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第70話 追跡者は、指揮官の影を追う

 伝令が走っていた。


 夜の封鎖線を、何度も。


 入口には来ない。


 外周にも踏み込まない。


 ただ、人間の線の内側を走り、命令を運んでいる。


「右列、火油を二樽追加!」


「西側、見張り交代を遅らせろ!」


「補給は小分け! 馬車は使うな!」


 声。


 笛。


 札。


 手旗。


 封鎖線は、まだ崩れていない。


 水を失い、兵站係を失い、帰り道を疑い始めても、ラウゼンは即座に形を変えた。


 大きな補給をやめた。


 道を固定しない。


 命令を一人に持たせない。


 伝令を増やし、同じ命令を二方向から流す。


 嫌になるほど慎重だった。


「……あの男、本当に嫌いだ」


《はい》


「強いから嫌いだ」


《適切です》


 白い部屋の監視面には、封鎖線の動きが細い線で映っている。


 その線が、何度も交差する。


 伝令路。


 交代路。


 補給路。


 撤退路。


 全部が別々に見えて、中心だけは同じだった。


 ラウゼン。


 そして、その少し後ろにいる男。


 黒い襟巻きをつけた、細身の伝令長。


 ラウゼンが短く言う。


 その男が頷く。


 走る者を選び、札を分け、手旗を上げる。


「……あいつは何だ」


《伝令長ヘイズと推定》


「伝令の親玉か」


《はい。ラウゼンの命令を各所へ分配しています》


「つまり、あれを殺せば命令が乱れる」


《可能性は高いです》


「よし。殺す」


《対象は迷宮領域外です》


「またそれか!」


《事実です》


 分かっている。


 追跡者は外へ出られない。


 グズも出られない。


 ゴブリンを外に投げることもできない。


 外周咬合も、条件がなければ噛めない。


 だが、余はもう覚えた。


 人間は、自分から安全だと思った場所に道を作る。


 道を作れば、そこに癖が出る。


 癖が出れば、観測点になる。


 そして観測点は、迷靄洞の餌だ。


最初に仕掛けたのは、偽命令だった。


 補給印章と経路札。


 セドルから奪ったそれを、湿灰に溶かし、薄い誤認として封鎖線の端へ流した。


 声ではない。


 文字でもない。


 ただ、伝令が札を見る時に、一瞬だけ違う記号に見えるようにする。


「西側、火油を後退」


 本当の命令は、


「西側、火油を追加」


 だった。


 伝令の一人が札を見間違えた。


「西側、火油後退!」


 西側の兵が動く。


 油樽を下げようとする。


 余は白い部屋で身を乗り出した。


「よし」


 だが、すぐにヘイズが笛を吹いた。


 短く二回。


「訂正! 西側、火油追加! 後退ではない!」


 動きかけた兵が止まる。


 油樽が戻される。


 混乱は、ほんの数呼吸で収まった。


「……早い」


《はい》


 ラウゼンは少しも慌てていない。


 ヘイズも同じだ。


 彼らは、命令が歪むことまで想定していた。


 同じ命令を二つの手段で確認している。


 札と笛。


 声と旗。


 一つが狂っても、もう一つで戻す。


「管理音声」


《はい》


「命令を偽るのは駄目だな」


《ラウゼンおよびヘイズの確認手順が早すぎます》


「なら、命令の中身は変えない」


《はい》


「届く時間を変える」


 正しい命令でも、遅れれば死ぬ。


 正しい撤退でも、一呼吸遅れれば足を掴まれる。


 正しい火矢でも、放つ前に口が閉じれば意味がない。


「狙うのは言葉ではない」


 余は監視面の中央にいるヘイズを見た。


「足だ」


ヘイズは走らなかった。


 伝令長だから当然だ。


 自分は中心に立ち、若い伝令たちを走らせる。


 だが、完全に動かないわけではない。


 時折、自分で前に出る。


 命令の訂正。


 重要札の回収。


 ラウゼンの指示を直接伝える時。


 その時だけ、ヘイズは中心から離れる。


 余はそれを待った。


「灰噛みネズミを使う」


《生成しますか》


「四匹。殺すためではない」


《ソウル8消費》


 灰噛みネズミは、封鎖線の近くで直接生まれるわけではない。


 迷宮に残る湿灰から生まれ、外周の古い樹根を通り、ほんの短時間だけ外周の隙間を走る。


 弱い。


 踏まれれば死ぬ。


 火を向けられれば消える。


 だが、ネズミに戦いなど求めていない。


 噛めばいい。


 縄。


 革袋。


 旗紐。


 笛紐。


 命令札を束ねる紐。


 それだけでいい。


 灰噛みネズミが、夜の地面を走った。


 一匹目は見張りに踏み潰された。


 二匹目は火の粉を浴びて崩れた。


 三匹目は、伝令の水袋を噛み破った。


 水が落ちる。


 地面が濡れる。


 兵が慌てて下がる。


 だが、それは囮だった。


 四匹目が、本命の旗紐を噛んだ。


 ぱつん。


 西側の小さな手旗が落ちた。


 それだけ。


 たったそれだけ。


 しかし、ヘイズの目が動いた。


「西旗が落ちた。予備を出せ」


 若い伝令が走ろうとする。


 その前に、ラウゼンが言った。


「ヘイズ、お前が行け」


 白い部屋で、余は笑った。


「来た」


《対象、移動開始》


 ヘイズが走る。


 速くはない。


 無駄がない。


 地面をよく見て、決して湿った場所を踏まない。


 板の上を選び、焼いた土を選び、兵が踏んだ後を選ぶ。


 見事だ。


 だからこそ、誘導できる。


「観測者殺しを、旗の落下点へ」


《微弱起動》


 ヘイズは旗を拾わない。


 拾うのは若い兵に任せた。


 自分は周囲を見る。


 怪しい地面。


 灰。


 湿り。


 足跡。


 全部を確認している。


「……レネに似ているな」


《観測者型です》


「なら、同じだ」


 見る者は、見た場所に囚われる。


 ヘイズは落ちた旗を見た。


 次に、旗紐を見た。


 噛み切られた跡。


 灰色の小さな歯形。


 その瞬間、ヘイズは灰噛みネズミの存在を正しく見抜いた。


「小型魔物だ。縄を噛む。全員、紐を確認しろ」


 正しい。


 だが、それで全員が自分の紐を見る。


 足元から目が離れる。


「今だ」


《帰路干渉、薄く展開》


 ヘイズが一歩下がる。


 そこは安全な焼け土だった。


 だが、昨日の火で焼かれた下に、細い樹根が残っている。


 その樹根には、補給馬車の時にこぼれた水と灰が染みていた。


 まだ繋がっている。


 細い。


 今にも切れそうな線。


 それでも、迷靄洞の舌だった。


 ヘイズの足が、その上に乗った。


「噛め」


《外周咬合、発生》


 地面が沈む。


 ヘイズは即座に反応した。


 自分から転がり、靴を捨て、片足を抜く。


 速い。


 本当に速い。


 ただの伝令ではない。


「甘い」


 余は言った。


「靴を捨てるのは読んでいた」


 灰噛みネズミが、捨てられた靴に群がる。


 靴そのものではない。


 靴紐に結ばれていた小さな命令札。


 濡れた札。


 ヘイズが咄嗟に切り捨てたもの。


 その札には、ラウゼンの印がついていた。


《命令印、湿灰に接触》


《標的認識補助、成立》


 ヘイズが顔色を変えた。


 おそらく、何かを感じたのだ。


 迷宮に見られた感覚。


 追われる前の冷たさ。


 余は、湿灰の奥を見た。


 追跡者が眠っている。


 落武者の甲冑。


 錆びた太刀。


 青白い片目。


「管理音声」


《はい》


「追跡者を起こせ」


《標的を指定してください》


「伝令長ヘイズ」


《対象は外周咬合接触中。迷宮内扱いは短時間のみです》


「十分だ」


《追跡者、起動》


《ソウル35消費》


 湿灰の奥で、鎧が鳴った。


 がしゃん。


 今度はマネではない。


 本物だ。


 ヘイズが振り返る。


 外の地面に、追跡者は立っていない。


 立てない。


 だが、ヘイズの沈んだ足元。


 開いた小さな口の内側。


 そこは、ほんの数呼吸だけ迷宮だった。


 その内側から、錆びた太刀が伸びた。


 ヘイズは短剣で受けた。


 金属音。


 短剣が折れる。


 ヘイズは腕を犠牲にして逃げようとした。


 悪くない判断だ。


 だが、追跡者は腕ではなく、足を狙った。


 太刀が、ヘイズの膝裏を切った。


「ぐっ!」


 ヘイズが倒れる。


 兵が駆け寄ろうとする。


 ラウゼンの声が飛んだ。


「近づくな!」


 だが、ヘイズは伝令長だ。


 若い伝令たちの師だ。


 命令を運ぶ者たちの中心だ。


 一人が、反射的に駆け出した。


 助けるために。


 ヘイズが叫ぶ。


「来るな!」


 遅い。


 若い伝令の足が濡れた焼け土を踏んだ。


 外周咬合が、少しだけ広がる。


 追跡者の青白い片目が、そちらを向いた。


 標的はヘイズ。


 だが、邪魔な足は切る。


 太刀が横に走った。


 若い伝令の腹が裂けた。


《侵入者一名死亡》


《獲得ソウル:24》


 ヘイズは這って逃げる。


 膝が動かない。


 それでも、命令筒を遠くへ投げた。


 ラウゼンに戻すためだ。


 余はそれを見た。


「灰噛み」


 最後に残っていた灰噛みネズミが、命令筒へ走る。


 兵の矢が飛ぶ。


 ネズミは貫かれた。


 だが、死ぬ前に革紐だけを噛み切った。


 命令筒が開く。


 中の札が、湿った灰の上に散った。


《命令札を取得》


 ヘイズは、それを見た。


 自分が守ろうとした命令が、迷宮に喰われるのを。


「ラウ、ゼン……様」


 追跡者の太刀が、今度こそヘイズの首を落とした。


《侵入者一名死亡》


《獲得ソウル:61》


《取得:伝令長の命令筒、ラウゼン印付き命令札、黒襟巻き、伝令笛》


《標的死亡》


《追跡者、待機状態へ移行》


「戻せ」


《はい》


 追跡者は、外の地面を一歩も踏まなかった。


 開いた口の中から現れ、標的を斬り、湿灰の奥へ沈む。


 がしゃん。


 最後の鎧音だけが、封鎖線に残った。


封鎖線は、初めて大きく揺れた。


 兵が死んだだけではない。


 伝令長が死んだ。


 命令筒が奪われた。


 西側の手旗は落ちたまま。


 命令札は湿灰に飲まれた。


 ヘイズの死体は、半分だけ外に残り、半分は口に喰われている。


 誰も近づけない。


 ラウゼンは、動かなかった。


 動けなかったのではない。


 動けば崩れると分かっているから、動かなかった。


 エルネが青ざめた顔で言う。


「ヘイズさんが……」


 ボルドが盾を握りしめる。


「回収は?」


 ラウゼンは答えた。


「しない」


 短い声だった。


「命令系統を切り替える。手旗を廃止。笛も廃止。声で伝えろ。伝令は二人一組。走るな。歩け」


 ギルが叫ぶ。


「歩いたら遅れる!」


「遅れてもいい。走れば追われる」


 その一言で、封鎖線の兵たちは静まり返った。


 走れば追われる。


 それは、伝令にとって死刑宣告に近い。


 命令を急いで届ける者が、走れない。


 封鎖線の血流が鈍る。


「管理音声」


《はい》


「効いたな」


《はい》


 だが、ラウゼンはまだ崩れない。


 彼はすぐに補助命令を出した。


「西側は独自判断に移行。火油を使い切れ。東側は水を守れ。中央は動くな」


 正しい。


 全体命令が遅れるなら、区画ごとに判断させる。


 命令を細かく運ぶのではなく、事前方針で動かす。


 また形を変えた。


「本当にしぶとい」


《はい》


「だが、今は西側が孤立している」


《はい》


 西側。


 手旗が落ちた場所。


 火油を多く置いた場所。


 ヘイズの死で、命令が一拍遅れた場所。


 そこには、まだ火油樽が残っている。


 兵は使い切れと命じられた。


 つまり、火を使う。


 火を使えば、煙が出る。


 煙が出れば、視界が落ちる。


 視界が落ちれば、マネの音が効く。


「西側を崩す」


《推奨》


西側の兵たちは、ラウゼンの命令通り火油を撒き始めた。


 湿った地面を焼く。


 外周の残りを焼く。


 迷宮の舌を切る。


 だが、彼らは焦っていた。


 ヘイズの死を見た。


 追跡者の本物の音を聞いた。


 しかも、走るなと言われている。


 逃げる時も、走れない。


 その恐怖は重い。


「マネ」


「ギィ」


「ヘイズの笛を真似ろ」


《伝令笛を取得済み。音型再現可能》


 白い部屋の奥で、マネが小さな笛音を真似た。


 ぴっ。


 短く一回。


 西側の兵が反応する。


 それは、ヘイズが使っていた確認音に似ていた。


 もう死んだ伝令長の笛。


 聞こえるはずのない音。


 兵の一人が振り返る。


「ヘイズさん?」


 馬鹿ではない。


 だが、人間は死んだ者の音に弱い。


 特に、さっきまで命令をくれていた者の音には。


 余は命じた。


「もう一回」


 ぴっ。


 今度は、少し遠く。


 兵が一歩、火油樽から離れた。


 その一歩で、火の撒き方がずれた。


 油が乾いた土ではなく、樹根の残る湿った窪みに流れ込む。


 火がつく。


 じゅう、と音。


 煙が出る。


 黒い煙ではない。


 灰色の煙。


 灰かぶりゴブリンの残灰が混じった煙。


「灰霧を混ぜろ」


《実行》


 煙の中に、小さな灰の腕が現れる。


 灰かぶりゴブリンとして完全に起きるほどではない。


 だが、兵の足首に触れるには足りる。


「何かいる!」


 西側が乱れた。


 火油樽が倒れる。


 炎が横へ走る。


 兵が下がる。


 だが、走れない。


 走るなと言われているから。


 その迷いが、足を止める。


 余は、その迷いを噛んだ。


《外周咬合、小規模発生》


 一人の兵が沈む。


 隣の兵が助けようとする。


「触るな!」


 誰かが叫ぶ。


 助ける手が止まる。


 沈んだ兵だけが残る。


《侵入者一名死亡》


《獲得ソウル:27》


 もう一人が灰霧を吸い込み、咳き込んで倒れる。


 火油が袖に移る。


 仲間が砂をかける。


 その足元を、灰噛みネズミが噛む。


 靴紐が切れる。


 転ぶ。


 火が移る。


《侵入者一名死亡》


《獲得ソウル:22》


 大きな勝利ではない。


 だが、西側は崩れ始めた。


 命令が遅い。


 笛が信用できない。


 走れない。


 助けに行けない。


 火を使えば煙が出る。


 煙の中から灰が触る。


 兵たちの顔から、余裕が消えていく。


ラウゼンは、そこで初めて動いた。


 ゆっくりと西側へ歩く。


 走らない。


 部下にも走らせない。


 自分で前に出て、崩れかけた線を止めに来た。


「火を止めろ」


 ラウゼンの声が響く。


「油を捨てろ。西側、五十歩後退。死体は捨てる。負傷者は歩ける者だけ下がれ」


 兵たちが従う。


 ラウゼンが来ると、崩れかけた線が戻る。


 やはり指揮官だ。


 あれがいる限り、完全には崩れない。


 余は白い部屋で静かに言った。


「管理音声」


《はい》


「ラウゼンを標的にできるか」


《現在、迷宮接触なし。不可です》


「だろうな」


《ただし、ラウゼンの接近により西側兵の撤退路が一時的に集中しています》


「なら、ラウゼンではなく、その影をさらに削る」


《伝令長ヘイズは死亡済みです》


「次は副官だ」


 ラウゼンのすぐ後ろに、副官らしき女がいた。


 短い髪。


 鉄板入りの革鎧。


 手には簡易地図。


 ヘイズの代わりに命令を記録している。


 まだ若い。


 だが目が鋭い。


《副官ミラベルと推定》


「覚えた」


《はい》


 今日は殺せない。


 近すぎる。


 ラウゼンの警戒が厚い。


 追跡者も使ったばかりだ。


 だが、覚えた。


 命令を運ぶ者を殺せば、ラウゼンは歩くしかなくなる。


 ラウゼンが歩けば、守る者が動く。


 守る者が動けば、線が薄くなる。


 線が薄くなれば、封鎖線は崩れる。


 余はそれを学んだ。


 夜が深くなる頃、西側の封鎖線は五十歩下がった。


 完全崩壊ではない。


 だが、後退だ。


 迷靄洞の外周を削っていた線が、少し遠のいた。


 空白帯の一部が放棄された。


 そこに、湿りがゆっくり戻り始める。


 小さな勝ちだ。


 だが、確かな勝ちだ。


 白い部屋に収支が浮かぶ。



【伝令分断戦】


撃破:

若い伝令一名

伝令長ヘイズ一名

西側兵二名


獲得ソウル:

+24

+61

+27

+22


消費:

灰噛みネズミ生成:−8

追跡者短時間起動:−35

外周咬合維持:−14

灰霧形成:−6


取得:

伝令長の命令筒

ラウゼン印付き命令札

黒襟巻き

伝令笛

命令断片

西側配置記録


戦果:

西側封鎖線、五十歩後退

手旗運用停止

笛命令の信用低下

伝令の走行制限発生


現在ソウル:211



「増えたな」


《はい》


「よし」


 久しぶりに、余は素直に頷いた。


 ソウルが増えた。


 敵を殺した。


 封鎖線を下げた。


 伝令長を喰った。


 追跡者の恐怖も深く刻んだ。


 だが、気を抜いてはいけない。


 ラウゼンは生きている。


 エルネも、ボルドも、ギルも生きている。


 そして副官ミラベルという新しい影が見えた。


ラウゼンは、ヘイズの死体を回収しなかった。


 その代わり、遠くから火を放った。


 ヘイズの半分残った体。


 黒襟巻きの切れ端。


 血の染みた焼け土。


 それらを、まとめて燃やした。


 迷宮に再利用されないように。


 余は黙って見ていた。


「悔しいか」


《質問ですか》


「いや」


 死体を奪えなかったのは惜しい。


 だが、命令筒は得た。


 笛も得た。


 命令札も得た。


 何より、ラウゼンの部下たちに刻んだ。


 走れば追われる。


 助ければ巻き込まれる。


 安全な帰路はない。


 そして、命令を運ぶ者から死ぬ。


 ラウゼンは燃えるヘイズを見て、静かに言った。


「ヘイズ。よく働いた」


 それだけだった。


 怒りも、悲鳴もない。


 だが、兵たちはうつむいた。


 指揮官は冷たい。


 けれど、見捨てているわけではない。


 だから兵は従う。


 厄介だ。


 本当に厄介だ。


 ラウゼンは顔を上げた。


「明朝、封鎖線を再編する」


 副官ミラベルが頷く。


「西側は?」


「放棄する」


 兵たちがざわついた。


 ラウゼンは続けた。


「西側を守る意味は薄い。入口を攻めず、外周も踏まない。ならば、こちらが線を選ぶ」


 そして、迷靄洞を見た。


「明日、中央を畳む。封鎖線を半円から一本の壁に変える」


 余は目を細めた。


「一本の壁?」


《包囲ではなく、進入方向の制限を目的とする再編と推定》


「つまり、囲むのをやめるのか」


《はい》


「こちらを封じるのではなく、人間側の損耗を減らす形に変える」


《はい》


 ラウゼンは、封鎖線を捨て始めた。


 敗北ではない。


 損を減らすための再編。


 だが、それは同時に、今までの封鎖線が維持不能になったということでもある。


 余は小さく笑った。


「崩れ始めたな」


《はい》


 完全ではない。


 まだ足りない。


 だが、封鎖線はもう以前の形を保てない。


 なら、次で崩す。


 再編の瞬間。


 荷を動かす。


 負傷者を動かす。


 火油を動かす。


 命令を動かす。


 人間の線が、一番形を失う瞬間。


 そこを喰う。


 湿灰の奥で、追跡者が沈黙している。


 グズは焼けた腕を押さえながら門に立つ。


 マネは、ヘイズの笛を小さく真似る。


 灰噛みネズミたちは、次に噛む紐を待つ。


 余は白い部屋で、静かに命じた。


「管理音声」


《はい》


「明日は総力戦だ」


《はい》


「封鎖線を、墓場に変える」


 外では、再編の命令が走り始めた。


 走るなと言われた伝令たちが、早足で、怯えながら、何度も後ろを振り返る。


 その背中に、まだ追跡者はいない。


 だが、彼らはもう聞いている。


 がしゃん。


 がしゃん。


 逃げる足を覚える、落武者の鎧の音を。

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