#7 傘
雨はすぐに強くなった。
澪は鞄から折りたたみ傘を取り出すと、慌てて広げた。少しだけ骨の曲がった傘は、二人で入るには頼りなくて、澪は無意識に佐伯くんの方へ傘を傾けた。
「澪さーん」
「なに?」
「右肩が濡れてます」
指摘されて、自分の肩を見る。制服の右肩が、雨を吸って少し色を濃くしていた。
「いいの。佐伯くんが濡れなければ」
「それ、よくないやつだと思うけど」
「今だけはいいの」
「……澪って、たまに強引だよね」
佐伯くんはそう言って笑った。けれどその声には、ほんの少しだけ困った響きが混じっていた。
澪は、傘の柄を握りしめた。
「佐伯くん」
「ん?」
「私は、盾にはなれないかもしれない。」
佐伯くんが、こちらを見る。
「盾?」
「佐伯くんに向けられるものを、全部跳ね返すことはできない。期待とか、視線とか、勝手な言葉とか。そういうものから、完全に守ることはできないと思う」
雨粒が、傘の布を不規則に叩く。
「でも」
澪は続けた。
「雨が降ってる間くらいなら、傘を差して隣にいることはできると思う」
「晴れるまで?」
「うん。晴れるまで」
佐伯くんは黙っていた。澪は、言葉を選びながら続ける。
「歌ってもいいし、歌わなくてもいい。逃げてもいいし、戻ってもいい。どっちを選んでも、私は佐伯くんのこと、がっかりしたりしない」
言った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
それは、本当に言えているのだろうか。
歌わない彼でも、私は同じように見られるのか。
ステージの光の中にいない佐伯くんを、同じ温度で好きだと言えるのか。
答えは、すぐには出なかった。
だからこそ、澪は傘の柄を強く握った。
佐伯くんはしばらく黙っていた。
雨の向こうで、体育館のスピーカーが小さく鳴る。
誰かが名前を呼んだ気がした。
「澪ってさ……」
「うん」
「たまに、すごく大人みたいなこと言うよね」
「たまに?」
「毎回だと悔しいから、たまに」
「そこ、張り合うところ?」
「大事」
佐伯くんは少しだけ笑った。
その笑顔は、ステージ袖で見せたものより幼かった。
褒められた子どもが、素直に喜ぶのは恥ずかしくて、わざと冗談に逃げるみたいな笑顔だった。
「でも、覚えておく」
「何を?」
「盾じゃなくて、傘」
「そこ?」
「そこ」
彼は雨を見た。
「なんか、いいじゃん。強すぎなくて」
澪は返事ができなかった。
――強すぎなくて。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
守りたいと思っていた。
救いたいと思っていた。
けれど、もしかしたら自分は、強い言葉で彼をどこかへ動かそうとしていただけなのかもしれない。
傘の外で、雨粒が跳ねる。
佐伯くんは少しだけ肩をすくめた。
「澪」
ふざけた呼び方ではなかった。
雨の中で、その声だけがまっすぐ届いた。
「逃げてもいいって言われたら、ちょっと逃げたくなくなった」
「なにそれ」
「俺も分かんない」
「分かんないのに戻るの?」
「うん」
佐伯くんは傘の下から空を見上げた。
「でも、今なら少しだけ、俺のままで歌える気がする」
その言葉に、澪は何も言えなかった。
正解なのか、間違いなのか分からない。
けれど、さっきまでステージ袖にいた時よりも、佐伯くんの横顔は少しだけ柔らかかった。
「じゃあ、戻ろうか」
「うん」
「澪」
「なに?」
「右肩、まだ濡れてる」
「今それ言う?」
「言うよ」
佐伯くんは少しだけ困ったように笑った。
「傘、半分こってそういうことでしょ」
そう言って、彼は澪の手にそっと自分の手を重ねた。
傘の柄を引き寄せる力は、決して強引ではなかった。
けれど、澪が拒めないくらいには、優しかった。
傘の中心が、二人の間へ戻る。
肩と肩の距離が、ほんの少しだけ近づいた。
触れているのは指先だけなのに、その小さな熱が、制服の濡れた冷たさよりもずっとはっきりしている。
守ろうとしたはずなのに。
気づけば澪の方が、佐伯くんに見つけてもらっていた。
そのことがどうしようもなく優しくて、澪はなぜか泣きそうになった。
体育館へ戻るまでの短い道を、二人は一本の傘に入って歩いた。
雨はまだ止まない。世界は灰色に濡れて、文化祭の音は水幕の向こうで滲んでいた。けれど、傘の下だけは、影の中に小さな光が落ちたみたいに、静かで、少しだけ暖かかった。
その暖かさが、いつか歌になることを、澪はまだ知らなかった。
◇ ◇ ◇
体育館に戻ると、ちょうど前の演目が少し押していたらしく、ステージ係が慌ただしく袖を行き来していた。
「佐伯、次いける?」
呼ばれた佐伯くんは、一度だけ澪を見た。
その目には、さっきまでの張り詰めた硬さがなかった。
「うん」
小さく頷いて、佐伯くんはステージへ向かった。
一度目と同じ曲だった。
同じ体育館。同じ照明。同じざわめき。
けれど、そこにある空気だけが、どこか違っていた。
完璧に見せようと張り詰めた声ではなく、誰かの期待を背負った重い声でもない。
少し震えて、迷いながら、それでもまっすぐ前へ届こうとする、体温のある声だった。
澪は客席の端で、息をひそめてその声を聴いていた。
制服の肩には、まだ雨の匂いが残っている。
傘の下で佐伯くんが「右肩、まだ濡れてる」と言った時の低い響きや、重なった指の熱が、今も肌の奥に残っていた。
歌っている彼は眩しかった。
けれど、以前のような遠い眩しさではない。
ステージの光を浴びながらも、そこに立っているのは完璧な偶像ではなかった。
少し怖がりで、少し拗ねっぽくて、雨を言い当てただけで得意げな顔をする、澪の知っている「佐伯くん」がそこにいた。
曲が終わると一瞬の静寂があった。
それから、体育館を揺らすほどの拍手が起きた。
「すげえ」
「やば」
「佐伯、プロいけるって」
飛び交う声は、一度目と同じように聞こえた。
でも、その中に別の響きが混ざり始める。
「なんか、今日の佐伯、いつもより楽しそうじゃなかった?」
「わかる。ちょっと子どもっぽいっていうか」
「いいじゃん、ああいうのも」
その言葉を聞いた瞬間、澪は小さく息を止めた。
――変わった。
ほんの少しだけれど、確かに。
誰かが、佐伯くんを「才能」というラベルではなく、ひとりの人間として見つめた。
それだけの変化だ。
世界を大きく変えるには足りないし、彼の運命を救うにはまだ遠すぎるのかもしれない。
それでも、確かに何かが動いたのだ。
佐伯くんがステージの上から、澪を見つけた。
前よりも照れくさそうに、けれど自然な体温を感じさせる笑顔だった。
澪は、泣き出しそうなのをこらえて笑い返した。
その瞬間、体育館の照明が、視界の端で揺れた。
拍手の音が、潮が引くように遠ざかっていく。
白い光が滲んで、ステージの輪郭が溶けていく。雨の匂いが薄れ、代わりに、かすかな白百合の甘く冷たい匂いが喉の奥へ入り込んできた。




