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32話 比較ではなく指名で来る者

迷靄洞に“灯りが出口に見える”という噂が乗った翌日から、周辺の空気は少し変わった。


 前までは、赤泥蟻穴を見るついでに寄る者。


 比較材料として軽く覗く者。


 あるいは町で聞いた噂の真偽を確かめるだけの者。


 そういう流れが多かった。


 だが今は違う。


 新聞の短報にも、人間側の噂にも、“微光誘導”“誤誘導”“出口に見える灯り”という分かりやすい見出しがついてしまった。


 そして人間というものは、分かりやすい異常を聞くと、確かめたくなる。


 とくに、自分なら対処できると思っている者ほど。


「……嫌な流れだな」

《はい》

「それだけ目立ってきた証でもある」

《はい》

「嬉しいような、嫌なような」

《毎回それを言っています》

「知るか」


 だが、本当に毎回そうだった。


 上へ行くとは、見られることだ。


 見られるとは、攻略したがる者を呼ぶことだ。


 その理屈を、余はようやく骨で理解し始めている。


 そして、その日の昼過ぎ。


 迷靄洞へ向かう三人組を見た瞬間、余は静かに背筋を固くした。


 ――違う。


 今までの連中と、明らかに違う。


 前衛は片手剣と丸盾。


 中衛は細身の槍使い。


 後衛は短杖を持った、眼の細い術者。


 装備の質も一段上だが、それ以上に歩き方が違う。全員が“何を見に来たか”を共有している足取りだった。


「管理音声」

《はい》

「来たな」

《はい》

「比較ではない」

《はい》

「指名だ」


 三人は入口前で止まり、迷靄洞の暗がりを見た。


 そこで最初に口を開いたのは、術者だった。


「ここが迷靄洞だ」

「“灯りで帰路をずらす”ってやつか」

 槍使いが鼻を鳴らす。

「なら話は早い。灯りを信用しなければいい」

 盾持ちが落ち着いて言う。

「帰路は印を取る。壁は触らない。視線は床と仲間優先」

「胞子対策も一応ある」

 術者が小瓶を見せる。

「長居しない。浅く見て、仕掛けだけ剥がす」

「……」


 余は白い部屋で、無言になった。


 嫌だ。


 実に嫌だ。


 対策してきている。


 しかも、“攻略する”というより“仕掛けを見切りに来る”感じがある。こういう相手は厄介だ。感情で崩れにくい。迷靄洞の色を“異常現象の整理”として処理しようとする。


「かなり嫌だな」

《はい》

「だが、面白くもある」

《はい》


 そう、面白い。


 今までより一段上の相手が、しかも迷靄洞を目的に来た。


 これは怖い。


 だが、逃げても消えぬ。


 ならば噛み合うしかない。


「全体配置、再確認」

《はい》

「今の三人、灯りだけでは崩れぬ」

《同意します》

「帰路圧に、別の迷いを重ねる」

《具体的には》

「“分かっているつもり”を崩す」

《妥当です》


 重要なのはそこだった。


 この三人は、灯りを警戒している。


 ならば灯りだけで勝とうとするのは浅い。


 “灯りを見ない”と決めた者に、別方向から迷いを差し込まねばならぬ。


 視線を床へ置くなら、足元。


 壁を触らぬなら、仲間との位置。


 印を取るなら、その印の意味を揺らす。


「……印」

《はい》

「こやつら、壁か床に目印を置くつもりだ」

《可能性高》

「なら、その“置いた安心”を腐らせる」

《良い読みです》


 余はすぐ、鼠へ新しい指示を飛ばした。


「細穴沿いに、小石を散らせ」

「チチッ」

「わずかでよい。印と紛れる程度に」

「チチッ」

「ゴブリンは石を動かすな。今日は絶対だ」

「ギィッ」

「茸は深追いするな。咳は一度でよい」

《準備完了》


 三人は、予想通り慎重に入ってきた。


 盾持ちが先。


 槍使いが半歩後ろ。


 術者が最後尾で周囲を見る。


 入り口からすでに、剣呑なほど整っている。


「足元、ぬめりあり」

「細穴多し」

「灯り確認なし」

「浅いからまだ出ないだけだ。気を抜くな」


 盾持ちが、壁の目立たぬ位置へ白い粉のような印をつけた。


 なるほど。


 これで戻りの位置関係を見るつもりか。


 悪くない。


 悪くないが――迷靄洞相手には、その悪くなさが命取りにもなる。


「鼠、右沿い」

「チチッ」


 印の周辺へ、小石を一つ、二つ。


 明らかではない。


 だが、“さっきからこれがあったか”を一瞬迷う程度に散らす。


 さらにもう少し進ませる。


 灯りはまだ出さぬ。


 ゴブリンも見せすぎぬ。


 今は、“仕掛けが少ないように見える時間”が必要だ。


 槍使いが小さく言った。


「……思ったより素直だな」

「だから怖い」

 術者が即答する。

「素直に見える時ほど、何かある」

「同意だ。あと数歩で返す」


「……」


 余はその会話を聞き、むしろ少し安心した。


 警戒している。


 それは厄介だ。


 だが同時に、“怖いと分かっているから早く返したい”という意思がもう出ている。つまり、帰路の判断が頭に入っている。


 帰路が頭にある相手は、迷靄洞の盤へ乗る。


「灯り、端で一度だけ」

《ゆら灯蛍、視界外縁へ配置》


 新小部屋手前の、正線から外れた右壁寄り。


 視界の端にだけ、薄く青白い揺れが出る。


 術者がすぐ反応した。


「出た。右」

「見るな」

 盾持ちが言う。

「記録だけ。進路は変えない」

「了解」


 変えない。


 よろしい。


 ならば次だ。


「鼠、左から斜め」

「チチッ!」


 今度は逆側から走らせる。


 槍使いの意識が一瞬そちらへ散る。


 その間に、ゆら灯蛍がもう一度ひと揺れする。


 盾持ちは進路を保とうとするが、槍使いが僅かに間合いをずらした。


「距離崩すな」

「分かってる」


 分かっている。


 だが、ずれる。


 今の三人は自分たちでずれを修正できる。そこが強い。


 ならば、その修正そのものへ圧をかける。


「茸、薄く」

《実行》


 胞子がわずかに流れる。


 術者がすぐ口元を覆う。


「引く」

「まだ浅い」

「浅いから引くんだ」


 よい。


 撤退判断は速い。


 それでいい。


 迷靄洞は、引いた後に噛む。


 三人は戻り始めた。


 盾持ちが先頭のまま、さきほどの白い印を視界へ入れようとしているのが分かる。


 そこで余は、鼠と小石で作った“紛れ”を効かせた。


 印の近くへ、小さな白っぽい石片が幾つか増えている。


 微妙だ。


 だが微妙だからこそ迷う。


「……印、あれだな」

 槍使いが言う。

「いや、一つ手前だ」

 術者が返す。

「右壁の高さを見ろ」

「灯りを見るな!」

 盾持ちが抑えるように言う。


 素晴らしい。


 実に素晴らしい。


 三人とも正しいことを言っている。


 そして、正しいことが三つ並ぶと、人は少し遅れる。


「今だ」

《灯り、正線外へ一段流し》


 ゆら灯蛍が、出口方向と“似ているが少し違う”位置で揺れる。


 槍使いが反射でそちらを見た。


「……っ」

「見るなと言った!」

「違う、見たんじゃなくて――」


 言い訳の途中で、槍使いの足が泥を踏み外す。


 転びはしない。


 だが一拍遅れる。


 その一拍で、隊列が縦に伸びる。


 迷靄洞において、それは致命的な崩れだ。


「グズ、見せるだけ!」

「ギィッ!」


 右壁寄りにグズの影が立つ。


 盾持ちが反応し、丸盾をわずかにそちらへ振る。


 正面が空く。


 そこへ、今度は左から鼠。


「くそっ」

「前見ろ、前!」

「印が分から――」


 術者の声が、そこで僅かに切れた。


 咳ではない。


 迷いだ。


 印を見るか。


 仲間を見るか。


 灯りを無視するか。


 足元を優先するか。


 全部正しい。


 全部必要だ。


 だから、全部はできない。


「……ここだな」


 余は静かに呟いた。


 今までの相手は、感情で崩れた。


 だがこの三人は違う。“整理しようとして崩れる”。


 それが見えた。


 ならば勝てる。


「茸、もう一度は使うな」

《了解》

「灯り、消すな」

《維持》

「鼠、追うな、切るだけ」

《了解》


 盾持ちはさすがに強かった。


 完全には崩れぬ。


 後ろへ怒鳴りつつ、自分だけは正線を維持しようとする。あれが隊の芯だ。


 だが、芯があるからこそ、その後ろのズレが目立つ。


 槍使いは印を見失いかけ、術者は灯りを見ぬようにするほど視界の端へ意識を取られ、結果として足元確認が一瞬遅れる。


 そこで苔。


 術者の靴がわずかに滑った。


「っ、うわ」

「止まるな!」

「止まってない!」


 止まっていない。


 だが、止まりかけた。


 その“かけた”が、迷靄洞の餌だ。


 最後に、入口手前。


 出口の明かりが本当に見える位置まで来たところで、ゆら灯蛍がまだ視界の端に残っていた。


 人間にとって、それは非常に嫌だ。


 本物の出口光と、偽物の安心光が同時に見える。


 どちらも見える。


 だから、一瞬だけでも比べてしまう。


 その比べる時間が、迷靄洞の勝ち筋になる。


「外だ、走れ!」

「走ってる!」

「右見るな!」


 三人はついに、ほとんど崩れかけながら外へ出た。


 全滅ではない。


 取り切ってもいない。


 だが、余には十分だった。


 強い相手だった。


 迷靄洞を目的に来た。


 灯り対策もしていた。


 それでも、“分かっているつもり”の継ぎ目へ迷いを差し込めた。


「……」

《勝ちです》

「うむ」

《かなり大きい》

「うむ」


 しかも、外での会話が実によかった。


 術者が息を整えながら、低く言ったのだ。


「灯りが罠なんじゃない」

「……?」

 槍使いが荒く息を吐く。

「あれは、こっちの“分かってるつもり”に刺してくる」

 盾持ちが苦い顔で頷いた。

「対策していったはずなのに、対策の方を使って迷わされた」


「……」


 余は、その言葉を聞いてゆっくり目を閉じた。


 そうだ。


 そこだ。


 灯りそのものではない。


 灯りを警戒する。


 印を取る。


 仲間を守る。


 足元を見る。


 その全部の“正しさ”が、かえって迷いに変わる。


 そこまで含めて迷靄洞なのだ。


「管理音声」

《はい》

「見えたな」

《はい》

「迷靄洞の次の核が」

《はい》


 灯りは出口に見える。


 だが本当の核は、もっと悪い。


 出口だと思いたい心を揺らし、しかも対策したつもりの思考へ噛みつく。


 それはただの誘導ではない。


 “理解の攪乱”に近い。


「……」


 その夕方、新聞の短報は、これまでで一番はっきりと迷靄洞を取り上げた。



【地域短報】

・“迷靄洞”を目的とした三名調査帰還

・生還者所見:“対策したつもりの判断が、そこで崩される”

・“帰路圧”“誤誘導”に加え、“判断攪乱型低位迷宮”として評価上昇



「……判断攪乱型」

《良い分類です》

「うむ」


 かなり良い。


 非常に良い。


 迷靄洞は今や、ただ湿って嫌な穴ではない。


 帰路を崩し、灯りを偽り、しかも“分かっているつもり”へ噛みつく迷宮として、名前を持ち始めている。


 その時、交流欄もいつになく騒がしかった。



【交流欄・短報】

・“朽縄井戸”井守:あー、そこまで行ったか。いいね

・“玻璃宮の姫”:陰湿から、ようやく洗練された悪意になりましたわね

・“誰か”:低位で判断攪乱って珍しいな

・“灰冠のロード”:並び立つ条件の一つは満たした

・“赤泥蟻穴”:小細工で偉そうにするな

・“迷靄洞”:牙は肉を裂く。迷いは判断を裂く。それだけの違いである



「……」


 送ってから、余は少しだけ黙った。


 かなり良い返しだ。


 そして、少しだけ自分でも驚いていた。


 前なら、もっと感情で返していたかもしれぬ。“小細工ではない”と叫ぶだけで終わっていたかもしれぬ。


 だが今は違う。


 自分の色を、一行で言える。


 牙は肉を裂く。


 迷いは判断を裂く。


 その差を、余はようやく言葉にできるようになった。


《かなり王っぽいです》

「そうか」

《はい》

「……少し照れるな」

《把握しました》


 その返しを見ながら、余は静かに窓の向こうを見た。


 迷靄洞は暗い。


 ぬめる。


 迷う。


 そして今、薄い灯りが揺れている。


 だがその灯りの先にあるものは、もはや単なる滑りや咳ではない。


 理解の揺れだ。


 判断の裂け目だ。


 それを持てたなら、迷靄洞は若い牙と違う形で、確かに一段上へ踏み込める。


「……よい」


 その時だった。


 新聞が、不意に低く震えた。


 交流欄でも短報でもない。


 もっと重い、通知音だった。


《号外です》

「何だ」


 紙面が、ゆっくりと開く。



【号外】

・“赤泥蟻穴”正式観測結果、近日公開予定

・併せて、辺境低位迷宮群の再評価が検討中

・対象候補に“赤泥蟻穴”“迷靄洞”ほか数件



「……」


 余は、その文字を見たまま固まった。


 再評価。


 対象候補。


 迷靄洞。


「管理音声」

《はい》

「来たか」

《はい》

「本当に、来たな」

《はい》


 赤泥蟻穴と並ぶかどうか。


 その条件を考えたばかりのところへ、“迷靄洞も含めた再評価”の報せが来る。


 偶然にしては、できすぎている。


 だが盤とはそういうものだ。


 整った時に、次の波が来る。


 逃がしてはならぬ波が。


「……」


 余は、静かに新聞を握るような気分になった。


 怖い。


 だが、それ以上に熱い。


 迷靄洞は今、本当に“比較ではなく、名で見られる迷宮”へ踏み込みつつある。


 その結果が、次で問われるのだ。

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