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9/12

#6 小雨

 

  ステージ袖の向こうからは、客席のざわめきが聞こえていた。

  誰かが「佐伯、準備できてる?」と呼んでいる。


 ――また戻ってきた。


 澪は息を呑んだ。文化祭の熱気。古い体育館の床の匂い。マイクが拾うかすかなノイズ。全部、覚えている。一度目と同じだった。


 けれど今度は、同じ言葉で彼の背中を押すために戻ってきたわけじゃない。


 同じに見えるからこそ、怖かった。




 佐伯くんに視線を向けると、案の定、マイクを握る手に力が入りすぎていた。

  白くなるほど指先に力を込めているのに、彼はそれを隠すみたいに、いつもの顔をしている。


「緊張してる?」


 声をかけると、佐伯くんは一秒も待たずに首を振った。


「してない」


「うそつき」


「早くない?」


「返事が早すぎる人は、だいたい嘘つきなんです」


「澪さーん、それ何調べ?」


「私調べ」


「じゃあ外れてる可能性あるじゃん」


「ないです」


「強いな」


 佐伯くんはそう言って、少しだけ笑った。けれど、マイクを握る指は硬いままだった。


 あの頃の私なら、その笑顔だけを見ていた。

 少し困ったように笑う彼を、可愛いと思った。

 緊張を冗談で隠せるくらいには大丈夫なのだと、勝手に思い込んでいた。


 でも、今は違う。


 笑っているのに、指先は逃げ場を探すみたいにマイクを握りしめている。


「怖かったら、怖いって言ってもいいんだよ」


 少しだけ真面目なトーンで言うと、佐伯くんは視線を落とした。


「……怖くないって言ったら、それこそ嘘になるかな」


「じゃあ、怖いんだ」


「うん。逃げたいくらいにはね」


「正直すぎて、逆に好感度上がった」


「こんな時に上げてどうするのさ」


「本番前だから。少しくらいサービスしておこうと思って」


「サービス精神の使いどころ、間違ってない?」


 二人で小さく笑い合う。


 そのあと、佐伯くんはマイクを持っていない方の手で、自分の前髪を少しだけ触った。

 照れた時や困った時、彼はよくそうする。

 たぶん本人は気づいていない。


 一度目のタイムリープのあの日、私はその仕草をただの照れだと思った。

 けれど今は、その指先が、言えない言葉の代わりに見えた。


「……澪が聴いてくれるなら」


「うん」


「ちょっとだけ、頑張れるかも」


 その言い方が、思っていたよりもずっと子供っぽくて、胸の奥がきゅっとなった。


「ちょっとだけ?」


「いっぱい頑張るって言って失敗したら恥ずかしいじゃん」


「保険かけた」


「大事でしょ、保険」


 佐伯くんは拗ねたように言って、それから照れ隠しみたいに笑った。

 一度目には見落としていた仕草が、今は痛いくらいに目につく。

 それからしばらく、二人は何も言わなかった。


 本番まで、あと10分。


 何をすればいいのかも、何が正解なのかも分からなかった。

 ただひとつ確信していたのは、このまま何も気づかないふりをして、彼をステージに送り出してはいけないということだけだった。


 佐伯くんは、マイクを握ったままステージの袖を見つめていた。

 さっきまで軽口を叩き合っていた横顔には、もう笑みの欠片もない。


 『大丈夫だよ』


 そんな嘘を、彼はまた吐こうとしている。

 あの時の私は、その嘘を励ましで塗りつぶした。


「向いてるよ」と言った。 「大丈夫」と背中を押した。


 けれど、その言葉が何を背負わせたのかを、今の私は少しだけ知っている。


「佐伯くん」


「ん?」


 振り返った彼の瞳に、張り詰めた震えを見た瞬間、私の中で何かが決まった。


「……ごめん!」


「え?」


「先に謝っておくね!」


 言うなり、私は佐伯くんの指をマイクからほどき、その手を強く取った。


「え、ちょ、澪!?もうすぐ出番なんだけど!」


 驚く声が背中で跳ねる。ステージ係の呼び止める声も、誰かが佐伯くんの名前を呼ぶ声も、熱を帯びた体育館の埃っぽい匂いも、すべてが遠ざかっていく。


 正しさなんて、後で誰かに怒られた時に考えればいい。

 今はただ、彼を縛りつけるこの場所から連れ出したかった。

 その一心で、澪は彼の手を引き、校舎の外へ向かって駆け出した。


「澪、どこ行くの」


「わかんない!でも、ここじゃないどこか遠く!逃げるの、少しだけ!」


「文化祭って、そんな簡単に逃げていい行事だった?」


「今日からそういうルールになりました」


「勝手に校則変えないで」


 そう言いながらも、佐伯くんは抵抗しなかった。


 二人は体育館の裏口から外へ出た。

 校舎の外は、さっきまでの熱気が嘘みたいに静かだった。

 遠くでクラスの呼び込みの声が聞こえる。紙皿を重ねる音、誰かの笑い声、スピーカーから流れる少し割れた音楽。

 その全部が、厚い膜の向こう側の出来事みたいだった。


「……うん。こういうのも、悪くないかも」


 佐伯くんが走りながらそう言って、後ろで小さく笑った。


「でしょ?こういうのも、たまには良いでしょ」


「澪さーん、そこは別に褒めてません」


「佐伯くん、なんか意地悪」


「こういうのも、たまには良いでしょ」


「あ、私の真似した」


 二人で笑いながら走っていると、空は、いつの間にか重たい灰色に沈んでいた。


「雨、降りそう」


 佐伯くんが空を見上げる。


「降らないでしょ」


「いや、これ降るやつだよ」


「佐伯くん、天気予報できるの?」


「できないけど、なんとなく」


「根拠なし?」


「根拠はない。でも、俺のなんとなくはわりと当たる」


「さっき緊張してないって言った人のなんとなく、信用していいのかな」


「それは別件です」


 そう言って、佐伯くんは少しだけ拗ねた顔をした。

 その表情が、澪には意外だった。

 ステージの上で光を浴びる彼でも、テレビの向こうで完璧に笑う紫音でもない。


 目の前にいるのは、からかわれると少しむくれて、でも本気で怒るわけではなくて、すぐに笑ってしまう、どこにでもいる高校生の男の子だった。


 ぽつ、と音がした。

 佐伯くんの言った通り、彼の肩に小さな雨粒が落ちる。

 最初は一粒。

 それから思い出したように、乾いたアスファルトに濃いシミを広げていく。


 澪は足を止めて空を見上げた。

 いつの間にか、頭上を湿った風が吹き抜けていく。

 けれどその雨は、不思議と冷たくなかった。

 張り詰めていた世界の輪郭が溶け出していくみたいに、静かで、少しだけ優しかった。


「雨?」


「ほら、やっぱり降ってきた」


「佐伯くん、今それ得意げに言うところじゃないでしょ」


「今くらい得意げにならせてよ。人生初の大脱走中なんだから」


 冗談めかした佐伯くんの声は、アスファルトを叩く雨音に混じって、さっきよりずっと軽やかに響いた。その響きが、澪の胸の奥を小さく震わせる。


 私は、一度目の文化祭で、彼の強さばかりを見ていた。

 でも、二度目の今。

 本当に見なければいけなかったのは、マイクを握る指の白さだったのだと思う。


 この雨の匂いの中でだけ、彼はようやく本当の息ができているのかもしれない。


 降り始めた雨の静けさの中で、私は強くそう思った。



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