第6話 嵐の前の準備期間
翌日、余は初めて「待つ」という時間の長さを知った。
鼠は走る。
ゴブリンはだらける。
グズはたまに働く。
新聞は読める。
だが、侵入者が来ぬ。
来ぬ時は、本当に何も来ぬ。
「……暇だな」
《運営中です》
「言い換えても暇であることは変わらぬ」
余は白い部屋で、新聞を三巡ほど読み返したあと、見取り図を開いて閉じ、グズの働きぶりを眺め、また新聞に戻った。
気づいたことがある。
迷宮運営は、戦っている時より、待っている時のほうがよほど落ち着かぬ。
戦闘中は考えることが多い。配置、反応、損耗、誘導。忙しい。だが、待機中は悪い想像ばかり膨らむ。
今この瞬間、外では何が起きているのか。
レネは誰に何を話したのか。
ギルドは危険度を上げたのか。
次は何人で来るのか。
聖職者は混ざるのか。
火を多く持ち込まれたらどうする。
鼠の細穴は見抜かれるのか。
考えれば考えるほど、いくらでも不安は湧いてくる。
「待つの、嫌いかもしれぬ」
《理解します》
「おぬし、最近ちょっと優しいな」
《事実ですので》
相変わらず締まらぬ会話である。
そんな折、入口側の細穴にいた鼠が、ちゅ、と短く鳴いた。
だが、警戒音ではない。普段より静かで、どちらかといえば“いる”という報告に近い。
《外部に人間反応。二名。入口には未接近》
「窓を」
視界を入口周辺の外へ伸ばす。
完全には見えぬ。だが、裂け目の先の地形と、その近辺の気配くらいは、今の余にも何とか捉えられる。
低い丘の影に、二つの人影。
一人は、見覚えのある軽装の斥候。レネ。
もう一人は、背の高い男だった。槍を持っている。革鎧だが、剣士より体の重心が低い。立ち方が安定していて、いかにも慎重そうだ。
「槍か」
《新聞の危険冒険者欄で警戒推奨されていました》
「覚えておる」
嫌だ。
非常に嫌だ。
狭所での槍は厄介だ。剣士のように壁へ当たって大振りが鈍ることが少なく、前へ出す突きなら細い通路でも威力を保てる。
レネは槍使いを伴い、迷宮の外から入口を眺めていた。
入らぬ。
ただ、見ている。
距離を測り、周囲の岩場を確認し、裂け目の位置を確かめ、何やら低い声で言葉を交わしている。
「……本当に嫌な女だな、あやつ」
《同意します》
会話内容までは読めぬ。だが雰囲気は分かる。
あれは“挑む”前の確認ではない。
“前回の報告が正しいかを擦り合わせる”動きだ。
つまり、今回はまだ本格侵入ではない。
次のための準備だ。
「入ってこぬのか」
《低確率》
「賢いな」
レネが入口近くまで歩み寄る。
そこでしゃがみ込み、地面に何か印をつけた。次いで槍使いの男が、裂け目の高さを槍の柄で測る。さらに周囲の岩陰に視線を走らせ、退路を確認するように後方も見る。
完全に調査である。
腹立たしいほど丁寧だ。
だが、こちらも得るものはある。
「槍使いのほうは、たぶん前回の剣士ほど軽くないな」
《慎重姿勢が顕著です》
「レネが連れてくるだけある」
余は白い部屋の中で腕組みする真似をした。
こうして見ると、レネは人を選んでいる。無鉄砲な者ではなく、自分の報告を信じ、なおかつ調査に付き合う者。つまり次の侵入は、前回よりずっと“迷宮を読む”方向へ寄るだろう。
「ならばますます、情報を与えすぎぬことだな」
余はグズへ命じた。
「入口側、静かにさせよ。見せるのは二体だけでよい。ほかは伏せろ。鼠は奥へ引け。細穴の出口近くには残るな」
「ぎっ!」
グズが棍棒で馬鹿どもを叩き回し、どうにか見た目を整える。
入口付近には前回と同じく、間の抜けたゴブリン二体だけを置く。ほかは視線の切れる位置へ押し込み、鼠は細穴の奥へ待避。
レネはしばらくその様子を見ていたが、やがて立ち上がった。
「やっぱり、前と数が違う」
今度は、はっきり言葉が聞こえた。
「減ってるように見えるな」
槍使いの男が返す。
「ように、じゃない。見せてるの」
「誘いか?」
「たぶん、ううん……たぶんじゃない。そういう感じがする」
余はわずかに目を見開いた。
そこまで分かるか。
あやつ、やはり相当だ。
槍使いの男は、裂け目の暗闇を睨んだまま言う。
「低級迷宮でそこまで考えるか?」
「考えてる。前回、剣が引っかかる位置まで選ばれてた」
「偶然じゃなく?」
「偶然も混ざってる。でも、偶然に頼るだけじゃ、あんな崩れ方はしない」
そこで、レネはふっと笑った。
「……会ってみたいくらいよ」
「何に?」
「中にいるやつに」
余はぞくりとした。
ぞくりとしたが、同時に妙な愉快さもあった。
会ってみたい、か。
余は人間に会いたいとは少しも思わぬ。だが、そう言われると悪い気はしない。たぶん、王の素質ではなく、小物の虚栄心である。
「会うつもりはない、と伝えてやりたいな」
《投稿機能が解放されれば可能かもしれません》
「怖いことを言うな」
結局、その日は二人とも入ってこなかった。
印を残し、周辺を確認し、慎重に退いていく。
だが、その背中を見送りながら、余は確信した。
次は来る。
しかも今度は、もっと整えて。
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一方、辺境のギルド支部では、報告板の札が一枚ひっくり返されていた。
【未命名洞窟型ダンジョン】
推奨:初級訓練可
その下に、新しい札が重ねられる。
【通称:湿臭洞窟】
危険度:E+相当
備考:統率的挙動あり。単独突入非推奨。斥候同行推奨。
「……ひどい名前」
ミーシャが眉をひそめる。
「分かりやすいでしょ」
受付嬢はしれっと返した。
「分かりやすさと品のなさは両立するのね」
「そもそも中で小便臭かったんだから仕方ないじゃない」
「それは否定できないけど……」
レネは報告板の前で腕を組んでいた。
「E+、か」
「妥当じゃない?」
槍使いの男――名をハルドという――が横から言う。
「もっと上でもいい気はするけど、被害が一件だけじゃ上げにくいのよね」
受付嬢が肩をすくめた。
「上に通す資料が足りない。『何となく嫌な感じがする』だけじゃ、本部は動かないわ」
「そりゃそうか」
「でも札は変える。少なくとも新人を送り込む場所じゃない」
レネは小さく息をついた。
それで十分とも言える。
だが、足りぬとも思う。
前回の感触は、単なる嫌な感じではなかった。確かにそこに“考えるもの”がいた。見て、測って、引き込み、噛みついてくる意志。
「……もう一回、潜る」
「一人で?」
ミーシャが顔をしかめた。
「今度は四人かな」
ハルドが言う。
「槍、斥候、後衛、あともう一人前衛か治癒」
「聖職は?」
受付嬢が尋ねる。
「呼べれば理想。でも辺境じゃ難しい」
「でしょうね」
レネは報告板の湿臭洞窟の札を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「まだ浅いのよ」
「ん?」
「中、まだ全然浅い。だから今なら何とかなる。でも、放っておいたら育つ」
それは、半ば確信だった。
あの迷宮は学ぶ。
次に行く時には、前回と同じ形ではいない。
だからこそ、やるなら早い方がいい。
だが同時に――
「……ちょっと、惜しい気もする」
「何が?」
ミーシャが怪訝そうに尋ねる。
「こういうの、育ったら面白そう」
「趣味が悪いわね」
「自覚はある」
レネは苦笑した。
そして心のどこかで、本当にそう思っていた。
あの迷宮は、ただ壊すだけには惜しい。
何になるのか、少し見てみたい。
そんな感情が芽生えている自分に気づき、レネは小さく眉を寄せた。
敵に対して抱くには、あまり健全ではない興味だった。
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その夜。
余は新聞の交流欄を、珍しく真面目に読んでいた。
「迷宮運営相互研究会……やはり気になるな」
赤い丸で囲まれたように見える募集記事。
主催、“朽縄井戸”ロード――井守。
名からして胡散臭い。だが、胡散臭いからこそ、低ランクの実務寄り情報を持っていそうでもある。上位迷宮の美学や誇り高き理論など、今の余には遠すぎる。欲しいのはもっと泥臭い、生き延びるための話だ。
「参加条件はE~C。まさに余向けではある」
《危険性もあります》
「うむ」
そこが問題だ。
新聞はロードだけのものだ。人間には読めぬ。ならばこの交流も、少なくとも表向きはロード同士の場なのだろう。だが、ロード同士だから安全とは限らぬ。むしろ同類ゆえに、腹の探り合いは人間以上かもしれぬ。
余はしばらく悩み、それから管理音声へ問う。
「交流会とは、具体的にどう参加する」
《新聞面を介した限定掲示、および低解像度投影会話です》
「姿や正確な位置は割れぬのか」
《原則として秘匿されます》
「原則」
嫌な言い方だ。
《迂闊な発言や固有性の高い構造情報を出せば、特定される可能性はあります》
「なるほど。馬鹿は死ぬわけだ」
《はい》
潔いな。
だが、それなら逆に余にも使える。自分を隠しつつ、他者の癖を見る。新聞の向こうでどんなロードが何を誇り、何を隠し、何に食いつくか。それを読むだけでも価値はある。
「……見学だけはできぬか」
《初回観覧枠が存在します》
「あるのか」
新聞の端をめくると、本当に小さく書いてあった。
【初回見学可/発言任意/匿名表示推奨】
親切なのか、罠なのか分からぬ。だが、見学だけなら悪くない。
「よし。参加申請を――」
言いかけたところで、余は一度口をつぐんだ。
拙速はよくない。
焦って新しい場へ飛び込むのは、前へ出すぎた剣士と同じだ。余はそういう者を殺す側でありたい。
ならば、先に準備を整える。
「……明日だな」
《慎重です》
「進歩したであろう」
《大変》
そこで管理音声がほんのわずかに間を置いた。
《大変、進歩しています》
「今、妙な溜めがあったな?」
《気のせいです》
絶対に違う。
だが追及しても益はない。余は新聞を閉じ、見取り図へ戻った。
入口。
曲がり角。
新小部屋。
旧小部屋。
細穴を走る鼠。
眠るゴブリン。
その中で、グズだけがまだ起きていた。新小部屋の端に座り、回収した短剣を眺めている。使い方も分からぬくせに、何やら誇らしげだ。
「グズ」
「ぎっ」
「明日、貴様に少し仕事を増やす」
「ぎ……?」
「戦い方を覚えさせる。馬鹿のままでは困るからな」
「ぎぃ!」
喜んでいるのか、怯えているのか、何とも言えぬ声だった。
余は少しだけ笑う。
人間どもは準備している。
余も準備する。
戦力を増やし、構造を変え、情報を集める。
そしてその先で、迷宮同士の世界にも、いずれ足を踏み入れる。
「忙しくなるな」
白い部屋の静寂の中で、余は小さく呟いた。
不思議と、それが嫌ではなかった。




