#9 見えないカタチ
――光の中に隠れてしまった君の本当を、もう一度、見つけに行くから。
そう決めたはずなのに、澪にはまだ、どこから手を伸ばせばいいのか分からなかった。
澪が知っている佐伯くんは、雨の日にプリントを拾ってくれた人だった。
澪の「大丈夫」という強がりに、誰よりも早く気づいてくれた人だった。
けれど、時間は決して巻き戻らない。
あの日の廊下も、水滴を吸って重くなったプリントも、困ったように笑う佐伯くんも、胸の奥では今も鮮やかなままだ。
それでも、そこへ戻ることはできない。
だからこそ、美しいのかもしれない。
だからこそ、こんなにも残酷なのかもしれない。
澪は葬儀場のロビーに立ち尽くしたまま、降り続く雨のような記憶を振り返っていた。
「グループにいてくれるだけで、よかったのに」
不意に聞こえたその言葉が、澪の胸に深く沈んでいった。
泣きながらそう呟いたファンの女性は、手の中のハンカチを固く握りしめたまま、紫音の写真から目を離せずにいた。隣で友人が背中をさすっているけれど、彼女は涙を拭うことさえ忘れたように、ただ写真の中の紫音を見つめている。
「完璧じゃなくても、よかったのに」
掠れた声で、彼女は続けた。
「歌えない日があったって、笑えない日があったって、ただ休んでくれればよかった。いつもの紫音くんじゃなくてもいいから、ただ、生きていてくれたら……それだけでよかったのに」
澪は、息をするのを忘れた。
その言葉は、紫音が欲しかった言葉のようにも聞こえた。
そして同時に、澪自身が、まだ本当の意味では言えていなかった言葉のようにも思えた。
歌ってほしい。
向いていると思う。
ちゃんと届いてる。
澪が紫音に渡してきた言葉は、どれも本心だった。嘘なんて、一つもなかった。
それでも、その言葉のどこかに、歌う紫音でいてほしい、ステージに立つ紫音でいてほしいという願いが混ざっていなかったと、言い切れるだろうか。
ファンの女性は、泣きながら静かに続ける。
「紫音くん、いつも大丈夫って言ってたよね。ライブでも、配信でも、雑誌でも。私たちが心配しないように。……でも、あれ、本当は大丈夫じゃなかったんだよね」
澪は遺影の中の紫音を見た。
写真の中の彼は柔らかく笑っている。誰かを安心させるように、どこまでも無垢に。
その笑顔が、澪はずっと好きだった。
でも今は、その完璧な美しさを見ると苦しくなった。
「最近の紫音くん、前と違うって言われてたよね」
隣にいた別の女性が、躊躇うように口を開いた。
「声が小さいとか、表情が暗いとか、前みたいに全力じゃないとか……。手を抜いてるみたいに見えるって言ってる人もいた」
その言葉に、泣いていた女性が唇を強く噛んだ。
「ひどいって思ってた。何も知らないくせに、そんなこと言わないでって。でも……」
そこで言葉が途切れる。
「でも、私たちだって、何も知らなかったんだよね」
ロビーのざわめきが、遠くなる。
「紫音くんが笑ってたから、大丈夫なんだと思い込んでた。いつもの紫音くんでいてくれるって、勝手に信じてた。少し違って見えた時も、理由を考えるより、前の紫音くんに戻ってほしいって思ってたのかもしれない」
澪は、眩暈にも似た衝撃に襲われた。
それは、ファンだけの話ではなかった。
澪もまた、同じだったのかもしれない。
紫音が笑ってくれたから、大丈夫なのだと思った。
歌ってくれたから、そこが彼の居場所なのだと信じた。
けれど、それは本当に『佐伯紫音』を見ていたことになるのだろうか。
「本当は、気づきたかったです」
ファンの女性の声が震える。
「紫音くんが出してた、サインに」
——サイン。
その言葉が、澪の中で静かに波紋を広げた。
文化祭前の音楽室。
マイクを握る、白く細い指先。
周りの反応を確かめる視線。
冗談のように笑いながら、本気で怯えていた声。
——俺の声ってさ、ちゃんと届いてる?
あれは、歌の感想を聞きたかっただけではなかったのかもしれない。
自分という存在が、誰かに届いているのか。
見てもらえているのか。
それを、必死に確かめたかったのかもしれない。
不意に、むせ返るような白百合の匂いが濃くなった気がした。葬儀場のざわめきが急速に遠ざかり、代わりに、放課後の校舎に響くチャイムの音が記憶の奥でかすかに鳴った。
澪は、遺影の中の紫音を見つめた。
ファンが見ていた紫音。
ステージの上で眩しく笑う紫音。
大丈夫だと言い続けた紫音。
少し変わっただけで、前の姿を求められてしまった紫音。
そのどれもが、きっと紫音だった。
けれど、それだけで紫音を分かったつもりには、もうなれなかった。
澪は、手の中の追悼冊子に視線を落とした。
表紙の中で、LUMiAの五人が並んで笑っている。
紫音はセンターで、いつものように少しだけ困ったように眉を下げて、頼りなく、けれど綺麗に微笑んでいた。
もっと近くにいた人たちは、彼の何を見ていたのだろう。
震える指先で、ページの端をそっとめくる。
そこには、残されたメンバーたちが紫音へ宛てた、剥き出しの言葉が並んでいた。




