再評価の日、森から来たもの
翌朝の空気は、いつもより冷たく感じた。
実際に冷えていたのか、余がそう感じていただけなのかは分からぬ。そもそも余に“寒い”という感覚がどこまで正確にあるのかも怪しい。
だが少なくとも、落ち着かぬ朝だった。
再評価の気配が近い。
その上で、森の方から妙な何かが近づいてきている。
街道ではない。
冒険者の流れでもない。
もっと静かで、もっと迷いのない接近。
それを外周の鼠が拾ってから、余は白い部屋の窓の前を離れられなくなっていた。
「管理音声」
《はい》
「まだ見えぬか」
《距離、ややあり》
「人か」
《判別困難》
「昨日もそれを聞いた」
《はい》
腹立たしい。
だが鼠の報告が曖昧なのは仕方ない。足音は軽い。枝を踏む気配も少ない。しかも森縁の湿りを、不自然なほどまっすぐ切ってくる。慣れている者の歩き方だ。
普通の採集者ではない。
半端な冒険者でもない。
では何だ。
「……再評価の日に来るもの、か」
嫌な予感しかしない。
再評価そのものも緊張するのに、その前段で予定外の接近まである。余はまだ、こういう予定外に強いとは言い切れぬ。土壇場で頭は回る。だが、最初に慌てるのは今でも変わらぬ。
「くそ、何だ、何なのだ……」
思わず口に出た。
《かなり焦っています》
「知っておる!」
その時、別方向からもう一つの動きが入る。
今度は街道側だ。
こちらは人間の流れらしい。しかも複数。装備音が揃っている。
余は反射的にそちらも確認した。
「……今日は本当に全部まとめて来るのか?」
《可能性高》
「最悪だな」
《再評価日ですので》
再評価日だからで済ませるな。
だが、そういう日なのだろう。
見られる日には、人も、噂も、予定外も寄ってくる。
ならば一つずつ捌くしかない。
「まず街道側」
《はい》
窓を切り替える。
見えたのは三人。
前衛の重装剣士。
軽装の女斥候。
記録板を持つ男。
そして、その後ろに小柄な術者が一人。
四人だ。
以前の三人組より明らかに整っている。しかも隊列に“記録”が入っている。これはほぼ間違いなく、再評価絡みの人間側観測だろう。
「……来たな」
《はい》
「本隊か」
《断定はできませんが、有力です》
四人は迷靄洞の入口前で足を止めた。
斥候の女が湿った空気を吸い、記録板の男が何かを書きつける。重装剣士は入口と足元を見比べ、術者は周囲の魔力の流れを測るように目を細めていた。
「対象、迷靄洞」
記録板の男が淡々と読む。
「近時の人員報告、帰路圧・誤誘導・判断攪乱の傾向あり」
「……嫌な書かれ方だな」
剣士が呟く。
「嫌な迷宮なんでしょうよ」
斥候の女が鼻を鳴らす。
「浅く見て、戻る時の動き重点」
「灯りに注意」
術者が短く言う。
「それだけじゃない。たぶん“対策したつもり”を狙ってくる」
「了解。印は二系統。物理と魔力の両方」
「……」
余は、静かに息を吸った。
来た。
本当に、来た。
しかもかなり嫌な形で。
対策している。
しかも前回の三人組の帰還報告を踏まえている。つまり迷靄洞は、“情報を持って入られる迷宮”へ本格的に変わったのだ。
だが――それは後だ。
街道側の四人は、今すぐ飛び込んでは来ない。準備と確認に時間を取っている。
その間に、もう一つの問題がある。
森から来るもの。
「管理音声」
《はい》
「森側は」
《接近継続》
「……見せよ」
窓を切り替える。
暗い森縁。
湿った下草。
その合間を、影が一つ、まっすぐ迷靄洞へ向かってくる。
小さい。
人間よりかなり小さい。
だが獣の四足ではない。
二足。
フード付きの外套のようなものをまとっている。
「子供……?」
《不明》
「いや、違うな」
歩き方が妙だ。
軽いのに、足取りはぶれない。
しかも周囲を必要以上に見ない。迷っていない。何度もここへ来た者のような足だ。
フードの奥は見えぬ。
だが、完全な人間でもない気がした。
耳が長い……のか?
いや、フードの影で分かりづらい。
そして何より、その小さな影は迷靄洞の入口を前にしても、立ち止まらなかった。
「……は?」
余は思わず声を漏らした。
普通、止まる。
入口を見る。
湿気を嫌がる。
足元を確かめる。
何かしら躊躇がある。
だが、その影は違った。
迷靄洞を“見つけた”のではなく、“最初からそこへ来るつもりだった”ように、まっすぐ近づく。
「管理音声」
《はい》
「何だあれは」
《侵入意思、極めて明確》
「人間側観測隊より先に入るぞ」
《はい》
まずい。
非常にまずい。
森側の正体不明が先に入り、街道側の再評価組がその直後に入れば、盤が崩れる。余の迷宮内部で予定外と正式観測が重なることになる。
それは最悪に近い。
「止める」
《はい》
「入口ゴブリン、二体だけ見せろ」
「ギィッ」
「鼠、前を切れ」
「チチッ」
小さな影の前へ、ゴブリン二体が飛び出す。
棍棒を振り上げ、威嚇する。
鼠も足元を切る。
普通ならそれで一拍止まる。
だが、影は止まらなかった。
フードの奥で、ちらりと何かが光った。
次の瞬間、先頭のゴブリンが棍棒ごと横へ弾かれた。
「……え?」
余は白い部屋で固まった。
見えなかった。
何をした。
投げたのか。
打ったのか。
斬ったのか。
分からぬ。
ただ、ゴブリンが一匹、声もろくに上げられずに転がった。
もう一匹が慌てて棍棒を振るう。
影は半歩沈み、そのまま内側へ滑り込む。
腹。
喉。
どちらか分からぬ。
とにかく二撃目で、もう一匹も崩れた。
「……っ!?」
余は叫びかけて、辛うじて飲み込んだ。
速い。
しかも無駄がない。
小さい。
だが強い。
かなり強い。
「管理音声!」
《はい》
「侵入者戦力評価!」
《既存来訪者群より上位。高危険》
「高危険だと!?」
《はい》
その間にも、影は迷靄洞へ入ってくる。
灯りも、湿りも、細穴も、何一つ珍しがらぬ。
まるで“こういう場所”を知っているような動きだ。
「嘘だろ……」
そして最悪なことに、街道側の四人もその異常へ気づいた。
斥候の女が入口へ駆け寄る。
「今、何か入ったぞ」
「人か?」
剣士が眉をひそめる。
「小さい。先に侵入された?」
記録板の男が焦り気味に言う。
「再評価対象への先行侵入か?」
「あり得ない。誰がこんなタイミングで」
術者が険しく言う。
余は、そこで初めて少し冷えた。
街道側の四人は、まだ外にいる。
森側の小さい影は、もう中だ。
もしこの二つが迷宮内でぶつかれば――いや、その前に、あの小さい影そのものが問題だ。
あれは普通の侵入者ではない。
迷靄洞を知らずに入った動きではない。
そして、ゴブリン二体を入口でほぼ無音で落とした。
「……誰だ」
余は小さく呟く。
「おぬしは、何だ」
影は答えぬ。
当然だ。
だが、迷靄洞の内部を進むその動きは、あまりにも異質だった。
灯りへ視線を取られない。
細穴を自然に避ける。
苔の這う壁から距離を取り、泥帯の手前でほんの僅かに重心を落とす。
知っている。
明らかに知っている。
「管理音声」
《はい》
「まさか、人間側に全部漏れておるのではあるまいな」
《現時点では否定的》
「なら何だ」
《……類似環境への高習熟個体》
それも嫌な答えだった。
つまり、迷宮慣れしている。
しかもかなり。
「グズ!」
「ギィッ!」
「下がるな、だが飛び込むな!」
「ギィ!?」
「時間を稼げ!」
グズ含む三体を、新小部屋手前の横位置へ。
正面からではなく、迷わせる位置へ出す。
影は、そこで初めて少しだけ止まった。
フードの奥から、迷靄洞の揺れる微光を見る。
ゆら灯蛍だ。
薄い灯りが右壁寄りで揺れる。
だが影は寄らない。
むしろ――
「……笑った?」
見えた気がした。
フードの奥で、ほんの少しだけ口元が動いたように。
そして次の瞬間、影は灯りを無視して左へ踏み込んだ。
それは正しい。
今の迷靄洞に対する、かなり正しい歩だ。
「……っ、こいつ」
《高危険》
「分かっておる!」
グズが横から飛び出す。
影は低く沈み、棍棒の軌道を外し、そのままグズの脇腹へ短い一撃を入れた。
鈍い音。
グズが吹き飛び、壁へ転がる。
「ギャッ」
だが、死んではいない。
良い。
それでよい。
今必要なのは撃破ではなく観察だ。
何者かを見ること。
そして街道側の四人と鉢合わせさせぬこと。
「鼠、後ろを切れ!」
「チチッ!」
細穴から鼠が一斉に出て、影の後方を斜めに走る。
普通の侵入者なら、その気配で振り向く。
だが影は振り向かない。
代わりに、前へ進む速度を落とさず、足元だけで避けた。
「……化け物か」
《その表現は近いです》
「近いで済ますな!」
入口では、街道側の再評価組がまだ迷っていた。
「先行者がいるなら待つか?」
斥候。
「いや、今入れば接触する」
術者。
「だが対象内部で異常交戦が起きている可能性も」
記録板の男が焦る。
「再評価としては観測価値が高い」
「価値は高いが、死んだら終わりだ」
剣士が低く言った。
よかった。
少なくとも、すぐには入ってこぬ。
ならば今のうちに、この小さい影の正体を少しでも掴む。
「灯り、二群目」
《旧小部屋戻り視線帯へ展開》
「茸は使うな」
《了解》
「今は見る」
影は、新小部屋を過ぎ、旧小部屋手前で二群目の灯りを見る。
そこでも止まらぬ。
だが今度は、ほんの僅かに首を傾けた。
興味か。
確認か。
少なくとも、最初の無反応ではない。
そしてその瞬間、フードが少しだけずれた。
「……耳」
見えた。
長い。
尖っている。
人間より明らかに長い耳。
小柄な体。
軽い足取り。
森側から来る。
しかも、迷宮慣れ。
「……森妖族か?」
《可能性高》
「何でそんなものが余の迷宮へ来る!」
答えはない。
だが、影――いや、小柄な森妖族らしき何者かは、そこで初めて足を止め、ゆっくりとこちら――コアのある方角を見た。
見えたわけではないはずだ。
だが、見られた気がした。
ぞくり、とした。
侵入者に見られてぞくりとするのは、あまり気分の良いものではない。
「……っ」
そして、その小さな影は、静かに口を開いた。
低い。
幼くも、冷えてもいる声だった。
「――やっと、見つけた」
「……は?」
余は、本気で間の抜けた声を出した。
やっと見つけた?
何をだ。
迷靄洞をか。
余をか。
その直後、影はさらに一歩、コア側へ進もうとした。
「止めろ!」
余は反射的に全体へ命じた。
鼠が走る。
グズが唸る。
ゆら灯蛍が揺れる。
湿りと迷いが一斉にその小さな侵入者へ重なる。
だが、影は止まらない。
止まらずに、ただ一言、静かに続けた。
「お前が、“消えない迷宮”になれるかを見に来た」
白い部屋の空気が、凍った気がした。
「……何だと」
消えない迷宮。
そんな言葉は、余は知らぬ。
聞いたことがない。
だが、その一言が意味するものの重さだけは、嫌でも分かった。
それはただの侵入者の言葉ではない。
迷宮の根に触れる種類の言葉だ。
ロードの存在そのものへ触れる言葉だ。
「管理音声」
《……未登録語句に近似》
「意味は」
《不明》
「くそっ」
外では再評価組が控え、内では正体不明の森妖族らしき小さな侵入者が、迷宮の核に触れるような言葉を口にした。
最悪だ。
そして、最高に面白くもある。
余は、自分でも嫌になるほどはっきりと分かった。
この朝から、ただの再評価では済まぬ。
迷靄洞の盤は、もっと大きなものへ踏み込み始めている。




