#6 小雨
ステージ袖の向こうからは、客席のざわめきが聞こえていた。
誰かが「佐伯、準備できてる?」と呼んでいる。
――また戻ってきた。
澪は息を呑んだ。文化祭の熱気。古い体育館の床の匂い。マイクが拾うかすかなノイズ。全部、覚えている。一度目と同じだった。
けれど今度は、同じ言葉で彼の背中を押すために戻ってきたわけじゃない。
同じに見えるからこそ、怖かった。
佐伯くんに視線を向けると、案の定、マイクを握る手に力が入りすぎていた。
白くなるほど指先に力を込めているのに、彼はそれを隠すみたいに、いつもの顔をしている。
「緊張してる?」
声をかけると、佐伯くんは一秒も待たずに首を振った。
「してない」
「うそつき」
「早くない?」
「返事が早すぎる人は、だいたい嘘つきなんです」
「澪さーん、それ何調べ?」
「私調べ」
「じゃあ外れてる可能性あるじゃん」
「ないです」
「強いな」
佐伯くんはそう言って、少しだけ笑った。けれど、マイクを握る指は硬いままだった。
あの頃の私なら、その笑顔だけを見ていた。
少し困ったように笑う彼を、可愛いと思った。
緊張を冗談で隠せるくらいには大丈夫なのだと、勝手に思い込んでいた。
でも、今は違う。
笑っているのに、指先は逃げ場を探すみたいにマイクを握りしめている。
「怖かったら、怖いって言ってもいいんだよ」
少しだけ真面目なトーンで言うと、佐伯くんは視線を落とした。
「……怖くないって言ったら、それこそ嘘になるかな」
「じゃあ、怖いんだ」
「うん。逃げたいくらいにはね」
「正直すぎて、逆に好感度上がった」
「こんな時に上げてどうするのさ」
「本番前だから。少しくらいサービスしておこうと思って」
「サービス精神の使いどころ、間違ってない?」
二人で小さく笑い合う。
そのあと、佐伯くんはマイクを持っていない方の手で、自分の前髪を少しだけ触った。
照れた時や困った時、彼はよくそうする。
たぶん本人は気づいていない。
一度目のタイムリープのあの日、私はその仕草をただの照れだと思った。
けれど今は、その指先が、言えない言葉の代わりに見えた。
「……澪が聴いてくれるなら」
「うん」
「ちょっとだけ、頑張れるかも」
その言い方が、思っていたよりもずっと子供っぽくて、胸の奥がきゅっとなった。
「ちょっとだけ?」
「いっぱい頑張るって言って失敗したら恥ずかしいじゃん」
「保険かけた」
「大事でしょ、保険」
佐伯くんは拗ねたように言って、それから照れ隠しみたいに笑った。
一度目には見落としていた仕草が、今は痛いくらいに目につく。
それからしばらく、二人は何も言わなかった。
本番まで、あと10分。
何をすればいいのかも、何が正解なのかも分からなかった。
ただひとつ確信していたのは、このまま何も気づかないふりをして、彼をステージに送り出してはいけないということだけだった。
佐伯くんは、マイクを握ったままステージの袖を見つめていた。
さっきまで軽口を叩き合っていた横顔には、もう笑みの欠片もない。
『大丈夫だよ』
そんな嘘を、彼はまた吐こうとしている。
あの時の私は、その嘘を励ましで塗りつぶした。
「向いてるよ」と言った。 「大丈夫」と背中を押した。
けれど、その言葉が何を背負わせたのかを、今の私は少しだけ知っている。
「佐伯くん」
「ん?」
振り返った彼の瞳に、張り詰めた震えを見た瞬間、私の中で何かが決まった。
「……ごめん!」
「え?」
「先に謝っておくね!」
言うなり、私は佐伯くんの指をマイクからほどき、その手を強く取った。
「え、ちょ、澪!?もうすぐ出番なんだけど!」
驚く声が背中で跳ねる。ステージ係の呼び止める声も、誰かが佐伯くんの名前を呼ぶ声も、熱を帯びた体育館の埃っぽい匂いも、すべてが遠ざかっていく。
正しさなんて、後で誰かに怒られた時に考えればいい。
今はただ、彼を縛りつけるこの場所から連れ出したかった。
その一心で、澪は彼の手を引き、校舎の外へ向かって駆け出した。
「澪、どこ行くの」
「わかんない!でも、ここじゃないどこか遠く!逃げるの、少しだけ!」
「文化祭って、そんな簡単に逃げていい行事だった?」
「今日からそういうルールになりました」
「勝手に校則変えないで」
そう言いながらも、佐伯くんは抵抗しなかった。
二人は体育館の裏口から外へ出た。
校舎の外は、さっきまでの熱気が嘘みたいに静かだった。
遠くでクラスの呼び込みの声が聞こえる。紙皿を重ねる音、誰かの笑い声、スピーカーから流れる少し割れた音楽。
その全部が、厚い膜の向こう側の出来事みたいだった。
「……うん。こういうのも、悪くないかも」
佐伯くんが走りながらそう言って、後ろで小さく笑った。
「でしょ?こういうのも、たまには良いでしょ」
「澪さーん、そこは別に褒めてません」
「佐伯くん、なんか意地悪」
「こういうのも、たまには良いでしょ」
「あ、私の真似した」
二人で笑いながら走っていると、空は、いつの間にか重たい灰色に沈んでいた。
「雨、降りそう」
佐伯くんが空を見上げる。
「降らないでしょ」
「いや、これ降るやつだよ」
「佐伯くん、天気予報できるの?」
「できないけど、なんとなく」
「根拠なし?」
「根拠はない。でも、俺のなんとなくはわりと当たる」
「さっき緊張してないって言った人のなんとなく、信用していいのかな」
「それは別件です」
そう言って、佐伯くんは少しだけ拗ねた顔をした。
その表情が、澪には意外だった。
ステージの上で光を浴びる彼でも、テレビの向こうで完璧に笑う紫音でもない。
目の前にいるのは、からかわれると少しむくれて、でも本気で怒るわけではなくて、すぐに笑ってしまう、どこにでもいる高校生の男の子だった。
ぽつ、と音がした。
佐伯くんの言った通り、彼の肩に小さな雨粒が落ちる。
最初は一粒。
それから思い出したように、乾いたアスファルトに濃いシミを広げていく。
澪は足を止めて空を見上げた。
いつの間にか、頭上を湿った風が吹き抜けていく。
けれどその雨は、不思議と冷たくなかった。
張り詰めていた世界の輪郭が溶け出していくみたいに、静かで、少しだけ優しかった。
「雨?」
「ほら、やっぱり降ってきた」
「佐伯くん、今それ得意げに言うところじゃないでしょ」
「今くらい得意げにならせてよ。人生初の大脱走中なんだから」
冗談めかした佐伯くんの声は、アスファルトを叩く雨音に混じって、さっきよりずっと軽やかに響いた。その響きが、澪の胸の奥を小さく震わせる。
私は、一度目の文化祭で、彼の強さばかりを見ていた。
でも、二度目の今。
本当に見なければいけなかったのは、マイクを握る指の白さだったのだと思う。
この雨の匂いの中でだけ、彼はようやく本当の息ができているのかもしれない。
降り始めた雨の静けさの中で、私は強くそう思った。




