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第52話 討伐隊は、帰る道から潰す

討伐隊。


 その言葉がダンジョン新聞に載った時、白い部屋の空気が少し冷えた気がした。


 冒険者。


 調査班。


 回収班。


 それらとは違う。


 討伐隊は、迷宮を知るために来るのではない。


 迷宮を壊すために来る。


 つまり、余を消すために来る。


「管理音声」

《はい》

「討伐隊は、余の新しい手を知っておるか」

《否定的です》

「縫い影蜘蛛のことか」

《はい。専門調査班、回収班ともに未帰還。人間側に詳細情報は流出していません》

「では、人間側が知っているのは」

《迷靄洞は帰路を崩す。灯りや印を逆用する。複数班が未帰還。新しい殺傷手段が増えた可能性がある、程度です》

「うむ」


 ならば、まだ隠せる。


 縫い影蜘蛛。


 影縫い大蜘蛛・幼体。


 この手の正体を、人間側はまだ知らぬ。


 だが、知らぬからといって油断はできない。


 討伐隊は、未知に備えて来る。


 帰路を固定する道具。


 強い光。


 火。


 浄化。


 縄。


 杭。


 そういう“何にでも使える対策”を持ち込んでくるはずだ。


「管理音声」

《はい》

「討伐隊が一番守るものは何だ」

《帰路です》

「そうだ」


 迷靄洞の強みは、戻る判断を裂くこと。


 帰り道を信じられなくすること。


 ならば討伐隊は、帰り道を外から持ち込む。


 見失わぬ道。


 消えぬ印。


 固定された撤退線。


 それを作るはずだ。


「なら、そこから潰す」

《はい》

「人間の帰り道を、人間の手で作らせる」

《はい》

「それを余が奪う」

《迷靄洞らしい方針です》


 白い部屋の窓に、岐れの灯間が映る。


 半分削れた白粉の印。


 濡れて文字の滲んだ記録板。


 揺れるゆら灯蛍。


 その横に立つ、迷見ゴブリンとなったミル。


 少し後ろで真似るマネ。


 天井の影に潜む影縫い大蜘蛛・幼体。


 そして横道の奥に、湿棍ゴブリンへ進化したグズ。


 役は揃っている。


 見る。


 惑わせる。


 縫う。


 殺す。


 あとは、相手の持ち込む帰路を喰うだけだ。


討伐隊は、翌朝来た。


 人数は六。


 重盾を持つ前衛が二人。


 斥候が一人。


 火術師が一人。


 治癒役が一人。


 そして、白い杭を背負った男が一人。


「……来たな」

《はい》

「白い杭」

《帰路固定具と推定》

「やはりか」


 白い杭を背負った男が、迷靄洞の入口前で一本目を地面に刺した。


 杭の頭に、硬い白光が灯る。


 ゆら灯蛍の淡い青白さとは違う。


 冷たく、人工的で、まっすぐな光。


「白帰杭、一番」

 杭の男が言った。

「この光を辿れば外へ戻れる。絶対に列を切るな」

 重盾の一人が頷く。

「中で何が起きたかは分からん」

 火術師が低く言う。

「調査班も回収班も戻らなかった。帰路を最優先。異常を見たら焼く。光で照らす。触れる前に確認」

 斥候が入口を睨む。

「印も灯りも信用しない」

 治癒役が小さく息を吐いた。

「でも、見ないわけにもいかない」

「だから杭を使う」

 白帰杭の男が言った。

「迷宮の印ではなく、俺たちの帰路を作る」


「……」


 余は、それを聞いて静かに笑った。


 俺たちの帰路。


 よい。


 その思い込みごと、喰ってやる。


「一番杭はそのまま」

《はい》

「入口で安心させろ」

《はい》


 討伐隊は迷靄洞へ入った。


 湿りのある入口。


 細穴。


 鼠の気配。


 薄い灯り。


 何もかもを警戒している。


 だが、それでも白帰杭の光が後ろにあることで、足取りは崩れない。


 二本目が入口内に刺される。


 三本目が新小部屋手前に刺される。


 白い光が点々と続く。


 人間が作った、帰るための星。


 余はまだ何もしない。


 蜘蛛も動かさない。


 ミルも出さない。


 グズも吠えさせない。


「……反応が薄い」

 斥候が呟く。

「誘っているな」

 火術師が返す。

「分かっている。だが杭を置く」

 白帰杭の男が四本目を取り出した。

「戻れるなら、深追いしなくて済む」


 そうだ。


 戻れると思え。


 その確信が強いほど、壊れた時によく迷う。


四本目の杭は、岐れの灯間の前に刺された。


 白粉の印。


 濡れた記録板。


 その近くに、白帰杭の光が立つ。


 人間の印と、人間の帰路。


 それらが迷宮の中で並んだ。


「ここか」

 斥候が息を詰める。

「報告にあった場所に近い」

「白い印」

 治癒役が壁を見た。

「あと記録板……」

「触るな」

 火術師が止める。

「全部、迷宮側に使われている可能性がある」

「杭は?」

 重盾が問う。

「杭は俺たちが今刺した」

 白帰杭の男が言う。

「だから信用できる」


 その言葉を待っていた。


「ミル」

「ギィ」

「見ろ」


 ミルが、灯りの縁に立つ。


 白帰杭を見ようとした者の視界にだけ、ちらりと映る位置。


 最初に気づいたのは、杭の男だった。


「……何かいる」

「ゴブリンか?」

 重盾が前へ出る。

「いや、待て」

 杭の男は眉をひそめた。

「あれは、杭を見ている」


 そうだ。


 ミルは人間を見ているのではない。


 杭を見ている。


 正確には、人間が杭を見る瞬間を見ている。


 それだけで、討伐隊の意識が白帰杭へ集まる。


 杭を守るべきか。


 ゴブリンを追うべきか。


 枝路へ踏み込むべきか。


 戻るべきか。


 判断が増える。


「まだ」

《はい》


 影縫い大蜘蛛は動かさない。


 焦るな。


 今は、敵に“この杭は重要だ”と再認識させる段階だ。


 白帰杭の男が、杭を確認するために膝をついた。


 杭の光が壁に影を作る。


 その影の縁を、大蜘蛛がほんの少しだけ撫でた。


 糸は張らない。


 まだ縫わない。


 ただ、影を震わせる。


「……今、光が揺れた?」

 治癒役が言った。

「風はない」

 斥候が低く返す。

「杭の異常か?」

「分からん」

 杭の男の声が硬くなる。

「触るな。確認する」


「よし」

 余は呟いた。

「もう一段」


 マネを反対側へ出す。


 まだ下手だ。


 だが、白帰杭の光へ影を落とすには十分だった。


 杭の光が一瞬欠ける。


「二体?」

 重盾が反応する。

「ゴブリンは無視しろ」

 火術師が言う。

「だが光が遮られる」

 杭の男が苛立った。

「杭が見えないと線が切れる」


 見えない。


 その言葉が出た。


 白帰杭は存在している。


 だが、見えなければ帰路にならない。


 余はそこで初めて命じた。


「大蜘蛛、一糸」

《実行》


 天井の影から、細い黒糸が垂れた。


 人間の足ではない。


 杭そのものでもない。


 白帰杭の“光が作った影”を、濡れた記録板の影へ縫う。


 物理的には、ほとんど何も起きない。


 杭は倒れない。


 壊れない。


 だが、白い光の向きがわずかに歪んだ。


 帰路の線が、ほんの少しだけ曲がったように見える。


「……おい」

 斥候が息を呑んだ。

「杭の光、さっきと向きが違う」

「そんなはずはない」

 杭の男が即座に言った。

「触っていない」

「じゃあ何で曲がったように見える?」

「錯覚だ」

 火術師が言う。

「この迷宮はそういうことをする」


 正しい。


 錯覚だ。


 だが、錯覚だと分かっても、人間は見えたものを無視できない。


 白帰杭の男が杭へ手を伸ばした。


 その手の影が、壁へ落ちる。


「小蜘蛛、一匹」


 縫い影蜘蛛が影から出た。


 小さく、黒く、音もなく。


 手の影と杭の影を、一瞬だけ縫う。


「っ?」


 白帰杭の男の手が止まった。


「どうした」

「手が……いや、何か引っかかった」

「泥か?」

「違う。何か、見えない――」


 火術師が即座に光を強めた。


 偉い。


 反応が早い。


 強い白光が走り、影が飛ぶ。


 小蜘蛛が一匹、光に焼かれて弾けた。


《縫い影蜘蛛一匹消失》

《残四匹。大蜘蛛健在》


「今、何かいたぞ!」

 斥候が叫ぶ。

「虫か?」

「分からん! 黒い何かだ!」

 火術師が声を張る。

「足元と影の際に注意! 正体不明の拘束罠あり!」


 気づいた。


 だが遅い。


 そしてまだ“蜘蛛”とも“影糸”とも分かっていない。


 それでよい。


「グズ」

「ギィッ」

「杭の束を叩け」


 グズが横道から飛び出す。


 狙いは人間ではない。


 白帰杭の男が背負っている杭の束。


「杭だ!」

 杭の男が叫ぶ。


 その一言で、全員の意識が杭へ向いた。


 守るべきもの。


 帰るためのもの。


 それを狙われた瞬間、足元を見る者が減る。


「大蜘蛛、二糸」


 影縫い大蜘蛛が、重盾二人の足元の影を同時に縫った。


「っ、動かん!」

「何だこれは!」


 重盾が止まる。


 グズの棍棒が杭束に叩き込まれた。


 白帰杭が床に散らばる。


 数本が折れる。


 光が転がる。


 壁、床、天井に影が増える。


「光を絞れ!」

 火術師が叫ぶ。

「影が増える!」

「影?」

 治癒役が震えた声で言う。

「何か、影のところにいるの?」

「分からん! だが光を増やすと影も増える!」


 よく気づいた。


 だが、それに気づいた時点で次の迷いが生まれる。


 明るくするか。


 暗くするか。


 影を消すか。


 視界を失うか。


 どれも危険。


 どれも正しい。


 だから止まる。


「グズ」

「ギィィッ!」


 グズは杭の男へ向かった。


 重盾が止めようとする。


 しかし足が縫われて動きが遅い。


 火術師は撃とうとする。


 だが杭の男が近い。


 治癒役は迷う。


 斥候は叫ぶ。


 その混乱の真ん中で、グズの棍棒が杭の男の首を横から潰した。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:52》

《所持ソウル:209》


「帰路を作る者を殺した」


 余は静かに言った。


 討伐隊は、一人死んだ以上に大きく崩れた。


 帰るための者が死んだ。


 それは、帰路そのものが殺されたのと同じだった。


「撤退!」

 治癒役が叫んだ。

「杭を辿って戻る!」

「杭が散った!」

 斥候が叫び返す。

「まだ光は残っている!」

 火術師。

「落ち着け、一本目と二本目は見える!」


 見える。


 たしかに見える。


 だが、見えるものが信じられるとは限らない。


 床に転がった白帰杭のひとつが、濡れた床に光を反射していた。


 その反射が、出口方向とは少し違う角度に伸びている。


 討伐隊の視線が、そこへ引かれる。


「違う! そっちは枝路だ!」

 斥候。

「でも杭の光が――」

「転がった杭だ! 信じるな!」


 よい。


 とてもよい。


 信じるなと言うたびに、信じたいものが増える。


 火術師が強光を消した。


 一気に暗くなる。


 ゆら灯蛍の淡い光だけが残る。


 強い光を消せば、影は減る。


 だが視界も減る。


 縫い影蜘蛛の糸は見えない。


 ミルが火術師にだけ姿を見せた。


 白い蒸気と薄灯りの間に、じっと見る迷見ゴブリン。


「っ、いる!」

 火術師が杖を向ける。

「どこだ!」

 重盾。

「そこだ!」

「見えない!」

「私には見える!」


 ミルの一者視認。


 火術師だけが見る。


 他は見えない。


 だから火術師の警告は、隊列を助ける情報ではなく、混乱になる。


 マネが反対側に出る。


 今度は重盾の片方にだけ見える角度。


「こっちにもいるぞ!」

「何体いる!?」

「見え方が違う! 惑わされるな!」


 治癒役が震えながら叫ぶ。


 その足元を鼠が切る。


 治癒役が転ぶ。


 手を伸ばした先に、転がった白帰杭。


 つかむ。


 その手の影を、小蜘蛛が縫う。


「離れない!」

「杭を離せ!」

「離れないの!」


 火術師が糸を焼こうとする。


 だが糸は見えない。


 燃やすなら、手ごと焼くしかない。


 治癒役は泣きそうな顔で、杭を握ったまま固まる。


「グズ」


 余が命じる前に、グズは動いていた。


 湿った床を踏みしめ、横から回り込む。


 湿棍ゴブリンとなったグズは、もうただの乱暴者ではない。


 止まった相手を殺す役だ。


 棍棒が振り下ろされる。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:59》

《所持ソウル:268》


 治癒役が死んだ。


 これで回復も消えた。


 帰路係。


 治癒役。


 討伐隊の支えを二つ落とした。


残り四人。


 重盾二人。


 火術師。


 斥候。


 火術師は怒鳴った。


「もう杭を見るな! 記憶で戻る!」

「記憶も狂わされる迷宮だぞ!」

 斥候が叫ぶ。

「でも杭はもう使えない!」

「なら隊列を固定する! 盾、前後! 私が中央! 斥候は足元だけ見ろ!」


 良い指示だ。


 立て直そうとしている。


 だから次は火術師を殺す。


「大蜘蛛」

《はい》

「杖ではない。袖だ」

《実行》


 火術師の杖は警戒されている。


 ならば袖の影。


 腕の動き。


 術式の起点ではなく、術式へ入る前の“ため”。


 影縫い大蜘蛛の糸が、火術師の袖影を壁に縫った。


「っ」


 腕が半拍遅れる。


 火術師はすぐ気づき、火を放つ。


 糸が焼ける。


 小蜘蛛が一匹巻き添えで燃える。


《縫い影蜘蛛一匹消失》

《残三匹。大蜘蛛健在》


 だが半拍遅れた。


 その半拍に、ミルが見える。


 火術師だけに。


 火術師はミルを焼こうとする。


 しかしミルはもういない。


 代わりに、マネが別の場所で下手に姿を出す。


 火術師の視線が裂ける。


「どっちが本物……!」


 どちらも本物だ。


 そしてどちらも囮だ。


 グズが横から突っ込む。


 重盾が防ごうとする。


 だがその盾の影を、大蜘蛛が縫う。


 盾が半拍遅れる。


 グズの棍棒が、火術師の膝を砕いた。


「あああっ!」


 火術師が倒れる。


 最後に炎を放つ。


 グズの肩が焼ける。


 ミルの腕も少し焼ける。


 蜘蛛の糸が何本か焦げる。


 だが、火術師はもう立てない。


 グズが棍棒を両手で握り直す。


 そして、胸を潰した。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:71》

《所持ソウル:339》


 火が消えた。


 迷靄洞の中に、白帰杭の冷たい光だけが点々と残った。


 それが、かえって人間たちを絶望させる光に見えた。


斥候は走った。


 重盾二人を置いて。


 記憶だけを頼りに。


 杭を見ない。


 灯りを見ない。


 ミルを見ない。


 マネを見ない。


 足元だけを見て、出口へ向かう。


「……速いな」

《はい》

「優秀だ」

《はい》

「だから殺す」


 斥候が出口へ近づく。


 湿りを踏んでも転ばない。


 鼠を見ても惑わない。


 白帰杭の光も見ない。


 この斥候は、迷靄洞に対して正しい逃げ方をしている。


 だが、正しい逃げ方をした者ほど、最後の一手に弱い。


「ポフキノコ」


 薄い胞子を、ほんの少しだけ流す。


 斥候は咳をした。


 一度だけ。


 だが走る足がわずかに乱れる。


 出口の光が、斥候の影を長く伸ばした。


「大蜘蛛」


 影縫い大蜘蛛が、その長い影を縫った。


 斥候の足が止まる。


 あと四歩。


 出口まで四歩だった。


「いやだ、いやだ、いやだ……!」


 斥候が手を伸ばす。


 指先が外の光を掴みかける。


「殺せ」


 ゴブリンが背後から刃を突き立てた。


 斥候の身体が震え、動かなくなる。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:43》

《所持ソウル:382》


 残るは重盾二人。


 硬い。


 しぶとい。


 だが、それだけだ。


 帰路係はいない。


 治癒役はいない。


 火術師はいない。


 斥候もいない。


 重盾だけで迷宮から帰ることはできない。


「背中を合わせろ!」

「出口まで押す!」

「白い杭を辿れ!」

「どれが本線だ!」


 声が荒れる。


 盾がぶつかる。


 湿った床に足が沈む。


 影糸が盾の影を縫う。


 ミルが一者視認で片方だけを見つめる。


 マネがもう片方の視界へ下手に映る。


 どちらも守ろうとすれば、どちらも遅れる。


 グズが横から膝を砕く。


 一人目が倒れる。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:64》

《所持ソウル:446》


 最後の一人は、よく粘った。


 盾を捨てず。


 膝を折られても倒れず。


 ゴブリンを二体潰し、鼠を踏み殺し、影糸を腕力で引き千切った。


 強い。


 だが一人では、もう迷靄洞の全体を相手にできない。


 最後、彼は折れた白帰杭の横で膝をついた。


「……帰り道が、あったはずなんだ」


 余は白い部屋で、その声を聞いた。


 そして静かに答えた。


「それはもう、余の道だ」


 グズの棍棒が振り下ろされた。


《侵入者一名死亡》

《獲得ソウル:67》

《所持ソウル:513》


討伐隊は、全滅した。



【戦闘収支】


開始時ソウル:157

帰路係撃破:+52

治癒役撃破:+59

火術師撃破:+71

斥候撃破:+43

重盾撃破:+64

重盾撃破:+67


合計獲得:+356

現在ソウル:513


損耗:通常ゴブリン二体、洞窟ネズミ一匹、縫い影蜘蛛二匹

重傷:グズ

軽傷:ミル、マネ



「五百を超えた」

《はい》

「大きいな」

《非常に》


 ソウルがある。


 それだけで選択肢が増える。


 補充。


 進化。


 拡張。


 外周整備。


 今まで手が届かなかったものへ、手が届く。


 だが、先に処理すべきものがある。


「白帰杭はどうする」

《吸収、破棄、配置転用が可能です》

「配置転用」

《はい》

「折れた杭も含めて、岐れの灯間から帰路導線に埋め込む」

《目的は》

「人間が見れば、帰れる道具の残骸に見える」

《はい》

「だが、余の迷宮では、それは帰れなかった証になる」

《迷靄洞らしい処理です》


 白帰杭は、人間が帰るために持ち込んだものだ。


 だが今は違う。


 それは、迷宮に奪われた帰路の墓標だ。


 濡れた記録板。


 半分削れた白粉の印。


 折れた白帰杭。


 それらが岐れの灯間へ加わる。


 人間の対策が、また迷宮の一部になった。


「死体は」

《全吸収可能》

「重盾の盾を一枚だけ残す」

《はい》

「帰路導線の曲がり角に置け」

《恐怖・誤認誘導に有効です》

「残りは吸収」

《実行》


 死体が迷宮へ溶ける。


 ソウルが濃くなる。


 白い部屋の表示がまた震えた。


《進化兆候を確認》

「来たか」

《はい》



【進化兆候】


対象:ゴブリン個体“グズ”

条件:処刑役としての連続撃破、重傷状態での戦闘継続、湿地戦闘適応

進化候補:湿棍ゴブリン

必要ソウル:70


対象:影縫い大蜘蛛・幼体

条件:白帰杭の影縫い、帰路固定具への干渉成功

進化進行:帰路縫い特性、微弱発現


対象:迷見ゴブリン“ミル”

条件:一者視認による恐怖固定、帰路係への視線誘導

進化進行:主観圧補助、上昇



「グズを進化させる」

《即決ですか》

「当然だ」

《理由は》

「今日、最も殺した」

《はい》

「そして処刑役は、迷靄洞に必要だ」

《ソウル70消費》

《現在ソウル:443》


 グズは血まみれだった。


 火傷。


 裂傷。


 打撲。


 それでも棍棒を握っていた。


 進化の光は、美しくなかった。


 泥のように濁り、血のように重く、湿った床から這い上がるような変化だった。


 グズの体がひと回り太くなる。


 腕が長くなる。


 棍棒を握る手が、湿った木と同化するように黒ずむ。


 足裏が広くなり、泥に沈みにくくなる。



【進化完了】


ゴブリン個体“グズ”

→ 湿棍ゴブリン


能力:

・湿地踏ん張り

・横打ち強化

・転倒対象への処刑打

・影糸拘束中の敵に対する殺傷補正



「ギィィ……」


 グズが低く唸った。


 以前より、声が重い。


「よし」

 余は満足した。

「これで処刑役も進んだ」


 見るミル。


 惑わせるマネ。


 縫う蜘蛛。


 殺すグズ。


 迷靄洞は、確実に役割を持つ迷宮になっている。


その夜、ダンジョン新聞に大号外が載った。



【大号外】


・迷靄洞へ向かった討伐隊、未帰還

・専門調査班、回収班に続き三連続未帰還

・迷靄洞、低位迷宮区分からの再分類を検討

・“帰路妨害”ではなく“帰路簒奪”の疑い

・人間側ギルド、広域封鎖を検討か



 交流欄は、いつもの騒ぎとは少し違った。


 軽い茶化しより、重い沈黙が混じっている。



・“朽縄井戸”井守:これは大きいねえ。三連続未帰還は、もう噂じゃ済まない

・“玻璃宮の姫”:おめでとう、と言うには早いですわ。次は中へ入らず潰しに来ますわよ

・“灰冠のロード”:帰路を喰ったか。なら次は、入口の外から塞がれる

・“赤泥蟻穴”:湿ったの。ようやく獲物の喰い方を覚えたな



 余は、少しだけ考えてから返した。



・“迷靄洞”:帰る道を持ち込むなら、その道ごと喰う



 送った後、白い部屋は静かだった。


 だが、余の思考は静かではなかった。


 灰冠のロードの言葉。


 入口の外から塞がれる。


 それが引っかかる。


 人間側は次、迷靄洞へ入らないかもしれない。


 封鎖。


 焼き払い。


 入口崩し。


 周辺警戒。


 冒険者を近づけない。


 そうなれば、余は喰えない。


 ソウルが入らない。


 迷宮は、餌を失えば育たない。


「管理音声」

《はい》

「次の問題が見えた」

《はい》

「強くなった。だが目立ちすぎた」

《はい》

「人間が入ってこなくなれば、余は飢える」

《その通りです》


 その時、森側から投函が来た。


 フィルエだ。



【フィルエより】


“次は外の話になる。迷宮は中だけ強くても足りない。入口の外に手を伸ばせない迷宮は、封鎖されると飢える”



「外」

 余は呟いた。


 迷靄洞は、中へ入った者を殺す迷宮だった。


 だが次は、外から塞がれる。


 なら、外へ手を伸ばさねばならない。


 外周。


 街道。


 森縁。


 人間が迷宮へ入る前の選択。


 そこを迷わせる必要がある。


「……赤泥蟻穴の領分だな」

《はい》


 赤泥蟻穴。


 前から噛む迷宮。


 外周小穴群を持ち、周囲そのものを狩場に変える若い牙。


 余は奴と違う。


 だが、外へ手を伸ばす必要はある。


 その時、新聞に別の短報が重なった。



【地域短報】


・“赤泥蟻穴”、迷靄洞周辺の人間側封鎖気配に反応

・外周小穴群の活動増加

・周辺街道に赤泥蟻の偵察痕あり



「……動いたか」


 若い牙が、外で噛み始めている。


 人間側の封鎖。


 赤泥蟻穴の外周活動。


 迷靄洞の帰路簒奪。


 盤は、洞窟の中だけでは終わらなくなった。


「よい」

 余は静かに言った。

「なら次は、外の帰路も迷わせる」


 迷靄洞は、洞窟の中だけの迷宮では終わらない。

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