第58話 餌を置く者
翌朝、餌が置かれていた。
迷靄洞の入口から少し離れた場所。
封鎖線のさらに外側。
昨日までは何もなかった黒焦げの地面の向こうに、荷車が一台、ぽつんと残されていた。
車輪は片方が壊れている。
荷台には食料袋。
油壺。
古びた革鎧。
血の染みた布。
割れた水樽。
そして、負傷兵らしきものが、布をかぶせられて横たわっている。
「……」
余は白い部屋で、それを見た。
見た瞬間、思った。
「罠だろ!!」
《はい》
「即答するな! 怖いだろうが!」
《非常に罠です》
「非常に罠ってなんだ! 餌の顔をした罠だろ、あれ!」
《はい》
分かりやすすぎる。
いや、分かりやすいように作られているのかもしれない。
あれは赤泥蟻穴に向けた餌だ。
物資。
血。
負傷者。
荷車。
どれも外周で奪いやすい。
赤泥蟻なら、地中から出て噛みに行く。
迷靄洞から見ても、封鎖線を乱せる餌に見える。
だが、うますぎる。
うますぎる餌は、餌ではない。
針だ。
「管理音声」
《はい》
「人間は何を見たい」
《赤泥蟻穴の地中経路、迷靄洞の外縁干渉範囲、両迷宮の反応》
「そうだな」
《はい》
「なら、餌を見るな」
《はい》
余は白い部屋の外を、さらに広げて見た。
荷車ではない。
荷車の周りでもない。
もっと外。
森。
茂み。
低い岩。
風下。
見晴らしの悪い斜面。
「餌を置いた者を見ろ」
外縁滲出の維持費が引かれる。
《外縁滲出維持:−20》
《現在ソウル:296》
ソウルは減っている。
火影縫い大蜘蛛の進化で大きく使ったからだ。
だからこそ、餌には飛びつきたくなる。
だが、今飛びつけば人間の思う壺だ。
「外縁迷霧は薄く」
《はい》
「荷車には届かせるな」
《目的は》
「届かないふりをする」
霧を伸ばせば、人間は範囲を測る。
なら伸ばさない。
今の迷靄洞は、あそこまで届かないと思わせる。
その代わり、入口前の湿灰床だけを静かに濡らす。
火影縫い大蜘蛛は天井で動かさない。
グズは傷の手当てを兼ねて奥に下げる。
ミルは入口の暗がりに立たせるが、見せない。
マネは……勝手にミルの真似をしていたので、少し奥へ押し込んだ。
「ギィ?」
「お前はまだ出るな。罠を見てからだ」
「ギィ」
多分分かっていない。
だが、それでいい。
ポフキノコだけは使う。
「ポフキノコ、胞子を細く」
《胞子放出》
「血の匂いを拾え」
入口から出た胞子は、霧よりさらに薄い。
空気の流れに乗る程度。
荷車まではほとんど届かない。
だが風がこちらへ流れた時、血の匂いが少し戻ってきた。
《血液反応》
「本物か」
《一部は本物です》
「一部?」
《布に獣血。荷台下に人血微量》
「負傷兵は」
《不明。動きなし》
「ふむ」
人間は本物の血を混ぜている。
雑な罠ではない。
獣血だけなら赤泥蟻に見抜かれるかもしれない。
だから少量の人血を使った。
つまり、置いた者は迷宮と蟻の両方を分かっている。
「……ただの封鎖兵ではないな」
《可能性高》
最初に動いたのは、赤泥蟻穴だった。
地中反応。
小さい。
速い。
荷車の下ではなく、少し離れた場所から近づいている。
「来た」
《赤泥蟻小型群。数六》
「強気だな」
《偵察兼回収と思われます》
赤泥蟻たちは、すぐには地上に出なかった。
地面の下をぐるりと回る。
荷車の真下へは行かない。
罠を疑っている。
だが、血の匂いと食料の匂いに引かれている。
「若い牙め。馬鹿ではないか」
《はい》
赤泥蟻穴も学んでいる。
正面から噛み杭蟻を送ってきた昨日とは違う。
今日は小蟻で探っている。
その時、荷車の下で小さく金属音が鳴った。
ちりん。
ちりん。
鳴子だ。
地中の振動に反応して鳴った。
同時に、荷車の底から白い粉が落ちる。
《浄化粉》
「地中へ落とす仕組みか」
白い粉が地面の隙間へ吸い込まれた。
赤泥蟻が二匹、地中で暴れる。
地面が盛り上がる。
そこへ、荷台の横に仕込まれていた油壺が倒れた。
火打ち石が弾ける。
火がつく。
「蟻を地中から出させて、そこを焼く罠」
《はい》
人間側の罠は発動した。
赤泥蟻二匹が地上へ飛び出す。
片方は火に巻かれた。
もう片方は足に白い粉を浴び、動きが鈍い。
残りの蟻は地中で逃げようとしている。
だが、荷車の周りには細い杭が何本も打ち込まれていた。
地中の進路を狭めるための杭だ。
「うまいな」
《はい》
「腹立つくらい、うまい」
赤泥蟻穴の道を見ようとしている。
どこから来て、どこへ逃げるのか。
そのために餌を置いた。
今、人間側の観察者は必ず見ている。
「探せ」
《はい》
余は火や蟻ではなく、外を見る。
火が上がった瞬間、森の鳥が逃げた。
だが逃げない影がある。
茂みの中。
岩の後ろ。
木の上。
そして、遠くの斜面。
そこに細い光。
硝子か。
望遠具か。
「いた」
《観測者を確認。距離、外縁滲出範囲外》
「遠いな」
《はい》
「届かぬ」
《現状では》
「なら、観測を狂わせる」
赤泥蟻を助けるためではない。
人間の目を潰すためだ。
「煙迷い」
《火災、煙、湿り、条件成立》
「荷車の火に混ぜろ。ただし薄く」
《実行》
火は人間がつけた。
煙も人間が作った。
余はそこに、ほんの少し湿りを混ぜる。
煙の向きが、半拍だけ変わる。
赤泥蟻の逃げ道を隠す。
観測者の視界を白く濁す。
同時に、地面から上がる焦げ臭さに、焼けた赤泥触角の粉を混ぜた。
蟻の道が、二つに見えるように。
《赤泥蟻群、逃走方向に乱れ》
「よし」
《人間側観測、誤認の可能性》
「よし」
火に巻かれた赤泥蟻は死んだ。
浄化粉を浴びた一匹も動きが鈍い。
だが残りは逃げた。
ただし、人間が見ていた方向とは違う方へ。
人間側は、蟻穴の位置を読み違える。
完全に騙せたかは分からない。
だが、真実には届かせない。
赤泥蟻穴から投函が来たのは、その直後だった。
⸻
【“赤泥蟻穴”より】
“湿ったの。今、何をした”
⸻
「気づいたか」
《はい》
「返す」
⸻
【“迷靄洞”より】
“人間の目を濡らしただけだ”
⸻
返事は少し遅れた。
⸻
【“赤泥蟻穴”より】
“助けたつもりか”
⸻
「誰が」
余は鼻で笑った。
「助けるわけがない」
⸻
【“迷靄洞”より】
“お前を助けたのではない。人間に道を見せたくなかっただけだ”
⸻
今度は返事が早かった。
⸻
【“赤泥蟻穴”より】
“ならそれでいい。次は餌を先に噛む”
⸻
「まったく反省していないな」
《赤泥蟻穴らしい反応です》
「まあよい」
赤泥蟻穴が死にすぎれば、人間は蟻道を読む。
赤泥蟻穴が人間を喰いすぎれば、余の餌が減る。
今は、どちらかが潰れるのは早い。
人間の目を潰しながら、赤泥蟻穴とも奪い合う。
面倒だが、それが外周だ。
人間側は、罠が一部成功したと思っているようだった。
荷車の火が弱まると、遠くの茂みから二人が出てきた。
観測者ではない。
回収役だ。
顔を布で覆い、長い鉤棒を持っている。
荷車の残骸から、鳴子と金属板を回収するつもりらしい。
「来たな」
《はい》
「近いか」
《外縁滲出の端です》
「殺せるか」
《誘導次第》
ここで焦ってはいけない。
二人は荷車を見ている。
入口は見ないようにしている。
足元にも注意している。
しかも互いに縄で繋がっている。
片方が引かれたら、もう片方が戻す仕組みだ。
「学んでいる」
《はい》
だが、縄は影を作る。
鉤棒も影を作る。
火の残りも、黒い煙も、影を作る。
火影縫い大蜘蛛が天井で脚を広げた。
「まだだ」
《はい》
二人は荷車の残骸へ近づいた。
赤泥蟻の焼けた死骸を見つける。
「一匹焼けてる」
「触るな。甲殻だけ取る」
「記録係に渡すのか」
「ああ。査定官殿が欲しがる」
査定官。
その言葉を、余は聞き逃さなかった。
「管理音声」
《はい》
「査定官と言ったな」
《はい》
「もう来ているのか」
《不明。少なくとも接近予定はあります》
迷宮査定官。
ただの冒険者ではない。
迷宮を読む人間。
罠を見て、魔物を記録し、危険度を測る者。
こいつらは、その前準備をしている。
「……なら、記録は渡させぬ」
二人の回収役が、焼けた赤泥蟻の甲殻片を金属箱へ入れた。
さらに、荷車の裏から記録板を取り外す。
そこには罠の反応が刻まれているのだろう。
蟻がどこから来たか。
火がどう燃えたか。
霧がどう動いたか。
それを持ち帰られるのはまずい。
「餌ではなく、記録を取る」
《はい》
だが二人を直接引き込むには遠い。
なら、記録板を奪う。
「火影縫い大蜘蛛」
《反応あり》
「鉤棒の影ではない。記録板の影を縫え」
《距離、ぎりぎりです》
「やれ」
火の残りが揺れる。
回収役の手元にある記録板の影が、地面に落ちる。
その影へ、火影糸が伸びた。
細い。
薄い。
今にも切れそうな糸。
だが、届いた。
記録板が、わずかに重くなる。
「ん?」
「どうした」
「板が引っかかった」
「置け。無理するな」
「いや、これを持ち帰れって――」
その迷いが欲しかった。
「煙迷い」
《発動》
荷車の残り火に湿りを混ぜる。
煙が二人の間を流れる。
縄が見えにくくなる。
片方は板を引く。
もう片方は戻れと言う。
縄が張る。
影が伸びる。
「二糸」
《実行》
縄の影を縫う。
身体ではない。
縄でもない。
影だけを縫う。
二人は互いに引いているつもりなのに、足がずれる。
「下がれ!」
「板が!」
「捨てろ!」
「査定官殿の命令だ!」
命令。
責任。
持ち帰るべき記録。
人間は、物に意味を乗せる。
意味のある物を捨てるのが遅い。
その遅さが餌だ。
「ミル」
「ギィ」
ミルが入口の暗がりに立つ。
回収役の片方にだけ見える位置。
煙の向こう。
焦げた荷車の影の奥。
じっと、見る。
「……見てる」
「何が」
「入口に、何かが……」
「見るな!」
見るなと言われると、人間は見てしまう。
片方の足が、湿灰床に乗った。
まだ入口からは遠い。
だが外縁の端。
そこに、余の湿りがある。
「マネ」
「ギィ!」
「声を真似ろ。小さく」
マネが、回収役の声を真似た。
「……下がれ」
下手だった。
少し濁っていた。
だが煙の中なら十分だ。
「下がれ」
「え、今お前――」
「俺じゃない!」
判断が割れる。
縄が張る。
記録板の影が縫われている。
煙が目を刺す。
ミルが見る。
そして、遠くの斜面の観測者が身を乗り出した。
「いたな」
《はい》
「観測者が動いた」
《はい》
余の狙いは、回収役だけではない。
荷車を見る者。
回収役を見る者。
それを探していた。
斜面の岩陰。
硝子の光。
その背後に、もう一人。
記録者。
遠くて殺せない。
だが位置は分かった。
「管理音声、記録」
《記録しました》
これでいい。
今日は、餌を食うだけの回ではない。
餌を置いた者を見る回だ。
回収役の片方は逃げた。
縄を切って、転がるように後退した。
正しい判断だ。
もう片方は、記録板を離すのが遅れた。
火影糸が板の影を引く。
本人ごとではない。
記録板だけを、少しずつ入口側へ滑らせる。
「板を捨てろ!」
「くそっ!」
男はようやく手を離した。
遅い。
記録板は煙の中へ消えた。
男は助かった。
だが、記録は助からない。
火影縫い大蜘蛛の糸が、記録板を外縁の端まで引く。
そこから先は、小蜘蛛を使う。
《縫い影蜘蛛一匹展開》
「慎重に」
《はい》
小蜘蛛が記録板の影へ潜り、ずるずると引きずる。
外では弱い。
だが、湿灰床の上なら動ける。
記録板は少しずつ入口へ近づく。
回収役たちは追わない。
追えば喰われると分かっている。
遠くの観測者は動かない。
自分の位置をこれ以上晒したくないのだ。
やがて記録板は、迷靄洞の内側へ落ちた。
《人間記録板を取得》
《解析可能》
「よし」
ソウルは増えていない。
誰も殺していない。
だが、得た。
これは餌だ。
情報という餌だ。
白い部屋に、記録板の内容が浮かぶ。
⸻
【回収記録板・一部解析】
対象:迷靄洞
分類:Dランク新興迷宮
暫定特性:
・外縁湿霧
・煙中認識阻害
・火影反応の可能性
・赤泥蟻との競合時、干渉挙動あり
・入口付近に未確認拘束要素
対象:赤泥蟻穴
分類:既知Dランク外周型
確認事項:
・小型蟻による物資回収
・大型固定個体消失
・地中経路の一部推定失敗
追記:
迷靄洞は単純な低位洞窟型ではない。
赤泥蟻穴との接触により、外縁変質中。
次段階、迷宮査定官の直接観測を要請。
⸻
「やはり来るか」
《はい》
「直接観測」
《はい》
「嫌な響きだな」
《はい》
迷宮査定官。
次はそいつが来る。
普通の兵ではない。
罠を踏むための者でもない。
迷宮を見るための者。
迷宮の癖を暴き、構造を記録し、ランクを再査定する者。
つまり、余にとってかなり面倒な敵だ。
「管理音声」
《はい》
「今回の収支は」
《表示します》
⸻
【外周戦闘収支】
外縁滲出維持:−20
撃破:なし
取得:人間記録板
取得情報:査定官接近、迷靄洞暫定分類、観測者位置
縫い影蜘蛛損耗:なし
現在ソウル:296
⸻
「ソウルは増えぬか」
《はい》
「だが悪くない」
《はい》
以前の余なら、不満だっただろう。
ソウルが増えていない。
殺していない。
餌を逃した。
そう思ったはずだ。
だが今は違う。
人間は餌を置いた。
赤泥蟻穴は餌に噛みついた。
余は、餌ではなく、餌を置いた者の手を見た。
それで十分だ。
「……少し分かってきた」
《はい》
「殺すだけではない」
《はい》
「敵の意図も、餌になる」
《記録します》
夜、ダンジョン新聞が震えた。
⸻
【地域短報】
・迷靄洞外縁にて人間側の囮荷車作戦を確認
・赤泥蟻穴の小型蟻群が接触、一部損耗
・迷靄洞は荷車本体に接触せず
・人間側記録具の一部が迷靄洞内へ消失
・迷靄洞、人間側観測行動への反応を示す
⸻
交流欄が動く。
⸻
・“朽縄井戸”井守:餌に飛びつかなかったか。成長したねえ
・“玻璃宮の姫”:いい判断ですわ。置かれた宝は、たいてい宝ではありませんもの
・“灰冠のロード”:次は見られるぞ。見せるものを選べ
・“赤泥蟻穴”:湿ったの。俺の道を濡らしたな
⸻
「まだ言うか、若い牙」
《はい》
余は少しだけ考えて、返した。
⸻
・“迷靄洞”:お前の道を見せたくなかっただけだ。見られれば、次に焼かれる
⸻
赤泥蟻穴からの返答は短かった。
⸻
・“赤泥蟻穴”:……それは、分かる
⸻
初めて、ほんの少しだけ棘が減った。
信用はしない。
だが、赤泥蟻穴も人間の目を嫌う。
そこは同じだ。
すると、フィルエから投函が来た。
⸻
【フィルエより】
“査定官が来るなら気をつけて。
彼らは強いから怖いんじゃない。
君が何を隠したがるかを見るから怖いんだよ”
⸻
「何を隠したがるか、か」
《はい》
「つまり、見せたくないものを見る」
《はい》
「嫌な敵だな」
《はい》
ミル。
グズ。
火影縫い大蜘蛛。
外縁迷霧。
煙迷い。
湿灰床。
赤泥蟻穴との競合。
残響核の気配。
見せたくないものはいくらでもある。
全部隠すのは無理だ。
なら、何を見せ、何を隠し、何を誤解させるか。
そこを選ばねばならない。
余は白い部屋で、静かに息を吐いた。
「管理音声」
《はい》
「次の敵は、喰う前に見る敵だ」
《はい》
「ならば」
余は入口の暗がりを見た。
「余も、見られる前に見る」
餌を置く者は、餌の後ろにいる。
餌を見るな。
餌を置いた者を見ろ。
次に来る迷宮査定官こそ、今までで最も厄介な餌になる。




