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第56話 火は影を作る

翌朝、人間は火を持ってきた。


 封鎖兵だけではない。


 新しい部隊が来た。


 革鎧ではなく、厚い灰色の外套。


 顔を布で覆い、背には油壺。


 腰には火打ち具。


 手には長い鉤棒。


 そして、荷車には砂袋と水樽。


「管理音声」

《はい》

「焼く気だな」

《はい》

「入口を焼くのか」

《推定、外縁迷霧と赤泥蟻の小穴を同時に処理する目的です》

「合理的だ」

《はい》


 腹立たしいが、正しい。


 人間からすれば、迷靄洞の入口前はもう安全な封鎖線ではない。


 霧が出る。


 兵が迷う。


 赤泥蟻が横から噛む。


 物資が奪われる。


 なら、霧ごと焼き、地面ごと炙り、蟻穴を潰す。


 そう考える。


「外縁迷霧は火に弱い」

《はい》

「赤泥蟻も火を嫌う」

《はい》

「人間はまとめて処理するつもりか」

《その可能性が高いです》


 外の地面に、人間たちは油を撒き始めた。


 ただ雑に撒くのではない。


 入口から距離を取り、半円を描くように油を細く流している。


 焼却線。


 火の線で、迷宮の息と蟻の道を断つつもりだ。


「……ふむ」

《どうしましたか》

「火は厄介だ」

《はい》

「だが、火は影を作る」

《はい》


 焚き火の光。


 油の火。


 揺れる炎。


 それらは強い影を作る。


 動く影を。


 長く伸びる影を。


 人間が恐れて消そうとする影を。


「なら、使える」

《危険です。火の近くでは蜘蛛が焼けます》

「蜘蛛を火に近づけるな」

《はい》

「火の影を、入口まで伸ばさせる」

《可能性あり》


 余は白い部屋で、外の焼却線を見た。


 人間は火で余を押し返すつもりだ。


 なら、その火でできる影を、余の糸にする。


焼却班の隊長らしき男が、封鎖兵へ指示を出していた。


「近づくな。入口を見るな。足元を見るな」

「全部見るなってことですか」

「見る場所を決めろ。二人一組。一人が作業、一人が相手だけを見る」

「霧が出たら?」

「火を入れる」

「蟻が出たら?」

「火を入れる」

「人が引き込まれたら?」

 少し沈黙。

「追うな。火を入れる」


 よい判断だ。


 救助を切った。


 仲間を助けに来る者を喰う戦術への対策だ。


 つまり、昨日の戦いから学んでいる。


「面倒だな」

《はい》

「だが、救助しないと決めた人間は」

《はい》

「自分が倒れた時に、より深く絶望する」

《はい》


 そこを使う。


 人間たちは焼却線を作る。


 封鎖縄のさらに内側。


 入口からはまだ遠い。


 外縁迷霧の薄い端にかかるか、かからないかの距離だ。


「外縁滲出維持」

《一日分消費:−20》

《現在ソウル:425》

「広げるな」

《はい》

「今日は薄く保て」

《目的は》

「火を誘う」


 霧を濃くすれば焼かれる。


 なら、薄く出す。


 人間が「ここに火を入れれば消える」と思う程度に。


 火を置く場所を、余が選ばせる。


 最初の火が入った。


 油の細い線に、赤い炎が走る。


 じゅ、と湿った地面が鳴った。


 外縁迷霧が削られる。


 霧が裂ける。


 入口前の空気が熱くなる。


《外縁迷霧、効果低下》

「構わぬ」

《はい》


 火が揺れる。


 その後ろに、人間の影が伸びる。


 長い。


 入口側へ。


 炎を背にした焼却班の影が、まるで黒い橋のように迷靄洞へ届きかける。


「大蜘蛛」

《反応あり》

「まだ縫うな」

《はい》


 影が届くかどうか。


 ぎりぎりだ。


 火が揺れるたび、影も揺れる。


 安定しない。


 だが、その揺れこそ使える。


「火を足せ」

 焼却班の隊長が命じた。

「霧が奥から出ている。もう一線、入口側へ」


 人間が油壺を一つ持ち上げた。


 若い焼却兵。


 腰に縄を結んでいる。


 後ろの二人が縄を握っている。


 本人は入口を見ないよう、顔を少し横へ向けている。


 よく考えている。


 だが、そのせいで足元の影を見ていない。


「今だ」

《はい》


 影縫い大蜘蛛が、入口の暗がりから糸を伸ばした。


 火そのものには触れない。


 焼却兵の足ではない。


 炎で伸びた“油壺の影”を、入口前の岩影に縫う。


 油壺が、ほんのわずかに重くなったように止まる。


「っ?」

 焼却兵が足を止めた。

「どうした」

「壺が引っかかりました」

「置け! 無理するな!」


 正しい。


 だが、人間は油壺を手放しにくい。


 火を扱う者にとって、油壺は武器であり、責任だ。


 若い兵は一瞬迷った。


 その一瞬で、火が揺れ、影が伸びる。


「二糸」

《実行》


 今度は、焼却兵の腰縄の影を縫う。


 縄そのものではない。


 影だ。


 後ろの兵が引く。


 縄は動く。


 だが、焼却兵の身体だけが半拍遅れる。


「引け!」

「引いてます!」

「足を動かせ!」

「動いてる!」


 動いている。


 だが戻れていない。


 人間たちの顔に焦りが走る。


 そこで、地面が割れた。


 赤泥蟻だ。


 火を嫌うくせに、火の外側から回り込んできた。


 二匹。


 焼却線の外、荷車側。


 油壺を運ぶ兵を狙っている。


「蟻だ!」

「火を回せ!」

「入口を見張れ!」

「縄を引け!」


 命令が割れた。


 よい。


 非常によい。


 人間の敵は二つある。


 迷靄洞と赤泥蟻。


 どちらを先に見るかで、判断が裂ける。


「ミル」

「ギィ」

「若い油壺持ちだけに見えろ」

「ギィ」


 入口の暗がりに、ミルが立つ。


 若い焼却兵にだけ見える位置。


 炎の赤の向こう。


 黒い入口。


 そこに、じっと見るゴブリン。


「いる……」

 若い兵が震えた。

「見るな!」

 隊長が怒鳴る。

「見てない、見てないのに……!」


 見えてしまう。


 それがミルだ。


 若い兵は後ろへ戻ろうとしながら、油壺を落とした。


 壺が割れる。


 油が地面に広がる。


 火が走る。


 炎が跳ねた。


《外縁迷霧、局所焼失》

《入口前温度上昇》


「まずいな」

《はい》

「だが影は増えた」


 燃え広がる油の火が、いくつもの影を作った。


 焼却兵。


 縄。


 鉤棒。


 油壺。


 蟻。


 全部の影が、入口側へ乱れ飛ぶ。


「グズ、出るな」

「ギィ……!」

「まだだ。焼ける」

「ギィィ……」


 グズは出たがっている。


 だが今出せば火に巻かれる。


 迷宮内では強い湿棍ゴブリンも、外の火には弱い。


 ここは待つ。


 人間が自分で火を乱すまで。


赤泥蟻が一匹、焼却兵の足に噛みついた。


「ぎゃああっ!」


 兵が倒れる。


 その身体に火が移りかける。


 隊長が即座に叫んだ。


「砂! 砂をかけろ!」

「蟻が!」

「そいつを助けるな、砂だ!」


 救助ではなく消火。


 正しい。


 だが人間の手は足りない。


 砂袋を持つ者。


 火を止める者。


 蟻を払う者。


 縄を引く者。


 入口を見張る者。


 全部を同時にはできない。


「赤泥蟻を利用する」

《はい》

「蟻の逃げ道を入口側へずらせ」


 外縁迷霧を、火の煙に混ぜる。


 霧は火で焼ける。


 だが煙と混ざれば、一瞬だけ人間の視界を奪う。


 赤泥蟻にも効きにくいが、触角に湿った灰を絡めることはできる。


「ポフキノコ」

《胞子放出》

「灰に混ぜろ」


 ポフキノコの胞子が、煙と灰に混じる。


 赤泥蟻の触角が鈍る。


 蟻は逃げ道を探し、火を避ける。


 その結果、入口側の湿った影へ寄る。


「よし」

《赤泥蟻一、入口接近》


 蟻が入口へ近づく。


 その後ろには、蟻に噛まれた焼却兵。


 兵は足を引きずり、火から逃げようとしている。


 彼にとって入口は危険だ。


 だが、火よりは暗がりの方がましに見える。


 そう見せた。


「まとめて取る」

《危険です》

「分かっておる」


 蟻が先に入口へ入った。


 続いて焼却兵が転がり込む。


 火は入口の外で止まる。


 ここからは迷靄洞の領域だ。


「グズ」

「ギィィッ!」


 待っていた湿棍ゴブリンが、まず人間を潰した。


 迷わない。


 赤泥蟻より先に。


 焼却兵の頭が棍棒で砕ける。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:36》

《現在ソウル:461》


 赤泥蟻がグズへ向かう。


 だが前回と同じにはしない。


「大蜘蛛、脚ではなく顎」

《実行》


 赤泥蟻の顎の影を縫う。


 完全には止まらない。


 だが噛み合わせが少し遅れる。


 グズが棍棒を横に振る。


 甲殻へ一撃。


 割れない。


 だが、ミルは使わない。


 蟻には効きが薄い。


 代わりにマネを出す。


「マネ」

「ギィ?」

「グズの逆側で跳ねろ」

「ギィ!」


 マネが意味も分からず跳ねる。


 だが、それで蟻の触角が揺れた。


 敵が二つあると認識した。


 判断ではなく反射が割れる。


 その瞬間、ポフキノコの胞子が触角に絡む。


 大蜘蛛が脚の影を縫う。


 グズが同じ場所を叩く。


 一度。


 二度。


 三度。


 甲殻が割れる。


 赤泥蟻が体液を撒き散らしながら暴れる。


 通常ゴブリンが一匹、酸性泥を浴びて倒れた。


《通常ゴブリン一体消失》


「構わぬ」

《はい》


 損耗はある。


 だが、外敵素材は価値がある。


 グズが最後に顎の付け根を潰した。


《赤泥蟻一体撃破》

《獲得ソウル:12》

《外敵素材:赤泥甲殻片》

《外敵素材:焼けた赤泥触角》

《現在ソウル:473》


「焼けた触角?」

《火と胞子により変質した感覚器官です》

「使えそうか」

《外周索敵、煙中誘導、赤泥蟻対策に研究可能》

「よし」


 火で焼かれた外敵素材。


 人間の焼却と赤泥蟻の襲撃が重なったからこそ得たものだ。


 外周は危険だ。


 だが、得るものもある。


 外では、焼却線が崩れていた。


 人間たちは火を制御しようとしている。


 赤泥蟻は一匹焼け、もう一匹は物資袋を噛んで逃げた。


 焼却班の隊長は怒鳴り続けている。


「火を広げるな! 入口へ近づくな! 蟻を追うな! 負傷者を下げろ!」


 その声には焦りがあった。


 封鎖線は、迷宮を閉じ込めるためのものだった。


 焼却線は、迷宮と蟻を焼くためのものだった。


 だが今は違う。


 火が人間自身の動きを縛っている。


 油壺は危険物になり、縄は影になり、煙は視界を奪う。


 人間が持ち込んだ道具が、人間を迷わせている。


「これだ」

《はい》

「強い道具ほど、使い方を狂わせれば強い罠になる」

《迷靄洞の方針に合致します》


 白帰杭もそうだった。


 帰るための杭は、帰れない証になった。


 今度は火だ。


 焼くための火は、影を作る。


 煙を作る。


 逃げ道を隠す。


 人間自身を焦らせる。


「火を奪うのではない」

《はい》

「火のせいで生まれる判断を喰う」

《記録します》


その日の戦闘は、それ以上欲張らなかった。


 外縁迷霧はかなり焼かれた。


 入口前の湿りも一部飛んだ。


 小蜘蛛は出さなかったため損耗は少ない。


 だが通常ゴブリン一体を失った。


 そして外縁は、一時的に薄くなった。



【外周戦闘収支】


外縁滲出維持:−20

焼却兵撃破:+36

赤泥蟻撃破:+12

通常ゴブリン損耗:一体

外敵素材獲得:赤泥甲殻片、焼けた赤泥触角


現在ソウル:473



「黒字だ」

《はい》

「だが外縁は削られた」

《はい》

「火対策が必要だな」

《新規研究候補があります》


 表示が浮かぶ。



【研究候補】


一、湿灰床

効果:焼却後の灰と湿りを混ぜ、足裏にまとわりつく床を作る

必要素材:灰、湿り、ソウル60


二、煙迷い

効果:煙中で方向感覚を乱す。火災時に迷宮側が煙を利用可能

必要素材:焼けた赤泥触角、ポフキノコ胞子、ソウル90


三、耐火湿苔

効果:入口付近の火勢を弱める苔。外縁迷霧の焼失を軽減

必要素材:湿り、焼却灰、ソウル110



「全部欲しい」

《ソウル不足ではありませんが、連続研究は外縁維持に影響します》

「優先は」

《煙迷いを推奨》

「理由は」

《人間が火を使う限り、煙は必ず発生します。攻撃を資源化できます》

「よし」

 余は即決した。

「煙迷いを研究」

《ソウル90消費》

《現在ソウル:383》


 焼けた赤泥触角が、白い部屋の表示の中でほどける。


 ポフキノコの胞子が混ざる。


 煙の流れ。


 触角の迷い。


 湿りの滞留。


 それらが一つの仕組みになる。



【研究完了】


煙迷い

効果:入口周辺の煙に微弱な方向錯誤を付与

条件:火災、煙、湿りが同時に存在する時に強化

備考:敵の火攻めを完全無効化するものではない。煙を吸い込んだ対象の判断を鈍らせる



「よい」

《はい》

「次に火を使えば、煙も余のものだ」

《一部ですが》

「一部で十分だ」


 全部奪う必要はない。


 人間が正しく使えなくなればいい。


夜。


 ダンジョン新聞は当然のように騒いでいた。



【地域短報】


・迷靄洞外縁にて焼却処理を実施

・赤泥蟻群が処理中に介入

・焼却班に死者、負傷者あり

・迷靄洞入口へ逃げ込んだ焼却兵、未帰還

・赤泥蟻一体が迷靄洞内で消失

・迷靄洞、火災煙への干渉能力を得た可能性



 交流欄がすぐ動く。



・“朽縄井戸”井守:火を影にしたか。いいねえ、湿ったの

・“玻璃宮の姫”:煙まで拾うとは、少し迷宮らしくなってきましたわ

・“灰冠のロード”:火を侮るな。一度、核まで煙が回れば終わる

・“赤泥蟻穴”:また俺の蟻を喰ったな



 赤泥蟻穴の文面は短い。


 だが、苛立ちが滲んでいた。


 余は少し考えてから返した。



・“迷靄洞”:火から逃げて余の口に入った。喰わぬ理由がない



 すぐ返ってきた。



・“赤泥蟻穴”:なら次は、逃げずに噛ませる



「来るか」

《はい》

「赤泥蟻穴が本格的にこちらを見る」

《可能性高》

「人間も焼く」

《はい》

「外は忙しいな」

《はい》


 以前なら、余は慌てていただろう。


 いや、今も少し慌てている。


 だが、それを表に出す必要はない。


 白い部屋で、余は入口を見た。


 焼けた地面。


 湿った灰。


 折れた杭。


 焦げた縄。


 赤泥蟻の小さな穴。


 火の跡。


 そこには、昨日までなかった新しい迷いがある。


 人間は火を置く。


 蟻は横から噛む。


 余は、そのどちらも迷わせる。


「管理音声」

《はい》

「次は赤泥蟻穴が正面から何か仕掛けてくる」

《はい》

「だが、正面から来るなら」

《はい》

「迷靄洞の中で喰える」


 洞窟の外で広がった争いは、少しずつ入口へ戻ってくる。


 外で迷わせ。


 火で影を作り。


 煙で方向を奪い。


 最後は中で殺す。


 それが余の戦い方だ。


 白い部屋の表示に、新しい通知が浮かんだ。



【進化兆候】


対象:影縫い大蜘蛛・幼体

条件:火影利用、外縁影縫い、帰路固定具干渉、赤泥蟻拘束

進化進行:上昇

新特性候補:火影縫い



「……大蜘蛛」

《反応あり》

「おぬしも進むか」

《進化には追加条件が必要です》

「条件は」

《火影下での大型対象拘束、または他迷宮外周魔物の連続拘束》

「つまり、次の蟻か」

《はい》


 赤泥蟻穴が来るなら、ちょうどいい。


 大蜘蛛の餌にもなる。


 余は静かに笑った。


「よい」

 白い部屋に、余の声が沈む。

「次に来る蟻は、影ごと縫う」


 火は影を作る。


 影は糸になる。


 糸は帰路を奪う。


 迷靄洞は、焼かれて終わる迷宮ではない。


 焼かれた跡さえ、餌場に変える。

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