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第65話 生き残りは、最初の罠を覚えている

レネが来た。


 それだけで、白い部屋の空気が変わった気がした。


 もちろん、空気などない。


 ここは余の意識が形になったような場所で、壁も床も白く、音も匂いも外とは違う。


 だが、それでも。


 入口の外に立つ小柄な斥候を見た瞬間、余は思わず黙った。


「……あいつだ」


《はい》


 管理音声が答える。


《初期侵入者三名のうち、唯一の生還者。斥候レネ》


 そう。


 最初に迷靄洞へ入ってきた三人組。


 剣士は死んだ。


 魔術師も死んだ。


 生きて逃げたのは、斥候のレネだけだった。


 そしてレネは、その後も何度も迷靄洞の周辺へ来ていた。


 封鎖線の外から。


 森の中から。


 冒険者たちの失敗跡を拾いながら。


 時には入口近くまで近づき、時には外周の湿りを調べ、時には死体の残り香まで観察していた。


 余は知っている。


 あいつは、ただ逃げ延びただけの生還者ではない。


 迷靄洞を見続けてきた斥候だ。


「管理音声」


《はい》


「嫌な相手が来たな」


《はい》


「はいじゃない。もう少し励ませ」


《レネは、迷靄洞に対する人間側の情報蓄積において最重要個体です》


「励ませと言っただろうが!」


 レネの後ろには、三人いた。


 一人は大盾を持つ大男。


 足元には分厚い鉄板。


 一歩ずつ床を踏み、罠を殺すための男。


 盾役だ。


 一人は魔術師の女。


 杖の先に小さな灯りを浮かべているが、火力で押す気配は薄い。


 見る目だ。


 燃やすためではなく、観察するための魔術師。


 最後に、剣士。


 最初の剣士ではない。


 初めてここで死んだあの男とは別人だ。


 だが、腰の剣はよく手入れされ、鎧は軽く、逃げるにも斬るにも向いた装備をしている。


 ラウゼンが選んだのだろう。


 討伐隊ではない。


 迷宮を読むための少数精鋭。


 その先頭に、レネがいた。


「ここから先は、私の指示を優先」


 レネが言った。


 声は低い。


 前に逃げた時の震えはない。


「あの洞窟は、もう初回とは別物。ゴブリンの巣だと思わないで」


 盾役の男が笑う。


「分かってる。俺はボルド。罠は踏む役だ」


 魔術師が静かに頷く。


「エルネ。魔物の行動を見るわ。殺すのは最後」


 剣士が剣の柄に手を置いた。


「ギル。前衛処理は任せろ」


 レネは入口を見たまま言った。


「死体は拾わない。声は信用しない。仲間が呼んでも、姿を確認するまで反応しない。帰路は共有。単独行動は禁止」


「斥候がそれを言うか」


 ボルドがからかうように言った。


 レネは笑わなかった。


「この迷宮は、帰る道を殺す」


 余は白い部屋で眉をひそめた。


「……よく見ている」


《はい》


「あいつ、余の迷宮を分かってきているな」


《はい》


「非常に腹が立つ」


 レネは入口の湿灰を見た。


「前より湿りが深い。床の色が違う。入口で足を止めるな。けど、急ぐな」


 ギルが聞く。


「門番は?」


「いるはず。でも最初から見せてこない可能性が高い。ここのロードは、見せたものを囮にする」


「ここのロード、ねえ」


 ボルドが盾を構えた。


「まるで中に人がいるみたいな言い方だな」


 レネは、少しだけ沈黙した。


「いるよ」


 その一言で、余は白い部屋の中で固まった。


「……聞こえているわけではないな?」


《現在、外部へのロード音声漏出はありません》


「では何だ」


《推測です》


「嫌な推測をする女だ」


 レネは入口へ一歩入った。


 その足取りは軽い。


 しかし、軽すぎない。


 どの床を踏むか、どこで止まるか、どこを見ないふりをするか。


 全部を考えている。


 最初の時とは違う。


 あの時のレネは、ただ逃げた。


 今のレネは、戻ってきた。


 余を殺すために。


「通常ゴブリンを出せ」


《何体ですか》


「四体。馬鹿な動きでいい」


《了解》


 入口の奥から、通常ゴブリン四体が飛び出した。


「ギィ!」


「ギギィ!」


 叫び声。


 汚い足音。


 棍棒を振り上げ、何も考えずに走る。


 昔と同じ、馬鹿なゴブリン。


 レネの目が一瞬だけ細くなった。


「来る。正面四。横はまだ」


 ギルが前へ出る。


 剣が走った。


 一体目の首が飛んだ。


 二体目の胸が裂ける。


 ボルドが盾で三体目を弾き飛ばし、エルネの小さな魔弾が四体目の膝を砕いた。


 早い。


 普通の冒険者とは違う。


 ゴブリン四体は、ほとんど何もできずに倒れた。


《通常ゴブリン四体死亡》


「……む」


《損耗です》


「分かっておる!」


 だが、レネは死体へ近づかなかった。


「踏まないで。死体も罠にする」


 エルネが頷く。


「血に反応する床?」


「たぶん。それか胞子。あのキノコを使う」


 余は舌打ちした。


「読まれている」


《はい》


「なら、読んだ先を変える」


 その時、白い部屋に表示が走った。



【新魔物枠解放】


迷宮内で死亡したゴブリンの死体に、湿灰床と残留ソウルが定着しました。


新魔物候補:


アンデッドゴブリン


死体を再利用する低級不死魔物。

知能は極めて低いが、痛覚がなく、恐怖しない。

倒されたゴブリンを素材として再起動可能。


必要条件:迷宮内で死亡したゴブリンの死体一体

必要ソウル:3



 余は表示を見た。


 死んだゴブリン。


 再利用。


 必要ソウル三。


 安い。


 かなり安い。


「……死んでも使えるのか」


《はい》


「便利だな」


《ロードとして適切な評価です》


「そう言われると余が嫌な奴みたいではないか」


《ロードです》


「そうだった」


 余は倒れた四体の死体を見た。


 初期なら叫んでいた。


 ゴブリンが死んだ。


 ソウルが減る。


 どうしよう。


 そんなふうに慌てていた。


 だが今は違う。


 死んだ。


 なら、まだ使える。


「四体、起こせ」


《ソウル12消費》


《アンデッドゴブリン四体生成》


 死体が動いた。


 首を半分失ったゴブリンが、ずるりと腕をつく。


 胸を裂かれたゴブリンが、内側から湿灰をこぼしながら起き上がる。


 膝を砕かれた個体は、足を引きずり、這うように進む。


 叫ばない。


 痛がらない。


 ただ動く。


 死んだゴブリンが、もう一度、冒険者の足へ向かった。


「後ろ!」


 ギルが叫んだ。


 ボルドが盾で振り払う。


「死体が動いたぞ!」


 レネの顔が、初めてわずかに崩れた。


「……不死化?」


 エルネが即座に杖を向ける。


「低級アンデッド。浄化に弱いはず」


「燃やすな」


 レネが短く言った。


「燃やすと煙を使われる。砕いて離れて」


 また正しい。


 本当に嫌な女だ。


 ギルがアンデッドゴブリンの頭を踏み砕く。


 ボルドが盾で胴を潰す。


 エルネは火ではなく、白い小さな光で動きを鈍らせた。


 アンデッドゴブリンは強くない。


 遅い。


 脆い。


 だが、足を掴む。


 死んでも恐れない。


 そして何より、死体だと思っていたものが動く。


 その一瞬だけでいい。


 レネの隊列が、半歩乱れた。


「やはり死体を使ってきた」


 レネは言った。


 だが、その声は少し低くなっていた。


「でも、前とは違う。死体を罠にするんじゃない。死体そのものを魔物にしてる」


 エルネが顔をしかめる。


「この短期間で?」


「この迷宮は、学習する」


 余は白い部屋で静かに息を吐いた。


「違う」


《はい》


「余が学習しているのだ」


レネたちは進んだ。


 アンデッドゴブリンの死骸を踏まない。


 グズを警戒する。


 声を信じない。


 床を一度踏んで安全と判断しない。


 レネは、迷靄洞の過去と現在を重ねて見ていた。


「ここ、前は横穴が浅かった」


 レネが言う。


「今は湿りが奥まで入ってる。誘導路が伸びてる可能性あり」


 ボルドが盾の端で床を叩く。


「踏むか?」


「踏まない。叩くだけ。反応が遅れる罠がある」


「了解」


 余は唇を噛みそうになった。


「本当に何度も見に来ておるな」


《はい》


 レネは入口脇の石を見た。


 小さな傷。


 彼女が以前、調査の時につけた印だ。


 余はそれを消していなかった。


 消さずに、残していた。


 レネはそれを確認し、ほんのわずかに安心した。


 そこは、彼女にとっての観測点だった。


 何度も来た場所。


 何度も見た場所。


 変化を測る基準。


 だが。


 余も、それを見ていた。


「管理音声」


《はい》


「あいつは必ず、自分の印を見るな」


《はい》


「何度も見ていたからな」


《はい》


「なら、その印はもう余のものだ」


 観測点の奥。


 湿灰床の下に、黒羽種を仕込んである。


 以前、帰路偽装点で得た個人帰路の技術を、薄く混ぜたもの。


 まだ使わない。


 レネに見せる。


 ああ、ここは前と同じだ。


 ここは私が知っている。


 そう思わせる。


 レネは印を見て、仲間に言った。


「ここまでは確認済み。奥の右壁に古い崩れ跡がある。そこに何か仕込まれていなければ、次の境界まで進める」


 ギルが言う。


「よく覚えてるな」


「忘れられるわけない」


 レネの声が、少しだけ冷たくなった。


「ここで二人死んだ」


 白い部屋で、余は黙った。


 最初の剣士。


 最初の魔術師。


 余にとってはソウルだった。


 生き残るための糧だった。


 だが、レネにとっては仲間だった。


 それは分かる。


 分かるが。


「だからどうした」


 余は低く言った。


「ここは余の迷宮だ。入ったなら、死ぬ」


《はい》


レネの指示は正確だった。


 グズを見せる前に、グズのいる境界を読んだ。


 ポフキノコの胞子が流れる前に、湿りの匂いから警戒した。


 マネが遠くで小さく声を真似ても、反応しなかった。


「声は無視」


 レネは言った。


「特に、死んだ仲間の声がしても振り向かない」


 マネが不満そうに鳴いた。


「ギィ……」


「よい。まだだ」


 余は命じた。


 レネは強い。


 少なくとも、斥候としては非常に厄介だ。


 だが、完璧ではない。


 迷宮を知っている。


 だからこそ、前と違う場所を確認せずにいられない。


 観測者とはそういうものだ。


 違いを見つける。


 違いを確かめる。


 違いを記録する。


 そして、そのために半歩、仲間より前へ出る。


「レネだけを少しずつ前に出せ」


《外周誘導路の内側転用を行います》


「弱く。気づかれるな」


《はい》


 レネの足が、ほんの少しだけ先行する。


 ボルドは盾が重い。


 エルネは観察のために止まる。


 ギルはレネを守るために間合いを取る。


 結果、レネだけが半歩前へ出る。


 半歩。


 迷靄洞では、それで足りる。


 レネは右壁の崩れ跡を見た。


 過去の観測点。


 以前は何もなかった場所。


 だが今、そこに薄い白い反応がある。


 白磁印片から作った偽契約印の残り香。


 人間には意味が分からない。


 だが斥候の道具には、異常として映る。


 レネの腰の小さな測定札が震えた。


「白反応……?」


 エルネが言う。


「触らないで」


「触らない。見るだけ」


 見るだけ。


 レネはそう言った。


 余は、白い部屋で小さく笑った。


「見るだけ、か」


《はい》


「それで何度も来たのだろうな」


 レネが一歩近づく。


 ボルドが言う。


「近いぞ」


「分かってる」


 エルネが杖を構える。


「レネ、戻って」


「確認だけ」


 レネは白反応を見た。


 それが罠だと分かっている顔だった。


 罠だ。


 だから触らない。


 罠だ。


 だから距離を取る。


 罠だ。


 だから、どんな罠かだけ見て戻る。


 その判断が、余の罠だった。


「観測点、起動」


《黒羽種、起動》


 レネが以前つけた小さな傷。


 その下で、黒い羽のような影が開いた。


 帰路が一瞬だけ二重に見える。


 レネはすぐ気づいた。


「帰路偽装!」


 速い。


 さすがだ。


 レネは即座に後ろへ跳んだ。


 だが、その後ろには、さっき倒したはずのアンデッドゴブリンの腕があった。


 完全に砕けていなかった一体。


 上半身だけになった死体が、湿灰の中から這い出し、レネの足首を掴んだ。


「っ!」


 レネの短剣が閃く。


 アンデッドゴブリンの腕が斬り落とされる。


 だが、足が半歩止まった。


 その半歩で、ボルドとの距離が開いた。


「レネ!」


「来るな!」


 レネが叫んだ。


 正しい。


 助けに来れば、巻き込まれる。


 だから仲間は止まる。


 止まってしまう。


「いい判断だ」


 余は言った。


「だが、お前だけ孤立した」


 白い部屋に、さらに表示が浮かんだ。



【特殊魔物枠解放】


継続観測者への対抗機構が成熟しました。


同一侵入者による複数回観測、帰路偽装点への接触、黒羽種の定着を確認。


新特殊個体候補:


追跡者


迷宮内において標的を執拗に追跡する処刑個体。

一度標的化した対象を、迷宮内部であればどこまでも追跡可能。

高コスト・単独運用型。

同時存在数:一体。


必要ソウル:120

維持費:戦闘中継続消費

制限:迷宮外へ出られない

推奨標的:継続侵入者、観測者、逃走者



 余は表示を見た。


 必要ソウル百二十。


 高い。


 非常に高い。


 だが、今ここでレネを逃がせば、また来る。


 また見に来る。


 また迷靄洞を調べ、人間側へ情報を持ち帰る。


 それは百二十より高い。


「管理音声」


《はい》


「今のソウルは」


《現在ソウル:194》


「足りるな」


《はい》


「出せ」


《追跡者を生成します》


《ソウル120消費》


《現在ソウル:74》


 迷宮の奥が、鳴った。


 がしゃん。


 濡れた鎧が揺れる音。


 ずるり。


 何かが湿灰の上を引きずる音。


 通路の先、暗がりの奥。


 そこに、人型が立っていた。


 落武者。


 最初にそう思った。


 古びた甲冑。


 折れた兜。


 肩から垂れる、腐った組紐。


 顔は半分崩れていて、兜の奥で青白い目だけが光っている。


 腰には、錆びた長い太刀。


 肉はほとんどない。


 骨と黒い筋と、湿灰でできた亡者。


 だが、弱々しさはなかった。


 ただ、追うためだけに立っている。


《標的を指定してください》


 余は、白い部屋からレネを見た。


 最初に逃げた斥候。


 何度も迷靄洞を見に来た観測者。


 余の迷宮を知ったつもりでいる女。


「標的、レネ」


《指定完了》


 追跡者の兜が、ゆっくり動いた。


 青白い目が、レネを見た。


 その瞬間、レネの顔から血の気が引いた。


「何……あれ」


 エルネが息を呑む。


「不死? 武者型? こんなの、報告にない」


 ボルドが盾を構える。


「止めるぞ!」


 レネが叫んだ。


「駄目! あれ、私を見てる!」


 追跡者が一歩進む。


 遅く見えた。


 だが、次の瞬間には距離が詰まっていた。


 瞬間移動ではない。


 通路が縮んだように見えた。


 迷宮そのものが、追跡者の足元を前へ送ったのだ。


 レネが横穴へ飛び込む。


 帰路偽装を警戒して、あえて通常の道を外れる。


 正しい。


 普通の追跡なら、これで撒ける。


 だが、追跡者は迷わない。


 別の通路から、がしゃん、と鎧の音が響いた。


 レネの前方に、追跡者がいた。


「嘘でしょ……」


 レネが初めて、本気で動揺した。


 短剣を構え、即座に投げ針を三本放つ。


 追跡者の兜、喉、膝。


 的確だ。


 だが、針は鎧に刺さったまま止まった。


 追跡者は痛がらない。


 止まらない。


 長い太刀が抜かれる。


 錆びているはずなのに、刃だけが濡れたように光っていた。


 レネは低く身を沈め、斬撃をかわす。


 速い。


 だが、かわした先に、アンデッドゴブリンの指が残っていた。


 さっき斬った腕。


 その指だけが、まだ動いていた。


 レネの靴紐を掴む。


 ほんの一瞬。


 レネの体勢が崩れる。


 追跡者の太刀が、横から来た。


 レネは短剣で受けた。


 金属音。


 短剣が折れる。


「レネ!」


 ギルが走ろうとした。


 エルネが止める。


「行かないで! あれは標的以外を餌にして、標的を止める!」


 正しい。


 また正しい。


 だが、その正しさがレネを助けない。


 ボルドが叫ぶ。


「だったらどうする!」


 エルネは唇を噛んだ。


「撤退するしかない」


 レネがそれを聞いた。


 そして、叫んだ。


「撤退して! 私は切る!」


 切る。


 つながりを切る。


 救助を切る。


 仲間を切る。


 斥候らしい判断だった。


 余は白い部屋で、静かに言った。


「お前はいつも逃げ道を作る」


《はい》


「だから、その逃げ道だけを殺す」


 レネが帰路札を起動した。


 黒い羽の光が散る。


 今まで何度も迷靄洞を調べてきた斥候の、命綱。


 だが、余はそれを待っていた。


「帰路偽装点、重ねろ」


《実行》


 黒羽が二重になる。


 レネの帰る道が、二つに割れる。


 片方は本物。


 片方は、追跡者のいる道。


 レネは一瞬で見抜こうとした。


 さすがだ。


 だが、追跡者は待たない。


 がしゃん。


 一歩。


 がしゃん。


 二歩。


 兜の奥の青白い目が、絶対に逸れない。


 レネは本物の道を選んだ。


 正しい。


 だが、正しい道の先に、追跡者が来る。


 迷宮内ならどこまでも追う。


 逃げ道が正しいほど、そこへ向かう。


 追跡者は、そういう魔物だった。


「……最悪」


 レネが呟いた。


 そして笑った。


 少しだけ。


「本当に、成長したね。この洞窟」


 余は答えない。


 答えは届かない。


 だが、白い部屋で言った。


「お前が余を何度も見に来た」


 追跡者が太刀を構える。


「なら、余もお前を覚えた」


 レネが最後の針を投げる。


 追跡者の目に刺さる。


 青白い光が片方消えた。


 だが、追跡者は止まらない。


「覚えた獲物は、逃がさぬ」


 太刀が振り下ろされた。


 レネの体が、肩から斜めに裂けた。


 血が湿灰床に落ちる。


 黒羽の光が消える。


 斥候レネは、倒れた。


《侵入者一名死亡》


《獲得ソウル:68》


《取得:レネの帰路札、観測記録片、斥候短剣片》


《標的死亡》


《追跡者、待機状態へ移行》


 白い部屋に、沈黙が落ちた


 残された三人は、動かなかった。


 ボルドは盾を構えたまま、歯を食いしばっている。


 ギルは剣を抜いていたが、踏み込めない。


 エルネはレネの死体を見て、それから追跡者を見た。


「標的指定型……」


 彼女は震える声で言った。


「今は、私たちを見てない」


 追跡者は、レネの死体のそばに立っていた。


 青白い片目で、もう動かない斥候を見下ろしている。


 その姿は、処刑を終えた武者のようだった。


 ボルドが低く言う。


「レネを回収する」


「駄目」


 エルネが即答した。


「死体に触ったら、次の標的になるかもしれない」


「置いていけってのか」


「置いていくの」


 ギルが奥歯を噛んだ。


「くそっ……!」


 余は見ていた。


 仲間の死体を置いていく。


 正しい判断。


 嫌な判断。


 だが、迷宮ではそれが生き残る道だ。


 エルネは震えながらも、冷静だった。


「撤退。情報を持ち帰る。あれは、今までの迷靄洞にいなかった」


 ボルドが盾を下げずに後退する。


 ギルも続く。


 三人は、レネを置いて戻り始めた。


 追跡者は追わない。


 標的は死んだ。


 今は、追わない。


「追わせますか?」


《標的再指定には追加ソウルが必要です。現在ソウル:142》


 レネを殺してソウルは戻った。


 だが、追跡者の再指定は重い。


 それに、ここで全員殺せば情報が外へ出ない。


 情報が出なければ、人間は追跡者を恐れない。


 恐れないなら、次にまた油断する。


 それも悪くない。


 だが。


「逃がせ」


《よろしいのですか》


「見せるために逃がす」


 余は、追跡者を見た。


 落武者のような魔物。


 迷宮内なら、どこまでも追う処刑者。


 これを人間側に知らせる。


 迷靄洞には、逃げても追ってくる何かがいる。


 その恐怖は、次の侵入者の足を鈍らせる。


「ただし」


《はい》


「帰り道に、レネの黒羽を混ぜろ」


《了解》


 三人の後退する道に、ほんのわずかに黒羽の残滓を散らす。


 今は殺さない。


 次に来た時、思い出すように。


 レネの死を。


 追跡者の足音を。


 がしゃん、という濡れた鎧の音を。


 三人が外へ出た後、迷靄洞は静かになった。


 レネの死体は、横穴の奥にある。


 追跡者はその近くで待機している。


 アンデッドゴブリンの残骸は、湿灰に沈みかけていた。


 白い部屋に収支が浮かぶ。



【選抜冒険者第二接触】


撃破:斥候レネ

獲得ソウル:+68


損耗:

通常ゴブリン四体死亡

アンデッドゴブリン四体生成:−12

追跡者生成:−120

追跡者維持消費:−8


取得:

レネの帰路札

観測記録片

斥候短剣片

黒羽残滓

レネの血痕


新規解放:

アンデッドゴブリン

追跡者


現在ソウル:134



「赤字ではないか?」


《戦力解放および重要情報個体の排除を含めると、戦略的黒字です》


「そうか」


《はい》


 余はレネの死体を見た。


 最初の生き残り。


 何度も迷靄洞を見に来た斥候。


 余が未熟だったころを知る女。


 それが今、余の迷宮の中で死んでいる。


 不思議な気分だった。


 勝った。


 それは間違いない。


 だが、軽くはない。


 人間を殺すことに罪悪感はない。


 ソウルは必要だ。


 侵入者は餌だ。


 それでも、レネはただの餌ではなかった。


 余の成長を、外から見続けていた相手だった。


「管理音声」


《はい》


「レネの観測記録片を解析」


《解析します》



【素材解析】


レネの観測記録片


内容:

・迷靄洞初期構造の記録

・入口湿灰床の変化記録

・ゴブリン配置の変遷推測

・外周誘導路の存在推測

・帰路干渉への警戒記録

・レネ個人の観測点一覧


用途候補:

・観測点偽装

・斥候対策精度上昇

・帰路偽装点強化

・追跡者の標的捕捉精度上昇


即時開放可能:

観測者殺し


効果:

侵入者が繰り返し確認する地点、印、目印、測定場所に対して罠効率が上昇。

過去に接触履歴のある侵入者に効果大。


必要ソウル:50



「作る」


《ソウル50消費》


《現在ソウル:84》


 レネが何度も見た場所。


 入口脇の傷。


 右壁の崩れ跡。


 外周の湿り。


 それらが、迷宮の罠として再登録される。


 観測者殺し。


 いい名前だ。


 見に来る者を殺す。


 調べに来る者を殺す。


 知ったつもりの者を殺す。


 それは、今の迷靄洞に必要な牙だった。


夜。


 ダンジョン新聞が震えた。



【地域短報】


・迷靄洞に選抜冒険者隊が再侵入

・斥候レネ、死亡

・レネは初期侵入三名の唯一の生還者であり、迷靄洞の継続観測者

・迷靄洞、死体再利用型の低級不死魔物を確認

・迷靄洞内に新たな処刑個体の存在疑惑

・特徴:落武者状、人型、標的追跡型

・人間側生還者三名、撤退

・Cランク移行審議、危険度再評価へ



 交流欄が、いつもより静かに流れた。



・“朽縄井戸”井守:継続観測者を喰ったか。これは大きいねえ

・“玻璃宮の姫”:追跡型の処刑個体ですの? 新興迷宮にしては物騒ですわね

・“灰冠のロード”:湿った若造。ようやく“逃げる獲物”の殺し方を覚えたな

・“赤泥蟻穴”:外に出た三匹、硬かった。噛めなかった

・“針骨回廊”:追跡個体は維持費が重い。若い迷宮が扱いきれるとは思えない

・“白磁庭園”:危険な進化です。保護の必要性が高まりました



「白磁庭園は本当に懲りぬな」


《はい》


「針骨も黙れ」


《返信しますか》


「しない」


 余は新聞を閉じなかった。


 灰冠の言葉を見る。


 逃げる獲物の殺し方。


 それを覚えた。


 たしかに、そうだ。


 今までは、侵入者を入ってきた場所で殺そうとしていた。


 だが、人間は逃げる。


 逃げながら学ぶ。


 学びながら戻ってくる。


 なら、逃げること自体を罠にする。


 帰る道を曲げる。


 観測点を喰う。


 そして、どうしても逃がしたくない獲物には、追跡者を送る。


「管理音声」


《はい》


「追跡者は常時出しておけるか」


《非推奨です。維持費が高く、浄化系侵入者に観察される危険があります》


「隠せるか」


《待機状態であれば、湿灰深部に沈められます》


「沈めろ。必要な時だけ出す」


《了解しました》


 追跡者が、ゆっくり湿灰の奥へ沈んでいく。


 兜の青白い片目が、最後まで光っていた。


 やがて、それも消える。


 だが、消えたわけではない。


 いる。


 迷靄洞のどこかに。


 追うためだけの魔物が。


外では、三人の生還者がラウゼンに報告しているはずだ。


 レネは死んだ。


 迷靄洞を一番知っていた斥候は、もういない。


 だが、人間側は止まらない。


 むしろ、危険度を上げる。


 討伐ではなく、災害として扱うかもしれない。


 それでもいい。


 余は、最初の生き残りを喰った。


 初期の未熟さを知る目を、迷宮の中で潰した。


 なら、次はもう、昔の余を知る者はいない。


 余は白い部屋で、静かに言った。


「管理音声」


《はい》


「レネの死体はどうする」


《アンデッド化は非推奨です。人間型知性体の不死化には追加条件が必要です》


「そうか」


《素材化、罠化、観測点への埋設が可能です》


「観測点へ」


《はい》


「レネが何度も見た場所に埋めろ」


《了解》


 レネの血と記録片が、入口脇の古い傷へ染み込んでいく。


 そこは、かつて彼女が迷靄洞を測った場所。


 これからは、迷靄洞が斥候を測る場所になる。


 余は白い部屋で、初めて少しだけ笑った。


「お前は余を覚えていた」


 入口の湿灰が、静かに波打つ。


「だが、余もお前を覚えていたぞ、レネ」


 その夜。


 迷靄洞は、ただの弱小迷宮ではなくなった。


 死んだゴブリンが起き上がる。


 観測者の目印が罠になる。


 そして一度標的にされた者は、落武者の足音から逃げられない。


 がしゃん。


 がしゃん。


 湿灰の奥で、追跡者の鎧が小さく鳴った。

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