第254話 奪う側と、奪わせない側
ゼルヴァンの左腕から溢れた黒い呪力が、白磁回廊の床を蛇のように這った。
以前にも見た黒冠隷命。魔物の意思を奪い、自分の支配下へ置く厄介な力だ。
だが、前回と同じではない。
床を走っていた黒い呪力が途中で三本へ分かれ、正面と左右からガルザヴェインを包囲した。
「ガルザヴェイン、右からも来るぞ!」
「ミエテル!」
ガルザヴェインが正面の呪いを跳び越え、右から迫った一本へ拳を叩き込んだ。
黒い帯が弾ける。
残る一本は背後から首を狙ったが、ガルザヴェインは振り返りざまに腕で払い、その勢いを殺さずゼルヴァンへ踏み込んだ。
拳が顔面へ飛ぶ。
ゼルヴァンは紙一重でかわし、すれ違いざまに左手をガルザヴェインの胸へ伸ばした。
触れさせるつもりはない。
ガルザヴェインは振り抜きかけた拳を引き戻し、肘でゼルヴァンの手首を跳ね上げた。そのまま肩をぶつけると、ゼルヴァンの体が白磁床を滑っていく。
「前より面倒になったな」
「オマエ、ヨワクナッタ?」
「何?」
「ユビ、ヘッタ」
ガルザヴェインが見ているのは、ゼルヴァンの左手だった。
失った二本の指は、黒い金属製の補助具で補われている。
ゼルヴァンの顔が僅かに険しくなった。
「誰のせいだと思っている」
「オレ」
「覚えていたか」
「ノコリモ、トル」
「やってみろ」
「ウン」
ガルザヴェインが床を蹴った。
今度は真正面からの殴り合いになった。
ガルザヴェインの拳をゼルヴァンが腕で逸らし、空いた脇腹へ蹴りを返す。ガルザヴェインはそれを腹で受けながら左拳を振り抜き、ゼルヴァンの肩を捉えた。
互いに一撃ずつ。
それでも倒れない。
一度戦った相手だからこそ、二人とも相手の危険な間合いを知っている。
ガルザヴェインは黒冠隷命へ不用意に触れようとせず、ゼルヴァンもあの怪力を真正面から受けない。
前回の再現ではない。
二人とも、あの戦いから学んでいる。
◇
その背後では、覇牙軍団と黒冠軍の戦いも続いていた。
黒冠軍は新たな重盾兵を投入し、先ほど崩された前列を立て直している。分厚い盾を金具で連結して通路いっぱいに壁を作ったことで、覇牙槍兵の攻撃も簡単には届かなくなっていた。
「押し返せ!」
黒冠軍の号令に合わせ、重盾兵が前進する。
覇牙盾兵がじわじわと押される。
ガルザヴェインはゼルヴァンと戦っているため、軍へ細かい命令を出せない。
それでも覇牙軍団は崩れなかった。
最前列の小隊長が仲間へ合図を送り、盾兵の半数をわざと一歩だけ下げる。
押し勝ったと思った黒冠軍の重盾兵が踏み込んだ瞬間、その足元へ槍が走った。
「ぐあっ!」
膝を貫かれた兵が倒れ、連結されていた盾列が傾く。
生まれた隙間へ覇牙刃兵が飛び込み、盾の裏へ回った。
「右を塞げ!」
「間に合わない!」
黒冠軍の前列が再び乱れる。
余は思わず壁面へ意識を寄せた。
ガルザヴェインが命令していない。
それでも、自分たちで考えて動いている。
覇王練兵窟で小隊ごとの判断を繰り返させてきた成果が、ようやく本当の戦場で出始めていた。
「やるじゃないか」
「ロード」
ゼルヴァンと殴り合っていたガルザヴェインが返事をした。
「何だ」
「ホメタ?」
「聞いていたのか!」
「ウン」
「戦っている相手を見ろ!」
言った直後、ゼルヴァンの金属指がガルザヴェインの頬を掠めた。
「ほら見ろ!」
「アブナカッタ」
「だから言っただろ!」
ガルザヴェインは平然としている。
一方のゼルヴァンは、妙なものを見るような顔をしていた。
「さっきから誰と話している?」
「オシエナイ」
「何?」
「オマエ、シラナクテイイ」
それでいい。
ゼルヴァンは以前の侵入で、この迷宮の奥に自分たちの動きを見ている何かがいると薄々察している。
だが、余の存在までは知らない。
教える必要もない。
◇
ゼルヴァンが大きく距離を取った。
ガルザヴェインも追わない。
左腕から溢れる呪力の形が、明らかに変わっていたからだ。
今度の黒冠隷命は一本の帯にならず、無数の細い糸へ分かれて天井近くまで広がっていく。
《警告。黒冠隷命の対象が複数へ分散しています》
「ガルザヴェインを狙っていない?」
《対象十二体。増加中》
視線の先には覇牙軍団がいる。
「軍を狙っている! ガルザヴェイン!」
余の声に、ガルザヴェインが振り返った。
同時に黒い糸が降り注ぐ。
「ハガグンダン、ヨケロ!」
覇牙軍団が散開する。
だが、呪いは逃げる兵を追った。
一筋が覇牙刃兵の肩へ触れる。
「ギャッ!?」
刃兵の体が強張り、握っていた剣が勝手に持ち上がった。
刃の先にいるのは、隣の覇牙槍兵だ。
「ギャアッ! ギャッ!」
本人は必死に腕を止めようとしている。
周囲の兵がすぐに飛びつき、剣を持った腕と胴を押さえ込んだ。
《覇牙刃兵一体へ黒冠隷命の侵入を確認》
「隔離しろ!」
白磁壁をせり上げ、操られた刃兵だけを仲間から切り離す。
中から何度も壁を叩く音が聞こえた。
「前回、お前たちは奪われた仲間を殺せなかった」
ゼルヴァンがガルザヴェインを見る。
「今も同じらしいな」
「……」
「一体ずつ奪ってやる。お前が私と戦っている間にな」
「ヤメロ」
「断る」
ガルザヴェインの拳が強く握られた。
「ジャア、コロス」
「最初からそのつもりだろう」
「サッキヨリ、コロス」
「増やすな!」
ガルザヴェインはゼルヴァンへ飛び込まなかった。
自分の軍へ視線を向け、空中に残っている黒い呪糸の位置を確かめると、数歩だけ後ろへ下がった。
覇牙軍団の前へ。
ゼルヴァンとの間へ。
自分の巨体を割り込ませる。
「何のつもりだ?」
「オレ、ココニイル」
「一人で防ぐ気か」
「ウン」
「馬鹿か」
「バカ、チガウ」
ガルザヴェインは胸へ拳を当てた。
「オレ、オウ。オレノグン、マモル」
その言葉を聞いた時、余はすぐに返事ができなかった。
以前のガルザヴェインなら、強い相手を見つければ自分から飛び込み、勝つまで殴り続けていたはずだ。今も戦うことが好きなのは変わっていないし、ゼルヴァンを殺したくて仕方ないのも分かる。
それでも、今は自分の兵を背に庇っている。
余がそこへ立てと命じたわけではない。覇牙軍団を率いるようになり、自分を王と呼び始めたガルザヴェインが、自分で選んだ位置だった。
「ガルザヴェイン」
「ナニ」
「無茶はするなよ」
「ムズカシイ」
「そこは分かったと言え!」
「ワカッタ」
「絶対分かってないだろ!」
ガルザヴェインが少しだけ笑った。
ゼルヴァンは面白くなさそうに金属指を開く。
「なら、お前一人で守ってみろ」
先ほどまでとは比較にならない量の黒い呪力が、左腕へ集まり始めた。
「黒冠隷命――群蝕」
無数の黒い糸が、回廊いっぱいに広がった。
「ハガグンダン、フセロ!」
覇牙軍団が一斉に身を低くする。
ガルザヴェインだけが前へ出た。
「待て! 全部受ける気か!」
「ウシロニ、イル!」
最初の呪糸が右肩へ突き刺さった。
続けて左腕、胸、脇腹へ黒冠隷命が絡みつく。
軍の頭上を越えようとした糸まで、ガルザヴェインは自分から掴んで引き寄せた。
「馬鹿! それまで受けるな!」
「コレナラ、グンニイカナイ!」
黒い呪紋が首筋から頬へ這い上がる。
それでも膝は落ちない。
《警告。魔神覇王ゴブリン・ガルザヴェインへ複数の黒冠隷命が侵入しました》
ゼルヴァンまで目を見開いていた。
「……本当に全部受けたのか」
「ウン」
「正気か?」
ガルザヴェインは荒い息を吐きながら、背後にいる覇牙軍団を親指で示した。
「オレノグン、トルナ」
ゼルヴァンの驚きは一瞬だった。
すぐに口元を歪め、黒い金属指をゆっくり握り込む。
「なら好都合だ。お前一体を奪えば済む」
ガルザヴェインの右腕が本人の意思に反して持ち上がった。
拳が自分の胸へ向かう。
「ガルザヴェイン!」
「キコエテル!」
「抵抗しろ!」
「シテル!」
額へ血管が浮き上がり、持ち上がった右腕が激しく震える。
ゼルヴァンがさらに指を曲げた。
「自分を殴れ」
「イヤダ」
「お前の意思など聞いていない」
「オレハ」
拳が胸の直前で止まった。
ガルザヴェインは歯を食いしばり、自分の腕を押し返そうとしている。
「オマエノ、メイレイ、キカナイ」
黒い呪紋が右腕の上で脈打った。
それでも拳は進まない。
むしろ、少しずつ胸から離れていく。
ゼルヴァンの表情から笑みが消えた。
「……押し返している?」
「オレノカラダ」
ガルザヴェインの全身から、黒冠隷命とは違う黒い魔力が噴き上がった。
「オレガ、ウゴカス!」
覇王魔力が呪紋の内側から膨れ上がり、右腕を覆っていた一本が耐え切れずに弾け飛んだ。
《黒冠隷命侵食率、上昇停止》
「止めた!」
完全に消えたわけではない。
首にも胸にも、まだ黒い呪紋が残っている。
それでもガルザヴェインは、自分の意思で右腕を下ろした。
そして今度は、その拳をゼルヴァンへ向ける。
「ツギ」
ガルザヴェインが牙を剥いた。
「オマエノ、バン」
ゼルヴァンは答えなかった。
ただ、補助具の付いた左手を構え直す。
初めてその顔から余裕が消えていた。
ガルザヴェインも無傷ではない。黒冠隷命はまだ体内へ残っているし、次も同じように押し返せる保証などない。
それでも、覇牙軍団を奪うために放たれた呪いは、一体を除いて誰にも届かなかった。
その一体も、まだ生きている。
なら、ここからだ。
余は隔離した覇牙刃兵の状態を確認しながら、ゼルヴァンと向き合うガルザヴェインへ意識を戻した。
「ガルザヴェイン。次は一人で全部受けるな」
「ナンデ?」
「死ぬからだ!」
「シナナイ」
「そういう問題ではない!」
「ジャア、カツ」
「それなら許す!」
「ウン!」
ガルザヴェインが床を蹴った。
黒冠隷命の呪紋を全身に残したまま、今度はこちらからゼルヴァンへ襲いかかる。
奪おうとした側と、奪わせなかった側。
二度目の戦いは、まだ決着には程遠かった。




