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#8 もうひとつの雨

 気がつくと、澪は葬儀場のロビーに立っていた。


 鼻をつく白百合の匂い。

 無機質に並ぶ黒い服の人たち。

 天井に吸い込まれていく、低く抑えられた話し声。


 ——何も変わっていない。


 最初にそう思った。

 けれど、すぐ近くで聞こえた同級生たちの声に、澪は弾かれたように顔を上げた。


「そういえばさ。文化祭の時、篠宮さんと佐伯が脱走した時は驚いたよな」


「そうそう。あの佐伯が?って思った」


「しかも篠宮さんと一緒だったし」


「戻ってこないんじゃないかって、ちょっとざわついたよね」


 澪は肺の奥で息を止めた。


 ——過去が、変わっている。


 雨の匂いが混じる空気の中、佐伯くんと並んでいた時間。

 ひとつの傘の下、肩が触れそうな距離で歩いたこと。

 逃げてもいいと言ったこと。

 それでも彼が、自分の足でステージへ戻ったこと。


 あれは、消えていなかった。


「あのあと戻ってきてからの佐伯、なんか良かったよな」


「分かる。いつもの完璧な感じじゃなくてさ」


「ちょっと楽しそうだった」


「うん。生き生きしてた」


 その言葉が、澪の胸の奥に、静かな波紋のように広がっていく。


 変わった。

 ほんの少しだけ。

 でも、確かに世界の色が変わったのだ。


 あの日の雨は、時を越えて、この未来にまで届いていた。

 澪は、祈るように胸の前で手を握りしめた。


 けれど。


「でもさ」


 別の同級生が、不意に声を落とした。


「あれ以来、またいつもの佐伯に戻っちゃったよな」


「分かる。周りを見て、空気を読んで、ちゃんと期待に応える佐伯」


「それが佐伯らしいって思ってたけど」


「今思うと、しんどかったのかな」


 澪の指先から、力が抜けた。


 変わった。

 けれど、足りなかった。


 あの日、澪は佐伯くんの中に降っていた雨に気づいた。

 逃げてもいいと言えた。

 ステージに立つかどうかを、彼自身に選ばせることができた。


 それでも、あの日一度だけ傘を差し出したくらいでは、その後も続く雨までは止められなかった。

 佐伯くんは、また笑ったのだ。


 大丈夫だと笑って。

 期待に応えて。

 ちゃんと紫音になって。


 そして澪は、またその笑顔を信じてしまった。

 胸の奥で、何かが小さく軋んだ。


 かすかに、未来が変わった足音が聞こえた気がした。

 けれどその音は、まだ彼の一番深い場所までは届いていない。


 まだ、足りない。

 澪は、祭壇の方を見た。

 黒い額縁の中で、紫音が静かに笑っている。

 その笑顔を見つめながら、澪は思った。


 ——私はまだ、佐伯くんの全部を知らない。本当の紫音は、どこにいるのだろう。


 ファンが見ていた紫音。

 メンバーが見ていた紫音。

 スタッフが見ていた紫音。


 そして、澪が見ていた佐伯くん。

 そのどれもが本当の断片で、でも、どれも彼のすべてではないのだとしたら。

 澪が最初に心を奪われた佐伯くんは、どんな人だったのだろう。

 そう思った瞬間、耳の奥で雨の音がした。


 葬儀場の外で降る現実の雨ではない。

 もっと遠い過去の、まだ何も失っていなかったあの日の雨だった。


 

 ◇ ◇ ◇


 

 澪が佐伯くんを目で追うようになったのは、一年生の、世界が青く霞む梅雨の頃だった。

 その日は朝から、すべてを薄く塗りつぶすような雨が降っていた。

 校舎の窓は白く曇り、廊下には濡れた傘とビニールの匂いが残っていた。放課後、澪は文化委員の資料を抱え、重い足取りで廊下の角を曲がった。


 その瞬間、腕いっぱいに抱えていたプリントの束が、手元から滑り落ちた。

 ばさばさ、と白い紙が床に散らばる。


 廊下を歩いていた生徒たちが、一瞬だけ視線を寄こした。

 けれど、すぐに自分たちの会話へ戻っていく。

 誰かが冷たいわけではなかった。


 ただ、澪が困っているということは、誰かの一日を止めるほどの出来事ではなかっただけだ。


「……大丈夫です」


 独り言のように呟いて、澪は膝をついた。

 本当は、全然大丈夫ではなかった。


 文化委員の仕事は、思っていたよりずっと多かった。

 クラスメイトたちは「篠宮さんなら安心だね」と笑って、いろいろなことを任せてくる。


 頼られるのは嫌いではなかった。

 むしろ、必要とされている気がして、少し嬉しかった。


 けれど、その日は少しだけ疲れていた。

 窓を叩く雨の音が、いつもより近く聞こえる。拾い上げたプリントの端がじわりと滲んでいるのを見て、澪は泣きそうになるのをこらえた。


「それ、上から押さえた方がいいよ」


 頭上から降ってきた声に、澪は顔を上げた。


 ——佐伯紫音だった。


 クラスは違うけれど、名前くらいは知っていた。

 合唱の授業で声が綺麗だと噂されている人。

 廊下ですれ違うと、いつも誰かと穏やかに笑っている人。


 その佐伯くんが、澪の目の前で膝を折り、当然のようにプリントを拾い始めていた。


「え、いいよ。濡れちゃう」


「もう濡れてる」


「そういう問題じゃなくて……」


「じゃあ、どういう問題?」


 真面目な顔で聞かれて、澪は少しだけ言葉に詰まった。


「……佐伯くんに、迷惑かける問題」


「迷惑ってほどじゃないよ。ただ紙、拾ってるだけだし」


 そう言って、彼は濡れたプリントを一枚、そっと上に重ねた。


 雑に扱わない手つきだった。

 澪が大事に持っていたものだと、ちゃんと分かっているみたいに。


「篠宮さんってさ」


「うん?」


「大丈夫って言うの、早すぎ」


 澪の指が、ぴたりと止まった。


「……そう、かな」


「うん。さっきも、誰にも聞かれてないのに真っ先に言ってた」


「聞こえてたの……」


「聞こえた」


「恥ずかしい……」


「恥ずかしいことじゃないと思うけど」


 佐伯くんは、最後の一枚を拾い上げると、端を揃えた。

 そして、その半分を自分の腕に抱える。


「大丈夫じゃない時は、大丈夫って言わなくてもいいんじゃない?」


 雨の音が、一瞬だけ遠くなった気がした。

 それは、物語のような甘い言葉ではなかった。

 励ましでも、慰めでもなかった。


 ただ、廊下で一緒に紙を拾ってくれただけの、何でもない放課後だった。

 それでも澪には、その言葉が胸の奥に残った。

 自分でも気づかないうちに濡れていた場所へ、誰かがそっと傘を差し出してくれた。

 そんな温かさがあった。


「……ありがとう」


 澪が絞り出すように言うと、彼は少しだけ決まり悪そうに目を逸らした。


「どういたしまして」


「佐伯くんって、優しいんだね」


「……褒められる準備、全然できてなかった」


「準備がいるの?」


「いる。せめて三日前に申請して」


 澪の口から、ふっと笑い声が漏れた。

 佐伯くんも、困ったように、でも少しだけ嬉しそうに眉を下げて笑った。

 その笑い方を、澪は妙にはっきり覚えている。

 褒め言葉を真正面から受け取れないくせに、それでも相手を嫌な気持ちにさせないように笑う顔。


 その日からだった。

 澪の視線が、彼の方へ向くようになったのは。


 誰かに呼ばれて振り向く横顔。

 頼み事を断れずに苦笑する口元。

 褒められた瞬間、嬉しそうにする前に少しだけ相手の顔を見る瞳。


 それが恋だと言えるほど、はっきりした始まりではなかった。

 けれど、あの雨の日に拾ってもらったプリントみたいに、澪の心は彼の方へ向いたまま、なかなか戻らなくなってしまった。


 二年生で同じクラスになった時も、二人はただのクラスメイトだった。


「おはよう、篠宮さん」


「おはよう、佐伯くん」


 交わされるのは、それだけ。

 たったそれだけなのに、帰り道の夕暮れ時、澪の耳の奥では何度も彼の「おはよう」が繰り返されていた。

 

 あの文化祭をもう一度やり直すまで、私は何も見えていなかった。

 自分が見つめていた優しい彼の背後に、どんな雨が降っていたのかを。


 あの日、彼は澪の「大丈夫」という嘘に気づいてくれた。

 無理に聞き出すでもなく、正しい答えを渡すでもなく、ただ隣で一緒にプリントを拾ってくれた。


 それなのに。

 澪は、彼の「大丈夫」を、最後まで信じてしまった。


 笑っているから。

 歌っているから。

 光の中にいるから。


 大丈夫なのだと、思いたかった。

 でも、本当は違った。

 あの頃からずっと、彼も雨の中にいたのだ。


 ——今度こそ、気づきたい。


 雨を止める力なんて、澪にはないかもしれない。

 吹きつける風を防ぐ盾にはなれないかもしれない。


 それでも。

 君が濡れていることに、誰よりも早く気づける人でいたい。

 雨の向こうで、 光の中に隠れてしまった君の本当を、もう一度、見つけに行く。


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