第253話 白い森を越えた先で、黒冠軍は本当の軍を見る
黒冠軍の第一陣が退き始めても、余は追撃を命じなかった。
外縁ではすでに百を超える敵兵が倒れている。ネフィラは自分の術を逆手に取られて戦線を離脱し、重斧将バルグは偽回廊へ誘い込んだまま、外にいる本隊から完全に切り離した。
ここまでは上手くいっている。
だからといって、森の外まで追いかける気はなかった。
白い森の向こうには、まだ三千を遥かに超える兵が残っている。攻城魔導砲も十五門が健在で、術兵や空中戦力もほとんど削れていない。ヴァルドレムやゼルヴァン、それ以外の高位魔族も大半が温存されたままだ。
こちらが森を飛び出せば、今まで黒冠軍が使えなかった戦力をまとめて叩き込まれる。
そんな馬鹿な真似をする理由はない。
「外縁部隊はそのまま下がれ。追撃は禁止だ。負傷した者から治療区画へ運べ」
《承知しました》
命の苗床へ意識を向けると、フィルエがすでに傷ついた魔物たちを白い寝床へ寝かせていた。
ハイハネの姿もある。
その周囲には、今回の戦争が始まる少し前に生まれたばかりの灰羽ゴブリンたちが集まっていた。
元は普通のゴブリンだった。
外縁の白霧が濃い場所で暮らし、ハイハネと行動する時間が長くなった頃から、数体の体に妙な変化が現れ始めた。腕や背中に灰色の羽毛が生え、小さな翼まで伸び始めたのだ。
最初に見た時は、病気かと思った。
ところが、そいつは高い木の枝から落ちたのではなく、白霧の中を滑るように隣の木まで飛んだ。
その後も同じ突然変異を起こす個体が増えたため、戦争直前にハイハネの下へ集めて外縁戦力として扱うことにした。
まだハイハネほど自在には飛べない。
それでも、森の中なら十分に使える。
白霧と枝葉を使って敵の頭上へ回り込み、襲った直後には別の木へ逃げる。今回の外縁戦でも、それで火術兵をかなり混乱させていた。
「ロード、この子ちょっと見て」
フィルエが一体の灰羽ゴブリンを抱き起こした。
右の翼に矢が刺さっている。
「骨までいったか?」
「うん。でも折れ切ってはいないよ」
「治せる?」
「治せる。ただ、今日はもう飛ばさないでね」
「当たり前だ」
余が答えると、フィルエは少しだけ目を丸くした。
「何だ」
「ううん」
「何だ、その顔は!」
「ロードもちゃんと休ませるんだなって」
「余を何だと思っている!」
「ロード」
「それはもう聞いた!」
フィルエが笑いながら矢を抜く。
灰羽ゴブリンが痛みに身を震わせたが、すぐにフィルエの手から赤金色の光が広がった。
誓命花の力だ。
白磁根脈を通じて届いた淡い光が、傷ついた翼をゆっくり包み込んでいく。
「ギャ……」
「大丈夫。少し我慢して」
隣ではハイハネが落ち着かなさそうに仲間を見ていた。
「お前も休め」
「ギャッ」
「何だ、その返事は」
「ギャ」
「嫌でも休め。お前まで飛べなくなったら、次に外縁を使う時困るだろう」
ハイハネは不満そうに翼を揺らしたが、フィルエに睨まれると大人しく座った。
少なくとも今は、死者はいない。
この先もそうなるとは限らない。
だが、まだ生きている者をわざわざ死なせる必要もない。
余は治療区画をフィルエへ任せ、再び黒冠軍へ意識を戻した。
◇
「バルグとの連絡は?」
「依然として途絶しています。ただし、生命反応は確認できています」
黒冠軍本陣では、セレイナがヴァルドレムへ報告していた。
「位置は」
「特定できません。入ったはずの通路そのものが消えています」
「……あの馬鹿」
ヴァルドレムが低く吐き捨てた。
「一人で入るなと言われていただろう」
「戻ってきたら本人へ言ってください」
「戻ればな」
その近くでは、ザイルに連れ戻されたネフィラが苛立たしげに地面へ座っている。
腕にはまだ黒紫色の筋が残っていた。
「私は戻れる」
ネフィラが言う。
「戻ってどうする」
「さっきの術をやった奴を殺す」
「その腕で?」
「動く」
「震えているぞ」
ネフィラが黙った。
細い指先が僅かに揺れている。
「今出せば、向こうの思う壺だ。休め」
「……覚えてろよ」
「誰に言っている」
「迷宮に」
ザイルが吹き出す。
「迷宮に喧嘩売ってどうすんだよ」
「うるさい」
ヴァルドレムは二人を放っておき、ゼルヴァンへ視線を向けた。
「お前ならどうする」
「私なら?」
「ああ。あそこから一度生きて戻っている」
ゼルヴァンは白い森を見た。
自分が以前入った時とは、もう同じ場所には見えない。
似た木はある。
白い霧もある。
だが、道が違う。
罠が違う。
何より、こちらが何かするたびに、迷宮側の動きが変わっている。
「森の中へ兵を入れるのはやめた方がいい」
「それでは進めん」
「進まないとは言っていない。まず、あの霧を消す」
ヴァルドレムが眉を動かす。
「霧?」
「あれがある限り、向こうだけがこちらを見ている」
前回の侵入でも、ゼルヴァンは途中からそれを嫌というほど思い知らされた。
見えない場所から魔物が現れ、追えば消える。
少し進んだだけで配置が変わる。
迷宮の奥に何がいるのか、ゼルヴァンは知らない。
ロードという存在も知らない。
ただ、一つだけはもう疑っていなかった。
「この迷宮には、こっちの動きを見て考えている何かがいる」
セレイナが振り向いた。
「高度な魔物ですか」
「分からない。だが、ただ罠が置いてあるだけじゃない」
ヴァルドレムはしばらく森を眺めた後、すぐに決断した。
「風術兵を集めろ」
「森へ入れるのですか?」
「入れん。外から吹かせる。数百人で一気に霧だけ剥がせ」
セレイナも意味を理解した。
「木を焼く必要もない、ということですか」
「ああ。見えれば次を考えられる」
黒冠軍の術兵たちが動き出した。
◇
《敵術兵に大規模な配置変更を確認》
「また何か始めたか」
壁面を切り替える。
黒冠軍の術兵が、森へ近づかないまま横へ大きく広がっていた。
数百人。
誰も火球を作っていない。
代わりに、一人一人の杖から魔力の線が伸び、隣の術兵へ繋がっていく。
「カゲツ、あれは何だ」
第二防衛線から、カゲツが壁面を確認する。
「風属性。複数術者ニヨル大規模術式ト推測」
「風……?」
一瞬考えて。
すぐに分かった。
「白霧か!」
「可能性、高シ」
「面倒なことを考える!」
「ロード」
「何だ」
「先程ヨリ、相手ノ判断改善」
「ゼルヴァンかもしれんな」
前回生きて帰した。
その経験が、今度は黒冠軍側の武器になっている。
「白霧を濃くしろ!」
《実行します》
森の奥から新しい白霧が流れ込んだ。
木々が一気に白へ沈んでいく。
だが、黒冠軍側の準備も終わった。
「全風術隊、放て!」
ヴァルドレムの声が届いた直後、森の手前で空気が弾けた。
数百人分の風が一つになって押し寄せる。
木々が大きくしなり、葉が空へ舞い上がった。
濃くしたばかりの白霧まで後方へ巻き上げられていく。
《白霧、急速に散開》
「追加しろ!」
《通常時の三倍まで上昇》
さらに霧を出す。
だが、黒冠軍の風は止まらない。
こちらが補充した分から押し流されていく。
「……駄目だな」
もう一度霧を増やそうとして、やめた。
《指示を》
「白霧の追加生成を止めろ」
《停止します》
「ロード?」
治療を続けていたフィルエがこちらを見る。
「いいの?」
「ああ」
「森、見えちゃうよ」
「見えるな」
「それでも?」
「霧を守るために魔力を捨て続ける方が馬鹿らしい」
白霧は便利だ。
だが、余の迷宮は白霧だけではない。
霧一つ消された程度で、全てを失ったような顔をする必要はなかった。
追加生成を止めると、残っていた霧も強風に押されて森の奥へ消えていく。
やがて黒冠軍の前に、外縁の姿が初めて完全に晒された。
砲撃で崩れた地面。
泥罠の痕跡。
蜘蛛が残した糸。
偽入口の残骸。
今まで見えなかったものが一気に見えるようになり、黒冠軍兵から歓声が上がった。
「見えたぞ!」
「探知班を前へ!」
「入口候補を全部調べろ!」
「ロード」
ガルザヴェインから声が届いた。
「ダイジョウブ?」
「ああ」
「ホント?」
「何度も聞くな。霧が消えただけだ」
「ナラ、イイ」
「お前は軍を見ていろ」
「ウン」
覇王練兵窟では、百二十体の覇牙軍団がすでに準備を終えていた。
まだ戦っていない。
黒冠軍が外縁を抜けたところで、ようやく入口に近づいただけだ。
◇
白霧が消えると、黒冠軍の調査は一気に進んだ。
記録兵が地形を書き取り、探知術師が地下と木々の間を調べていく。
ヴァルドレムは満足そうだった。
しかし、ゼルヴァンだけは表情を緩めない。
「おかしい」
セレイナが聞き返す。
「何がです」
「霧を捨てるのが早い」
「維持できないと判断したのでしょう」
「そうならいい」
「違うと?」
「分からない。だから嫌なんだ」
そのやり取りを壁面越しに見ながら、余は考えた。
何をしても怪しまれる。
それなら。
怪しまれるものを見せればいい。
「管理音声」
《はい》
「本物の入口を開けろ」
「ロード?」
フィルエが手を止めた。
ガルザヴェインもすぐ反応する。
「ホンモノ?」
「ああ」
「ミセテイイノ?」
「むしろ見せる」
これまで黒冠軍には偽入口を散々踏ませた。
なら、次は本物だ。
「入口から第一防衛区画まで、罠を全部止めろ。魔物も置くな」
《完全な無防備区間を形成します》
「本当に入れちゃうの?」
フィルエが心配そうに尋ねる。
「入ってもらう」
「何で?」
「森の外では奴らが強いからだ」
黒冠軍は数千。
外なら、横へ広がれる。
砲撃も。
空からの攻撃も。
術兵も自由に使える。
だが、迷宮内部ではそうはいかない。
「入口の先は狭い。四千人連れてきても、一度に戦える数は限られる。後ろに何千人いようと、前が止まれば終わりだ」
フィルエが白磁回廊を見て、ようやく頷いた。
「中に入れてから戦うんだ」
「ああ。向こうの数を、向こう自身の邪魔にする」
白い森の中央。
本物の白磁門がゆっくりと開いていった。
罠はない。
毒もない。
隠れている魔物もいない。
門の奥には、ただ白い回廊だけが続いている。
◇
「新たな開口を確認!」
黒冠軍の記録兵が叫んだ。
「内部に白磁回廊! 罠反応なし! 魔物反応もありません!」
ヴァルドレムが笑った。
「ようやく入口を見つけたか」
「待て」
ゼルヴァンが止める。
「またか」
「向こうから開いたんだぞ」
「だから?」
「怪しい」
「罠があっても怪しい。なくても怪しい。貴様はいったい何なら入るんだ」
「斥候を入れる」
ゼルヴァンは白磁門を睨みながら答えた。
「まず二十人。戻ってくるまで本隊は入れるな」
「いいだろう」
二十人の斥候が選ばれた。
盾を持つ兵を先頭に、探知具を持った兵を中央へ入れ、慎重に白磁門へ近づいていく。
門をくぐった。
何も起きない。
十メートル進む。
何もない。
「異常なし!」
二十メートル。
三十メートル。
「罠反応なし!」
さらに進んだところで、ゼルヴァンが帰還を命じた。
二十人はそのまま引き返し、一人も傷つくことなく外へ出る。
「本当に何もありません」
斥候隊長の報告に、セレイナが白磁門を見た。
「本物では?」
「本物だろう」
ゼルヴァンも認めた。
「では」
「だから嫌なんだ」
セレイナが露骨に困った顔をする。
「それでは進めません」
「ああ。だから進むしかない」
ヴァルドレムが鼻を鳴らした。
「最初からそう言っている。五十人入れろ。それで問題がなければ、次は百だ」
黒冠軍が、本物の入口へ兵を送り始めた。
最初の五十人が消える。
続いて百人。
さらに百人。
余は何もしない。
黒冠軍側も、いつ何が起きるのかと警戒している。
それでも何も起きないため、少しずつ迷宮内部へ入る兵の数が増えていった。
《侵入個体数、三百を突破》
「ロード」
フィルエが落ち着かなさそうに尋ねる。
「もう三百入ってるよ」
「見えている」
「まだ何もしない?」
「ああ」
「いつまで?」
「先頭が着くまでだ」
「どこに?」
余は、第一防衛区画のさらに奥へ意識を向けた。
覇王練兵窟から続く白磁通路。
そこでは、ガルザヴェインが百二十体の兵と共に待っている。
「覇牙軍団の前までだ」
◇
黒冠軍の先頭部隊が、長い回廊を抜けた。
大きな曲がり角を越えると、その先は少しだけ幅の広い通路になっている。
「前方確認」
斥候隊長が盾の陰から奥を覗いた。
何も見えない。
しかし、探知具を持っていた兵が突然足を止めた。
「待ってください」
「どうした」
「反応があります」
今まで動かなかった探知具の針が、大きく振れていた。
「どこだ」
「前方。距離はまだありますが、数が多い」
「数は」
「百以上」
隊列に緊張が走る。
その報告は、伝達術式を通して外の黒冠軍本陣へも届いた。
「百以上の魔物反応!」
「種類は!」
「ゴブリンと思われます!」
ゼルヴァンの表情が変わった。
「ガルザヴェインの軍だ」
「ゴブリン百程度だろう」
ヴァルドレムが言う。
「中には三百入っている。押し潰せ」
「普通のゴブリンだと思うな」
「お前が負けた一体がいるからか?」
「それだけじゃない」
ゼルヴァンは、以前自分が見たガルザヴェインを思い出していた。
ただ強いだけのゴブリンではない。
あいつの周りでは、他のゴブリンまで変わる。
「奴は軍を作る」
◇
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「来た」
覇牙軍団の先頭で、ガルザヴェインがゆっくり立ち上がった。
「ゼルヴァン?」
「まだ外だ」
「ソウカ」
「露骨に残念そうな顔をするな」
「アイツ、コロシタイ」
「分かっている。だが、まずは目の前の敵だ」
「ウン」
ガルザヴェインは背後を振り返った。
百二十体。
最前列には巨大な盾を持つ覇牙盾兵。その後ろへ槍兵が並び、左右には刃兵、さらに後方には弓兵と術兵が控えている。
以前のゴブリンたちとは違う。
ただ武器を持って集まっただけではない。
全員が同じ方向を見ている。
同じ命令を待っている。
「覚えているな」
「ゼンイン、カエス」
「ああ」
ガルザヴェインは自分の胸へ拳を当てた。
「カエス」
「頼んだぞ、覇牙王」
「ウン」
黒冠軍の足音が近づいてくる。
やがて、二つの軍の間にあった白磁門が静かに開き始めた。
ガルザヴェインは飛び出さなかった。
拳を握ったまま、敵の姿が見えるまで待つ。
門の向こうでは、黒冠軍の斥候たちが一斉に盾を構えていた。
そして門が完全に開いた瞬間、彼らは初めて、白い森の奥で待っていたものを見ることになった。
黒い大盾を揃えたゴブリン。
その背後から規則正しく突き出された長槍。
左右へ展開する刃兵。
後方で弓と術を構える兵。
百二十体ものゴブリンが、一体の大声も上げずに陣形を保っている。
「……ゴブリン?」
黒冠軍兵の誰かが呟いた。
目の前にいるものを理解できていない声だった。
ガルザヴェインは、その反応を見ても笑わない。
金色の目で敵の隊列を見渡し、自分たちが戦うべき相手の位置を確かめていた。
そしてようやく、右腕をゆっくり持ち上げる。
「ハガグンダン」
百二十体の視線が、同時に前へ向いた。
「ジュンビ」
最前列の覇牙盾兵が大盾を構え、槍兵たちがその隙間へ穂先を滑り込ませる。
黒冠軍の斥候隊長もすぐに我へ返った。
「戦闘準備! 前列は盾を組め! 第二列は槍!」
黒冠軍兵たちが慌ただしく陣形を作り始める。
だが、広い野戦で作る軍列とは違う。
ここでは横へ並べる人数に限界がある。
三百人入っていても、実際にガルザヴェインたちと向き合えるのは先頭のごく一部だけだ。
余が待っていたのは、この形だった。
「ロード」
ガルザヴェインが呼ぶ。
「何だ」
「イイ?」
余は敵の後方を確認した。
まだゼルヴァンはいない。
ヴァルドレムも外。
だが、その二人を引きずり込むには、まず中にいる兵を叩く必要がある。
「ああ」
余は答えた。
「始めろ」
ガルザヴェインの口元から、太い牙が僅かに覗いた。
「ハガグンダン」
右腕が前へ振られる。
「ゼンシン」
覇牙軍団が、黒冠軍へ向かって動き出した。
覇牙軍団が進み始めると、白磁回廊に重い足音が連なった。
先頭を歩く覇牙盾兵は、誰一人として歩幅を乱さない。二十枚の大盾がぴたりと横一列に揃い、その隙間には後方の槍兵が穂先を滑り込ませている。
黒冠軍の斥候隊長も、すぐに声を張り上げた。
「前列、構えろ! 押し負けるな!」
三百人の兵が動く。
だが、余が作った回廊では全員が同時に戦えるわけではない。
先頭に立てるのは、せいぜい十人ほど。
その後ろへ何百人並んでいようが、前列が退かなければ槍一本まともに届かない。
両軍の距離が縮まった。
黒冠軍側から先に槍が伸びる。
覇牙盾兵は止まらなかった。盾を僅かに傾けて槍先を外へ流し、そのまま隊列を崩さずに踏み込んでいく。
次の瞬間、二つの盾列が真正面から激突した。
「ぐっ……!」
黒冠軍の前列が押し戻される。
「踏ん張れ!」
「後ろから支えろ!」
後列の兵が背中へ手を当てるが、それでも勢いは止まらない。
強制強化を受けた覇牙盾兵の筋力は、普通のゴブリンなどとは比較にならない。それが一体ずつ力任せに押しているのではなく、ガルザヴェインの訓練によって全員が同じ瞬間に前へ体重を乗せている。
「ダイニタイ、ツケ!」
盾の隙間から長槍が飛び出した。
「がっ!」
一人の魔族兵の肩が貫かれる。
すぐ隣では、盾の上から伸びた穂先が首筋へ突き刺さった。
「盾を寄せろ! 隙間を作るな!」
黒冠軍も反応は早い。
前列をさらに密着させ、覇牙槍兵の狙える場所を潰していく。
だが、それも予想していた。
「管理音声。側道を開けろ」
《承知しました》
黒冠軍の目にはただの白磁壁にしか見えていなかった場所が、左右同時に滑った。
「何だ!?」
「横に道があるぞ!」
そこから飛び出したのは、覇牙刃兵だった。
「サユウ、イケ!」
「ギャアアッ!」
刃兵たちは正面の盾兵へは向かわない。
狙うのは二列目。
三列目。
長槍を構えていた兵の懐へ潜り込み、脇腹や膝裏へ刃を叩き込んでいく。
「側面を塞げ!」
「無理です! 通路が狭すぎる!」
正面では盾を押され、横からは刃兵に食い込まれる。
黒冠軍の前列が乱れ始めた。
この場所では、人数が多いことそのものが足枷になる。
「下がれ! 一度陣形を組み直す!」
斥候隊長が叫んだ。
しかし、後ろにはまだ二百を超える味方がいる。
「後ろを空けろ!」
「下がれない!」
「負傷者をどかせ!」
「後ろにも兵が詰まってます!」
余はその光景を見て、ようやく狙い通りになったと確信した。
森の外で戦えば、四千という数は脅威になる。
だが、ここでは違う。
同じ四千でも、先頭の十人が進めなければ、後ろの三千九百九十人には何もできない。
「ガルザヴェイン。そのまま押せ。ただし、追い過ぎるな」
「ワカッタ」
「前列を壊したら一度止まれ」
「ウン」
ガルザヴェインは自分で敵陣へ飛び込まない。
それどころか、覇牙盾兵の後ろから戦況全体を見ている。
「ダイイチタイ、オセ!」
二十枚の盾が一斉に前へ出た。
黒冠軍の前列が耐え切れず、数人が後ろへ倒れ込む。
一人が転べば、その後ろの兵も足を取られる。
「ぎゃっ!」
「邪魔だ、立て!」
「無理だ! 足が――!」
そこへ覇牙槍兵の穂先が伸びた。
倒れた兵を跨ごうとした者の腹へ突き刺さり、そのまま後方へ押し戻す。
黒冠軍の斥候隊長が剣を抜いた。
「これ以上押させるな! 前へ出ろ!」
自分から最前列へ入り、覇牙盾兵の盾へ剣を叩きつける。
さすがに一般兵とは違う。
一撃で盾の表面へ深い傷が入った。
「そこだ!」
黒冠軍兵が勢いづく。
だが、二撃目は振れなかった。
盾の横から伸びた黒い手が、斥候隊長の剣腕を掴んだからだ。
「なっ――」
ガルザヴェインだった。
いつの間にか最前列まで来ている。
「ツヨイ?」
「何を――」
答えを待たず、ガルザヴェインが腕を引いた。
斥候隊長の体が盾列の前へ引きずり出される。
「離せ!」
「マアマア」
「何?」
「ヨワイ」
拳が腹へめり込んだ。
鎧が大きく凹み、斥候隊長の体が後方へ吹き飛ぶ。
味方を巻き込みながら地面を転がり、そのまま動かなくなった。
「隊長!」
「前列が!」
指揮官を失った瞬間。
黒冠軍の前列が大きく揺れた。
「ガルザヴェイン、戻れ!」
「ウン」
余の声に、ガルザヴェインはそれ以上追わず、すぐ盾兵の後ろへ戻る。
本当に戻った。
以前なら、そのまま敵陣を壊しに行っていただろう。
「ロード」
「何だ」
「チョット、タノシイ」
「少しなら許す!」
「ウン」
声が明らかに嬉しそうだった。
◇
「先頭部隊が押されています!」
黒冠軍本陣へ届いた報告に、ヴァルドレムの表情が変わった。
「三百だぞ」
「通路が狭く、数を活かせていません!」
「ゴブリン百二十に押し返されているのか!」
「ただのゴブリンではないと言っただろう」
ゼルヴァンが低い声で言った。
「前方の個体名を確認!」
伝達兵が報告を続ける。
「ガルザヴェインと思われる高位ゴブリンを確認! 敵軍の指揮を執っています!」
ゼルヴァンの金属指が小さく動いた。
「やはりいる」
「お前の相手だったな」
ヴァルドレムが見る。
「ああ」
「なら行け」
「まだだ」
「何だと?」
「今入れば、バルグと同じになる」
ヴァルドレムが口を閉じる。
「入口からあそこまでの道を完全に確保する。私が入った後も、外と繋がっていなければ意味がない」
「なら増援を送る」
「重盾兵を先頭へ。術兵も必要だ。ただし、大規模術は使わせるな。狭い通路で味方まで焼く」
「セレイナ」
「聞いていました」
すぐに命令が飛ぶ。
「重盾兵二百、術兵五十を追加。入口から内部まで伝達兵を一定間隔で配置してください。道が閉じた場合は即時報告」
「了解!」
黒冠軍の兵が再び動き始めた。
今度は先ほどまでとは違う。
ただ兵を増やすのではない。
迷宮内部へ補給路と通信路を作りながら進むつもりだ。
「向こうも馬鹿ではないな」
余は壁面を見ながら呟いた。
《敵増援、入口へ侵入開始》
「人数は」
《現時点で二百五十。後続あり》
「来たか」
覇牙軍団だけでその全てを受け止める必要はない。
「カゲツ」
「ロード」
「準備しろ」
「承知」
第二防衛線。
黒冠軍からまだ見えない場所で、百体の冥月百骸騎士団が静かに立ち上がった。
盾騎士が前列へ。
槍騎士がその背後へ。
剣騎士は左右。
カゲツは青黒い大剣を肩へ担ぎながら、白磁回廊の先を見つめる。
「覇牙軍団ノ後方ヲ守ル」
「ああ。だが、まだ姿を見せるな」
「理解」
黒冠軍は覇牙軍団を見つけた。
なら。
次に何がいるのかまでは、まだ教える必要はない。
◇
「前列交代!」
黒冠軍の新たな指揮官が叫んだ。
傷ついた兵を後ろへ下げ、その代わりに重盾兵が前へ出てくる。
今度の盾は、先ほどまでの物より明らかに分厚い。
しかも一枚ずつではない。
横の盾と金具で固定し、即席の壁を作っている。
「ロード」
ガルザヴェインが敵を見る。
「カタイ」
「ああ」
「コワス?」
「まず試せ」
「ウン」
ガルザヴェインが腕を上げる。
「ダイニタイ、ツケ!」
覇牙槍兵が一斉に突く。
だが今度は、穂先が黒い重盾へ弾かれた。
何本かは隙間へ入ったものの、先ほどほど深く刺さらない。
「進め!」
黒冠軍が反撃へ転じた。
重盾兵たちが足並みを揃え、覇牙盾兵を押し返し始める。
「おお?」
ガルザヴェインの声に少し楽しそうな響きが混じる。
「喜ぶな!」
「オシテクル」
「見れば分かる!」
黒冠軍の後方では、術兵が詠唱を始めている。
狙いは盾兵の頭上だ。
「弓兵!」
余が命じる前に、ガルザヴェインが振り返った。
「ウエ、ネラエ!」
覇牙弓兵が一斉に弦を引く。
盾兵同士が押し合う頭上を越え、矢が黒冠軍の後列へ降り注いだ。
「術兵を守れ!」
何人かが盾を上へ向ける。
その瞬間。
「イマ!」
ガルザヴェインが叫ぶ。
覇牙槍兵が再び突いた。
上へ向けられた盾の下。
守りが薄くなった足元へ。
「ぐあっ!」
膝を貫かれた重盾兵が崩れる。
一人が倒れたことで連結していた盾列が傾き、隣の兵まで姿勢を崩した。
「ダイイチタイ、オセ!」
覇牙盾兵が一気に押し込む。
黒冠軍の重盾壁が崩れた。
「何だ、あいつら……!」
後方にいた魔族兵が思わず呟いた。
「ゴブリンがこっちの動きを見て変えてるぞ……」
違う。
ゴブリンが勝手に変えているのではない。
ガルザヴェインが見ている。
そして判断している。
余が何も言わなくても。
「やるじゃないか」
思わず声が漏れた。
「ロード?」
「何でもない!」
「ホメタ?」
「戦闘中だぞ!」
「ホメタ」
「うるさい!」
返事の代わりに、ガルザヴェインが牙を見せた。
◇
黒冠軍本陣。
届けられる報告は、次第に悪くなっていた。
「重盾兵の第一列が崩壊!」
「術兵は攻撃を阻害されています!」
「敵は弓、槍、盾、近接兵を連携運用!」
「被害は!」
「内部侵入部隊だけで死者七十六、重傷百以上!」
ヴァルドレムが戦槌の柄を強く握る。
「ゴブリン相手に七十六だと……」
「だから言った」
ゼルヴァンはそれしか言わなかった。
「お前なら崩せるのか」
「ああ」
「断言するか」
「ガルザヴェインを奪えば軍は崩れる」
「また支配するつもりか」
「今回は」
ゼルヴァンが左腕を持ち上げる。
黒い金属指の奥で、呪導線が薄く光った。
「最初からあいつだけを狙う」
ヴァルドレムは数秒考えた。
「道は」
「入口から戦線まで、現時点では繋がっています」
セレイナが答える。
「伝達兵も配置済み。異常があれば即座に分かります」
「なら行け」
ゼルヴァンが歩き出す。
「ザイル」
ヴァルドレムが続けて呼んだ。
「何?」
「お前も行け」
「やっと?」
「ゼルヴァンの道を確保しろ。勝手に先へ行くな」
「分かってるよ」
ザイルが立ち上がる。
だが。
「待て」
別の声が止めた。
後方の岩場。
ゼグラドだ。
これまで戦場を眺めるだけだった男が、初めて腰を上げていた。
ヴァルドレムが眉を寄せる。
「何だ」
「ザイルは残しとけ」
「理由は」
「中」
ゼグラドは白磁門を見る。
「変なのいる」
ルオ。
白銀の龍気。
さっきまで遠くにあったそれが、少しずつ前へ近づいている。
「そろそろ」
ゼグラドが笑った。
「オレの相手も動きそうだ」
◇
「うわ」
迷宮内。
ルオが壁から背を離した。
「何だ」
「あいつ立った」
「ゼグラドか」
「うん」
白銀の翼が、ゆっくり開く。
「出るなよ」
「まだ出ない」
「本当か」
「だって」
ルオは楽しそうに壁面を見る。
「まだこっち来てないし」
そこまで言うなら、しばらくは大丈夫だろう。
「ロード」
ガルザヴェインから声が届いた。
今度は、さっきまでと違った。
「ナンカ、クル」
「分かるのか」
「ウン」
余も壁面を切り替える。
黒冠軍の内部侵入部隊。
その後方。
兵たちが左右へ道を開けている。
一人の男が歩いてくる。
左腕には黒い補助具。
失った二本の指の代わりとなる金属指。
「来たぞ」
ガルザヴェインの金色の目が細くなる。
「ゼルヴァンだ」
しばらく返事がなかった。
代わりに、ガルザヴェインの周囲へ黒い魔力がゆっくり広がっていく。
「ロード」
「何だ」
「アイツ」
「ああ」
「オレガ、ヤル」
「好きにしろ」
「ウン」
声だけで分かる。
笑っている。
ただし。
以前のような無茶な興奮ではない。
自分の軍を守りながら。
自分が殺すべき相手だけを見ている。
◇
ゼルヴァンが戦線へ到着した時。
目の前に広がっていた光景は、前回彼が見たものとはまるで違っていた。
倒れている黒冠軍兵。
崩れた重盾。
その向こうには、ほとんど陣形を崩していないゴブリン軍。
「……ここまでか」
ゼルヴァンが呟いた。
前に会った時。
ガルザヴェインは強かった。
それだけだった。
今は。
後ろに軍がいる。
「ゼルヴァン!」
黒冠軍の兵が振り返る。
「前線を任せます!」
「ああ。下がれる奴から下がれ」
「しかし――」
「邪魔だ」
兵が口を閉じる。
ゼルヴァンは前へ出た。
覇牙軍団も動きを止める。
その中央。
ガルザヴェインが盾兵の間を歩いてくる。
両者の距離。
二十メートルほど。
ゼルヴァンが左腕を上げた。
「覚えているか」
「ウン」
「なら話は早い」
「オマエ」
ガルザヴェインは、ゼルヴァンの左手を見る。
二本。
前回失わせた指。
今は黒い金属で補われている。
「ヘンナテ」
「お前に壊されたからな」
「ソウカ」
「今回は」
黒い魔力が金属指へ集まり始める。
「お前を奪う」
ガルザヴェインは一瞬だけ黙った。
それから、太い牙を見せて笑った。
「ヤッテミロ」
空気が変わった。
黒冠軍の兵たちが本能的に距離を取る。
覇牙軍団も、ガルザヴェインの邪魔をしないよう左右へ僅かに開いた。
「ロード」
「何だ」
「グン、タノム」
「……ああ」
余はすぐに答えた。
「お前がゼルヴァンをやっている間、覇牙軍団は余が見る」
「ウン」
ガルザヴェインが一歩前へ出る。
「ジャア」
拳を握る。
「コンドコソ」
床へ黒い亀裂が走った。
「コロス」
同時に。
ゼルヴァンの黒冠隷命が発動した。
黒い呪いの帯が、白磁回廊いっぱいに広がりながらガルザヴェインへ襲いかかる。
ガルザヴェインは避けなかった。
真正面から踏み込み、迫る呪いへ拳を叩き込む。
黒と黒が激突した。
轟音が回廊を震わせる。
その衝撃に両軍の兵が腕で顔を庇い、白磁壁へ細かな亀裂が走った。
そして。
そのさらに遠く。
迷宮の入口。
ゼグラド・ヴェインもまた、ゆっくりと歩き始めていた。
それを見たルオが、白銀の翼を大きく広げる。
「ロード」
「……分かっている」
「来るよ」
「ああ」
黒冠軍と余たちの戦争は、ようやく雑兵同士のぶつかり合いを終えようとしていた。
ガルザヴェインとゼルヴァン。
そして。
まだ互いの拳も武器も交えていない、ルオとゴールドプレート。
戦場の中心へ。
本当の強者たちが集まり始めていた。




