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第八章③ 熱

第八章③ 熱

 いつも通り僕が先についた。

「今日はアイスコーヒーにしようかな。」

前に詩織さんが飲んでいたが、決してそれが原因ではない。今日は暑いのだ。仕方がない。何度も自分に言い聞かせた。アイスコーヒーとドーナツを一つ頼み、受け取る。

「苦い…なんで詩織さんはストレートなんだ。」

苦みと敗北感を感じ、ガムシロップとミルクを持ってくる。やはり背伸びはしない方が良い。着いて早々だが、僕はお手洗いに向かった。今日だけは鏡の前でにらめっこをする渚の真似事をしよう。

 程なくして詩織さんが到着した。彼女を見て思ったことが勝手に口から漏れた。

「かわいい…」

この言葉が聞こえていないことを神様に願った。無宗教を貫く僕でもこの瞬間は神へ土下座した。もしこれ以上の失態を犯すならば帰りにホームセンターに寄ろう。そう誓った。しかしながら、彼女は本当に可愛かった。否定の言葉も浮かばないほどに。髪型が前と違うのは勿論、派手すぎないメイクが幼さを残しつつも全体のレベルを底上げている。

「お待たせ文哉君!」

「ま、待ってないです。今着きました。」

「お待たせ」くらい、この場面ならば誰もが言う。それなのに変な強がりをしてしまった。しかも、アイスコーヒーの残量ですぐわかる嘘を吐く。

「またまた~アイスコーヒーもうないじゃ~ん」

満面の笑みである。この笑顔が周囲の温度を上げる。

「一気飲みしたから…」

顔から火が出た。出そうだったなどではなく、出ていたと思う。

「私アイスコーヒー買ってくるよ!」

「前は詩織さんが行ってくれたので、今日は僕が行きます。自分の分も買いたいし。だから詩織さんは席で待っててください。」

おもむろに立ち上がり、柄にもないことを言う。とにかく冷却期間が欲しい。この場から立ち去りたいと強く願う。

「ほんと⁉じゃあお言葉に甘えちゃおうかな~」

こういう時、僕が席を立っただけで伝われば良いのだが、そんなことはない。もちろん、それを諦めるつもりはないが。席を立ち、カウンターに向かう。彼女の横を通るとき、暖かな日差しを感じた。今は曇りだというのに。

 店員からアイスコーヒーを受け取り、席に戻る。

「はい、どうぞ。」

「ありがとね!」

何気ない行動であるが、僕は震えが止まらなかった。本当に熱があるのかもしれない。家に帰ったら体温計で計ろう。その時間が一分でも遅いことを願うが。

「それでそれで!文哉君は読んでみてどうだった?」

どうだったという抽象的な質問。彼女らしい。僕は先ほどの嘘とは違い、まるで本当にそう思っているかのように話した。まるで一流の詐欺師のように。

「今回の作品たちも素晴らしいものばかりでした。特に『苺の月』はあんな経験をしたいと、心の底から思いました。まさか六月の満月にあんな意味があったなんて。」

「わかる!本当にロマンチックだった!最後はちょっと悲しかったけど、主人公がしっかりと前を向いて歩み出したのが本当にかっこよかった!」

彼女がやたらと饒舌だ。いや、いつも饒舌ではあるのだが。こんなにも舌が回るということは本当に好きなのだろう。僕もこの作品は少し気に入っている。出会い方はご都合展開だが、二人で見に行った満月はこの世で最も綺麗だったと、容易に想像できる。詩織さんはこういう展開に興味があるのだろうか。

「ねえねえ!良かったら小説の再現、してみない?」

「再現⁉」

その提案はあまりにも悪魔的であった。しかし、眩しい笑顔はその魔性ぶりをも隠してしまう。

「したいです。けど…」

お目当ての満月は30日。その日は定期テストの前日であった。僕の成績は国語、特に現代文学に限ればずば抜けているのだが、それ以外の科目は軒並み最底辺なのである。渚からは変な知識を持っているのに勉強はできないのが不思議だと、何度も言われたことがある。

「その日は定期テストの前日なんですよ。」

「え!まじ⁉それは大変だ!でも文哉君だったら定期テストくらい余裕じゃないの?」

彼女から僕はどう思われていたのだろうか。そこまで頭の良さをアピールしたことはないのだが。

「すみません。僕、実は現代文以外ダメダメで。」

「そうなんだ!結構勉強できそうなのに!」

「本当は行きたいんですけど、勉強しなきゃいけないので行けなさそうです。」

一緒に満月を見たい。この言葉に嘘偽りはない。そう断言できてしまう。他にどんな嘘をついて彼女を騙しても、この気持ちだけは嘘ではないと思えた。

「ふふん」

彼女が変な笑い方をして、どこか自慢げに僕を見ている。彼女や渚のような人間は皆、自信家なのだろうか。

「君は私の偏差値と学部をしっているだろう?」

言われるまで忘れていた。彼女が名門大学の教育学部だったことを。普段の言動からは想像できないほど、彼女の学力は高いのだ。その上、教育学部。全ての学生が教師になるわけではないだろうが、教師の卵であることには違いない。勉強を教えてもらうのに、これ以上の適任はいないだろう。

「勉強を教えてもらえるんですか?」

「任せたまえ!」

今の彼女の表情はドヤ顔と呼ぶ以外に形容できない。渚のドヤ顔はあれほど僕を苛立たせるのに、彼女はそれを感じさせない。それどころか、ずっと見ていたいとさえ思った。

「よろしくお願いします。」

深々と頭を下げる。それが彼女に対する礼儀であろう。

「よし、それじゃあこれから勉強だ!そして6月30日に月見!明日から来れる日は毎日ここに来てもらうぞ!」

僕は了承し、平日は毎日、この場所に来ることに決めた。ついに僕の聖域は彼女の私物になってしまった。それでも不思議と悪い心地はしない。太陽の熱は蝋の翼を溶かすが、同時に僕の心も溶かしたらしい。やはり僕は熱があるようだ。そうでなくてはこの胸の熱さは説明できないだろう。

「それじゃ、これからもよろしくね!」

「はい。よろしくお願いします。」

彼女が微笑む。彼女に焼き尽くされるならば、誰も文句は言わないだろう。


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