第53話 封鎖される迷宮
討伐隊を喰った翌日、冒険者は来なかった。
翌々日も来なかった。
三日目も、入口の前に立つ者はいた。
だが、入ってこなかった。
「……」
余は白い部屋で、入口を見ていた。
迷靄洞の外。
森縁。
街道から少し外れた湿った地面。
そこに、人間が杭を打っていた。
白帰杭ではない。
もっと太い、ただの木杭だ。
縄を張り、札を垂らし、赤い印をつけている。
その外側に、革鎧の男が二人。
さらに少し離れて、弓持ちが一人。
奥には、荷車。
荷車には水袋、食料、予備の杭、そして油壺。
「管理音声」
《はい》
「これは」
《封鎖です》
「うむ」
分かっていた。
だが、実際に見ると腹が立つ。
人間どもは、迷靄洞へ入らなくなった。
入れば帰れない。
なら入らず、入口を見張る。
近づく冒険者を止める。
情報を集める。
いずれ焼くか、埋めるか、もっと大きな戦力を待つ。
それが人間側の答えだった。
「……卑怯ではないか?」
《合理的です》
「余の餌が来ない」
《はい》
「最悪だな」
《はい》
強くなった。
討伐隊を殺した。
ソウルも増えた。
グズは進化した。
ミルも迷見ゴブリンになった。
影縫い大蜘蛛もいる。
なのに、敵が入ってこない。
これでは殺せない。
殺せなければソウルが増えない。
ソウルが増えなければ、迷宮は育たない。
「……強くなりすぎても飢えるのか」
《はい》
「理不尽だな」
《迷宮運営ですので》
腹立たしい。
だが、これが次の壁だ。
中へ来た者を殺すだけでは足りない。
外から塞がれれば終わる。
なら、外へ手を伸ばすしかない。
その日の昼、若い冒険者が二人、迷靄洞へ近づこうとした。
余は少し期待した。
久しぶりの餌だ。
だが封鎖の兵が止めた。
「ここから先は立ち入り禁止だ」
「迷宮に入るだけだぞ」
「入った討伐隊が帰ってない」
「じゃあ俺たちが――」
「死ぬだけだ。帰れ」
若い冒険者は不満そうだったが、結局戻っていった。
「……おい」
《はい》
「余の餌を返したぞ」
《はい》
「殺してよいか」
《現在の迷宮影響圏外です》
「くそ」
届かない。
そこが問題だった。
迷靄洞は洞窟の中なら強い。
入口周辺なら、湿りも少しは効く。
だが、封鎖兵たちは一定距離を保っている。
入ってこない。
近づきすぎない。
それだけで、余の手はかなり鈍る。
「外に手を伸ばす方法」
《新規機能候補があります》
「出せ」
白い部屋の床に表示が浮かんだ。
⸻
【外縁滲出】
効果:迷宮内の湿り・微霧・方向感覚の乱れを入口外周へ薄く漏らす
範囲:入口から外へ数十歩程度
消費ソウル:120
維持費:一日あたり20ソウル
注意:外界では効果が不安定。日光・風・浄化札に弱い
⸻
「高い」
《外への干渉ですので》
「維持費もある」
《はい》
「だが、やらねば飢える」
《はい》
現在ソウルは443。
使える。
だが軽くはない。
外縁滲出を開けば323。
維持費もかかる。
失敗すれば大損だ。
「……」
余は入口の外を見た。
封鎖兵が笑っている。
迷宮へ入らず、余の餌を追い返している。
あいつらは、安全だと思っている。
迷宮は中だけのものだと。
「管理音声」
《はい》
「やる」
《外縁滲出を解放しますか》
「解放」
《ソウル120消費》
《現在ソウル:323》
ソウルが削れる。
同時に、入口の湿りが外へにじみ出した。
最初は、本当にわずかだった。
洞窟の冷たい息が、森の地面を撫でる程度。
封鎖兵は気づかない。
草が湿る。
木の根元に薄い霧がかかる。
地面の小さなくぼみに、迷靄洞の匂いが溜まる。
「……弱いな」
《初期状態です》
「これで迷わせられるか」
《単独では困難》
「なら、組み合わせる」
余は白帰杭の残骸へ意識を向けた。
討伐隊が持ち込んだ、帰るための杭。
今は迷靄洞の中で折れ、濡れ、迷宮の一部になっている。
その白い光の残滓を、外縁の霧へ少しだけ混ぜる。
《白帰杭残滓の外縁利用》
「できるか」
《不安定ですが可能》
「やれ」
入口の外、霧の中に、白いちらつきが一つ生まれた。
光ではない。
光の記憶だ。
人間が“帰れる”と思いたがる白。
それが霧の奥で、ほんの一瞬だけ揺れる。
「よし」
余は低く言った。
「帰る道のふりをしろ」
夕刻。
封鎖兵の一人が、霧に気づいた。
「おい、入口前、霧が出てる」
「洞窟なら普通だろ」
「昨日より濃い」
「近づくなよ。札を足す」
男が浄化札を持って、縄の内側へ入った。
まだ迷宮内ではない。
だが外縁滲出の範囲内だ。
「……来た」
《はい》
「まだ殺せぬ」
《はい》
「中へ寄せる」
男は札を杭へ貼ろうとした。
その時、霧の奥で白いちらつきが揺れた。
男の手が止まる。
「……何だ?」
白帰杭の残滓。
帰路の光に似た白。
討伐隊が使ったものと同じ系統の色。
封鎖兵は、迷宮の中で何があったか知らない。
だが、白い杭の話くらいは聞いているのだろう。
帰路を固定する道具。
それに似た光。
「中に、杭が残ってるのか……?」
男が半歩近づいた。
「近づくな!」
後ろの兵が叫ぶ。
「分かってる!」
分かっている。
だが見てしまった。
見れば確かめたくなる。
霧が足元を撫でる。
地面の傾きが、ほんの少し分かりづらくなる。
入口の位置が、近く見えたり遠く見えたりする。
「……札だけ貼って戻る」
男はそう言った。
だが、その“戻る”方向が、すでに一歩ずれていた。
外縁迷霧が、男の背後の縄を薄く隠す。
代わりに、入口側の岩肌を少し明るく見せる。
帰るつもりで、近づく。
それが迷靄洞の外周戦術だ。
「もう少し」
《はい》
男が札を貼ろうとした瞬間、足元の泥に靴が沈んだ。
迷宮内ほどではない。
だが、外の地面にしては湿りすぎている。
「っ」
身体が前へ傾く。
反射で、男は入口側の岩へ手をついた。
その手は、もう迷靄洞の口の内側に入っていた。
「捕まえろ」
鼠が走った。
細穴からではない。
入口の暗がりから飛び出し、男の足首を横切る。
「うわっ!」
男が完全に洞窟側へ倒れ込む。
その影を、影縫い大蜘蛛が縫った。
足が止まる。
半身は外。
半身は中。
だが、それで十分だ。
「グズ」
「ギィィッ!」
湿棍ゴブリンが暗がりから出た。
封鎖兵の顔が青ざめる。
「おい! 引け! 引っ張れ!」
外の兵が縄を投げる。
男はそれを掴もうとする。
だが、手を伸ばした瞬間、ミルが入口の暗がりに立った。
男にだけ見える位置。
じっと見る。
「ひっ……!」
男の手が止まった。
縄を掴むか。
ミルを見るか。
足を抜くか。
叫ぶか。
その一瞬で、グズの棍棒が男の胸を叩き潰した。
《侵入者一名死亡》
《獲得ソウル:31》
《現在ソウル:354》
「……一つ」
外で叫び声が上がる。
「入るな! 引け! 全員下がれ!」
「今、何が――」
「下がれって言ってんだ!」
封鎖兵たちは後退した。
正しい。
実に正しい。
だが、死体はもう迷靄洞の中だ。
ソウルも得た。
封鎖している人間を、外から中へ引き込んで殺した。
初めてだ。
「管理音声」
《はい》
「成立したな」
《はい》
「外で迷わせ、中で喰う」
《新戦術として記録します》
封鎖部隊は、すぐに距離を取った。
入口からさらに離れ、縄の位置を後ろへ下げる。
浄化札を増やす。
霧の中へ近づかない。
それでも完全撤退はしなかった。
仲間が死んだのだ。
逃げ帰れば、上に報告せねばならぬ。
だが、近づけば死ぬ。
人間たちの判断は、そこで割れていた。
「管理音声」
《はい》
「もう一人いけるか」
《警戒上昇。困難です》
「無理はしない」
《妥当です》
今は一人で十分。
外縁迷霧の初運用としては成功だ。
しかも、人間側はまだ何が起きたか分かっていない。
霧か。
泥か。
光か。
何かに引っ張られたのか。
ゴブリンが来たのか。
全部少しずつ正しい。
だから報告はぼやける。
それがいい。
縫い影蜘蛛の正体も、大蜘蛛の位置も、ミルの一者視認も、まだ外には漏れていない。
死んだからだ。
口がない者は報告しない。
「……やはり殺すのが一番確実だな」
《はい》
ただし、問題も残った。
外縁迷霧は弱い。
札を増やされれば削られる。
風が強い日は使いにくい。
維持費もかかる。
そして一度使えば、人間は距離を取る。
「一日20ソウルか」
《はい》
「今は払える」
《はい》
「だが、ずっとは駄目だ」
《外周戦術の強化が必要です》
その時、ダンジョン新聞が震えた。
交流欄ではない。
地域短報だ。
⸻
【地域短報】
・迷靄洞封鎖部隊に死者一名
・迷宮外縁での転倒後、入口内へ引き込まれた模様
・詳細不明
・人間側、封鎖線を後退
・迷靄洞、外縁干渉の疑い
⸻
「……早いな」
《観測されています》
「まあ、死体を喰ったからな」
《はい》
外縁干渉の疑い。
そう書かれた。
つまり、ロード社会にも見られている。
交流欄がすぐ動いた。
⸻
・“朽縄井戸”井守:お、外へ滲ませたね
・“玻璃宮の姫”:雑ですが、初手としては悪くありませんわ
・“灰冠のロード”:外へ出る時は、外の理で削られる。覚えておけ
・“赤泥蟻穴”:湿ったの、外はそう甘くない
⸻
最後の一文に、余は少し苛立った。
「うるさいぞ、若い牙」
《返信しますか》
「する」
⸻
・“迷靄洞”:外が甘くないなら、甘くなるまで湿らせる
⸻
送ってから、少しだけ気分が良くなった。
だがすぐに、別の通知が来た。
赤泥蟻穴からの個別投函だった。
⸻
【“赤泥蟻穴”より】
“外に手を出したなら、外の獲物は早い者勝ちだ。封鎖兵を喰えると思うな。外周は俺の牙が先に届く”
⸻
「……」
余は新聞を見つめた。
赤泥蟻穴は、迷靄洞周辺の外周にも偵察を出している。
人間側の封鎖に反応している。
つまり、外の餌を狙っているのは余だけではない。
人間。
迷靄洞。
赤泥蟻穴。
三者の盤になった。
「管理音声」
《はい》
「赤泥蟻穴は敵か」
《競合相手です》
「味方ではないな」
《はい》
「だが、人間側の封鎖を崩すという点では」
《利害が一部重なります》
「うむ」
直接協力する気はない。
だが、赤泥蟻穴が外周で暴れれば、人間の封鎖線は乱れる。
乱れた人間を、余が迷わせて中へ引き込めるかもしれない。
逆に、余が霧で人間を崩せば、赤泥蟻が喰うかもしれない。
奪い合いだ。
「……面白くなってきた」
《はい》
◇
夜。
外縁迷霧は薄く入口前に漂っていた。
封鎖線は後ろへ下がり、人間たちは焚き火を増やした。
火。
光。
煙。
札。
縄。
外の道具が、迷宮の外に並んでいる。
余の手はまだ届きにくい。
だが、ゼロではなくなった。
それだけで大きい。
岐れの灯間では、ミルが入口側を見ていた。
マネはその真似をしている。
グズは傷を抱えたまま棍棒を磨いている。
影縫い大蜘蛛は、折れた白帰杭と濡れた記録板の影に糸を張っていた。
「聞け」
余は配下へ声を落とした。
「これからは、中だけでは足りぬ」
湿りが揺れる。
「外で迷わせ、中へ引きずり、ここで喰う」
灯りが揺れる。
「封鎖など、餌の置き方が変わっただけだ」
蜘蛛が影で動く。
「余の迷宮は、入口の外にも滲む」
ミルが静かにこちらを見た気がした。
グズが低く唸った。
マネはよく分かっていない顔をしていた。
それでいい。
今はまだ始まりだ。
その時、森側からフィルエの投函が来た。
⸻
【フィルエより】
“外へ滲むのは、残響核の筋にも近い。でも気をつけて。外に広げすぎると、迷宮じゃないものまで混ざる”
⸻
「……また危ない話を」
《はい》
「だが、今は後だ」
《はい》
今は残響核より、餌だ。
封鎖を破る。
人間を中へ引き込む。
赤泥蟻穴に獲物を奪われない。
そしてソウルを増やす。
余は白い部屋から、外の封鎖線を見た。
焚き火の赤。
札の白。
縄の黒。
その向こうに、赤泥蟻の小さな痕跡。
そして入口前に漂う、余の湿った霧。
「次は」
余は静かに言った。
「封鎖線そのものを迷わせる」
洞窟の中だけでは終わらない。
迷靄洞は、外へ滲み始めた。




