#5 雨の気配②
続けて、隣にいた男子が口を開いた。
「前はさ、人前に立つタイプじゃなかったじゃん。でもあの日から、急に“見られる側”になったっていうか」
「廊下ですれ違うだけで、他のクラスの子が見てたよね。あ、文化祭で歌ってた人だ、みたいに」
「本人は笑ってたけどさ」
そこで、男子は少し言葉を迷わせた。
「あれ、嬉しかったのかな」
嬉しかったのかな。
その言葉が、澪の胸に引っかかった。
「……嬉しかったと思う」
気づけば、澪はそう答えていた。自分でも少し驚くくらい、早い返事だった。反論というほど強くはない。けれど、そう言わなければ、あの日の佐伯くんごと否定されてしまうような気がした。
「だって、ステージの上で笑ってた。拍手が起きた時も、ちゃんと前を見てたし……帰り道でも、やってみようかなって言ってたから」
言いながら、澪は必死に記憶を探っていた。
体育館の熱気。マイクを握る佐伯くんの手。歌い終わった瞬間に湧いた歓声。ステージの上からこちらを見つけた時の、少し泣きそうな笑顔。
ほら、やっぱり嬉しそうだった。
そう思いたかった。
けれど、もしかしたら。
あの笑顔の中には、喜びだけではないものが混ざっていたのかもしれない。
「でも、佐伯って優しかったよな」
別の男子が、ぽつりと言った。
「褒められたら困ったみたいに笑うけど、否定しすぎないんだよ。こっちが気まずくならないように」
「分かる。期待されると、ちゃんと応えようとする感じあった」
「そうそう。冗談で言ったことでも、意外と真面目に受け取るんだよな」
澪は、喪服の袖口をぎゅっと握った。
期待されると、ちゃんと応えようとする。
それは、あの帰り道で見た佐伯くんそのものだった。
「向いてるよ」
そう言った時、彼は足を止めた。しばらく黙って、それから小さく笑って、「やってみようかな」と言った。
澪はその瞬間を、夢が始まる瞬間だと思った。
でも、彼にとっては。
夢の始まりであると同時に、誰かに見られる自分を引き受けた瞬間でもあったのかもしれない。
隣にいた女子が、追悼冊子の写真へ視線を落としたまま言った。
「佐伯くん、篠宮さんのこと、覚えてたと思うよ」
「え?」
「高校の時、たまに言ってた。篠宮さんが聴いてくれると、ちょっと安心するって」
澪は言葉を失った。
嬉しいはずの言葉だった。実際、胸の奥は熱くなった。けれど同時に、その言葉は静かに重くなっていく。
――安心。その言葉を、澪はどう受け取ればいいのか分からなかった。
自分が佐伯くんにとって、少しでも安心できる存在だったのなら、どうして自分は見落としてしまったのだろう。
「でもさ」
女子は少し迷うように視線を落とした。
「佐伯くんって、安心してる時でも、ちゃんと無理しちゃう人だった気がする」
「無理?」
「うん。大丈夫って言いながら、人の期待に合わせちゃうっていうか。私たちも、文化祭のあと面白がっていろいろ言っちゃったから。アイドル向いてるとか、絶対売れるとか」
彼女はそこで言葉を切った。
「悪いこと言ったつもりはなかったんだけどね」
それは、澪自身の言葉でもあった。悪いことを言ったつもりはなかった。
むしろ、本気で応援していた。佐伯くんの声が誰かに届くことが嬉しかった。
彼が光の中へ進んでいく未来を、誇らしいと思った。
けれど今、その応援の輪郭が少しだけ滲んで見えた。
同級生たちの話す佐伯くんは、澪の知っている佐伯くんと重なっているのに、どこか少しずれていた。
歌っている佐伯くん。光の中で見つけられていく佐伯くん。みんなにすごいと言われる佐伯くん。
澪は、その姿ばかりを綺麗だと思っていた。
佐伯くんのことを、もっと教えてほしい。
私が見ていた彼と、あなたたちが見ていた彼は、どこが違っていたのか。
あの日、私が聞かなかったことを、今なら聞きたい。
そう言おうとした。
けれど、その言葉は声にならなかった。
かわりに視線が、手元の追悼冊子へ落ちる。表紙には、紫音の名前と、高校時代の写真があった。
文化祭の体育館。
少し不鮮明な写真の中で、制服姿の佐伯くんがマイクを握っている。ステージの光を浴びた横顔は、まだアイドルの紫音ではなく、澪の知っている佐伯くんだった。
写真の下には、短い説明が添えられていた。
――高校時代の文化祭をきっかけに、歌の道へ。
その一文を指でなぞった瞬間、冷たさが紙から指先へ移った。
胸の奥で、何かが強く脈打つ。息が浅くなり、ロビーの空気が急に薄くなったように感じた。さっきまで聞こえていた同級生たちの声が、遠くなる。まだ目の前にいるはずなのに、薄いガラスの向こうで話しているみたいだった。
怖い。また、戻される。
そう思った瞬間、澪は冊子を握りしめた。
行きたいわけじゃない。でも、知らないままでいたくない。
あの文化祭の日に何を見落としたのか。佐伯くんが笑う前に何を飲み込んでいたのか。自分の言葉が彼にとって何だったのか。
知りたい。
怖くても、今度こそ知りたい。
そう思った時、世界の輪郭がゆっくり歪み始めた。
ロビーを歩く参列者の革靴の音が、廊下を走る上履きの音に重なる。受付のペンが紙を擦る音が、教室で誰かがプリントをめくる音に変わっていく。白百合の甘く冷たい匂いの奥から、春の教室の埃っぽい匂いが滲み出した。
祭壇に灯る小さな明かりは、夕方の窓に反射する光に変わっていく。黒い額縁の中で笑う紫音の輪郭がぼやけ、その向こうに、制服姿でマイクを握る佐伯くんの横顔が重なった。




