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25話 名を持たぬ迷宮

若い牙との応酬が一段落した、その夜だった。


 白い部屋で新聞を流し読みしていた余は、何でもない一文に、妙に引っかかった。



【地域短報】

・近隣低位迷宮の個性差が話題に

・“赤泥蟻穴”と“湿臭洞窟(仮称)”の比較が増加

・一部で「湿った方」「臭う方」と通称される例も



「……」


 余はしばらく、その文面を眺めた。


 湿った方。


 臭う方。


「……何だそれは」

《通称です》

「雑だな」

《人間側でも似たような呼ばれ方が広がる可能性があります》

「やめよ」


 だが、やめよと言って止まるものではない。


 名前のないものは、周囲が勝手に呼ぶ。


 それは迷宮でも同じらしい。


 今の余の迷宮は、新聞上ではずっと“湿臭洞窟(仮称)”で通っている。最初はそれでよかった。名乗る余裕もなかったし、そんなことを考える暇があれば一匹でもゴブリンを増やしたかった。


 だが今は違う。


 少なくとも、周囲が“比較する対象”としてこちらを見る程度には、余の迷宮は輪郭を持ち始めている。


 ならば――


「名、か」


《重要です》

「そうなのか」

《はい。迷宮の印象、取引時の識別、新聞上の定着、人間側での噂の拡散形態などに影響》

「最後の方、急に実務的だな」

《本質です》


 余は、少しだけ黙った。


 名前。


 ただの飾りではない。


 印象を定着させる器。


 迷宮の色を、一つの言葉へ押し込めるもの。


 そして何より、主である余自身が“何として立つか”を決めるものだ。


「……」


 急に、少し怖くなった。


 名を持つということは、逃げ道が一つ減ることでもある。


 湿臭洞窟(仮称)なら、まだ定まっていない余地がある。だが名をつければ、その名に迷宮が寄っていく。あるいは、寄せねばならぬ。


 それは重い。


「管理音声」

《はい》

「まだ早いと思うか」

《いいえ》

「……そうか」

《むしろ、今まで仮称で押し切ってきた方が珍しいです》

「そういうことはもう少し柔らかく言えぬのか」


 だがその通りでもある。


 若い牙は最初から赤泥蟻穴だった。


 井守は朽縄井戸。


 玻璃宮の姫にしても、灰冠のロードにしても、皆それぞれ“何であるか”を名に滲ませている。


 余だけがいつまでも(仮称)では、たしかに落ち着かぬ。


 しかも、今の余の迷宮はもう、ただ湿って臭うだけの穴ではない。


 足を止める。


 息を乱す。


 視界を曇らせる。


 道を狂わせる。


 そうして気づけば喰っておる。


 その色がある。


「……名は、その色をまとめるものか」

《はい》

「難しいな」

《だから主が決めるのです》


 余は新聞を閉じ、迷宮全体を見渡した。


 入口から新小部屋までの導線。


 旧小部屋の湿り。


 壁を這う苔スライム。


 気配だけを散らす鼠。


 咳を誘うポフキノコ。


 そして、乱れた足跡の残る床。


 赤泥蟻穴のような分かりやすい攻勢ではない。


 だが、こちらにはこちらの色がある。


「湿り……臭い……泥……」


 ううむ。


 そのまま並べると、あまり格好よくない。


 いや、格好よさが必要なのかは分からぬが、それにしても何かもう少しあるだろう。


「“泥臭洞”」

《却下を推奨します》

「早いな」

《臭気しか残りません》

「うむ、たしかに」

「“湿苔窟”」

《やや弱いです》

「“曇足洞”」

《意味は分かります》

「褒めておらぬな?」

《はい》


 余は思わず白い部屋をぐるぐる歩き始めた。


 無駄な行動である。


 だが、こういう時に歩くと少し頭が回る。


「余の迷宮は、何を一番象徴すべきだ」

《選択肢としては三つあります》

「申せ」

《環境そのものの嫌らしさ》

「うむ」

《侵入者の崩れ方》

「うむ」

《主としての思想》

「……」


 最後が少し刺さった。


 主としての思想。


 つまり、“どう勝つか”を名に乗せるということか。


 余はもう一度、あの言葉を思い出す。


 足を止める。


 息を乱す。


 視界を曇らせる。


 道を狂わせる。


 そして気づけば喰っておる。


 これは何だ。


 ただの湿りか。


 いや、違う。


 これは“迷わせる”迷宮だ。


 進むにも戻るにも、不快で、曖昧で、選び損ねる。


 侵入者はここで、自分の足と判断をずらされる。


「……迷い、か」


《中核概念として妥当です》

「臭いではなく」

《結果として臭いはあります》

「台無しにするな」


 だが、迷い。


 それは悪くない。


 余の迷宮は、相手を一撃で砕くのではなく、“迷わせて崩す”のだ。ならば、その本質はそこにある。


「“迷湿洞”……いや、少し硬い」

《音としては弱いです》

「“迷い湿り”……違うな」

《通称感が強いです》


 難しい。


 非常に難しい。


 その時、ふと、壁際の苔スライムへ視線が止まった。湿りを抱えた苔。曇る足場。迷う導線。全部が“靄”のように輪郭をぼかしている。


「……靄」

《はい》

「靄窟……いや」

「“迷靄洞”」

《……》

「何だその間は」

《悪くないです》

「本当か」

《湿り、曇り、迷い、視界不良、導線攪乱。中核要素を一語に近い形で含めています》

「うむ……」


 迷靄洞。


 めいあいどう。


 音も悪くない。


 “迷い”と“靄”が重なる。視界が曇り、判断が曖昧になる感じも出る。しかも、臭いとか湿りを直接言わずに、ちゃんとそれらを含んでいる。


 余は何度か小さく口に出した。


「迷靄洞」

「……迷靄洞」

「うむ」


 だんだん、しっくりしてくる。


 派手すぎぬ。


 だが弱くもない。


 余の迷宮の色に合っている。


「管理音声」

《はい》

「新聞上の仮称を正式名へ変更する場合、手続きは」

《簡易登録可能です。ロード本人の意志確認で足ります》

「思ったより軽いな」

《名を持つ責任は軽くありません》

「……その言い方は少し格好いいな」


 余はもう一度、窓の向こうを見る。


 湿った床。


 ぬめる壁。


 迷う足。


 曇る視界。


 そして、ここで崩れていった侵入者たちの痕跡。


 迷靄洞。


 悪くない。


 いや、かなりよい。


 問題は――余がその名を背負う覚悟を、持てるかどうかだ。


「……」


 沈黙が落ちた。


 こういう時、余はまだ少し臆病だ。


 名を持つというのは、堂々とするということだ。余はまだ、内心ではかなり慌てやすい。小物っぽく叫びたくなる瞬間もある。予定外は今でも怖い。


 だが、それでも。


 配下の前では堂々としようとしている。


 新聞の向こうで言葉を選ぶようになった。


 盤面を見るようになった。


 ならば、いつまでも(仮称)ではいられぬ。


「……決める」


《確認しますか》

「うむ」


 余は深く息を吸うような気分で、言った。


「余の迷宮の名は――迷靄洞だ」


《登録します》

「待て」

《はい》

「……やはり“洞”では少し狭いか?」

《修正しますか》

「いや、待て、ううむ……」

《迷っています》

「うるさい!」


 そう、迷っている。


 名を決める段になって、最後の最後でまた迷う。実に余らしい。だが、その迷いを経てなお選ぶことに意味があるのかもしれぬ。


 洞でよい。


 余の始まりは洞窟だ。


 迷宮といえるほどまだ広大ではない。


 今の余に“大宮”だの“城”だのは似合わぬ。


 ならば、洞でよい。


「……よい。迷靄洞でいく」

《確定します》

「うむ」


 白い紙面が、静かに一度だけ光った。



【登録完了】

迷宮正式名称:迷靄洞

旧表記:湿臭洞窟(仮称)



「……」


 余は、しばらくその表示を眺めていた。


 不思議な気分だった。


 何かが劇的に変わったわけではない。


 ゴブリンは相変わらず少し臭う。


 鼠は走る。


 茸は膨らむ。


 苔スライムは壁を這う。


 何一つ急に格上になったわけではない。


 だが、それでも確かに変わった。


 この迷宮は、もう“仮の穴”ではない。


 余の迷宮として、一つの名を持った。


「……迷靄洞」

 改めて口にする。

「うむ」


 悪くない。


 とても悪くない。


 その時、交流欄へ自動で小さな通知が流れた。



【名称更新】

旧“湿臭洞窟(仮称)”

→ 新“迷靄洞”



 すると、驚くほど早く反応が来た。



・“朽縄井戸”井守:お、ようやく名前ついた

・“玻璃宮の姫”:遅すぎますわ

・“誰か”:前よりだいぶいい

・“灰冠のロード”:悪くない

・“赤泥蟻穴”:名だけ整えても中身が追いつかねば滑稽だ



「……」


 最後の一言を見て、余は鼻で笑った。


「言うではないか、若い牙」

《どう返しますか》

「返さぬ」

《珍しいですね》

「名は言葉遊びで守るものではない」

《はい》

「盤で追いつかせる」


 言いながら、自分でも少し驚いた。


 以前なら、ここで絶対に何か返していた。


 名だけではない、余はこういう迷宮だ、などと喋りたくなったかもしれぬ。


 だが今は違う。


 名はもう置いた。


 ならば、それを実態で満たしていく方が大事だ。


「……余も少しは変わったな」

《かなり》

「そうか」


 さらに個別通知が一つ。


【“朽縄井戸”井守 より】



“迷靄洞、いいじゃん。湿っぽいのに臭いだけじゃない感じ出てる。あとね、名前つくと人間側の噂も定着しやすいから、ここから先ちょっと面白くなるよ”



「……人間側の噂も、か」


 たしかにそうだ。


 湿った方、臭う方、ではぼやける。


 だが“迷靄洞”という名が広がれば、人間はそこへ物語を足し始めるだろう。迷う。靄。曇る。嫌な洞窟。そういう噂が、こちらの色に沿って積み重なる。


 名前は看板であると同時に、噂の器でもあるのだ。


「管理音声」

《はい》

「名をつけた途端、背負うものが増えた気がする」

《その認識は正しいです》

「重いな」

《はい》

「だが、嫌ではない」


 それは本心だった。


 怖い。


 重い。


 だが、嫌ではない。


 それはたぶん、余が少しずつ主になっているからだ。


 ただ生き残るために慌てていた頃の余なら、名前など余計な重荷だったろう。だが今は違う。迷宮の形が見え、その色が定まり、その上で名を持つ。


 これは成長だ。


「……よい」


 窓の向こう、湿った洞窟――いや、迷靄洞を見渡す。


 名を得たからといって、明日から急に強くなるわけではない。


 若い牙との盤もまだ続く。


 外周は不安定で、侵入者は予定外に流れてくる。


 だが、それでも一つだけ確かなことがある。


 余の迷宮は、もう“仮称”ではない。


 どこへ伸びるか分からぬ曖昧な穴ではなく、迷わせ、曇らせ、崩す迷宮として一歩立った。


「迷靄洞」

 もう一度、静かに呟く。

「ここからだ」


 その声は、ほんの少しだけ王のそれに近づいていた。

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