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第24話 若い牙の返礼

井守の言う通りだった。


 若い牙は、黙って飲み込むような主ではなかった。


 新聞で言葉を取り返せぬなら、現場で取り返す。


 しかも“見える形”で。


 それがどういう意味かを、余は二日後には思い知ることになる。


 朝の外周監視で、まず異変があった。


 赤泥蟻穴寄りの森縁に、複数の死骸が並んでいたのだ。


 野犬崩れ一。


 角兎二。


 大きめの森鼠三。


 どれも派手に食い散らかされてはいない。むしろ、わざと見えるように置かれている印象だった。


「……何だこれは」

《意図的な痕跡誇示の可能性》

「誇示」

《はい。狩猟圧、縄張り圧、外周支配の視覚化》


 なるほど。


 これが“見える形”か。


 蟻の流れや足跡の偏りは、気づく者にしか見えぬ。だが死骸は違う。採集者でも、駆け出しでも、子供でも分かる。


 ここは危ない。


 ここは何かが強い。


 そういう印象を、理屈抜きで植えつける。


「……あやつ、分かりやすく来たな」

《はい》

「若い」


 だが若いだけではない。


 賢い。


 少なくとも、新聞の向こうで“質”を語った手前、現場でも“こちらは半端を食っているだけではない”と示したかったのだろう。


 そしてたぶん、それは効く。


 人間は視覚に弱い。


 血の跡、死骸、踏み荒らされた地面。そういうものを見ると、説明抜きで危険を感じる。良くも悪くも、そちらへ“迷宮の実在感”が寄るのだ。


「管理音声」

《はい》

「嫌だな」

《はい》

「効く手だ」

《はい》

「嫌だな」

《重ねなくても理解しています》


 余はしばらく死骸を見ていた。


 苛立つ。


 同時に、学びもある。


 外周支配は、流れを動かすだけでは足りぬ。“見せる”ことで盤面を押す手もあるのだ。


 しかも、赤泥蟻穴は自分の色に合ったやり方でやっている。蟻穴の周囲に死骸。分かりやすく、野生的で、飢えを感じさせる。


 まさしく若い牙の返礼だった。


 そして、その日の昼にはさらに分かりやすい変化が出た。


 採集者らしい二人が森縁で死骸を見つけ、露骨に怯えているのが鼠越しに映ったのである。


「……見ろよあれ」

「やばいって、あっち絶対なんかいる」

「虫穴って聞いてたけど、こんな……」

「今日はもう戻るか」

「いや、戻るのも癪だし、別の穴探す?」


「……」


 余は眉をひそめた。


 別の穴。


 つまりこちらへ流れる可能性がある。


 赤泥蟻穴は“危険そうに見せる”ことで、自分の格を上げたいのだろう。だがやりすぎれば、前と同じく流れを押しすぎる。


「相変わらず加減が粗いな」

《若さです》

「言い方が便利すぎる」


 だが、前回と違うのは“印象”だ。


 赤泥蟻穴は今、単に嫌な穴ではない。“獲る穴”として見え始めている。だから人間は怖がりつつも、上を狙う者は興味を持つかもしれぬ。


 それが厄介だ。


 半端者は逃げる。


 だが、少し欲のある者は寄る。


 質の選別としては、たしかに筋が通っている。


「……盤を一段上げてきたな」

《はい》


 その直後、地域短報が更新された。



【地域短報】

・“赤泥蟻穴”周辺にて複数小型魔物死骸の確認

・採集者間で「近寄りがたいが、何か育っている」との声

・一部冒険者に興味を示す動きあり



「……」


 余は静かに紙面を閉じた。


 来た。


 これが返礼だ。


 新聞の向こうで立った余へ対し、赤泥蟻穴は現場で“見える実績”を置いてきた。しかも短報に拾われる形で。


 悔しいが、上手い。


 そして腹立たしい。


「管理音声」

《はい》

「何か言え」

《上手いです》

「知っておるわ!」


 だが、ここで感情で飛びつけば負ける。


 灰冠のロードは言った。紙面で勝つな。盤で勝て。


 ならば今やるべきは、相手の“見える形”に対して、こちらも見える形を作ることか。


 ――いや、違う。


 余の迷宮は、ああいうやり方ではない。


 死骸を並べるのは赤泥蟻穴には似合う。余にやると、急に似合わなくなる。湿りは、牙の誇示とは違う。余はもっと別の形で盤を引くべきだ。


「……余らしい返しを考える」

《妥当です》

「死骸ではない」

《はい》

「何を見せる」

《“ここへ入るとこうなる”の印象を見せる方向かと》


 その言葉に、余は少し考え込んだ。


 ここへ入るとこうなる。


 つまり、死体ではなく“崩れ方”を見せる。


 湿臭洞窟は、足を止め、息を乱し、視界を曇らせ、道を狂わせる迷宮だ。ならば見せるべきは、食い荒らされた死骸ではない。“無様に逃げる痕跡”かもしれぬ。


「……」


 逃走痕。


 滑って転んだ跡。


 落とした荷。


 壁に残る手形。


 泥に刻まれた乱れた足跡。


 それらは“ここは嫌だ”を物語る。


 しかも、余の迷宮らしい。


「よい」

《方向性確認》

「死骸は向こうに任せる。余は、崩した痕を残す」


 その時、監視鼠が別の動きを拾った。


 赤泥蟻穴寄りから、二人組の冒険者が近づいてくる。


 今度は採集者崩れではない。


 軽鎧。


 短槍と斧。


 装備も歩き方も、これまでよりまともだ。


 しかも会話がまずい。


「死骸があるなら、当たりだな」

「ああ。低位でも獲れる穴は育つ」

「湿った方は?」

「後回しでいいだろ。虫の方が上に見える」


「……」


 余は無言で、その言葉を聞いた。


 上に見える。


 つまり、赤泥蟻穴の狙い通りだ。


 “自分は質の高い相手を呼べる穴だ”という印象が、すでに少し効き始めている。


「腹が立つな」

《はい》

「だが分かる。効いておる」

《はい》


 その二人は、赤泥蟻穴の方へ消えていった。


 湿臭洞窟には寄らない。


 今この瞬間、盤では相手が一歩進んでいる。


 それを認めたくはないが、認めねば読めぬ。


「……盤を取られたか」

《一部では》

「全部ではない」

《はい》

「なら、まだ返せる」


 だが、どう返す。


 死骸で張り合わぬ。


 吠え返さぬ。


 なら何で。


 そう考えていた矢先、今度は別方向から三人組が現れた。


 こちらはまた半端だ。


 森の採集と穴覗きを兼ねたような軽装。しかも、森縁の死骸を見て明らかに萎えている。


「やっぱ赤い方やめようぜ」

「でも手ぶらもなあ」

「じゃ、湿った方だけ覗いて帰る?」

「……軽くだけだぞ」


「……来たか」


 これだ。


 赤泥蟻穴が上を寄せ、半端を流す。


 盤面の両側がはっきり出た。


 そして、その半端な三人がこちらへ向く以上、余には“それを一手に変える”仕事がある。


「管理音声」

《はい》

「ここで雑に追い返すだけでは駄目だ」

《はい》

「見える形を残す」

《崩れの痕跡ですね》

「うむ」


 余は即座に指示を組む。


「グズ」

「ギィ」

「入口から新小部屋までで崩せ。だが、荷を落とさせろ。入口近くにも乱れを残せ」

「ギィ?」

「分からぬなら、とにかく急かしすぎるな。逃げ腰にしてから押せ」

「ギィッ」

「鼠は前後を切れ。茸は咳を誘うだけでよい。苔は壁へ寄せる」

《指示明確》


 三人組は、いつものように軽い気持ちで入ってきた。


 だが、森縁の死骸を見た後だ。心のどこかで赤泥蟻穴の気配を引きずっている。つまり、意識はすでに乱れ気味だ。


 余はそれを静かに、丁寧に崩す。


 入口でゴブリンを見せすぎない。


 鼠で後ろを気にさせる。


 前へ進めば湿り、戻ろうとすれば苔、迷えば茸。


 たったそれだけで、三人はすぐ険悪になった。


「だから軽くだけって言ったろ!」

「軽いの範囲超えてる!」

「うわ、壁ぬるっ!」

「押すなって!」

「咳っ、なにこれ!」


 最後に、一人が革袋を落とす。


 中の小道具が泥に散る。


 もう一人が滑って手形を壁に残す。


 そして三人とも、入口付近でほとんどもつれながら逃げ出していった。


「……よし」

《痕跡良好です》

「言い方」


 だが事実、良好だった。


 入口近くには散らばった小道具が一つ残った。


 泥には乱れた足跡が深く刻まれた。


 壁には焦ってついた手形がある。


 派手ではない。


 死骸のような分かりやすい強さではない。


 だが、“ここへ入ると無様に崩れる”という印象を残すには十分だ。


「管理音声」

《はい》

「これが余の返礼だ」

《迷宮らしい返しです》

「うむ」


 その日の夕方、短報はきっちりそれを拾った。



【地域短報】

・“湿臭洞窟(仮称)”周辺にて、逃走痕と落下荷の散乱確認

・生還者証言:“中で何がいたか分からないのに、とにかく嫌だった”

・近隣低位迷宮の個性差が話題に



「……」


 余はその文面を見て、静かに息を吐いた。


 勝った、とは言わぬ。


 だが、返した。


 赤泥蟻穴は死骸で“獲る穴”を見せた。


 余は崩れた痕で“嫌な穴”を見せた。


 どちらが上かではない。色が違うのだ。そして色が違えば、寄ってくる相手も違う。


「個性差、か」

《悪くないまとめです》

「新聞らしいな」


 交流欄もじわりと動く。



【交流欄・短報】

・“朽縄井戸”井守:ご近所戦争、ちゃんと色が出てきたね

・“玻璃宮の姫”:片や下品、片や陰湿ですわね

・“誰か”:わかりやすい

・“灰冠のロード”:ようやく迷宮同士の戦いになってきた

・“赤泥蟻穴”:陰湿なだけでは上へは行けぬ

・“湿臭洞窟(仮称)”:牙が見えても、足が滑れば噛み切れぬ



「……」


 送ってから、余は一瞬だけ固まった。


「少し早まったか」

《いいえ》

「本当か」

《短く、形に沿っています》

「うむ……」


 悪くない。


 かなり悪くない。


 向こうの牙に対し、こちらは足元で返した。しかも、余の迷宮の色に沿っている。見栄えだけでなく、思想の応酬としても通っている。


 そして赤泥蟻穴からの返しは、しばらくなかった。


 それが逆に、余には少し怖かった。


「……黙ったな」

《考えている可能性があります》

「うむ」


 若い牙は、ただの吠える主ではない。


 速い。


 飢えている。


 しかも、食らいつくことをためらわぬ。


 ならばここで終わるはずがない。


 ただ、少なくとも今は、こちらも“迷宮としての返礼”を一つ示せた。


 それは大きい。


「……よい」


 窓の向こうで、湿った壁が鈍く光る。


 泥に残る足跡。


 壁の手形。


 落とされた小道具。


 それらは死骸より地味だ。


 だが、余の迷宮にはそちらの方が似合う。


 入れば崩れる。


 無様になる。


 何がいたか分からぬのに、とにかく嫌だ。


 それが積み重なれば、きっと一つの力になる。


「若い牙」

 余は静かに呟いた。

「おぬしが見せたいものは、よく分かった」

 死骸。

 狩猟圧。

 飢え。

 上へ行くための分かりやすい牙。

「ならば余も、余の見せ方で立つ」


 その声は、以前よりずっと落ち着いていた。


 まだ小物めいた焦りは残っている。


 予定外が来れば今もひやりとする。


 だが、ひやりとした次に盤面が見える。


 その差が、主としての差になりつつある。

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