第68話 ラウゼンは、入口を攻めない
斧の音が、朝から鳴っていた。
かん。
かん。
かん。
森の木が削られる音。
迷靄洞の入口から少し離れた場所で、人間たちが木を切っている。
近づきすぎない。
入ってこない。
声にも反応しない。
ただ、外から迷靄洞の周囲を剥がしていく。
「……腹を裂く、か」
余は白い部屋で、監視面を睨んでいた。
ラウゼンは、入口を攻めなかった。
昨日、そう言った通りだ。
白灯杭も使わない。
浄灰師も前に出さない。
冒険者も突入させない。
その代わり、森を削っている。
外周誘導路が染みていたあたり。
人間が迷いやすい湿った地面。
ポフキノコの胞子が薄く流れ、帰路感覚を鈍らせる場所。
そこを、斧と杭と測量紐で裸にしている。
「ずるいぞ」
《はい》
「入ってこなければ殺せぬではないか」
《基本的にはそうです》
「基本的には、とは?」
《迷宮領域に接触した場合、例外があります》
「それを早く言え!」
《ロードが質問しませんでした》
「余が悪いみたいに言うな!」
管理音声は淡々と表示を出した。
⸻
【外周領域】
迷宮本体ではないが、迷宮の湿灰、胞子、魔力残滓が染み出した周辺地帯。
魔物の常時配置は不可。
直接攻撃能力は低い。
ただし、誘導・錯覚・境界誤認・帰路干渉が可能。
現在状態:切削中
外周侵食率:低下中
⸻
「低下中だと?」
《森の伐採、地表乾燥、測量杭の設置により、外周誘導効果が削られています》
「まずいのか」
《はい》
はい、ではない。
かなりまずい。
外周誘導路は、迷靄洞にとって入口の外に置いた舌のようなものだ。
冒険者を迷わせる。
封鎖線を餌場にする。
帰る道を少しだけ曲げる。
それが削られれば、入口まで誘い込む力が落ちる。
しかも、人間は入ってこない。
ソウルも得られない。
ただ削られるだけ。
「腹を裂く、とはよく言ったものだ」
《はい》
「腹立つな、あの指揮官」
《はい》
外では、ラウゼンが指示を出していた。
彼は入口から十分に離れた場所に立っている。
近づかない。
しかし、見ている。
「赤杭より内に入るな」
ラウゼンの声が響く。
「測量紐を張れ。湿りの濃い地面は踏むな。木は根元から抜くな。切り株を残せ」
兵が復唱する。
「切り株を残す!」
「根を掘らない!」
「湿灰地帯には板を渡す!」
余はその言葉を聞いて、眉をひそめた。
「根を掘らない、だと?」
《外周誘導路の一部は樹根と湿灰の絡みで成立しています》
「つまり、根を掘ればこちらが何かできると読んでいるのか」
《推定、はい》
「嫌な男だ」
ラウゼンは、ただの力押しではない。
入口が口なら、そこに手を入れない。
腹を裂くと言いながら、腹のどこが噛むかも警戒している。
慎重だ。
地味だ。
そして、非常に嫌だ。
ボルドが盾を担いで、伐採班の横に立っている。
ギルは剣を抜かず、周囲を警戒。
エルネは測量士と一緒に、湿りの濃さを記録していた。
レネはいない。
レネは死んだ。
だが、レネの記録があるのだろう。
人間側は、迷靄洞の癖を確実に学んでいる。
「管理音声」
《はい》
「あの測量士を殺せば、外周の調査は止まるか」
《一時的には》
「なら殺す」
《対象は迷宮領域外です》
「分かっておる!」
余は苛立ちながら監視面を見た。
測量士は細い男だった。
灰色の帽子。
長い測量紐。
地面に札を刺し、何度も距離を測っている。
直接戦う力は弱そうだ。
だが、ああいう者が一番厄介だ。
剣で切らない。
魔法で焼かない。
ただ、こちらの形を暴く。
レネと同じだ。
見て、測って、覚える者。
「観測者殺しを使えるか」
《外周領域に薄く展開可能。ただし効果は限定的》
「限定的でいい」
《対象が同じ測量点を複数回確認した場合、誤認を誘発できます》
「よし」
余は白い部屋で、外周の湿りをなぞった。
まだ残っている誘導路。
切られていない樹根。
昨日の白灯杭から得た灰。
それらを薄く混ぜる。
「安全に見える場所を作れ」
《偽乾燥路を形成します》
湿った地面の一部が、乾いたように見え始めた。
白灯杭の残灰を薄く混ぜた、灰色の地面。
人間から見れば、浄化されて乾いた場所。
迷宮の影響が薄い場所。
つまり、安全に見える。
だが、その下には湿灰が残っている。
さらにその下には、古い樹根。
樹根の先は、迷靄洞の外周誘導路とつながっている。
完全な迷宮ではない。
だが、皮膚だ。
噛める皮膚。
「ここは乾いている」
測量士が言った。
エルネが目を細める。
「乾きすぎている」
「昨日の白灯杭の影響では?」
「白灯杭は入口内側。ここまで均一には来ない」
測量士は少し迷った。
そこに、ラウゼンの声が飛ぶ。
「踏むな。板を置け」
余は舌打ちした。
「慎重すぎる」
《はい》
兵が板を持ってきた。
乾いた地面に直接踏み込まず、板を置く。
一枚。
二枚。
三枚。
その上を測量士が歩く。
安全だ。
罠は起きない。
余は起こさない。
測量士が戻る。
「問題なし」
兵たちの顔が少し緩んだ。
エルネだけは緩まない。
「一度安全でも、二度目が安全とは限らない」
「分かっています」
測量士が少し苛立った声で答えた。
「ですが、測らなければ進めません」
そうだ。
測らなければ、進めない。
そして、進むなら同じ場所を見る。
同じ場所に板を置く。
同じ場所を安全だと記録する。
「管理音声」
《はい》
「待て」
《はい》
伐採が進む。
木が一本倒れた。
枝が払われる。
湿った影が消える。
外周誘導路の一部が、乾き始める。
痛い。
痛い、という感覚が正しいのかは分からない。
だが、気分は最悪だった。
自分の皮膚を、薄く剥がされているような感覚。
外から削られている。
入ってこない相手に。
「……ロードらしくないな」
《何がですか》
「削られて焦っている」
《焦りは適切です》
「配下の前では堂々としていなければならぬ」
《ここには配下はいません》
「いるだろう。グズとかマネとか」
《グズは入口にいます。マネは鎧音の練習中です》
奥から小さく、がしゃん、という音がした。
少し似てきた。
「……よし。堂々と焦る」
《矛盾しています》
「うるさい」
三度目。
測量士が同じ板道へ戻った。
今度は、若い兵が一人付き添っている。
板がずれたら直す役だ。
ラウゼンはまだ遠い。
だが見ている。
ボルドも近い。
ギルもいる。
エルネもいる。
簡単には殺せない。
だが、測量士は同じ場所を見た。
一度。
二度。
三度。
同じ乾燥路。
同じ板。
同じ札。
同じ安全。
「観測者殺し、薄く起動」
《起動》
測量士の目が、札の位置を追う。
板の端が、ほんの少しだけ広く見える。
安全な足場が、半歩分だけ長く見える。
踏み間違えではない。
誤認だ。
測量士が板の端へ足を置いた。
板はある。
だが、その下の樹根が、余の領域だった。
「噛め」
《外周咬合、発生》
乾いた地面が、へこんだ。
板ごと、測量士の足が沈む。
「っ!?」
若い兵が反射的に手を伸ばす。
ラウゼンが叫んだ。
「触るな!」
遅い。
若い兵は測量士の腕を掴んだ。
その腕を通じて、板の下の湿灰が引いた。
足元が割れる。
大きな穴ではない。
人一人が落ちる程度の、浅い裂け目。
だが、その裂け目の内側は、迷靄洞の外周誘導路とつながっていた。
つまり、口だ。
小さな口。
外にできた、一瞬だけの口。
測量士と若い兵が、板ごと落ちた。
「ボルド!」
エルネが叫ぶ。
ボルドは盾を構えたまま動きかけた。
だが、ラウゼンの声が飛ぶ。
「入るな!」
ボルドの足が止まる。
測量士が穴の中で叫んだ。
「助け――」
その口を、湿灰が塞いだ。
中には、通常ゴブリンを送れない。
魔物の常時配置は不可。
だが、死んだゴブリンの残灰は流せる。
灰かぶりゴブリンの種も流せる。
小さな灰の腕が、穴の壁から伸びた。
測量士の口を塞ぐ。
若い兵の足を掴む。
白灯に焼かれて生まれた灰の魔物が、乾いた地面の下から這い出す。
「灰かぶり!」
ギルが叫んだ。
エルネが即座に風を起こそうとする。
だが、穴の中だ。
風を入れれば灰が舞う。
火を入れれば中の二人ごと焼く。
助けようとすれば、近づくしかない。
近づけば、もう一度噛む。
ラウゼンは、歯を食いしばって言った。
「火矢」
ボルドが顔を向けた。
「まだ生きてる!」
「だからだ」
ラウゼンの声は冷たかった。
「迷宮に引き込まれた者は、戻すな。火矢」
弓兵が火矢を構えた。
測量士が穴の中でもがく。
若い兵が泣き叫ぶ。
だが、火矢が放たれた。
穴の縁に突き刺さる。
乾いた偽安全路が燃えた。
灰かぶりゴブリンが焼ける。
測量士も焼ける。
若い兵も焼ける。
余は白い部屋で、顔をしかめた。
「自分で殺すか」
《人間側の損切り判断です》
「嫌な判断をする」
《ロード的です》
「人間なのにか」
《はい》
穴の中で、まず若い兵の声が消えた。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:21》
続いて、測量士の声も消える。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:44》
《取得:測量紐、境界札、外周記録板》
「よし」
喜びは小さい。
ラウゼンに、こちらの外周咬合を見られた。
だが、測量士を殺した。
外周記録も奪った。
ソウルも得た。
外で削られるだけの流れは、止めた。
火が消えると、穴は黒く焦げていた。
ラウゼンは近づかない。
兵にも近づかせない。
「赤杭を後退させろ」
ラウゼンが命じた。
「この線はもう安全ではない。切削範囲を広げる。人を入れず、火で払え」
エルネが苦い顔をする。
「測量士を失いました」
「代わりを呼ぶ」
「時間がかかります」
「時間を使う」
ラウゼンは迷靄洞を見た。
「あれは、急がせると噛む。焦って入れば喰われる。なら、こちらは急がない」
余は白い部屋で、奥歯を噛みそうになった。
まただ。
また、こちらが嫌がることをする。
こちらはソウルが欲しい。
入ってきてほしい。
近づいてほしい。
だがラウゼンは、引く。
距離を取る。
火で払う。
時間を使う。
「管理音声」
《はい》
「あの男、余の餌場を飢えさせる気だな」
《はい》
封鎖線が、後ろへ下がっていく。
ただの撤退ではない。
距離を取った新しい線。
湿りのない場所。
木を切り、土を乾かし、板も杭も残さない空白帯。
迷宮の舌が届かないようにするための帯。
外周誘導路を餓死させるつもりだ。
ラウゼンは、入口を攻めない。
外周も直接踏まない。
ただ、削り、焼き、待つ。
それは派手ではない。
だが、強い。
非常に強い。
戦闘後、白い部屋に収支が浮かんだ。
⸻
【外周測量戦】
撃破:
若い兵一名
測量士一名
獲得ソウル:
+21
+44
取得:
測量紐
境界札
外周記録板
損耗:
外周誘導路一部焼損
偽乾燥路消失
灰かぶり種消費
外周侵食率低下
新規現象:
外周咬合
現在ソウル:123
⸻
「外周咬合は使えるか」
《条件付きで可能です》
「条件」
《迷宮由来の湿灰、樹根、胞子、または残灰が連続している場所。かつ対象が観測点を信頼して接触した場合》
「つまり、どこでも噛めるわけではない」
《はい》
「だが、噛める場所はある」
《はい》
余は測量紐を見た。
人間が迷宮を測るための道具。
境界札。
外周記録板。
そこには、人間側が調べた迷靄洞周辺の図が描かれていた。
赤い線。
湿りの濃い場所。
帰路が乱れた地点。
木の配置。
封鎖線。
補給路。
補給路。
余は、その文字を見た。
「管理音声」
《はい》
「補給路とはなんだ」
《人員、食料、矢、杭、薬品を封鎖線へ運ぶ経路です》
「そこは迷宮領域か」
《現在は範囲外です》
「外周誘導は届くか」
《直接は届きません》
「だが、封鎖線へ戻る道だな」
《はい》
「帰る道でもあるな」
《はい》
ラウゼンは入口を攻めない。
外周を踏まない。
封鎖線を後ろへ下げる。
それは正しい。
だが、人間は何かを運ばなければならない。
水。
食料。
矢。
薬。
負傷者。
命令。
そして、撤退の道。
入口に来ないなら、入口では殺せない。
外周に来ないなら、外周では噛めない。
なら。
「帰る道を喰う」
《外部補給路への直接干渉は不可です》
「直接はな」
《はい》
「では、補給路に戻る前の場所を曲げる。封鎖線の内側ではなく、外側でもない。人間が安全だと思って気を抜く場所」
《帰路干渉との併用が可能です》
「レネの記録、測量士の記録、境界札。全部使え」
《解析します》
白い部屋に、封鎖線周辺の簡略図が浮かぶ。
ラウゼンの新しい空白帯。
撤退線。
補給路。
見張り台。
夜間交代の道。
そこに、細い灰色の線が一本だけ重なった。
まだ、余の領域ではない。
だが、人間が何度も往復する。
何度も確認する。
何度も安全だと信じる。
なら、いつか観測点になる。
「よい」
余は静かに言った。
「入口を攻めぬなら、それでいい。外周を踏まぬなら、それでいい」
監視面の外で、ラウゼンが封鎖線を下げていた。
勝ったつもりではない。
ただ、次の戦いに移っている。
なら、余も移る。
「封鎖線は、逃げ道から崩す」
奥で、追跡者の鎧が小さく鳴った。
がしゃん。
がしゃん。
まだ出番ではない。
だが、いずれ追わせる。
入口に来ない者を。
腹を裂こうとする者を。
安全な帰り道にいると思い込んだ者を。
その足音で、振り向かせる。
余は白い部屋で、初めて少しだけ笑った。
「ラウゼン。お前が口に手を入れぬと言うなら――」
封鎖線の向こうで、補給馬車が動き出す。
水と矢と食料を積んだ、小さな列。
兵たちは疲れた顔で、その道を安全だと思って歩いている。
「余の方から、帰り道を口にしてやる」




