第252話 三人の強者は、数百の兵より厄介だった
黒冠軍の前列が左右へ割れ、その中央に一本の道ができた。
これまで一度も前へ出てこなかった十二の高位魔族。そのうち三人が、数千の兵たちの間をゆっくりと歩いてくる。
先ほどまでなら、黒冠軍の兵が森へ近づくだけでハイハネたちが動いた。工兵が木へ斧を入れようとすれば影縫い大蜘蛛が影を縫い、灰糸蜘蛛たちが糸で動きを封じ、グズが足場ごと泥へ沈めていた。
だが、今は違う。
余は外縁にいた魔物たちをすでに後退させている。
次に来る三人が、先ほどまでの兵と同じように罠へ掛かってくれるとは思えなかったからだ。
「ロード」
覇牙軍団の先頭に立つガルザヴェインが、壁面に映る三人を睨みながら低く唸った。
「アイツラ、強イ」
「ああ。だからまだ動くな」
「分カッテル」
返事はしたものの、太い指は何度も拳を作っては開いている。
戦いたくて仕方ないらしい。
その横ではルオも、白磁壁へ背中を預けながら三人の様子を眺めていた。
「どうだ」
「何が?」
「あの三人だ。お前から見ても強いのか」
「強いよ」
意外にも、ルオはあっさり認めた。
だが次の瞬間には興味を失ったように視線をずらし、黒冠軍のはるか後方へ目を向ける。
「でも、オレが待ってるのはあいつじゃない」
「ゼグラドか」
「うん」
黒冠軍最後尾。
軍服すら着ず、金色の認証札を腰へ下げたまま立っている魔族冒険者。
ゼグラド・ヴェイン。
ルオが自分と同程度かもしれないと言った男だ。
そのゼグラドは、三人の高位魔族が前へ出ても動かなかった。戦場を眺めながら、まるで自分の番がまだ来ていないと言わんばかりに立っている。
「なら、お前も待て」
「分かってるって」
「本当だろうな」
「今日は何回聞くんだよ」
「お前が信用ならんからだ!」
ルオが笑う。
こいつに緊張感を求める方が間違っているのかもしれない。
余は三人の高位魔族へ意識を戻した。
《黒冠軍側の通信から個体情報を取得しました》
「出せ」
《第一個体――重斧将バルグ・ドーン》
最も大きい男。
二メートルを優に超える巨体を黒い重鎧で包み、自分の身長と大差ない巨大な斧を肩へ担いでいる。額から伸びた二本の角も太く、見た目だけなら三人の中で最も分かりやすい。
《第二個体――蝕呪師ネフィラ》
小柄な女だった。
黒紫の長い髪を背中へ流し、武器らしい物は持っていない。
だが、歩いているだけなのに、彼女の足元では草の色が僅かに黒ずんでいる。
《第三個体――紅閃ザイル》
深紅の外套を纏った細身の男。
顔の半分を金属製の仮面で覆い、腰には二本の短剣を差していた。
外見だけなら、一番普通に見える。
しかし。
《第三個体は高速戦闘型と推定》
「やはりか」
問題は三人がどれだけ強いかだけではない。
黒冠軍は、役割の違う三人を選んでいる。
力。
術。
速度。
こちらの罠を一つずつ潰すために、最初から組み合わせて出したのだろう。
「外縁部隊はそのまま後退。こちらから仕掛けるな」
《承知しました》
今度はこちらが待つ。
先ほどまでさんざん黒冠軍にやらせたことを、今度は余たちがやる番だ。
◇
「三名とも、目的を忘れないでください」
黒冠軍側では、セレイナが前へ出た三人へ指示を飛ばしていた。
「現在の目的は、白い迷宮の正式な入口を確保すること。内部への深入りは禁止します」
「ずいぶん面倒な話だな」
巨大な斧を肩へ担いだバルグが、白い森を眺めながら鼻を鳴らす。
「こんな森、端から割っていけば終わるだろう」
「それを雑兵で試し、すでに百名以上の損害を出しています」
「雑兵だからだ」
「あなたも無敵ではありません」
「試すか?」
「敵と戦ってください」
セレイナが冷たく返すと、バルグは豪快に笑った。
対照的にネフィラは何も言わない。
白い森を眺めたまま、細い指を何度か動かしている。
紅閃ザイルだけが、腰の短剣を抜いては戻しながら退屈そうに尋ねた。
「出てきた魔物は殺していいんだよな?」
「侵攻を妨害する個体は排除してください。ただし追撃は禁止です」
「死体は?」
「放置してください。素材の回収は道を確保してからです」
「つまんねえな」
「遊びではありません」
「知ってるよ」
そう答えたザイルの口元には笑みが浮かんでいた。
こいつもルオと似た種類かもしれない。
そう思った直後。
「行け!」
ヴァルドレムの命令が響いた。
三人が同時に白い森へ足を踏み入れる。
最初に動いたのは、バルグだった。
「邪魔だ」
巨大な斧を横薙ぎに振る。
木には触れていない。
にもかかわらず、斧から発生した衝撃だけで白霧が吹き飛び、正面に並んでいた木々がまとめて折れた。
「は?」
思わず声が漏れた。
一本ではない。
五本。
六本。
さらに奥の木まで幹へ亀裂が走っている。
「力任せにもほどがあるだろ!」
続けてバルグが斧を頭上へ掲げた。
「もう一つ!」
振り下ろす。
斧が地面へめり込んだ瞬間、大地そのものが割れた。
地下へ仕込んでいた泥罠が土ごと吹き飛び、その近くへ潜んでいたグズが慌てて地中深くへ逃げ込む。
「グズ!」
《泥門番長グズ、軽微な損傷を確認》
「そのまま下がれ! あいつの正面へ出るな!」
「ギャッ!」
バルグが砕けた地面を覗き込む。
「やっぱり何かいたな」
気づいている。
馬鹿力だけではないらしい。
「追わないでください」
遠くからセレイナの声が届く。
「分かってる」
「今、追おうとしましたね?」
「してない」
「地面へ入ろうとしたでしょう」
「気のせいだ」
妙に子供っぽいところまでガルザヴェインに似ている。
「似てナイ」
「心を読むな!」
「ロード、声、出テル」
……そうだった。
◇
バルグが地形を物理的に破壊する一方、ネフィラは全く別の方法で森を侵食し始めた。
彼女は木を切らない。
炎も使わない。
ただ地面へ片手を触れただけだった。
「……沈め」
小さな声が聞こえた。
次の瞬間。
周囲の色が変わった。
鮮やかだった葉が黒ずみ、幹から水分が抜けたように萎れていく。草は倒れ、ネフィラを中心に地面まで灰色へ変わっていった。
《警告》
《外縁植物群の魔力が急速に低下しています》
「何をされた!」
《植物および土壌に含まれる魔力を強制的に吸収されています》
さらに。
《白磁根脈への干渉を確認》
「根までか!」
このままでは、植物だけではなく迷宮へ繋がる白磁根脈まで力を吸われる。
「ネフィラ周辺の根脈を切り離せ!」
《承知しました》
魔力の流れを即座に遮断する。
繋がりを失った木々は、その場で黒く崩れた。
「ロード!」
フィルエが悲鳴に近い声を上げた。
「分かっている!」
「あの人、木を殺してる!」
「ああ」
「私、行く!」
「駄目だ!」
「でも!」
「絶対に出るな!」
フィルエなら。
植物へ直接働きかけることができる。
もしかするとネフィラの能力を抑えられるかもしれない。
だが。
だからといって出せるか。
命の苗床から離れれば、誓命花による回復も弱くなる。それ以上に、あの女が植物の魔力を吸うなら、フィルエへ何をするか分からない。
「ここは余が考える」
「でも……」
「お前には、お前にしかできないことがある」
負傷した灰羽ゴブリンたち。
このあと必ず増えるであろう負傷者。
それを治せるのはフィルエだ。
「……分かった」
不満そうだ。
それでも。
今は従ってくれた。
「管理音声。ネフィラの吸収量を測れるか」
《可能》
「最大量は」
《現時点では不明》
「なら調べる」
《方法を》
「吸わせろ」
フィルエが顔を上げた。
「え?」
「ロード?」
「魔力を欲しがっているのだろう?」
余はネフィラの周辺へ伸びていた根脈を完全に切り離す。
そこへ。
別系統から魔力を流す。
植物へ必要な分ではない。
故意に。
大量に。
「欲しいなら」
白い部屋で、余は僅かに笑った。
「食えるだけ食わせてやる」
《魔力流入開始》
◇
ネフィラの手へ流れ込む魔力が、一気に増えた。
「……?」
最初。
彼女は異変に気づかなかった。
むしろ。
吸収できる魔力が増えたことで、小さく笑った。
「見つけた」
指先から黒い光が広がる。
さらに吸う。
さらに。
その瞬間だった。
「……多い?」
ネフィラの表情が変わった。
吸収が止まらない。
自分で作った魔力の流れ。
そこへ。
逆に。
こちらから力を押し込んでいる。
「何、これ……」
手を離そうとする。
だが。
すでに魔力吸収の術式が繋がっている。
流れをいきなり止められない。
《ネフィラ個体内魔力量、急速上昇》
「もっと流せ」
《過剰負荷の可能性》
「それでいい」
「ロード!」
フィルエが驚いた声を上げる。
「大丈夫なの?」
「余の方はな」
ネフィラの腕に黒い筋が浮かび始める。
吸えるから。
無限に入る。
そんなはずがない。
どんな器にも。
限界はある。
「止まって……!」
ネフィラが初めて声を荒らげた。
「ネフィラ!」
ザイルが振り向く。
「近づかないで!」
「どうした?」
「流れを……切れない!」
後方のセレイナも異変に気づいたらしい。
「吸収術式を解除しなさい!」
「やってる!」
できない。
迷宮の力を吸おうとした。
その道を。
余に掴まれた。
なら。
簡単に逃げられると思うな。
◇
だが、余がネフィラへ集中した、その僅かな隙を狙っていた者がいた。
《高速反応》
「何?」
ザイルが消えた。
赤い外套だけが残像のように揺れ、次の瞬間には森の奥へ退いていた灰羽ゴブリンの真横へ現れている。
「ギャッ!?」
「見つけた」
短剣が閃く。
「避けろ!」
首を狙った一撃。
灰羽ゴブリンは反射的に翼を畳み、自分から枝を蹴って落下した。
刃が首ではなく翼の端を裂く。
「ギャアッ!」
「避けた?」
ザイルが楽しそうに目を細めた。
すぐに木を蹴る。
速い。
異常に速い。
森の中ですら。
ザイルの速度はほとんど落ちない。
「ハイハネ! 灰羽隊を完全撤退!」
「ギャアッ!」
ハイハネの声に応じ、灰羽ゴブリンが深部へ逃げる。
ザイルは二歩。
三歩。
木々を蹴りながら追いかけた。
だが。
「追撃禁止です!」
セレイナの声が飛んだ。
ザイルが枝の上で止まる。
「今なら殺せるけど?」
「入口確保が先です」
「固いなあ」
あっさり引いた。
こいつら。
本当に厄介だ。
強いだけではない。
勝手に動くように見えて。
軍の命令は。
最低限守る。
「ロード」
カゲツが低い声で言った。
「三個体」
「同時運用」
「危険度、高シ」
「ああ」
バルグが地形を破壊する。
ネフィラが迷宮の魔力を削る。
ザイルが妨害に来た魔物を狩る。
三人揃うことで。
互いの弱点を補っている。
「なら」
「分断する」
「同意」
カゲツも。
同じ考えだった。
◇
最初に狙うのはバルグ。
理由は単純だ。
一番。
誘導しやすい。
「管理音声」
《はい》
「バルグの正面に、本物に見える道を作れ」
《偽侵入路を形成しますか》
「ああ。多少壊されてもいい。こいつが見れば、力で開いたと思える形にしろ」
《必要ソウル:85,000》
「承認」
《形成開始》
森の奥。
バルグが次の木を斧で吹き飛ばした直後。
霧がわずかに晴れた。
そこに。
白磁の壁。
そして。
奥へ続く回廊が姿を見せる。
「……お」
見事に食いついた。
「入口だ」
「待ちなさい!」
セレイナの声が飛ぶ。
「それが偽物である可能性があります!」
「俺が壊して出した道だぞ?」
「だからこそです!」
「見れば分かる」
バルグは笑うと。
巨大な斧を肩へ担ぎ。
そのまま白い回廊へ入ってきた。
「バルグ!」
「入口を見つけろって言っただろ」
「確保までです! 一人で入れとは言っていません!」
「すぐ戻る」
戻れるならな。
「今だ」
《実行します》
バルグの背後で。
白霧が閉じた。
さっきまであった入口が。
跡形もなく消える。
「……あ?」
バルグが振り返る。
外。
見えない。
セレイナの声も。
届かない。
《重斧将バルグ・ドーン》
《第三偽侵入路への隔離に成功》
「よし」
三人。
そのうち一人。
分断。
「閉じ込めた?」
フィルエが聞く。
「ああ」
「誰をぶつけるの」
「ガルザヴェイン!」
「オレ!」
ものすごい勢いで返事が来た。
「お前ではない!」
「ナンデ!」
「お前はゼルヴァンを殺すと言っていただろう!」
「コイツモ、強イ」
「欲張るな!」
ルオが笑っている。
「ガルザヴェイン、全員欲しいんじゃん」
「強イ奴、イッパイ」
「嬉しそうにするな!」
バルグの戦い方は。
力。
重鎧。
巨大な斧。
正面から受ける必要はない。
「影縫い大蜘蛛」
森の奥。
中核の大蜘蛛が動く。
「灰糸蜘蛛を連れていけ」
複数の灰糸蜘蛛が、その後を追う。
「赤錆噛みも」
白磁壁の小さな隙間から。
赤茶色のネズミたちが顔を出した。
灰噛みから変質した。
金属を齧る小さな魔物。
一体なら。
バルグの相手ではない。
だが。
正面から戦わせる必要などない。
「三種で狩る」
余は。
偽回廊を歩くバルグを見ながら言った。
「ここでは」
「強い奴が一人だから勝てるとは限らん」
◇
バルグは。
完全に自分が罠へ入ったことを理解していた。
それでも。
怯えてはいない。
「やられたか」
むしろ。
楽しそうだった。
「いいぞ」
巨大な斧を床へ引きずりながら、白い回廊を歩く。
「ようやく迷宮らしくなった」
その足元で。
かり。
小さな音が鳴った。
「ん?」
黒い金属靴。
その先へ。
一匹の赤錆噛みが噛みついている。
「ネズミ?」
軽く蹴る。
小さな体が白磁壁へ激突した。
だが。
すぐに起き上がる。
今度は。
一匹ではない。
床。
壁の隙間。
天井近くの穴。
次々に赤茶色のネズミが現れる。
「こんなもので」
バルグが斧を振り上げた。
その瞬間。
足元の影へ。
黒い糸が刺さった。
「――また妙なものを!」
右足が止まる。
影縫い大蜘蛛。
影を縫い。
巨体の動きを。
一瞬だけ奪う。
そこへ。
灰糸蜘蛛たちが一斉に糸を吐いた。
右腕。
左腕。
胴。
斧。
何重にも灰色の糸が巻きつく。
「こんな糸で!」
バルグの筋肉が膨れ上がる。
一気に。
引き千切ろうとする。
ぶち。
一本。
切れた。
二本目も。
だが。
十分だ。
「赤錆噛み」
余は命じる。
「食え」
ネズミたちが。
一斉に。
バルグへ飛びついた。
「何だ!?」
狙うのは肉ではない。
鎧。
黒冠軍の高位将が身につける。
分厚い金属鎧。
がり。
がり。
がり。
小さな牙が。
黒い装甲へ食い込む。
「おい」
表面へ。
赤い錆が広がった。
「俺の鎧を食ってんのか!?」
バルグが体を振る。
何匹もの赤錆噛みが飛ばされる。
だが。
別の個体がすぐに噛みつく。
影を止め。
糸で動きを鈍らせ。
その間に。
金属を削る。
大きな相手だからこそ。
小さな牙が届く。
「ふざけるなあああああっ!」
バルグの魔力が爆発した。
白磁回廊全体が激しく揺れる。
影縫いの糸が弾け。
灰色の糸もまとめて千切れた。
赤錆噛みたちが壁へ吹き飛ばされる。
「下がれ!」
すぐに命じる。
追わせない。
これでいい。
倒す必要は。
まだない。
バルグの黒鎧。
肩。
膝。
脇腹。
三か所が。
すでに大きく削られている。
その下から。
魔族の皮膚が露出していた。
「出てこい!」
バルグが。
怒りに顔を歪める。
「卑怯な真似ばかりしやがって!」
余は。
白い部屋から。
思わず笑った。
「迷宮へ来て」
「何を言っている」
もちろん。
その声は奴には届かない。
だが。
今。
はっきり分かった。
三人は強い。
数百の兵より。
はるかに厄介だ。
それでも。
無敵ではない。
◇
外では。
バルグが消えた場所を前に、セレイナが歯を食いしばっていた。
「だから一人で入るなと言ったのに……!」
「生きてる?」
ザイルが軽く聞く。
「反応はあります」
「ならいいじゃん」
「よくありません!」
「助けに行く?」
「行きません」
即答だった。
ネフィラへ流れ込む異常な魔力。
バルグを飲み込んだ偽入口。
二人まで同じ場所へ入れば。
今度は三人全てが分断される。
「一度下がりなさい!」
セレイナが命じる。
「ネフィラ! 吸収術式を切りなさい!」
「切れないって言ってる!」
「ザイル、彼女を引き離して!」
「触って平気?」
「あなたなら離脱できます!」
「雑だなあ」
それでも。
ザイルは動いた。
ネフィラの背後へ一瞬で回り込み。
腰を掴む。
「ちょっ――!」
「離すぞ」
強引に。
地面から引き剥がす。
術式が。
途中で千切れた。
流れていた大量の魔力が。
一気に途絶える。
ネフィラが地面へ転がり。
荒い呼吸を繰り返した。
「……殺す」
最初に出た言葉がそれだった。
「元気じゃん」
「黙れ」
セレイナは。
その二人を見ながら。
白い森へ視線を戻す。
今度は。
兵を入れても削られる。
高位魔族を入れても。
能力を見られ。
逆手に取られる。
「こちらの動きに」
ゼルヴァンが。
後方から静かに言う。
「合わせている」
「……はい」
「迷宮は」
一度。
中へ入り。
生きて帰ったからこそ。
ゼルヴァンには分かる。
「前より」
「さらに厄介になっている」
◇
余は。
黒冠軍側が一度後退し始めたのを見ながら。
ようやく少しだけ息を吐いた。
覇牙軍団は無傷。
百骸騎士団も無傷。
ウルグも。
まだ万蝕酸界で待っている。
外縁部隊には負傷者こそ出たものの、フィルエの治療へ回せている。
対する黒冠軍は、兵を百以上失い、高位魔族の一人をこちらの偽回廊へ孤立させた。ネフィラも魔力を流し込まれ、一時的とはいえ戦線から下がっている。
戦況だけを見れば、まだ余たちが押していた。
しかし。
壁面の端。
黒冠軍最後尾。
ゼグラドだけは。
相変わらず動いていない。
「ルオ」
「何?」
「まだか」
今度は。
余から聞いた。
ルオが。
少し驚いたようにこちらを見る。
「何が?」
「あいつだ」
ゼグラド。
「まだ動かないのか」
ルオは。
白い壁面の向こうを見つめ。
楽しそうに笑った。
「まだだな」
「何を待っている」
「オレと同じじゃない?」
「つまり」
「本気で戦う価値のある相手が」
白銀の瞳が。
鋭く細くなる。
「前に出てくるのを」
余は。
嫌な予感しかしなかった。
今。
黒冠軍は押されている。
それでも。
ゴールドプレートは。
まだ。
剣すら抜いていない。
そしてルオも。
まだ迷宮の中で待っている。
この戦争は。
始まっている。
多くの兵が。
すでに死んでいる。
なのに。
最も危険な二人だけが。
まだ。
一度も戦っていなかった。




