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第94話 蟲の腹は、床下で育つ

 迷宮は、床の上だけで殺すものではない。


 床の下でも殺す。


 いや、正確には――床の下で、育てる。


 白い部屋の監視面には、第二層《偽封餌場》の断面が映っていた。


 上には、人間が歩く通路。


 横には、湿骨兵の伏兵穴。


 壁裏には、赤錆噛みの走路。


 天井には、影縫い大蜘蛛の糸。


 その糸の縁を、影縫い罠師カゲヌイの針路が縫う。


 そして、そのさらに下。


 人間の目が届かず、白杭の測量も浅くしか触れられない場所に、小さな空洞がいくつも掘られていた。


 蟲の腹だ。


《黒蜜蟲窟からの助言を再表示します》


「いちいち出さなくてよい。余は覚えている」


《確認は重要です》


「余が忘れると思っているのか」


《はい》


「少しは濁せ」


 白い部屋の床に、黒蜜のような文字が浮かぶ。


⸻


【黒蜜蟲窟より】


蟲の巣は戦場の後ろではなく、戦場の下に置け。


死骸を捨てるな。

死骸は次の腹だ。


女王なき群れには、核餌を置け。


焼かれる前提で分巣を作れ。


⸻


「……相変わらず腹立たしい」


《内容は極めて有用です》


「それが一番腹立たしいのだ」


 灰灯喰い蟲。


 白光を吸い、白灯器に食らいつき、白磁庭園の騎士たちの光を鈍らせた蟲。


 強い。


 だが、脆い。


 戦場に放てば役に立つ。


 しかし、白光を吸いすぎれば膨れ、潰れ、死ぬ。


 今までは、それを消耗として見ていた。


 死んだなら、素材にする。


 残ったなら、次に使う。


 だが、黒蜜蟲窟は違うと言う。


 蟲は剣ではない。


 群れは腹だ。


 食って、溜めて、増やして、また食う。


 ならば、灰灯喰い蟲にも腹が要る。


 戦場の後ろではない。


 戦場の下に。


「戻り水を引け」


《戻り水を第二層床下へ接続しますか》


「本脈とは繋ぐな。薄く、浅く、床下を舐めるだけでよい」


《封迷箱に検知される可能性があります》


「だから戻り水を使う」


 戻り水。


 迷靄洞の古い水脈。


 流れたものが、流れた先へ進まず、いつの間にか元へ戻る水。


 足跡を消す。


 血を戻す。


 匂いを逆流させる。


 冒険者が「奥へ進んだ」と思った痕跡を、入口側へ押し返す。


 そして今は、蟲の腹を湿らせる水になる。


《戻り水、第二層床下へ微量導入》


 監視面の中で、細い水筋が生まれた。


 水というには濁っている。


 灰を含み、血を含み、白灯器片の粉を含み、湿骨兵の骨粉を少しだけ含む。


 流れは遅い。


 だが、不自然だ。


 下へ流れたはずの水が、ふと横へ戻る。


 奥へ向かった水が、いつの間にか手前へ滲む。


 流路を見ているだけで、方向感覚が狂う。


「よい」


《戻り水は蟲分巣の湿度維持、血痕の回収、匂い撹乱、白杭測量の濡れ誤差に使用可能です》


「白杭を濡らせるか」


《直接は困難です。ただし外縁仮穴を通じて、杭周辺の土に湿りを戻すことは可能です》


「やれ。だが、本物の水脈だと思わせるな。湿っただけ、という程度でよい」


《了解》


 戻り水が、床下の空洞へ染みていく。


 蟲の腹を作る場所に、湿りが満ちる。


 灰灯喰い蟲の死骸が運ばれてきた。


 焼け焦げた殻。


 白光を吸いすぎて裂けた腹。


 白灯器片を噛んだまま死んだ個体。


 それらを、白灰這いが押し込み、湿骨兵が骨粉を撒く。


 さらに、白灯術者の血を数滴。


 白灯器の砕片。


 そして、封迷杭に触れた土をほんの一つまみ。


《封迷土を混入しますか》


「少しだけだ」


《黒蜜蟲窟の警告では、封迷箱の白い封鎖は蟲の腹を腐らせるとのことです》


「だから混ぜる」


《危険です》


「腐るものを知らぬ腹は、腐らされる。少しだけ慣らす」


《妥当です》


 余は自分で言って、少しだけ妙な気分になった。


 最初の頃の余なら、こんなことは考えなかった。


 ゴブリンが倒れれば焦る。


 ソウルが減れば叫ぶ。


 侵入者が来れば慌てる。


 いや、今でも慌てはする。


 するが、死体を見て終わりではなくなった。


 死体の次を見るようになった。


 血の流れを見る。


 骨の使い道を見る。


 死骸の置き場所を見る。


 ロードというのは、たぶんそういうものだ。


 死を悼むのではない。


 死を腐らせない。


 死を次の構造に変える。


《核餌、形成開始》


 灰灯喰い蟲の死骸が、湿灰と戻り水の中で崩れた。


 ぐずぐずと溶ける。


 白灯器片の光が、濁った灰に沈む。


 血が黒く変わる。


 骨粉が混じり、封迷土がわずかに白く脈打つ。


 どろり、と塊が膨らんだ。


「……うむ」


《核餌、安定》


「生き残りを近づけろ」


《灰灯喰い蟲、生存個体を誘導します》


 残っていた灰灯喰い蟲たちが、床下へ入っていく。


 数は多くない。


 白磁庭園戦で減った。


 封迷箱への偵察でも削れた。


 だからこそ、ここで増やす。


 蟲たちは核餌に群がった。


 食う。


 死骸を食う。


 白光を食う。


 仲間の殻を食う。


 戻り水に溶けた血を舐める。


 封迷土の白い苦味を避けるように、しかし少しだけ噛む。


 ちり、ちり、と小さな音がした。


 白灯器片が削れる音だ。


 やがて、核餌の表面に細かい穴が開いた。


 そこから、小さな幼蟲が這い出した。


 灰灯喰い蟲よりも小さい。


 だが、腹だけが鈍く白灰色に光っている。


《灰灯喰い蟲、分巣形成に成功》


《派生幼体を確認》


「名は」


《仮称:灰灯幼蟲》


「そのままだな」


《分かりやすさを優先しました》


「まあよい。正式名は後で考える」


 灰灯幼蟲たちは、核餌の周囲を這い回る。


 まだ戦えない。


 まだ白光を大量に吸えるわけでもない。


 だが、腹はできた。


 灰灯喰い蟲は、もう戦場で使い潰すだけの蟲ではない。


「影縫い大蜘蛛」


 第二層の天井から、黒灰色の脚が静かに降りた。


 影縫い大蜘蛛が、床下へ糸を垂らす。


「分巣の支柱を張れ。ただし、蟲に食われてもよい糸だ」


 影縫い大蜘蛛は答えない。


 ただ、細い糸を吐いた。


 湿って、灰を帯びた糸。


 灰灯幼蟲の一匹が触れる。


 じゅ、と微かな煙が上がる。


 だが、糸は焼けない。


 逆に、糸の表面に白灰色の粒が残った。


《蟲分巣と蜘蛛糸の接続を確認》


「使えるな」


《灰灯幼蟲が糸を辿り、床下移動する可能性があります》


「よい。だがコア方向には繋ぐな」


《了解》


 蟲の腹。


 蜘蛛の糸。


 戻り水。


 骨の横穴。


 白灰這いの巣。


 第二層は、ただの空洞ではなくなっていく。


 人間が封じたと思う道の下で、別のものが育っている。


 白い部屋の隅で、ぎり、ぎり、と嫌な音がした。


「今度は何だ」


《赤錆噛みです》


 監視面の一つが切り替わる。


 素材置き場の奥。


 赤錆色の小さなネズミ型魔物たちが、白灯器の金具片に群がっていた。


 灰噛みネズミから変質進化した、金属食の小型魔物。


 赤錆噛み。


 錆鉄を喰い、湿灰を舐め、白灯器の金具片を齧り、血に濡れた鎧留めを噛み続けて変わった、迷靄洞の小さな歯。


 すでに迷靄洞にいる。


 今までも装備解体や金具劣化には使っていた。


 だが、封迷箱を相手にするなら、こいつらの意味は変わる。


「封迷箱の留め具を噛めるか」


《可能性は高いです》


「白杭の根元は」


《接合部、金具輪、固定釘があるなら劣化可能》


「鎧は」


《革紐、留め具、蝶番、盾の鋲に有効です》


「よい」


 赤錆噛みの一匹が、白灯器の輪に噛みついた。


 ぎり。


 ぎりぎり。


 嫌な音がして、金具の端が赤く腐ったように崩れる。


 グズは門を砕く。


 灰刃追跡者は敵を斬る。


 影縫い大蜘蛛は道を殺す。


 カゲヌイは罠を縫う。


 そして赤錆噛みは、敵が壊れないと思っている金具を殺す。


「赤錆噛みを床下に回せ」


《了解》


「ただし、見つかるな。封迷箱が設置されてから噛め。設置前に噛めば警戒される」


《赤錆噛みを待機配置します》


「白杭の予想設置点にも潜ませろ。合図まで噛むな」


《了解》


 赤錆噛みたちは、壁裏の細穴へ消えていく。


 灰噛みネズミの頃よりも足音が硬い。


 かり、かり、と小さな錆の音を立てながら、迷宮の裏側へ散っていく。


 派手ではない。


 正面から戦えば、人間の靴で踏み潰される。


 だが、封迷箱の留め具が一つ緩めば、白い封鎖は乱れる。


 白杭の固定釘が一本腐れば、測量線は狂う。


 冒険者の鎧留めが切れれば、命が一拍遅れる。


 その一拍が、迷宮では死になる。


「よし」


 余は監視面を睨んだ。


「次に来る封迷箱は、箱の腹ではなく、金具から喰う」


 ダンジョン新聞が、白い部屋へ落ちた。


 新しい号ではない。


 だが、端に黒蜜文字が浮かぶ。


⸻


【黒蜜蟲窟より】


核餌を作ったな。


戻り水を使ったか。


悪くない。


ただし、水を信じすぎるな。


蟲の腹は湿りを好むが、流れすぎる水は卵をさらう。


戻る水なら、なおさらだ。


腹に入れたものが戻るなら、毒も戻る。


覚えておけ。


⸻


「……こいつ、本当にどこまで読んでいる」


《取引灰と蟲反応から推測している可能性があります》


「不快だな」


《有用です》


「それも不快だ」


 黒蜜文字は続く。


⸻


封迷箱の白い封鎖は、蟲の腹を腐らせる。


だが、封迷箱には弱点がある。


白い封鎖を生む箱は、白い金具で閉じられている。


金具を噛め。


箱の腹は、外からではなく、留め具から腐る。


⸻


 余は新聞を見た。


 それから、壁裏へ消えた赤錆噛みを見た。


「タイミングが良すぎる」


《ロード間交流としては、牽制を含む助言です》


「嫌な交流だ」


《比較的良好です》


「これで良好なのか」


《はい》


 余は新聞へ返答を刻ませた。


⸻


【迷靄洞より、黒蜜蟲窟へ】


忠告は受け取った。


戻り水は流しすぎぬ。


蟲の腹は床下に置いた。


赤錆噛みは封迷箱の留め具に回す。


礼は言わぬ。


結果が出たら、必要な分だけ教えてやる。


⸻


 黒蜜文字が、少しだけ滲む。


⸻


【黒蜜蟲窟より】


礼を言わぬロードは嫌いではない。


ただし、結果は寄越せ。


蟲の知識は、腹で払え。


⸻


「やはり腹立たしい」


 だが、役には立つ。


 そこがまた腹立たしい。



外では、人間側も動いていた。


 フィルエの契約糸が、白い部屋の空中で震える。


『ロード』


「今度は何だ」


『封迷隊、次の準備を始めた』


「封迷箱か」


『うん。三つ』


 監視面の外縁映像が揺れる。


 迷宮の支配外だから、はっきりとは見えない。


 だが、フィルエの森糸を通して、白い箱の輪郭が届く。


 三つ。


 前回の一つではない。


 三つの封迷箱。


 さらに、細長い白杭を背負った人影。


『聖杭技師もいる』


《危険指定》


「何をする奴だ」


《白杭を用いて迷宮外縁の魔力流を固定、切断、誘導する技術者と思われます》


「つまり、前回より上手く縛りに来るわけか」


『うん。それと、若い測量士もいる』


 余は目を細めた。


「あの厄介な奴か」


『前より黙ってる。でも、ずっと見てる』


「周囲からは信じられておらぬのではなかったか」


『完全には信じられてない。でも、外されてもいない』


「面倒だな」


 殺すか。


 利用するか。


 フィルエは前に、契約者にできるかもしれないと言った。


 だが今は違う。


 今は敵だ。


 迷宮を測り、封じ、次の攻略隊を呼ぶ側の人間だ。


「次に中へ入ったら喰う」


『外なら?』


「外ではまだ殺さぬ」


『理由は?』


「奴の疑いも、封迷隊の判断も、こちらで使えるからだ」


『本当にロードっぽくなったね』


「余は最初からロードだ」


《初期記録では――》


「黙れ」


 白い部屋の隅で、マネが小さく真似した。


「よは、さいしょから、ろーどだ」


「お前も黙れ!」


「ギィ!」


 だが、緊張は抜けない。


 前回、白杭は一瞬だけ偽脈を貫通し、本脈方向を見た。


 今度は聖杭技師が来る。


 偽脈だけでは足りない。


 封迷箱の留め具を赤錆噛みに噛ませるだけでも足りない。


 相手は、こちらの嘘を剥がしに来る。


 なら、嘘を増やす。


 嘘の下に別の嘘を敷く。


 本物に見える偽脈。


 偽脈を見破った者が見つける、二つ目の偽脈。


 そのさらに下に、戻り水が運ぶ偽の濡れ跡。


 何層にも、腹を作る。


「管理音声」


《はい》


「第二層の床下分巣を三つに分けろ。本脈と直結させるな」


《灰灯幼蟲分巣を三系統に分割》


「戻り水は、それぞれに細く回せ。流しすぎるな」


《了解》


「赤錆噛みは白杭の予想設置点へ。金具の匂いだけ覚えさせる。噛むのは合図後だ」


《了解》


「白灰這いは外縁仮穴へ二体。残りは第二層へ戻せ」


《了解》


「影縫い大蜘蛛は糸を地図ではなく、嘘の境界に張れ。カゲヌイはその縁を縫え」


《第二層偽装構造を更新》


 監視面の中で、迷靄洞が変わっていく。


 蟲の分巣が床下で三つに割れる。


 戻り水が、細く逆流しながらそれぞれを湿らせる。


 赤錆噛みが、錆びた金具片を咥えて壁裏へ潜る。


 灰噛みネズミのままの個体も、その後を追う。


 進化した個体だけでは足りない。


 元の群れも必要だ。


 灰噛みネズミが灰を食い、赤錆噛みが金具を食う。


 役割が分かれた。


 それもまた、迷宮の進化だ。


 深夜。


 森に残された白い測量杭が、淡く震えた。


 人間側の遠隔確認だ。


 杭は、北側が濃いと返す。


 余が食わせている偽脈だ。


 だが次の瞬間、杭の白線が一度だけ真っ直ぐになった。


《異常》


「またか」


《白杭が偽脈を貫通。本脈方向を瞬間検知》


『前より長い』


 フィルエの声が硬い。


「聖杭技師か」


『たぶん。遠くから杭を調整してる』


「器用な奴だ」


《危険です》


「分かっておる」


 余は第二層の床下を見た。


 灰灯幼蟲が核餌の周りで蠢いている。


 戻り水が、血と灰を含んで逆へ流れている。


 赤錆噛みが白灯器の金具片を噛んでいる。


 影縫い大蜘蛛の糸が、嘘の境界を縫っている。


 カゲヌイが針を構えている。


 灰刃追跡者は、まだ修復中。


 だが、刃の輪郭は以前より鋭い。


「よい」


《よいのですか》


「来る前から完全に防げる相手ではない。なら、中で喰う形にする」


 白い杭が、もう一度震えた。


 今度は、北側ではなく、ほんのわずかに入口正面へ線が揺れた。


《本脈方向への誤差、増大》


 まずい。


 だが、まだ間に合う。


「戻り水を杭周辺へ滲ませろ」


《外縁仮穴経由で湿りを戻します》


「本脈の匂いを洗え。偽脈の匂いを戻せ」


《了解》


 床下の戻り水が、細く動いた。


 奥へ流れたはずの灰水が、逆に戻る。


 外縁仮穴を伝い、白杭の周辺の土へ湿りが染みる。


 血の匂い。


 白灯器片の粉。


 蟲の殻。


 赤錆の微かな金属臭。


 それらが、偽脈の上へ薄く戻される。


 白杭の線が揺れた。


 真っ直ぐになりかけた線が、また北へ傾く。


《本脈検知、遮断》


「よし」


『今の、危なかった』


「危なかったな」


《冷静ですね》


「内心は叫んでいる」


《正直です》


「だが配下の前では叫ばぬ」


 余は監視面を睨んだ。


 白い杭。


 封迷箱。


 聖杭技師。


 若い測量士。


 人間側は、迷宮を縛るために来る。


 なら余は、その縄を腹の下へ通す。


 封じられたと思わせる。


 測らせたと思わせる。


 安全になったと思わせる。


 そして、床下で喰う。


《第二層仮称を更新しますか》


「いや」


《偽封餌場のままですか》


「意味が増えた。それでよい」


 白い部屋の床に、文字が刻まれる。


⸻


第二層仮称

《偽封餌場》


構成要素:

・浅層偽脈

・戻り水床下流

・灰灯喰い蟲分巣

・赤錆噛み走路

・白灰這い仮穴

・湿骨兵伏兵穴

・影縫い境界糸

・封迷箱誘導路


⸻


 迷宮は、広がっている。


 ただ面積が増えているのではない。


 腹が増えている。


 外で測る者。


 箱で封じる者。


 杭で切る者。


 それらを、どう食うかを覚えている。


「来い、人間」


 余は監視面の向こう、白杭が刺さる森を見た。


「今度は、戻り水で迷わせ、蟲の腹で腐らせ、箱の金具から噛み砕いてやる」


 床下で、赤錆噛みが白灯器の輪を噛み切った。


 ぎり、と嫌な音が響く。


 同時に、戻り水が小さく逆流する。


 その音は、迷靄洞の新しい腹鳴りだった。

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