第55話 赤泥蟻穴は横から喰う
赤泥蟻穴は、言葉だけのロードではなかった。
翌朝、封鎖線の外側が揺れた。
迷靄洞の入口ではない。
もっと外。
人間どもが荷車を置いているあたり。
外縁迷霧の届く範囲より、さらに向こう。
余の湿りが届かぬ場所で、地面が小さく盛り上がった。
「管理音声」
《はい》
「地中反応」
《赤泥蟻と推定》
「数は」
《小型群。およそ十二》
「多いな」
白い部屋の窓を、入口外へ広げる。
見える範囲はまだ狭い。
外縁滲出を始めたとはいえ、迷靄洞の目は外では鈍い。
それでも、地面の震えは分かった。
封鎖線の外。
荷車の下。
赤黒い泥が、ぽこりと膨らむ。
次の瞬間、そこから蟻が出た。
普通の蟻ではない。
犬ほどの大きさ。
甲殻は赤泥色。
顎は黒く、硬く、湿った土を噛み砕く形をしている。
赤泥蟻。
赤泥蟻穴の外周魔物だ。
「蟻だ!」
封鎖兵が叫んだ。
「下だ! 荷車の下から出た!」
人間どもが慌てる。
入口を見ていた者たちの視線が、外側へ向いた。
封鎖線が、横から噛まれた。
「……やりおる」
《はい》
「だが腹立たしい」
《はい》
余の餌場を横から荒らしに来た。
いや、赤泥蟻穴からすれば、ここはまだ外周。
迷靄洞の領域ではない。
だから奪っているつもりすらないのだろう。
だが、余からすれば別だ。
封鎖線は、昨日ようやく餌場に変えたばかりだ。
そこへ横から顎を入れられた。
「余の餌だぞ」
《所有権は未確定です》
「うるさい」
赤泥蟻は速かった。
まっすぐ噛む。
迷わせるでもなく、惑わせるでもなく、ただ噛む。
荷車の車輪に群がり、軸を砕く。
荷台が傾き、水袋と油壺が転がる。
封鎖兵の一人が槍を突き出す。
蟻の甲殻に弾かれる。
別の蟻が足に噛みついた。
「ぎゃあっ!」
兵が倒れる。
二匹の赤泥蟻が、その身体を引きずろうとする。
「待て」
余は思わず声を荒げた。
「どこへ持っていく」
《赤泥蟻穴方面へ搬送中》
「持っていかせるな」
《外縁滲出範囲外です》
「くそっ」
届かない。
今の迷靄洞では、あそこまで手が届かない。
赤泥蟻は、外で殺した獲物をそのまま自分たちの穴へ運ぶつもりだ。
外で喰うための仕組みがある。
迷靄洞にはまだない仕組みだ。
「管理音声」
《はい》
「外で殺された命は、余に入らぬのか」
《迷宮影響圏外での死亡は、基本的に獲得不可です》
「赤泥蟻穴は」
《使役魔物が獲物を本穴へ搬送することで一部回収可能と思われます》
「外周回収か」
《はい》
また一つ、学ぶことが増えた。
迷宮は中で殺すだけでは足りない。
外で噛むなら、外で得たものを核まで運ぶ仕組みがいる。
赤泥蟻穴はそれを持っている。
迷靄洞には、まだない。
「……腹立たしいが、参考になる」
《はい》
だが、今は学習より先に餌だ。
赤泥蟻に全部持っていかれるわけにはいかない。
封鎖兵たちは混乱している。
入口への警戒が薄れた。
荷車側へ走る者。
仲間を助けようとする者。
逃げようとする者。
命令を待つ者。
全部、違う方向を見ている。
「外縁迷霧」
《はい》
「薄く広げろ。荷車までは届かなくていい」
《目的は》
「逃げ道の向きをずらす」
赤泥蟻に襲われた人間は、外側から逃げる。
なら、その逃げ道を入口側へ曲げればよい。
赤泥蟻が横から噛む。
余は、噛まれて走る獲物の帰路を奪う。
「蟻を利用する」
《はい》
封鎖兵の一人が、荷車から離れて走った。
若い男だ。
槍を捨てている。
足は速い。
だが、恐怖で方向を失っている。
赤泥蟻が一匹、後ろから追う。
男は封鎖線の本陣へ戻るつもりだった。
だが、外縁迷霧が入口前の湿りを広げる。
昨日の縄の跡。
折れた杭の影。
白帰杭の残滓。
それらを薄く混ぜる。
男の視界で、入口側の暗がりが“仲間のいる陰”に見えた。
「こっちだ!」
外の兵が叫ぶ。
「違う! そっちは迷宮だ!」
声は届いている。
だが、人間は恐怖の中で、見えた逃げ道を優先する。
男は迷靄洞へ向かって走った。
赤泥蟻も追う。
「……よし」
《人間一、赤泥蟻一、接近中》
「両方取る」
《赤泥蟻は他ロード使役魔物です》
「余の口に入ったなら餌だ」
男が入口へ転がり込んだ。
その背後から赤泥蟻が突っ込んでくる。
入口の湿りに足を取られ、男は倒れる。
赤泥蟻は止まらない。
顎を開き、倒れた男の足へ噛みつこうとする。
「先に人間」
《はい》
影縫い大蜘蛛が、男の影を縫う。
逃げられないように。
グズが横から出る。
赤泥蟻より早く、棍棒を振り下ろした。
男の背中が潰れる。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:33》
《現在ソウル:433》
赤泥蟻が、グズへ向きを変えた。
人間と違う。
迷わない。
ミルを見ることもない。
白い光にも反応しない。
ただ敵を見る。
そして噛みにくる。
「ギィッ!」
グズが棍棒を振る。
赤泥蟻の甲殻に当たる。
鈍い音。
割れない。
「硬いな」
《はい》
赤泥蟻の顎が、グズの腕をかすめた。
皮膚が裂ける。
赤い泥のような液が傷口に付く。
グズがうめく。
《酸性泥を確認》
「面倒な」
外周魔物。
迷宮外で動くための耐久。
まっすぐな攻撃力。
赤泥蟻穴らしい魔物だ。
「ミル」
「ギィ」
「見るな。効きが薄い」
「ギィ」
ミルの一者視認は、人間には効く。
だが蟻には効きにくい。
恐怖や判断を裂く相手ではない。
蟻は道を嗅ぎ、命令で動く。
なら別の器官を潰す。
「ポフキノコ」
《胞子放出》
「触角へ送れ」
入口横の湿った陰で、ポフキノコが小さく膨らんだ。
ふわりと胞子が流れる。
人間相手なら咳を誘う程度。
だが、赤泥蟻には違った。
触角に胞子が絡む。
蟻の動きが一瞬だけ鈍る。
「今だ」
《影糸展開》
影縫い大蜘蛛が、蟻の六本脚の影をまとめて縫う。
完全には止まらない。
赤泥蟻は力が強い。
糸が軋む。
それでも半拍、動きが止まる。
「グズ」
「ギィィッ!」
湿棍ゴブリンの棍棒が、同じ場所を二度叩いた。
一度目では割れない。
二度目で甲殻にひびが入る。
そこへ通常ゴブリンが石を落とす。
さらに大蜘蛛の糸が、ひび割れた脚を引く。
赤泥蟻が横倒しになった。
グズが跳び乗る。
棍棒を両手で握り、顎の付け根を狙う。
叩く。
叩く。
叩く。
赤泥蟻が暴れ、グズの足に噛みつこうとする。
だが触角に胞子。
脚に影糸。
湿った床で身体が滑る。
最後の一撃で、顎の付け根が砕けた。
《赤泥蟻一体撃破》
《獲得ソウル:12》
《外敵素材:赤泥甲殻片》
《現在ソウル:445》
「少ないな」
《他ロード使役魔物のため、ソウル効率は低いです》
「だが素材が出た」
《はい》
白い部屋に、赤泥色の小さな表示が浮かんだ。
⸻
【外敵素材】
赤泥甲殻片
性質:地中移動補助、耐湿外殻、酸性泥保持
解析率:低
用途候補:外周小穴研究、泥道偽装、耐外界魔物の参考
⸻
「……なるほど」
余は目を細めた。
「蟻を喰えば、外を学べる」
《危険も増えます》
「分かっておる」
赤泥蟻穴の魔物を殺した。
それはつまり、向こうのロードに喧嘩を売ったのと同じだ。
だが先に餌場へ来たのは向こうだ。
余の口へ突っ込んできたのも向こうだ。
なら喰う。
外では、まだ混乱が続いていた。
赤泥蟻は荷車を破壊し、油壺を噛み、食料袋を引きずっている。
人間側は火で追い払おうとしている。
封鎖線は完全に乱れた。
だが、迷靄洞の入口へ突っ込んでくる者はもういない。
先ほどの一人が死んだからだ。
人間たちは、入口と蟻の両方を警戒している。
最悪だろうな。
前は迷宮。
横は蟻。
後ろは物資。
逃げ道は森。
だが森にも地中穴があるかもしれない。
人間たちは判断を失い始めていた。
「もう一人狙えるか」
《可能性はあります》
「ただし無理はしない」
《はい》
今、外に深く干渉すると、赤泥蟻と人間の両方に対処せねばならない。
迷靄洞はまだそこまで強くない。
外で勝とうとするな。
外で迷わせ、中で喰え。
余はそれを忘れてはならない。
「入口前の霧を引け」
《よろしいのですか》
「一度、口を閉じる」
《はい》
霧を薄くする。
入口の影を浅くする。
人間から見れば、迷宮が静まったように見える。
赤泥蟻から見れば、獲物の逃げ場が一つ減ったように見える。
ここで欲張らない。
今日は一人と一匹。
十分だ。
しばらくして、赤泥蟻たちは荷車から奪った食料袋と、負傷兵一人を引きずって去った。
人間側は追えなかった。
封鎖兵は叫び、罵り、負傷者を運び、火を消し、縄を直そうとしていた。
だが、封鎖線はもう昨日とは違う。
入口だけを見ていればよかった段階は終わった。
横から蟻が来る。
前には迷宮がある。
物資は壊される。
仲間は引き込まれる。
これでは封鎖線ではない。
餌場だ。
しかも、奪い合いの餌場。
「管理音声」
《はい》
「人間側の次の反応は」
《封鎖強化、撤退、または専門部隊要請》
「赤泥蟻穴への対応も必要になるな」
《はい》
「つまり、連中の目は割れる」
《はい》
迷靄洞だけを見ていた封鎖線が、赤泥蟻穴も見なければならなくなった。
その分、余への警戒は散る。
だが、餌も散る。
赤泥蟻に奪われる前に、余が引き込む必要がある。
これは戦争ではない。
奪い合いだ。
外周餌場の奪い合い。
夜、ダンジョン新聞が震えた。
⸻
【地域短報】
・迷靄洞封鎖線、赤泥蟻群に襲撃される
・荷車一台損壊、物資一部喪失
・封鎖兵複数名死傷
・迷靄洞入口へ逃げ込んだ兵一名、未帰還
・赤泥蟻一体、迷靄洞内で消失した可能性
⸻
「早い」
《はい》
「新聞は何でも見ておるな」
《ロード向け情報網ですので》
交流欄は、すぐに荒れた。
⸻
・“朽縄井戸”井守:おやおや、外周餌場の取り合いだ
・“玻璃宮の姫”:赤泥蟻を喰いましたの? それは宣戦布告扱いされますわよ
・“灰冠のロード”:外で得るとは、他迷宮とも噛み合うということだ
・“赤泥蟻穴”:湿ったの。俺の蟻を喰ったな
⸻
来た。
余は少しだけ笑った。
「管理音声」
《返信しますか》
「当然だ」
⸻
・“迷靄洞”:余の口へ入ったものは余の餌だ
⸻
すぐに返事が来た。
⸻
・“赤泥蟻穴”:なら外周の餌は奪った者のものだ。封鎖線の荷車、負傷兵、見張り、全部な
⸻
「堂々としすぎだろう」
《競合宣言です》
「面白い」
腹は立つ。
だが、悪くない。
赤泥蟻穴は強い。
外周の動きでは、明らかに余より上だ。
なら学べる。
ただし、従う気はない。
「返す」
⸻
・“迷靄洞”:奪うなら、帰り道に気をつけろ。蟻にも影はある
⸻
交流欄が少し止まった。
そして、朽縄井戸の井守が笑うように書き込んだ。
⸻
・“朽縄井戸”井守:いいねえ。若い牙と湿った影の餌場争いだ
⸻
灰冠のロードは短く告げた。
⸻
・“灰冠のロード”:遊ぶな。人間は次に、両方を焼く
⸻
その一文で、余の笑みは消えた。
そうだ。
人間は馬鹿ではない。
迷宮と蟻が外周で餌を奪い合えば、人間側はこう考える。
封鎖では足りない。
入口ごと、外周ごと、焼く。
「管理音声」
《はい》
「油壺があったな」
《はい》
「人間は火を使う」
《はい》
「赤泥蟻も火には弱いか」
《推定、中程度に弱い》
「余の外縁迷霧も火に弱い」
《はい》
次の敵は、ただの封鎖兵ではない。
焼却。
外縁ごと焼く手。
それが来る。
「……なら」
《はい》
「火を使う前に、火の置き場を迷わせる」
油壺。
焚き火。
火矢。
焼却線。
それらを人間が置くなら、その配置を狂わせる。
赤泥蟻が地中から噛むなら、その逃げ道を余が縫う。
人間が焼こうとするなら、その火で別の影を作る。
「次は火か」
《はい》
「よい」
余は入口の外を見た。
壊れた荷車。
こぼれた油。
赤泥の穴。
後退した封鎖線。
そして、迷靄洞の口に残る薄い湿り。
外周は、もう静かな森ではない。
餌場であり、戦場であり、他迷宮との境界だ。
「ミル」
「ギィ」
「グズ」
「ギィィ」
「大蜘蛛」
《反応あり》
余は白い部屋で声を低くした。
「次に来る火を、余の影に変える」
赤泥蟻穴は横から喰う。
人間は外から焼く。
なら迷靄洞は、その帰り道を縫う。
洞窟の外で始まった争いは、もう止まらない。




