね!」
向日葵のような女性が何を言っているのだか。彼女が向日葵の近くに行けば向日葵の良さは全て打ち消されるだろう。
「お友達と行ったりすればよいのでは?」
「もー文哉君わかってないな~」
不敵に笑う。その笑顔は今朝の通学路を彷彿とさせる。
「そういうのは大好きな男の子と行くもんなの!」
「そうですか。」
「そう!」
「でも、詩織さんなら彼氏もいるんじゃないですか?」
「私?いないよ」
「そう…なんですか。」
「うん」
これだけの女性ならば男たちは放っておかないものだと思い込んでいた。
「私の友達は結構情熱的な告白されるのが多いのに、私はチャラい人ばっかりなんだよ~」
なるほどそういうことか。男性諸君は彼女に近づいても焼かれて落ちていったのだろう。イカロスのように。
「どういう男性が好みなんですか?」
「うーんそうだなぁ」
私は考えていますと言わんばかりの大きな動き。やはり普通の人とは色々違うようだ。こういう幼さを好む男性も多いのだろう。
「うん、これかな」
どうやら結論が出たらしい。
「私のことを世界で一番愛してくれる人!」
あれだけ考えて出た答えがそれなのかと思った。具体性に欠け、何もわからない。やはり勉強ができるのと頭がいいのは別なのかもしれない。
「はは、そうなんですか。」
「ちょっと~何その感じ~聞いてきたのは文哉君の方なんだからね~」
少し頬を膨らませる彼女。表情が豊かで本当に感情がわかりやすい。
「すみません。抽象的でわかりにくくて。」
「そういう文哉君はどういう人が好みなのさ~」
「僕ですか?」
「そう!私に聞いたんだから、私も君に聞く権利がありまーす!」
女性の好みか。あまり考えたことがないというのが答えではある。強いて言うならば眼鏡の似合う物静かな女性だろうか。答えるのを躊躇っていると彼女はまた、笑顔を僕に向ける。
「どうした~答えるのが恥ずかしいんか~シャイボーイめ~」
「僕も具体的に言うのは少し難しいなと思って。あはは。」
嘘をついた。本当のことを言うのが怖いのだ。当たり障りのない回答を考えるしかない。しかし、長考する時間はない。何かを答えねば彼女の追撃は避けられないためだ。だから僕は嘘を嘘で上書きした。
「太陽みたいに明るい人が好きですね。」
直後、とてつもない後悔に襲われる。突発的に吐いた嘘とはいえ、もう少しまともなものがあったであろう。そしてなぜこの言葉をそのまま発したのか。僕の言葉のダムは決壊しているようだ。早めの修理を要求したい。
「あはは!何それ~文哉君と真反対じゃん!」
どうやら彼女にはウケたらしい。彼女が自身のことをどう思っているのかは知らないが、嫌われることは回避できたようだ。
「自分と真反対な人を好きになることもありますよ。相補性の法則というらしいです。」
どこかの小説で書いてあった豆知識がここで役に立った。
「へー文哉君物知りだね!」
彼女は素直に感心している。本当にわかりやすい。
「あ、私アイスコーヒー買ってくる!ついでに文哉君のコーヒーおかわり貰いに行ってくるね!砂糖とミルクいる?」
「それぞれ二つずつでお願いします。」
「わ!めっちゃ甘党なんだ!」
そう言って僕の返答も聞かずにレジに向かった。彼女は自分で決めたら一直線なのだろう。他の人間は彼女の意思の前では無力なのである。
彼女が戻ってくるまでの間、ぼくは神崎詩織という人間について、少し考えてみることにした。なぜ彼女は僕と会い、会話をするのだろうか。しかし、考えてもわからない。だが、一つ言えるのは、彼女のそばにいるのはそれほど悪くもないのかもしれない。朝の憂鬱によって凍った僕の心は、液体になるまで溶かされてしまったらしい。その方が柔軟に形を変えられるので、僕にとっては好都合であるが。
「たっだいまー!ほいこれ!」
「わざわざありがとうございます。」
「全然いいよー私なんていっつも友達がやってくれるんだ~たまには私もやらないと!」
そう言って僕に笑顔を向ける。サングラスが欲しい。帰りに眼鏡屋にでも寄ろう。
そんなこんなで彼女とはその後もアイスコーヒーの氷が溶けて、水だけになるまで会話を続けた。僕の苦手な共感の会話だ。だが、それでも今日は良かった。彼女は時々、過去を思い出しているような、何か別のことを思い浮かべているような、そんな素振りを見せたが、基本的には明るく、渚と似た何かを感じさせた。
「それじゃあ私そろそろバイトだから行くね!また来週~」
そう言って彼女はどんどん小さくなっていく。明けない夜はないという言葉がある。しかしながら、沈まぬ太陽もないのだ。僕はほのかに残るお日様を感じながら読書に戻ろうとした。しかしここで気づいたことがある。いつもなら絶対に有り得ないことだが、僕は栞を挟み忘れていたのだ。幸い、どの辺りを読んでいたかはまだ記憶に新しかったので、続きを読むことはできた。
僕は静寂の中、本を読んだ。そしてお気に入りの栞を挟み、店を出る。外に出ると星が見えたが、その輝きは小さく、頼りないものであった。




