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第69話 封鎖線は、逃げ道から崩れる

入口に来ない。


 外周を踏まない。


 森を削り、距離を取り、火で払う。


 ラウゼンは、そういう戦い方に切り替えた。


 それは正しい。


 とても正しい。


 だから、腹が立つ。


「入ってこぬ敵を、どう殺すか」


 余は白い部屋で、封鎖線の図を睨んでいた。


 測量士から奪った外周記録板。


 境界札。


 測量紐。


 そこから解析した、封鎖線の形。


 入口。


 外周。


 空白帯。


 見張り台。


 補給路。


 そして、水と食料を運ぶ小さな馬車の道。


《外部補給路への直接干渉は不可です》


「分かっている」


《魔物の派遣も不可です》


「それも分かっている」


《では、どうしますか》


「人間の方から、余の口に戻ってくるようにする」


 補給路そのものは遠い。


 だが、封鎖線に物資を渡すための受け渡し場は違う。


 兵はそこで水袋を受け取る。


 矢束を置く。


 傷薬を分ける。


 交代の兵がそこで並ぶ。


 何度も。


 何度も。


 同じ場所に集まり、同じ石を踏み、同じ札を見る。


 そこは、もうただの地面ではない。


 人間が安全だと覚えた場所だ。


 つまり、観測点になる。


「管理音声」


《はい》


「帰路干渉を薄く伸ばせるか」


《受け渡し場そのものには届きません。ただし、封鎖線から戻る直前の踏み替え地点に干渉可能です》


「十分だ」


《効果は微弱です》


「微弱でいい。大きく曲げる必要はない」


 余は補給路の線を見た。


 人間は、帰る時に一番油断する。


 入口を見ている時は警戒する。


 森を切る時も警戒する。


 だが、物資を渡し終えた帰り道。


 自分たちの線の後ろ。


 火で払った場所。


 仲間がいる場所。


 そこを、安全だと思う。


「半歩でいい」


《はい》


「半歩、帰り道をずらせ」


昼過ぎ。


 補給馬車が来た。


 馬ではなく、小柄な荷獣が二頭。


 荷台には水樽、矢束、干し肉、薬箱。


 護衛は六人。


 先頭にいるのは、帳簿を抱えた細身の男だった。


 武器は短剣だけ。


 だが、兵たちが彼を雑には扱っていない。


「補給係か」


《兵站係セドルと推定》


「強いのか」


《戦闘能力は低いと推定》


「なら殺しやすいな」


《ただし、封鎖線維持における重要度は高いです》


「もっと殺しやすく聞こえる」


 セドルは補給品を数えながら、兵に指示を出していた。


「水樽は二つずつ。矢は西側に多め。傷薬はエルネ殿の隊へ。杭はもう使わない。命令書にもそうある」


 杭守り兵の一人が不満げに言う。


「白灯杭は失敗ですか」


「失敗だ。浄灰師を二人失った。次は許可が出ない」


 余は少し満足した。


 白灯杭は終わり。


 長引かない。


 よいことだ。


 だが、セドルはすぐに続けた。


「その代わり、油を増やす。入口も外周も、湿った場所は燃やせとの命令だ」


「油……」


《火攻め対策が必要です》


「嫌なものを増やすな、人間」


 補給馬車は、受け渡し場に止まった。


 封鎖線の兵たちが荷を受け取る。


 直接地面に置かず、板の上に置く。


 樽は転がさない。


 袋は開けない。


 灰がついていないか確認する。


 ラウゼンの命令が徹底されている。


 だが、すべてを警戒し続けることはできない。


 兵の一人が、水袋を受け取る時に、いつもの石を踏んだ。


 平たい灰色の石。


 何度も踏まれた場所。


 安全な足場。


 そこに、余は目をつけていた。


「観測者殺し、受け渡し場の記憶へ接続」


《微弱接続》


「帰る道だけ、ずらせ」


《了解》


 兵が水袋を運び終え、戻り始める。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 何も起きない。


 セドルが帳簿に印をつける。


「帰りは東の道を使う。西は昨日の火跡が残っている」


 護衛が頷く。


 正しい。


 西は危険。


 東は乾いている。


 ラウゼンが選んだ、比較的安全な帰路。


 だから、そこを曲げる。


最初に違和感を覚えたのは、荷獣だった。


 荷獣の片方が、足を止めた。


「どうした」


 御者が手綱を引く。


 荷獣は進まない。


 鼻先を地面に近づけ、嫌がるように首を振る。


 その足元。


 乾いた道に、ほんのわずかに灰が浮いていた。


 灰かぶりゴブリンの残灰。


 白灯杭に焼かれた灰。


 人間が昨日、靴や板に付けて運んだもの。


 それを余は、ただ待っていた。


 外に出したのではない。


 人間が持ち出した。


 なら、それは人間の油断だ。


《灰印、反応》


「よし」


 灰は魔物ではない。


 攻撃もできない。


 だが、匂いを変える。


 足場の感覚を変える。


 荷獣の鼻を狂わせる。


 荷獣が半歩、右へ避けた。


 御者がそれを戻そうとする。


 車輪が、乾いた道の端を踏んだ。


 ぱきり。


 音がした。


「止まれ!」


 セドルが叫んだ。


 遅い。


 車輪の下の地面が崩れる。


 大きくはない。


 荷台を丸ごと飲むほどではない。


 だが、片輪を落とすには十分だった。


 補給馬車が傾いた。


 水樽が一つ落ちる。


 矢束が崩れる。


 兵たちが慌てて支える。


「押すな! まず荷を下ろせ!」


 セドルは冷静だった。


 戦闘能力は低い。


 だが、こういう場面では強い。


「周囲を確認! 手を出すのは二人だけ! 他は距離を取れ!」


「ちっ」


 余は舌打ちした。


「よく訓練されている」


《はい》


「では、訓練されていないものを使う」


《荷獣ですか》


「そうだ」


 荷獣は怯えている。


 人間よりも、湿灰の匂いに敏感だ。


 追跡者の音を聞かせる必要はない。


 もっと単純な音でいい。


「マネ。ゴブリンの群れの音」


 奥でマネが鳴いた。


 ぎぃ。


 ぎぎぃ。


 ぎゃぎゃぎゃ。


 複数のゴブリンが、すぐ近くにいるような音。


 外には届かないはずの音。


 だが、帰路干渉の薄い線に沿って、荷獣の耳へだけ滑り込ませる。


 荷獣が暴れた。


「抑えろ!」


 御者が叫ぶ。


 兵が手綱を掴む。


 その瞬間、もう片方の荷獣が横へ跳ねた。


 荷台がさらに傾く。


 水樽が割れた。


 水が地面に広がる。


 乾いたはずの地面が、濡れる。


 濡れれば、余の口になる。


《外周咬合、発生可能》


「噛め」


 水を吸った灰が、泥になる。


 白灯の残灰。


 湿灰の匂い。


 荷獣の足跡。


 人間の安全確認。


 それらが一瞬だけ繋がった。


 地面が、口を開いた。


 御者の足が沈む。


「うわっ!」


 近くの兵が助けようと手を伸ばす。


 だが、セドルが叫ぶ。


「触るな! 槍を使え!」


 兵は踏みとどまった。


 槍を伸ばす。


 御者が槍を掴む。


 助かる。


 余は笑った。


「槍を掴ませろ」


《対象は迷宮領域外です》


「槍先は濡れた灰に触れた」


《接触成立》


 御者を引き上げようとした槍の柄に、灰が這った。


 攻撃ではない。


 滑るだけ。


 ぬるりと。


 御者の手が滑った。


「あっ」


 御者が口に落ちた。


 湿灰が顔を塞ぐ。


 灰かぶりの小さな腕が、口の中から伸びる。


 御者の喉を押さえた。


《侵入者一名死亡》


《獲得ソウル:18》


「少ない」


《非戦闘員です》


「贅沢は言わぬ」


セドルは即座に判断した。


「荷を捨てる! 馬車も捨てる! 生きて戻る!」


 兵たちが驚く。


「物資は!?」


「持とうとした者から死ぬ!」


 この男も嫌な判断ができる。


 余は少しだけ評価した。


 殺すべきだ。


 セドルは帳簿を懐に入れ、後退を始める。


 ただ逃げるのではない。


 兵を三人前に、二人後ろに置く。


 自分は中央。


 荷獣は捨てる。


 水も矢も捨てる。


 迷宮に喰われる前に切り捨てる。


「管理音声」


《はい》


「セドルを逃がすな」


《追跡者の起動は可能です。ただし対象が迷宮内にいません》


「まだ使わぬ。高い」


《では》


「追跡者の音だけ」


 がしゃん。


 マネが、濡れた甲冑の音を鳴らす。


 今度は似ていた。


 かなり似ていた。


 護衛の一人が振り返った。


「追跡者!?」


 セドルが怒鳴る。


「見るな! 音だけだ!」


 だが、音を聞いた時点で遅い。


 人間の隊列が、わずかに乱れる。


 後ろの兵が足を止める。


 前の兵が急ぐ。


 中央のセドルとの距離が開く。


 そこへ、余は水樽の残りを使った。


「割れていない水樽を転がせ」


《灰鼠生成条件を確認》


「灰鼠?」



【小型魔物派生候補】


灰噛みネズミ


洞窟ネズミ系統の未選択因子が、湿灰と食料臭に反応して発生。

戦闘力は低い。

ただし、縄・革袋・荷車の軸・食料袋を噛むことに特化。

外周領域では短時間のみ活動可能。


必要ソウル:2

推奨用途:補給妨害、荷崩れ、足止め



 余は表示を見て、即決した。


「出せ。六匹」


《ソウル12消費》


 割れた水樽の陰。


 干し肉の匂い。


 湿灰の泥。


 そこから、小さな灰色のネズミが這い出した。


 魔物としては弱い。


 ゴブリンより弱い。


 だが、目的が違う。


 灰噛みネズミたちは、戦わなかった。


 縄を噛む。


 革袋を噛む。


 荷車の軸を噛む。


 矢束を縛る紐を噛む。


 そして一匹が、セドルの腰についた水袋へ走った。


「何か来る!」


 兵が剣で払う。


 灰噛みネズミは一匹潰れた。


 だが、その間に別の一匹が水袋を噛み破った。


 水が漏れる。


 セドルの足元が濡れる。


「しまっ――」


 その濡れた足元を、余は待っていた。


「外周咬合」


《実行》


 セドルの片足が沈んだ。


 彼は即座に帳簿を投げ捨て、短剣で自分の靴紐を切った。


 速い。


 靴を捨てて抜けるつもりだ。


 だが、灰噛みネズミがその短剣の柄に噛みついた。


 ほんの一瞬、手元が狂う。


 湿灰が足首を飲む。


 セドルの顔が初めて歪んだ。


「引け!」


 護衛が槍を伸ばす。


 セドルは掴まない。


 掴めば槍が滑ると見ている。


 こいつも学んでいる。


 代わりに、彼は叫んだ。


「私を撃て!」


 護衛が固まる。


「撃て! 帳簿を持って戻れ!」


 余は目を細めた。


「またか」


 ラウゼンの部下は、損切りが早い。


 嫌になるほど早い。


 だが、護衛はラウゼンではなかった。


 一瞬、迷った。


 その迷いが命取りだ。


 灰かぶりゴブリンの腕が、濡れた地面から伸びた。


 セドルの腰を掴む。


 灰霧が噴き上がる。


 護衛の視界が白灰色に染まる。


 その中で、セドルの声だけが聞こえた。


「燃やせ! 物資ごと燃やせ!」


 火矢が放たれた。


 遅い。


 湿灰がセドルを飲み込む。


《侵入者一名死亡》


《獲得ソウル:49》


《取得:兵站帳簿、補給印章、経路札》


 火が広がる。


 馬車が燃える。


 水樽が割れる。


 干し肉が焼ける。


 矢束が爆ぜる。


 灰噛みネズミたちは、炎に巻かれて次々崩れた。


《灰噛みネズミ消滅》


《外周咬合地点焼損》


 だが、もう十分だった。


 御者を喰った。


 セドルを喰った。


 補給品を燃やさせた。


 補給路に、恐怖を残した。


 生き残った護衛たちは、帳簿も持たずに戻った。


 いや、正確には、帳簿は余のものになった。


 彼らは何度も振り返りながら、封鎖線へ走る。


 その背中には、追跡者はいない。


 グズもいない。


 ゴブリンの群れもいない。


 だが、足音は聞こえているはずだ。


 がしゃん。


 がしゃん。


 マネの偽物の音。


 それだけで、人間は振り返る。


 振り返れば遅くなる。


 遅くなれば、帰路はさらに長く感じる。


 ラウゼンの元へ報告が届いたのは、夕方だった。


 補給馬車喪失。


 兵站係セドル死亡。


 水、矢、薬の一部喪失。


 灰色の小型魔物確認。


 帰路上で地面が開口。


 追跡者らしき足音あり。


 ラウゼンは黙って聞いていた。


 怒鳴らない。


 焦らない。


 ただ、少しだけ目を細めた。


「補給路を狙ったか」


 エルネが青い顔で言う。


「入口に入らなくても、戻る道が危険です」


 ボルドが低く唸る。


「じゃあ、どこが安全なんだ」


 ラウゼンは答えた。


「安全な場所などない。安全だと思った場所から死ぬ」


 その言葉に、兵たちが静まり返る。


 余は白い部屋でそれを聞きながら、口元を歪めた。


「よく分かっているではないか」


《はい》


 ラウゼンはすぐに命令を出した。


「補給は小分けにする。馬車を使うな。水袋は一人一つ。道は毎回変える。戻り道で止まるな。音に反応するな」


 そして、最後に言った。


「伝令を増やせ。命令が途切れれば、封鎖線は崩れる」


 余は、その言葉を聞いた。


 伝令。


 命令を運ぶ者。


 封鎖線の血管。


「管理音声」


《はい》


「今の聞いたか」


《はい》


「伝令を増やすそうだ」


《はい》


「つまり、殺す対象が増えるということだな」


《はい》


 白い部屋に、補給印章と経路札の解析結果が浮かぶ。



【取得情報】


兵站帳簿

補給印章

経路札


内容:

・補給経路三種

・交代時刻

・伝令巡回路

・封鎖線西側の弱点

・予備水場の位置

・ラウゼン本隊との連絡手順


新規戦術候補:

・補給路撹乱

・伝令分断

・命令遅延

・偽命令誘導


新規小型魔物:

灰噛みネズミ



「偽命令誘導?」


《補給印章と経路札を素材に、命令伝達の誤認を誘発可能です》


「面白い」


《ただし効果は限定的です。ラウゼン本人には通じにくいと推定》


「本人に通じなくていい」


 余は封鎖線の図を見た。


 ラウゼンは強い。


 冷静で、切り捨てが早く、こちらの口に手を入れない。


 なら、ラウゼン本人を最初に狙う必要はない。


 命令を運ぶ者。


 水を運ぶ者。


 矢を運ぶ者。


 負傷者を戻す者。


 そこを噛めばいい。


 人間の群れは、剣士だけでできていない。


 食わせる者。


 数える者。


 運ぶ者。


 命じる者。


 その全部で動いている。


 なら、全部が餌だ。


夜。


 迷靄洞の入口は静かだった。


 だが、封鎖線の向こうは慌ただしい。


 補給路を失った人間たちは、配置を変えている。


 伝令が走る。


 小分けにされた水袋が運ばれる。


 火の番が増える。


 誰もが、入口ではなく背後を気にしている。


 余は白い部屋で、追跡者の待機地点を見た。


 湿灰の奥。


 落武者の甲冑が眠っている。


 まだ使わない。


 今は音だけで十分だ。


 だが、いずれ本物を出す。


 ラウゼンの首ではない。


 まずは、ラウゼンの命令を運ぶ足を狩る。


「管理音声」


《はい》


「追跡者は、標的が逃げるほど有効だったな」


《はい》


「伝令は走る」


《はい》


「なら、相性はよいな」


《極めて良好です》


 余は笑った。


 入ってこない敵。


 外周を踏まない敵。


 腹を裂こうとする敵。


 それは確かに厄介だ。


 だが、人間は動く。


 動けば道ができる。


 道ができれば、帰る場所ができる。


 帰る場所ができれば、そこに余の口が開く。


 封鎖線は、まだ崩れていない。


 だが、補給係を失った。


 水を失った。


 帳簿を失った。


 そして何より、帰り道を信じる心を失い始めた。


「次だ」


 湿灰の奥で、追跡者の鎧が鳴った。


 がしゃん。


 がしゃん。


「次は、命令を走らせる足を追う」


 封鎖線の夜に、伝令の笛が鳴った。


 その音を聞きながら、余は低く呟いた。


「走れ。人間」


 白い部屋の監視面に、細い伝令路が浮かび上がる。


「逃げる足ほど、追跡者はよく覚える」

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