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第33話 再評価の前夜

号外が出た夜、迷靄洞は妙に静かだった。


 いや、静かなのはいつものことだ。


 鼠は走るし、苔スライムは這うし、ポフキノコは何も考えずに膨らんでいる。ゴブリンどももどこかでだらしなく転がっている。


 それでも、今夜の静けさは少し違った。


 明日ではない。


 今すぐでもない。


 だが“近い”ところへ、迷靄洞の再評価が来る。


 その事実が、洞窟の湿りにまで染みているような気がした。


「管理音声」

《はい》

「落ち着かぬ」

《はい》

「かなり」

《はい》


 余は白い部屋をぐるぐる歩き回った。


 久しぶりだ。


 最近は少し堂々としてきたつもりだったが、こういう時に出る小物っぽさはまだ消えぬらしい。いや、消えなくてよいのかもしれぬ。大事なのは、慌てた後で考えられるかだ。


 そして、今の余はちゃんと考えようとしている。


「……再評価」


 それは何を見られるのか。


 戦力か。


 構造か。


 噂か。


 人間側の報告か。


 ロード側の注目か。


 たぶん、全部だ。


 しかも今回、迷靄洞は赤泥蟻穴の正式観測結果と並ぶ形で見られる可能性がある。


 比べられる。


 露骨に。


 逃げ場なく。


「……嫌だな」

《はい》

「だが、逃げられぬ」

《はい》

「うむ」


 だからこそ、余は考えねばならぬ。


 再評価の前に。


 迷靄洞は、何として見られたいのか。


 何を強みとして立つのか。


 どこで若い牙と違う道を示すのか。


「管理音声」

《はい》

「余は何だ」

《ロードです》

「そういうことではない」

《迷靄洞の主です》

「もう少し深く言えぬのか」

《では、問います》

「うむ」

《迷靄洞は“何を奪う迷宮”ですか》

「……」


 余は、そこで足を止めた。


 何を奪う迷宮か。


 それは悪くない問いだった。


 赤泥蟻穴は、たぶん命を正面から奪う。


 外周で圧を見せ、前から噛み、勢いを削ぎ、穴の飢えで飲み込む。あれは“命を奪う”のがよく見える迷宮だ。


 では迷靄洞は。


 滑る。


 咳く。


 迷う。


 灯りに寄る。


 帰路を誤る。


 判断が裂ける。


「……余は」


 口に出しかけて、止まる。


 何を奪う。


 命。


 時間。


 余裕。


 視界。


 足場。


 どれもそうだ。


 だが、どれも少しずつ違う。


「……選択、か」


《はい》

「余は、侵入者の“正しく選ぶ力”を奪う」

《かなり近いです》

「うむ」


 それだ。


 迷靄洞は、侵入者の選択を鈍らせる迷宮だ。


 進むか退くか。


 どこへ足を置くか。


 何を見るか。


 誰を信じるか。


 灯りを追うか。


 印を信じるか。


 その全部に、湿りと迷いを差し込んで、最善の選択を奪っていく。


 だから迷靄洞は強い。


 だから迷靄洞は嫌だ。


 だから迷靄洞は、ただの湿った穴では終わらない。


「……よい」

《定まりましたか》

「うむ」


 余は白い部屋の窓から、迷宮全体を見渡した。


 入口。


 新小部屋。


 旧小部屋。


 湿りの帯。


 苔の這う壁。


 ゆら灯蛍の薄い揺れ。


 鼠の走る細穴。


 横からだけ見えるグズの影。


 それら全部は、結局一つの目的へ向いている。


 侵入者の選択を奪う。


 最善手を取らせぬ。


 正しいつもりで間違わせる。


「管理音声」

《はい》

「余は、若い牙のようにはなれぬ」

《はい》

「前から噛み砕く飢えは、あやつのものだ」

《はい》

「だが、余には余の飢えがある」

《はい》


 そうだ。


 余は余の道で上へ行く。


 それはもう、ただの負け惜しみではない。


 迷靄洞には迷靄洞の核がある。


 肉を裂く牙とは別の強さがある。


 判断を裂く迷いがある。


 それを、余は今夜、ようやく主の言葉で掴めた気がした。


「……」


 その時、個別通知が二つ来た。


 先に開いたのは、井守からだった。



【“朽縄井戸”井守 より】


“再評価、来るね。緊張してる? してるよね。でも大丈夫。見られる前夜って、結局“何として見られたいか”が一番大事だから。そこが立ってる迷宮は、多少ぶれても強いよ”



「……」


 余は少しだけ笑った。


 見透かされている。


 だが、嫌ではない。


「うむ」

《良い助言です》

「そうだな」


 もう一つは、灰冠のロードからだった。



【“灰冠のロード”より】


“再評価で問われるのは強さだけではない。継続性、独自性、伸び筋だ。お前の迷宮が“何をさせない迷宮”か、そこを見失うな”



「……」


 継続性。


 独自性。


 伸び筋。


 そして、“何をさせない迷宮”か。


 良い。


 非常に良い。


 迷靄洞は侵入者に、正しく選ばせない。


 帰らせない、というより、正しく帰らせない。


 それが今の核だ。


「管理音声」

《はい》

「定義する」

《はい》


 余は、白い部屋の中央で静かに立ち、誰に聞かせるでもなく言葉を置いた。


「迷靄洞は、侵入者に正しく選ばせぬ迷宮である」

 湿り。

 灯り。

 帰路。

 迷い。

「進む判断も、退く判断も、信じる判断も、迷わせて裂く」

 それが迷靄洞。

「余は、その主だ」


《……》

「何だ」

《かなり良いです》

「そうか」

《はい》


 自分でも、悪くないと思った。


 それは飾った言葉ではなく、今の迷靄洞の実態に沿っている。しかも、これから伸ばす方向もそこにある。


 外周を広げるにせよ。


 層を増やすにせよ。


 新しい顔ぶれを加えるにせよ。


 “正しく選ばせない”という核に沿っていれば、迷靄洞はぶれずに大きくなれる。


 それはかなり大きい。


「……よい」


 余はようやく、少し落ち着いた。


 再評価が怖いことは変わらぬ。


 比べられることも、結果がどう転ぶか分からぬことも変わらぬ。


 だが、何として見られたいかが定まった。


 ならば、あとは主として盤に立つだけだ。


「グズ」

「ギィ?」

「起きておるか」

「ギィ」

「明日からも、横に立て」

「ギィッ」

「鼠」

「チチッ」

「切るべき時だけ切れ」

「チチッ」

「ゆら灯蛍」

 ふわりと灯りが揺れる。

「おぬしらは出口ではない。だが、そう見えよ」


《配下への認識共有》

「格好よく言うな」

《事実です》


 余は、迷宮の隅々を見た。


 どれもまだ小さい。


 赤泥蟻穴の正式観測のような、派手な格はまだない。


 だが、迷靄洞は迷靄洞として立っている。


 湿っただけの穴ではない。


 帰りが嫌なだけの穴でもない。


 侵入者の判断を裂き、正しく選ばせぬ迷宮として。


 その主として。


「……若い牙」

 余は静かに呟いた。

「おぬしが前から命を取りにいくなら」

 窓の向こう、ゆら灯蛍が揺れる。

「余は、選択を奪ってから喰う」


 言い切った後、少しだけ沈黙があった。


 だが今度の沈黙は、迷いのものではない。


 腹の底へ、静かに芯が落ちる感覚だった。


《王っぽいです》

「……そうか」

《はい》

「なら、悪くない」


 その夜、余は久しぶりに、白い部屋をぐるぐる歩き回るのをやめた。


 窓の前に立ち、迷靄洞の暗がりを静かに見下ろす。


 湿り。


 苔。


 鼠。


 茸。


 ゴブリン。


 灯り。


 全部が、自分の盤だ。


 全部が、自分の迷宮だ。


 そしてこの迷宮は、ようやく“どう上へ行くか”を自分の言葉で持ち始めた。


 それだけで、怖さの形が少し変わる。


 消えはしない。


 だが飲まれもしない。


「……来るなら来い」


 小さく呟く。


 最初の頃のような、慌てて叫ぶ声ではない。


 まだ内心ではかなり緊張している。


 だが、その緊張を外へ垂れ流さず、主として受け止めようとする声だった。


 迷靄洞は、再評価を待つ。


 若い牙と並べられる日を。


 比べられ、測られ、名を問われる日を。


 その前夜、余はようやく胸を張って言えた。


 ――余は、迷靄洞のロードである。



翌朝、新聞が開く前に、外周の鼠が一つの気配を拾った。


 街道からではない。


 森縁からでもない。


 もっと静かに、もっとまっすぐ迷靄洞へ向かってくる足音。


 それは、これまでのどの侵入者とも少し違っていた。


「……?」


《新規接近反応》

「何だ」

《不明》

「人間か」

《……判別困難です》


 余は、白い部屋の窓へ身を乗り出した。


 暗い森の向こう。


 まだ姿は見えぬ。


 だが確かに、何かが迷靄洞を目指して来ている。


 再評価の朝に。


 まるで、試すように。

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