第249話 二日後、黒冠軍は軍の答えを持ち帰る
黒冠軍との一時停戦契約が結ばれてから、まもなく二日が経とうとしていた。
たった二日。
そう言ってしまえば短い。
だが、交渉が成立すれば取引が始まり、決裂すれば戦争になると分かっている状況では、一刻一刻が妙に長く感じられた。
《一時停戦契約の残存時間、三時間二十七分》
管理音声の報告を聞きながら、余は白い部屋から迷宮全体の状況を確認していた。
外縁の白霧に異常はない。
覇牙軍団は第一防衛線で待機し、百二十体の兵がいつでも動けるよう武器と防具を整えている。
百骸騎士団も第二防衛線へ城陣を敷いたままだ。百体の騎士たちは微動だにせず、兜の奥に青い光だけを灯していた。
万蝕酸界では、ウルグが透明な床へ溶け込むように体を広げている。あれなら侵入者が足を踏み入れるまで、ただの透明な床との区別はつかないだろう。
命の苗床も安定している。
誓命花は八枚の花弁を開き、赤金色の芽にも弱った様子はない。
黒冠軍が停戦契約を破った反応も、今のところ一度も確認されていなかった。
少なくとも、約束だけは守っている。
だからといって、信用できるわけではないが。
「遅い」
白い部屋の床へ寝転がったルオが、空梨を齧りながら不満そうに呟いた。
「まだ約束の時刻まで三時間以上ある」
「二日って、こんなに長かったか?」
「昨日も同じことを聞いたぞ」
「一昨日も聞いた」
「自覚があるなら何度も聞くな!」
ルオは余の怒鳴り声など気にした様子もなく、空梨をもう一口齧った。
籠の中を見る。
すでに五個減っている。
「それで六個目だぞ」
「今日は小さい」
「全部ほとんど同じ大きさだ!」
「持った感じが軽かった」
「食べる前に重さを量ったのか?」
「持てば分かる」
分からん。
絶対に分からん。
単に食べたいから適当な理由をつけているだけだ。
ルオの少し離れた場所では、ガルザヴェインが床へ座り、目を閉じていた。
眠っているわけではない。
覇王の魔力を、全身の魔力経路へ何度も巡らせている。
ゼルヴァンの黒冠隷命を砕いた時、ガルザヴェインは魔神から覇王へ進化した。
だが、あの力は怒りと恐怖、そして迷宮を絶対に守るという意志が限界まで膨れ上がった末に生まれたものだ。
進化したからといって、その全てを自在に扱えるようになったわけではない。
覇王の力を無理に引き出せば、今でも体内の魔力経路へ負担がかかる。
それでもガルザヴェインは、この二日間、ほとんど休まず同じ訓練を繰り返していた。
「ガルザヴェイン」
余が呼ぶと、金色の目がゆっくり開いた。
「ロード」
「体の状態はどうだ」
「イケル」
「何がだ」
「ゼルヴァン」
「交渉が成立すれば戦わないぞ」
「……」
「聞こえたか?」
「聞コエタ」
「なら返事をしろ」
ガルザヴェインは明らかに不満そうな顔をしながら、それでも小さく頷いた。
「ウン」
本心では、交渉など決裂してしまえばいいと思っているのだろう。
ゼルヴァンが再び迷宮へ来れば、今度こそ自分の手で殺す。
ガルザヴェインは、あの日からずっとそのつもりだ。
「交渉が成立した場合、ゼルヴァンへ手を出すな」
「ワカッテル」
「本当に分かっているな?」
「……ウン」
「間が長い!」
ルオが横から笑った。
「ガルザヴェイン、交渉が失敗した方がいいと思ってるだろ」
「ウン」
「正直だな」
「ルオモ」
「まあな」
「お前たちは少しも戦争を避けようと思わんのか!」
余が怒鳴ると、ルオは空梨を飲み込み、珍しく少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ」
「何だ」
「向こうは、欲しいものを渡さなかったら攻めるって言ってるんだろ?」
「ああ」
「なら、今回だけ取引しても、いつかまた来るんじゃないか?」
答えに詰まった。
余も同じことを考えていたからだ。
果実を一つ渡せば、黒冠軍はその効力を知る。
効かなければ、そこで終わるかもしれない。
だが、黒脈崩壊症の末期だったノエルを救った実だ。戦場で負った傷や呪いに使えば、相応の効果を見せる可能性は高い。
効果が分かれば、次は一個では済まない。
二個。
十個。
毎月。
あるいは戦況が悪化するたびに。
断れば、その時こそ軍を送ってくる。
「まだ、そうなると決まったわけじゃない」
命の苗床から、フィルエの声が届いた。
「黒冠軍は、定期的に寄越せと言うつもりだ」
「言うかもしれない」
「ほぼ確実に言う」
「でも、まだ言ってない」
フィルエは誓命花の根元へ戻り水を与えながら、落ち着いた声で続ける。
「だから、今日の話を聞いてから決めよう」
「……ああ」
それしかない。
相手がどんな答えを持ち帰るのか。
まずは、それを聞く。
◇
霧灰白庭迷宮から五キロ以上離れた岩場。
ゴールドプレート冒険者、ゼグラド・ヴェインは、巨大な魔獣の死骸へ腰を下ろしていた。
岩のように硬い黒鱗。
六本の太い脚。
岩盤すら噛み砕く巨大な顎。
この地方に生息する岩顎獣は、黒冠軍の兵でも十数人で囲まなければ危険な魔獣だった。
だが今は、首を半ばまで斬り裂かれ、完全に息絶えている。
近くに大規模な戦闘痕はない。
ゼグラドが背負っている細長い武器も、布に巻かれたままだ。
同行している黒冠軍の監視役には、彼がどうやって岩顎獣を殺したのかさえ分からなかった。
「停戦契約の範囲から出ないでください」
黒冠軍兵が警戒を滲ませた声で言う。
「出てない」
ゼグラドは岩顎獣から切り取った肉を、火も通さずに噛みちぎった。
「岩顎獣を追って北へ二百メートル移動しました」
「倒した後、戻った」
「戻ればよいという問題ではありません」
「迷宮には近づいてないだろ」
「それは、そうですが……」
兵はそれ以上強く言えなかった。
相手は黒冠軍の所属ではない。
魔族冒険者組合へ正式な依頼を出し、金を払い、戦力として雇ったゴールドプレート冒険者だ。
命令では動かない。
契約以外の行動を無理に縛ろうとすれば、依頼そのものを放棄して帰る可能性すらある。
「まずいな」
生肉を噛みながら、ゼグラドが呟く。
「なら食べなければよいのでは?」
「腹は満たせる」
「味はどうでもよいのですか」
「仕事中だからな」
とても仕事中とは思えない態度だった。
ゼグラドは肉を飲み込むと、白い迷宮がある方角へ顔を向けた。
ここから迷宮は見えない。
いくつもの丘と森が間にある。
それでも、彼には感じ取れるものがあった。
白銀の龍気。
強く、鋭く、どこか未完成。
それでいて、巨大な何かを内側へ隠しているような気配。
「交渉はまだか?」
「期限内です」
「黒冠軍って、決めるのが遅いな」
「軍には軍の手順があります」
「冒険者にはない」
「その結果、合流地点を間違えたのでは?」
「それは関係ない」
ゼグラドは地図を逆さまに見ていたせいで、予定とは別の街道へ出た。
だが本人は、迷ったとは認めていない。
「交渉が成立すれば、今回の依頼は待機のみで終了します」
「迷宮素材は?」
「侵攻しない以上、分配されません。契約金のみです」
「金はいらない」
「では、なぜ依頼を受けたのです」
「強い奴がいるかもしれないって聞いたからだ」
「依頼書に、そのような内容はありません」
「今はいる」
ゼグラドの口元がゆっくり上がった。
「だから、交渉が失敗しないかなと思ってる」
黒冠軍兵は何も答えなかった。
ゴールドプレート。
魔族冒険者組合において、鉄、銅、銀の上へ位置する金色の認証札。
だが、それが人間側の冒険者でいえば、どの程度に当たるのか。
明確な答えはない。
魔族と人間では、冒険者制度の基準が違う。
討伐対象も。
依頼達成の条件も。
生還難度も。
種族ごとの身体能力も違う。
ゴールドプレートの中には、人間側のSランクに匹敵する者もいれば、それ以上と恐れられる者もいる。
ゼグラドがどこに当てはまるのか。
黒冠軍の監視役ですら、正確には知らなかった。
◇
《外縁への接近反応を確認》
残り時間が二時間を切った頃、管理音声が告げた。
「人数は」
《四名》
余はすぐに壁面を切り替えた。
白い霧へ続く森の道。
先頭を歩いているのはゼルヴァンとセレイナ。
その後方には護衛が二人。
前回と同じ構成だ。
だが、今回は護衛たちが小型の荷車を引いていた。
荷台に載っているのは、黒晶、呪詛除去薬、魔王領の希少素材、そして勇者側の兵器や神聖術に関する情報板。
交渉時に提示した対価を、全て持ってきている。
「周囲を調べろ」
《半径五キロメートル以内に、新たな武装集団反応はありません》
「ゴールドプレートは」
《高位反応一。迷宮外縁から五・八キロメートル地点に留まっています》
「契約は守ったか」
《はい》
少なくとも、今の時点では。
ルオが勢いよく立ち上がった。
「来た?」
「ゴールドプレートは五キロより外だ」
「見てくる」
「駄目だ!」
「交渉するのはゼルヴァンたちだろ」
「お前が外へ出れば、向こうが反応するかもしれん!」
「反応したら?」
「戦うな!」
「分かった」
返事が早すぎる。
「本当に分かっているな?」
「交渉が終わるまでは戦わない」
「終わった後は」
「ロードが決めろよ」
ルオはそう言って、白銀の翼を出しかけた背中を元へ戻した。
今回は、本当に待つつもりらしい。
ガルザヴェインも、第一防衛線へ向かおうとはしなかった。
ゼルヴァンの姿を壁面越しに見据えながら、白い部屋で余の判断を待っている。
◇
ゼルヴァンたちは、霧から十分に離れた位置で足を止めた。
前回と同じ場所。
セレイナは右手を見える位置へ上げ、一時停戦契約の紋を示す。
「回答を持ち帰りました」
彼女の声が森へ響いた。
「第三戦団長、および黒冠軍軍議の承認です」
「外部音声を開け」
《承知しました》
《話せ》
余の声が白い霧の奥から届くと、セレイナは荷車へ視線を向けた。
「黒晶、呪詛除去薬、魔王領産の希少素材、勇者側の兵器情報、そして黒冠隷命への対抗情報」
「提示した全てを、赤金色の果実一個の対価として差し出すことを認めます」
条件を飲んだ。
全て。
果実一個に対し、前回提示した全対価を支払う。
ガルザヴェインの握っていた拳が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ロード」
カゲツの声が届く。
「対価、確認ノ必要有リ」
「ああ」
「罠ノ可能性」
「当然調べる」
フィルエも、命の苗床から壁面を見ていた。
「認めたね」
「ああ」
「じゃあ、渡す?」
「まだだ」
セレイナの言葉には、明らかに続きがある。
「ただし」
やはり。
「今回の取引が成立し、果実の効力が確認された場合、黒冠軍は第二回交渉を求めます」
《内容は》
「赤金色の果実の定期供給です」
予想していた。
それでも、実際に口にされると腹の奥が熱くなる。
《断る》
「まだ数量も、対価も提示していません」
《断る》
「一度、条件を聞くことも?」
《認めない》
セレイナの表情は変わらない。
だが、その目だけが僅かに鋭くなった。
「理由をお聞きしても?」
《有限だからだ》
フィルエが赤金色の芽を見つめた。
余はそれ以上説明しない。
保管数。
新しい実が生る可能性。
芽と誓命花の状態。
どれも黒冠軍へ教えるつもりはない。
「今後、新しく実る可能性は?」
《答えん》
「現在の保有数は?」
《答えん》
「一個しか存在しない可能性も?」
《答えん》
セレイナが一度だけ呼吸を整える。
「それでは黒冠軍は、今回の一個が最初で最後になる可能性を受け入れた上で、全ての対価を支払うことになります」
《そうだ》
「それでは釣り合いません」
《ならば持ち帰れ》
白い霧が静かに揺れた。
セレイナは、すぐには次の言葉を発さない。
代わりにゼルヴァンが一歩だけ前へ出た。
霧へ近づいたわけではない。
それでもガルザヴェインの魔力が、瞬時に膨れ上がった。
「一つ聞く」
《お前へ質問を許した覚えはない》
「それでも聞く」
相変わらず、交渉相手を怒らせることに一切の迷いがない男だ。
「その果実を、黒冠軍以外の勢力へ渡すつもりはあるか」
《答えん》
「人間へは渡した可能性がある」
《断定するな》
「ならば、今後、勇者側へ渡す可能性も否定できない」
《答えん》
ゼルヴァンの声から、僅かな温度が消えた。
「それでは黒冠軍は、一個だけで終わることができない」
《なぜだ》
「白い迷宮の果実が勇者側へ渡れば、我々の敵が強くなる」
《余には関係ない》
「我々にはある」
《ならば勇者側へ言え》
「何を」
《果実を求めるなと》
「聞くと思うか」
《余も、お前たちの命令を聞くと思うな》
森の空気が張り詰めた。
互いの言葉は通じている。
だが、見ているものが違う。
余が守るのは迷宮と配下だ。
黒冠軍が見ているのは、勇者軍との戦争。
余にとって、黒冠軍と勇者側のどちらが勝つかなど関係ない。
だが黒冠軍にとっては、余が誰へ果実を渡すかさえ戦況に関わる。
最初から、一個だけで終わるはずがなかった。
◇
「軍議の回答を、最後までお伝えします」
セレイナがゼルヴァンの前へ言葉を重ねた。
「黒冠軍は、果実一個に対する全対価の支払いを認める」
「ただし、効力確認後の第二回交渉を認めること」
「第二回交渉の機会そのものを拒否される場合、今回の取引も成立させない」
白い部屋が静まり返った。
「ロード」
フィルエが小さく呼んだ。
「聞こえている」
「これ、一個の取引じゃないね」
「ああ」
黒冠軍が欲しいのは、果実一個ではない。
一個目は確認のため。
本当に欲しいのは、その先へ続く取引の道だ。
一度道を開けば、黒冠軍は何度でも来る。
戦況が悪くなるたびに。
強い兵が傷つくたびに。
将が呪いを受けるたびに。
果実を求める。
「ロード」
ガルザヴェインが低く言う。
「ヤメル」
「交渉をか」
「ウン」
「実、渡サナイ」
カゲツも、第二防衛線から意見を伝えた。
「定期供給ヲ認メタ場合」
「迷宮資源ガ外部戦争ニ組ミ込マレル」
「長期的危険、極メテ高シ」
「分かっている」
余はフィルエへ意識を向けた。
「お前はどう思う」
フィルエは、すぐに答えなかった。
誓命花。
赤金色の芽。
保管されている百三十九個の実。
それらを順番に見つめた後、静かに首を横へ振った。
「一個だけなら、渡してもいいと思ってた」
「ああ」
「黒冠軍が何に使うのか、見たかった」
「ああ」
「でも」
フィルエは赤金の芽を守るように、両手を近づける。
「次も、その次も欲しいって言うなら嫌」
「理由は」
「この実が、戦争のためのものになるから」
その言葉を聞いた時。
余の中に残っていた迷いが消えた。
エリラの実は、フィルエが管理している。
命を救うために使われる実だ。
それを黒冠軍へ一つ渡すだけなら、結果を見る選択もあり得た。
だが、定期供給を認めれば違う。
余の迷宮が。
フィルエの守る実が。
黒冠軍の戦争を支える場所へ変えられる。
それだけは、認められない。
◇
《回答する》
セレイナが姿勢を正した。
《第二回交渉は認めない》
「では――」
《今回の取引も中止だ》
護衛二人が僅かに身構える。
ゼルヴァンの目も鋭くなる。
セレイナだけが、冷静さを崩さず確認を続けた。
「黒晶も」
《持ち帰れ》
「呪詛除去薬も」
《要らん》
「黒冠隷命の対抗情報も」
《要らん》
「白陽砲、および神聖術式の情報も?」
《次に持ち込まれた時》
一拍置き。
《実物ごと壊す》
ガルザヴェインの口元が獰猛に吊り上がった。
「ウン」
カゲツも、青黒い大剣を静かに持ち上げる。
「迎撃準備、継続」
セレイナは余の返答を全て聞き終えると、最後の確認を口にした。
「交渉決裂と判断してよろしいですか」
《ああ》
「黒冠軍は、今後、正式な軍事行動へ移る可能性があります」
《好きにしろ》
「前回とは比較にならない数の兵が来ます」
《全て殺す》
「高位魔族も」
《殺す》
「魔獣も」
《殺す》
「魔族冒険者も」
《全てだ》
余の声が、白い霧だけではなく迷宮全体へ響いた。
《次に来た者は》
《一人も帰さない》
ゼルヴァンの目が細くなる。
「その言葉を忘れるな」
《お前こそ》
余は、あの日逃がした男へ告げる。
《次も逃げられると思うな》
霧の内側で、ガルザヴェインが一歩前へ出た。
外から姿は見えない。
声も届いていない。
それでも、金色の目は確かにゼルヴァンだけを捉えている。
「ゼルヴァン」
低く。
殺意を押し込めるように呟く。
「次、殺ス」
◇
《一時停戦契約の残存時間、一時間四十二分》
《交渉の決裂を確認しました》
《契約終了まで、双方の攻撃行動は禁止されます》
「直ちに戦闘とはならないのですね」
セレイナが確認する。
《契約を破るつもりか》
「ありません」
彼女は一歩後ろへ下がった。
「契約終了後、黒冠軍は軍議で定められた方針に従います」
《戦争だろう》
「はい」
今度は濁さなかった。
「次に我々が来る時は、使者ではありません」
《望むところだ》
「では」
セレイナは僅かに頭を下げた。
「戦場で」
ゼルヴァンは最後まで頭を下げなかった。
白い霧の向こうを見たまま、静かに背を向ける。
護衛たちが荷車を引き、二人の後へ続いた。
◇
「終わった?」
ルオが立ち上がった。
「ああ」
「戦争?」
「ああ」
「じゃあ、ゴールドプレートと戦っていい?」
「今すぐではない!」
「何で」
「まだ停戦契約が残っている!」
「オレは契約してない」
「屁理屈を言うな!」
ルオの背中から、白銀の翼が半ばまで広がった。
「挨拶だけ」
「やめろ!」
「近づかない」
「何をする気だ!」
「こっちにいるって教える」
止めるより早く。
ルオの体から、白銀の龍気が放たれた。
攻撃ではない。
迷宮の外へ出てもいない。
ただ。
自分の存在を知らせるためだけに、一瞬だけ気配を膨らませた。
「ルオ!」
「呼んでない」
「何を考えている!」
「向こうも待ってるから」
◇
五・八キロ先。
岩顎獣の死骸へ座っていたゼグラドが、ゆっくり顔を上げた。
白い迷宮の方角から。
鋭い白銀の龍気が届いた。
遠い。
直接ぶつけられたわけではない。
だが、その気配が内包する力は十分に分かる。
空を裂き。
大地を蹴り砕き。
巨大な魔力すら肉体一つで押し切る。
そんな戦い方をする何かがいる。
「来た」
ゼグラドが立ち上がる。
「何がです?」
監視役が尋ねた。
「向こうからの挨拶だ」
布に巻かれた長い武器を肩へ担ぐ。
次の瞬間。
ゼグラドの体から、深い紫色の魔力が溢れ出した。
重い。
ただ広がっただけで、足元の岩が軋み、岩顎獣の死骸がさらに地面へ沈む。
周囲の木々が根元から傾き。
監視役たちが堪え切れず膝をついた。
「ゼグラド!」
「契約範囲から出るなと――」
「出てない」
「魔力を抑えてください!」
「これも挨拶だ」
紫の魔力が。
遥か遠い白い迷宮へ向かって伸びる。
白銀の龍気。
深紫の魔力。
二つは距離を越え、ほんの一瞬だけ触れ合った。
衝突ではない。
互いが本当に存在することを確かめただけ。
それでも。
ルオとゼグラドは。
同じ瞬間に笑っていた。
◇
「強い」
ルオが白銀の翼を広げたまま呟く。
「早く翼をしまえ!」
「オレと同じくらいかもしれない」
白い部屋が静かになった。
余だけではない。
ガルザヴェインも。
フィルエも。
カゲツも。
ルオを見る。
「本当か」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ戦ってないから分からない」
ルオの白銀の瞳は、子供のように輝いていた。
「でも、今まで来た奴とは違う」
「何がだ」
「向こうも」
口元を獰猛に吊り上げる。
「オレを見つけて笑った」
嫌な予感しかしない。
「ルオ」
「何だ」
「勝手に戦うな」
「分かってる」
「本当に?」
「黒冠軍が攻めてきたら、戦っていいんだろ?」
「ああ」
「なら待つ」
先ほどまで二日が長いと文句を言っていた男が。
今度は楽しそうに待つと言った。
戦争が決まった。
強い相手が来る。
それだけで、待つ時間さえ楽しみに変わったらしい。
◇
ゼルヴァンとセレイナは、対価を積んだ荷車と共に森を離れていた。
白い迷宮が完全に見えなくなった頃、セレイナが静かに口を開く。
「交渉決裂を後悔していますか」
「していない」
「随分と早い答えですね」
「迷う理由がない」
「果実一個だけでも得る価値はあったかもしれません」
「一個で戦争は変わらない」
「効力の確認にはなります」
「確認すれば、次が欲しくなる」
「はい」
「だが、次の交渉は認められない」
「はい」
「ならば最初から」
ゼルヴァンは包帯に覆われた左手を見る。
「力で取るしかない」
セレイナが横目で彼を見る。
「それを望んでいましたか」
「何を」
「交渉が決裂することを」
「望んでいない」
「本当に?」
「私が嘘をつくと思うか」
「いいえ」
「なら聞くな」
セレイナは、少しだけ歩調を落とした。
「戦争になれば、あなたはあの高位ゴブリンと戦うのでしょうね」
「ああ」
「勝てますか」
「勝つ」
「質問の答えになっていません」
「他の答えはない」
前回は負けた。
仲間を四人失い。
左手の指を二本失い。
黒冠隷命を砕かれ。
最後には逃げた。
だが、今度は五人ではない。
黒冠軍が来る。
前線で勇者軍と殺し合ってきた、本物の軍が。
「ゴールドプレートは」
ゼルヴァンが言う。
「迷宮内の龍気へ向かうだろう」
「そうでしょうね」
「なら」
「ガルザヴェインは私が殺す」
セレイナは何も言わなかった。
彼の決意が。
復讐なのか。
軍人としての責任なのか。
あるいは。
敗北したままでは終われないという執念なのか。
おそらく。
全てだった。
◇
《一時停戦契約の終了を確認しました》
低い通知が白い部屋へ響いた瞬間、迷宮を包んでいた緊張の質が変わった。
交渉は終わった。
もう。
黒冠軍との間に、互いを縛る約束は残っていない。
次に奴らが白い霧の前へ立つ時。
使者ではない。
敵だ。
「マネ」
「ロード」
「全軍へ伝えろ」
マネが一度だけ息を吸った。
以前。
ゼルヴァンに奪われ。
余の偽りの命令を叫ばされた声。
だが今は。
誰にも操られていない。
マネ自身の意志で、その声を迷宮全体へ響かせる。
「全軍!」
「戦争準備!」
その号令へ応え、覇牙軍団の百二十体が一斉に武器を掲げた。
盾が白い床を叩き。
槍の石突きが鳴り。
百二十体の咆哮が、覇王練兵窟を震わせる。
ガルザヴェインは軍の先頭へ立ち、黒い覇王魔力を背後へ立ち昇らせた。
「覇牙軍団!」
百二十の視線が。
自分たちの王へ集まる。
「今度ハ」
黒い拳が掲げられた。
「黒冠軍!」
金色の目に。
以前の恐怖はない。
仲間を奪われ。
殺させられ。
迷い。
倒れ。
それでも立ち上がった。
その時の悔しさを。
ガルザヴェインは何一つ忘れていない。
「全員!」
覇王の咆哮が轟く。
「殺ス!」
「ギャアアアアアアッ!」
第二防衛線では、カゲツが青黒い大剣を鞘から引き抜いた。
その音に応じるように、百体の骸骨騎士が一斉に立ち上がる。
兜の奥へ灯った青い光が、暗い回廊を埋め尽くした。
「冥月百骸騎士団」
カゲツが大剣を正面へ構える。
「迎撃準備」
一拍。
「敵軍」
青い冥月が、将軍の背後へ浮かび上がった。
「殲滅スル」
万蝕酸界では、ウルグが透明な体を大きく波打たせる。
「うるぐ」
「お前も準備しろ」
「うるぐ」
「敵を食うのはいいが、武具まで全部溶かすなよ」
「うるぐ」
「今の返事は全く信用できん!」
命の苗床では、フィルエが誓命花と赤金の芽を見守っていた。
花。
実。
根。
黒冠軍が欲しがったもの。
奪うために軍が来る。
「ロード」
「何だ」
「守ろうね」
「ああ」
「この子も」
「ああ」
「迷宮の皆も」
「ああ」
「全部」
余は、迷宮全体へ意識を広げた。
ガルザヴェイン。
カゲツ。
フィルエ。
マネ。
グズ。
ハイハネ。
カゲヌイ。
覇牙軍団。
百骸騎士団。
赤金果守ゴブリン。
ウルグ。
そして。
完全な配下ではなくても、今ここへ立つルオ。
守るものは。
前より増えた。
迷宮が強くなるほど。
配下が増えるほど。
失うことへの恐怖も大きくなる。
だからこそ。
負けるわけにはいかない。
「全て守る」
余は告げた。
「そして」
白い霧の向こう。
まだ姿の見えない黒冠軍へ。
「一人も帰さない」
果実一個を巡った交渉は終わった。
黒冠軍は、戦争を変える力を諦めなかった。
余は、迷宮の命を戦争へ差し出すことを拒んだ。
次に交わされるのは、言葉でも対価でもない。
魔王軍の黒い軍旗と。
霧灰白庭迷宮の全戦力。
覇牙王と、第七牙隊長。
そして。
金色の認証札を持つ魔族冒険者と。
白銀の龍神の子。
まだ名も。
顔も知らない二人だけが。
始まる前から互いの強さを感じ取り。
同じ戦場を、心から待ち望んでいた。




