第248話 一個の果実では、戦争は止まらない
白い霧の外で。
ゼルヴァンとセレイナは、答えを待っていた。
迷宮の内側からは。
何の音も届かない。
風が霧を揺らしても。
奥の様子は一切見えない。
ただ。
地面から突き出した白磁の槍だけが。
二人の首。
胸。
腹。
逃げ道。
その全てへ向けられたまま残っていた。
交渉中。
だが。
安全ではない。
セレイナは。
それを理解した上で、口を閉ざしている。
横に立つゼルヴァンは。
左手を包む白布へ、僅かに血を滲ませていた。
「痛むのですか」
「黙っていろ」
「痛むのですね」
「交渉に集中しろ」
「あなたこそ」
声を落とす。
「余計なことを言わないでください」
「何が余計だ」
「殺したから分かった、という部分です」
「事実だ」
「事実でも、言う必要のないことがあります」
「ない」
「あります」
「私は」
ゼルヴァンは霧の奥を見る。
「言葉を飾るために来たのではない」
「知っています」
「なら」
「だから私が同行したのです」
セレイナは。
小さく息を吐いた。
「あなた一人なら」
「交渉開始から半刻もせず」
「戦争になっていました」
「まだ半刻も経っていない」
「だから黙ってください」
ゼルヴァンは答えない。
霧の中から。
ようやく声が届いた。
《契約条件を提示する》
セレイナが。
すぐに姿勢を正す。
「聞きます」
《今回の取引に関する情報のみ》
《双方》
《虚偽を禁ずる》
「了承します」
《果実の使用対象》
《負傷状態》
《使用前後の変化》
《全て記録し》
《指定した期限内に報告する》
「期限は」
《使用後、三日以内》
「了承」
《果実を》
《切る》
《潰す》
《煮る》
《成分を抜く》
《分割する》
《魔術で調べる》
《これら全てを禁ずる》
セレイナは。
一瞬だけ考える。
「果実の表面へ触れることは」
《運ぶためなら認める》
「魔力測定は」
《認めない》
「匂いの確認」
《認める》
「重量測定」
《認める》
「記録用の絵を描くことは」
《外形のみなら認める》
「内部構造の確認は」
《認めない》
「使用対象以外の者へ見せることは」
《最小限にしろ》
「最小限とは」
《使用に必要な者のみ》
《軍上層部》
《研究者》
《商人》
《他国》
《勇者側》
《これらへ見せることを禁ずる》
「使用には」
「治療術師が必要になる可能性があります」
《一名のみ認める》
「記録官は」
《一名》
「護衛は」
《不要だ》
「軍用施設内で使用する場合」
「兵が周囲にいます」
《対象者》
《治療術師》
《記録官》
《果実を運ぶ者》
《合計四名まで》
「厳しいですね」
《嫌なら帰れ》
「了承します」
セレイナは。
交渉内容を一つずつ記憶していく。
書き留める道具は出さない。
手を動かせば。
武器を取ると誤認される可能性がある。
《契約違反時》
《果実に関する記憶の一部を封ずる》
「死ではないのですね」
《取引を破っただけで》
《殺す必要はない》
セレイナの目が。
僅かに細くなった。
前回。
侵入した黒冠軍には。
容赦がなかった。
それでも。
取引を破った者を、即座に殺すとは言わない。
迷宮の奥にいる何かは。
怒りだけで判断してはいない。
「こちらからも」
セレイナが言う。
「条件を提示します」
《言え》
「果実が」
「説明された効力を全く示さなかった場合」
「対価の情報は返還不能です」
「しかし」
「黒晶」
「呪詛除去薬」
「その他の現物については」
「半分を返却していただきたい」
《拒む》
「理由を」
《余は》
《果実の効力を説明していない》
「……」
《お前たちが》
《勝手に噂を作り》
《勝手に効力を決めた》
「それは」
《赤金の奇跡果》
《死者すら起こす》
《手足を戻す》
《呪いを消す》
《全て》
《お前たちが流した話だ》
セレイナは。
否定できなかった。
「はい」
《余は》
《そのどれも約束していない》
「では」
「果実の効力について」
「何も教えないまま渡すのですか」
《一つだけ》
白い霧が。
静かに渦を巻く。
《命を治すための実だ》
「命を」
《傷》
《毒》
《呪い》
《壊れた魔力》
《それらへ働く》
「欠損は」
《分からん》
「死者は」
《生き返らない》
セレイナの瞳が。
ほんの僅かに動いた。
噂。
死者を起こす果実。
それは。
やはり黒冠軍が膨らませたもの。
実際には。
死者蘇生まではできない。
「使用対象が」
「すでに死亡していた場合」
《使うな》
「瀕死は」
《生きているなら》
《効く可能性はある》
「可能性」
《保証はしない》
ゼルヴァンが。
そこで初めて口を開いた。
「ノエル・ヴァレストには効いた」
霧の奥。
空気が一瞬止まる。
セレイナが。
横へ鋭い視線を向けた。
「ゼルヴァン」
「事実確認だ」
《なぜ》
《そう思う》
「セリア・ヴァレストが」
「白い迷宮から戻った後」
「弟が回復した」
《だから》
《余が果実を渡したと》
「可能性は高い」
《断定するな》
「していない」
《人間の女が》
《何を得たか》
《お前たちは知らない》
「そうだ」
《なら》
《勝手に繋げるな》
怒り。
だが。
慌てた否定ではない。
ゼルヴァンは。
霧の奥の反応を聞いている。
「分かった」
それ以上。
追及しなかった。
◇
白い部屋。
余は。
壁面に映るゼルヴァンを睨んでいた。
「勘が鋭い」
ルオが言う。
「黙れ」
「でも」
「あいつ」
「セリアが何か持って帰ったって分かってる」
「黒冠軍が監視していたのだろう」
「じゃあ」
「ノエルが治ったのも?」
「知っている」
「秘密になってないじゃん」
「治った事実までは隠せん!」
ルオは。
空梨の最後の一欠片を口へ放り込む。
「果実ってバレるの」
「時間の問題じゃない?」
「だから取引するか迷っている!」
「渡したら確定する」
「ああ」
「渡さなくても攻めてくる」
「ああ!」
「大変だな」
「他人事のように言うな!」
「だって」
ルオは。
白い床へ座り直す。
「オレなら」
「欲しいって言われて」
「嫌なら渡さない」
「その後攻めてきたら戦う」
「単純でいいな!」
「ロードは難しく考えすぎ」
「迷宮が消えれば余も配下も全部消える!」
「だから」
「攻めてくるなら倒す」
ルオの答えは。
いつも変わらない。
強い方が勝つ。
敵なら倒す。
守りたい者がいるなら守る。
それだけ。
だが。
余は。
黒冠軍との戦争になれば。
何体死ぬかを考える。
ガルザヴェイン。
カゲツ。
覇牙軍団。
百骸騎士団。
マネ。
グズ。
ハイハネ。
カゲヌイ。
フィルエ。
ウルグ。
全員が無傷で終わる保証などない。
「ロード」
フィルエが呼ぶ。
「何だ」
「渡す?」
「まだ決めていない」
「私は」
「一個ならいいって言った」
「ああ」
「でも」
誓命花を見る。
「黒冠軍の人」
「果実のこと」
「ものみたいに話すね」
「物だと思っているのだろう」
「うん」
「戦争で使う薬」
「うん」
「それが嫌か」
「少し」
フィルエは。
赤金色の花弁へ触れないように。
手を近づける。
「でも」
「実は食べられるものだから」
「食べられた後」
「何に使われるかは」
「実には選べない」
「……」
「だから」
「私が決める」
「渡すかどうか」
「その通りだ」
「ロードは」
「どうしたい?」
問われて。
余は答えに詰まった。
「余は」
黒冠軍が嫌いだ。
ゼルヴァンを殺したい。
配下を奪い。
殺させ。
逃げた。
その上。
噂を流し。
冒険者を呼び。
二百六十三人まで迷宮へ向かわせた。
だが。
黒晶。
呪詛除去薬。
勇者側の情報。
どれも。
迷宮を守るために必要なもの。
「取れるものは取りたい」
余は答えた。
「でも」
「実は渡したくない」
「うん」
「そして」
「戦争も避けたい」
「全部だね」
「ああ!」
「欲張り」
「うるさい!」
フィルエが。
少しだけ笑った。
◇
外。
交渉は続く。
《対価を》
《全て見せろ》
「承知しました」
セレイナが。
ゆっくり後方へ手を伸ばす。
待機していた護衛へ。
箱を運ぶよう合図する。
護衛二人は。
白い霧から十分離れた位置まで箱を運び。
その場へ置いて下がった。
全部で四箱。
一つ目。
黒晶。
蓋が開く。
中には。
黒く透き通った結晶が十二本。
光へ晒しても。
反射しない。
周囲の白い光を吸い込むように。
表面だけが暗く沈んでいる。
《解析》
《高密度闇属性鉱物》
《神聖属性干渉効果を確認》
「本物か」
《はい》
二つ目。
呪詛除去薬。
黒い小瓶が八本。
《解析》
《精神干渉弱体》
《外部命令遮断補助》
《呪印剥離促進》
《複数効果を確認》
「マネに使える?」
《適合可能性、有リ》
マネが。
白い壁の奥から。
さらに顔を出した。
「ロード」
「まだ渡されていない!」
「うん」
「見るだけだ」
「分かった」
三つ目。
白陽砲の縮小構造図。
神聖術式。
聖灰の精製工程。
勇者側の結界配置。
「敵の情報を」
「よく持ち出せるな」
ルオが言う。
「戦争中だからだ」
「取った?」
「おそらく」
四つ目。
魔王領の希少素材。
黒土。
夜鉄。
魔獣核。
熱を持つ青い石。
白磁庭園では得られないものばかり。
《総合評価》
《迷宮強化への有用性、高》
管理音声の答え。
余は。
ますます迷う。
「卑怯だ」
思わず呟く。
フィルエが首を傾げる。
「何が?」
「欲しい物を持ってきた!」
「交渉だから」
「分かっている!」
ガルザヴェインは。
腕を組み。
全てを見ていた。
「ロード」
「何だ」
「モラウ」
「お前も欲しいのか」
「ウン」
「でも」
金色の目が。
ゼルヴァンを見る。
「実、ヤラナイ」
「それでは交渉にならん!」
「奪ウ」
「交渉中に奪うな!」
「アイツラ、前、ヤッタ」
「同じことをするな!」
ガルザヴェインは。
納得していない。
だが。
余が止めるなら。
まだ動かない。
◇
《対価は確認した》
余の声が。
再び外へ届く。
《だが》
《足りん》
セレイナの表情が変わらない。
「何を求めますか」
《一つ》
《黒冠軍が流した噂を》
《お前たち自身で消せ》
「完全には不可能です」
《なぜ》
「噂は」
「すでに我々の手を離れています」
「酒場」
「冒険者組合」
「貴族」
「薬師」
「病人」
「それぞれの間で」
「別の形へ変わっています」
《では》
《どうする》
「別の噂で薄めます」
「赤金の奇跡果は偽物」
「白い迷宮には存在しない」
「ヴァレスト家は別の方法で治療した」
「それらを流します」
《消えるか》
「保証はできません」
《ならば》
《足りん》
「他に」
《二つ》
余は。
ゼルヴァンを見た。
《黒冠隷命》
左手の白布。
その下。
割れた支配術式。
《術式の全てを渡せ》
ゼルヴァンの目が。
明確に変わった。
セレイナも。
すぐには答えない。
「それは」
「黒冠軍の軍事機密です」
《余の配下を奪った術だ》
「だからこそ」
「渡せません」
《対策に使う》
「術式があれば」
「対策だけではなく」
「同じ支配術を再現できます」
《余が》
《魔物を奪うと》
「可能性は否定できません」
《お前たちと同じにするな》
「こちらも」
「あなた方を完全には信用していません」
ゼルヴァンが。
静かに言う。
「拒否する」
《では》
《交渉は終わりだ》
白い霧が。
一気に濃くなる。
「待ってください」
セレイナが。
初めて声を強めた。
「黒冠隷命そのものは渡せません」
「ですが」
「対抗術式を作るために必要な情報なら」
「一部提供できます」
《一部》
「命令の侵入経路」
「魔力紋の固定点」
「支配を弱める波長」
「解除時に破壊すべき箇所」
「それらです」
《術の核は》
「提供しません」
《足りん》
「完全な術式を渡せば」
「黒冠軍全体の命令系統に関わります」
《余には関係ない》
「我々にはあります」
交渉。
互いに。
欲しいもの。
渡せないもの。
譲れないもの。
それが。
少しずつ。
ぶつかり始める。
「ロード」
カゲツが。
第二防衛線から声を届ける。
「部分情報デモ」
一拍。
「対策構築ハ可能」
「完全ではない」
「完全ナ情報ヲ得タ場合」
「同系統術ノ再現可能性モ上昇」
「それは困る」
余が黒冠隷命を使う気はない。
だが。
管理音声が。
迷宮機能として取り込める可能性はある。
もし。
無意識に。
新しい配下へ影響を与えたら。
それは。
ゼルヴァンと同じ。
「一部でよい」
フィルエが言う。
「本当に?」
「うん」
「皆を守れるなら」
「でも」
「同じことはしない」
フィルエの答えは。
迷いがない。
「分かった」
◇
《対抗術式の情報》
《それを追加しろ》
セレイナが。
僅かに息を吐く。
「了承します」
《さらに》
「まだあるのですか」
《黒冠軍は》
《白い迷宮へ》
《今後》
《人間を誘導するな》
「了承」
《魔族も》
「了承」
《冒険者も》
「……」
セレイナの返答が。
初めて遅れた。
《何だ》
「すでに」
「一人」
「依頼を出しています」
ルオが。
ぱっと顔を上げた。
「来てる奴?」
「おそらくな」
余は。
外へ声をぶつける。
《誰だ》
「魔族冒険者組合」
「ゴールドプレート」
「ゼグラド・ヴェイン」
《どこにいる》
「現在地は不明」
《依頼内容は》
「交渉が決裂した場合」
「黒冠軍へ合流」
「白い迷宮攻略への参加」
ガルザヴェインが。
拳を握る。
「殺ス」
「まだ来ていない!」
ルオだけが。
明らかに楽しそうだった。
「名前分かった」
「お前は黙れ!」
《今すぐ》
《依頼を取り消せ》
「連絡手段がありません」
《何?》
「冒険者組合を通じた契約です」
「本人が現地へ向かっている間」
「こちらからの呼び戻しは困難です」
《ならば》
《到着した時に》
《取り消せ》
「交渉が成立すれば」
「そうします」
《成立しなければ》
「参戦させます」
余の怒りが。
また上がる。
《交渉へ来ながら》
《戦力を向かわせていたか》
「決裂に備えるのは当然です」
《余が》
《今》
《お前たちを殺す可能性も》
「考えています」
《なら》
《殺してもよいな》
「交渉中でなければ」
「抵抗します」
セレイナは。
一歩も退かない。
ゼルヴァンも。
霧の奥を見る。
「そちらも」
「備えているだろう」
《何を》
「軍」
「高位ゴブリン」
「骸骨騎士団」
「酸の魔物」
「そして」
ゼルヴァンの目が。
霧のさらに奥を見る。
「先ほどから」
「こちらを見ている」
「異常な龍気」
ルオの笑みが。
深くなる。
「気づいた」
「お前は出るな」
「でも」
「出るな!」
ゼルヴァンは。
ルオの名も。
姿も知らない。
だが。
いることは感じている。
「交渉へ来て」
ゼルヴァンが言う。
「互いに無防備であるはずがない」
《それでも》
《余は》
《侵攻戦力を向かわせていない》
「白い迷宮自体が」
「軍事拠点だ」
《ここは》
《余の家だ》
その言葉に。
セレイナが。
僅かに目を見開いた。
家。
迷宮。
魔物の巣。
素材の保管地。
そうではない。
声の主は。
この場所を。
家と呼んだ。
《お前たちは》
《他人の家へ武器を持って来て》
《互いに備えていると言うか》
セレイナは。
すぐに言葉を返せなかった。
ゼルヴァンも。
沈黙する。
「……その点は」
やがて。
セレイナが言った。
「否定できません」
《なら》
《ゴールドプレートとやらを》
《帰せ》
「交渉が成立すれば」
《今》
「契約が成立する前に」
「こちらだけ戦力を引くことはできません」
《ならば》
白い槍が。
再び二人の喉元へ近づく。
《交渉は》
《成立せん》
◇
「ロード」
フィルエが呼ぶ。
「止めるな」
「でも」
「向こうは」
「戦力を送っている!」
「うん」
「余の迷宮へ!」
「うん」
「それで取引しろと!」
余の声が。
白い部屋を震わせる。
「分かってる」
「なら」
「でも」
フィルエは。
小さく言った。
「まだ攻めてない」
「攻めるために来ている!」
「交渉が終わった後に」
「同じだ!」
「違う」
「何が」
「まだ」
フィルエは。
霧の外の二人を見る。
「選べる」
「何を」
「戦うか」
「取引するか」
「どっちも」
「まだ決まってない」
余は。
言葉を失う。
「ロードが怒ってるの」
「正しいと思う」
「でも」
「怒ったまま決めたら」
「前に言われた」
「怒りは判断を鈍らせる」
ゼルヴァンが。
かつて使おうとした考え。
迷宮を怒らせる。
判断を鈍らせる。
その言葉を。
フィルエは知らない。
だが。
同じことを。
余へ言っている。
「……」
ガルザヴェインが。
余のコアを見る。
「ロード」
「何だ」
「オレ」
一拍。
「戦イタイ」
「分かっている」
「デモ」
拳を下ろす。
「ロード、決メル」
「ああ」
ルオは。
完全に戦いたそうな顔をしている。
それでも。
まだ立ち上がらない。
「交渉続ける?」
「お前は」
「どちらがいい」
「どっちでも」
「何?」
「戦わないなら」
「果物食べる」
「戦うなら」
「強い奴と戦う」
「お前は本当に気楽だな!」
「でも」
ルオの白銀の目が。
真っ直ぐ余のコアを見る。
「ロードが決めた方にする」
契約は。
完全ではない。
配下でもない。
それでも。
ルオも。
今は。
余の判断を待っている。
◇
《最後の条件だ》
余は。
怒りを。
完全には消せないまま。
それでも。
声を抑えた。
《ゴールドプレートの依頼を》
《交渉成立と同時に破棄する》
「了承します」
《黒冠軍は》
《果実の効果確認が終わるまで》
《新しい兵を》
《白い迷宮へ向かわせない》
「了承」
《すでに移動中の部隊は》
「使節護衛のみです」
《嘘ではないな》
「契約条項へ入れて構いません」
《入れる》
「了承」
《果実一個》
《対価は》
《提示した全て》
セレイナの眉が。
僅かに動く。
「全てですか」
《黒晶》
《薬》
《情報》
《希少素材》
《黒冠隷命対抗情報》
《全てだ》
「果実一個に対し」
「過大です」
《嫌なら》
《帰れ》
セレイナは。
すぐには返事をしない。
黒冠軍側にとって。
提示した対価は。
次の定期取引を前提にしたもの。
一個だけに全て払えば。
以降の交渉材料が減る。
「黒冠隷命対抗情報を除き」
「全て」
「では」
《拒む》
「黒晶を半分」
《拒む》
「希少素材を一部」
《拒む》
「……」
《余は》
《お前たちのせいで》
《どれほど失ったと思っている》
「取引へ」
「過去の損害補償も含めるということですか」
《そうだ》
「死んだ魔物への」
「補償」
《物で》
《戻らないことは分かっている》
「それでも求める」
《お前たちが》
《何も失わず》
《果実だけ得ることを許さない》
セレイナは。
目を閉じた。
一度。
深く息を吸う。
「私の権限では」
「全てを承認できません」
《誰なら》
「第三戦団長」
《ここにいない》
「はい」
《ならば》
《交渉は終わりだ》
「待ってください」
《これ以上》
《何を話す》
「持ち帰り」
「承認を得ます」
《その間》
《ゴールドプレートが来る》
「交渉継続中として」
「待機させます」
《信用できん》
「契約を先に結びます」
《果実を渡さず》
《か》
「はい」
「交渉継続」
「互いに攻撃しない」
「新しい戦力を投入しない」
「ゴールドプレートを待機させる」
「この三点だけを」
「一時契約とします」
管理音声が。
すぐに解析する。
《実行可能》
「危険は」
《限定契約》
《有効期間を設定可能》
「どれほど」
「三日」
セレイナが答える。
「三日以内に」
「承認を得て戻ります」
《遅い》
「前線との距離があります」
《二日》
「困難です」
《なら》
《一日》
「無理です」
《三日で》
《軍を集めるつもりか》
「違います」
「第三戦団長は前線にいます」
「戦況によって」
「移動できない可能性があります」
《では》
《お前が決めろ》
「権限がありません」
《使えんな》
「交渉相手へ」
「使えないと言われたのは初めてです」
《余も》
《交渉へ来て》
《決められない者を見たのは初めてだ》
セレイナの頬が。
僅かに引きつる。
ゼルヴァンが。
ほんの少し。
口元を動かした。
「笑いましたね」
「笑っていない」
「今」
「少し笑いました」
「気のせいだ」
《二日》
余が言う。
《二日だけ待つ》
「承知しました」
《一時契約を結ぶ》
「条件を」
《一》
《二日間》
《双方》
《攻撃行動を禁ずる》
《二》
《黒冠軍は》
《新たな軍》
《冒険者》
《魔獣》
《その他戦力を》
《白い迷宮へ向かわせない》
《三》
《すでに向かっているゴールドプレートを》
《迷宮から五キロ以上離れた場所で待機させる》
《四》
《黒冠軍側が契約へ違反した場合》
《交渉を即時終了》
《以後》
《黒冠軍を敵と認定する》
「敵と認定した場合」
「どうなりますか」
《次に来た者を》
《全て殺す》
セレイナは。
頷いた。
「了承します」
《こちらが違反した場合》
「黒冠軍側も」
「交渉終了」
「対価を回収」
「侵攻の是非を軍議へ移します」
《了承する》
白い霧の前。
灰色の契約陣が。
地面へ広がっていく。
ゼルヴァンが。
その光を見る。
「私も契約するのか」
《当たり前だ》
「私は」
「果実取引の決定権を持たない」
《お前が》
《一番信用ならん》
「そうか」
ゼルヴァンは。
迷わず右手を契約陣へ置いた。
左手ではない。
失った指。
壊れた紋。
その全てを。
白布の内側へ隠したまま。
セレイナも。
右手を置く。
《一時停戦契約》
《有効期間》
《二日》
《契約成立》
灰色の光が。
二人の腕へ一度だけ走る。
すぐに消えた。
《二日後》
《同じ時刻》
《答えを持って来い》
「承知しました」
《ゼルヴァン》
「何だ」
《お前は》
《霧へ近づくな》
「契約範囲は」
「攻撃禁止だけだ」
《それでもだ》
「分かった」
白磁の槍が。
ゆっくり地面へ沈む。
霧が。
二人の前から退いていく。
交渉は。
成立していない。
だが。
戦争も。
まだ始まっていない。
◇
二人が森を離れる。
後方で待機していた護衛が合流する。
セレイナは。
白い迷宮が見えなくなるまで。
一度も振り返らなかった。
「どう思いますか」
歩きながら尋ねる。
「何が」
「交渉相手です」
ゼルヴァンは。
僅かに考える。
「感情が強い」
「はい」
「だが」
「怒りだけではない」
「はい」
「配下を」
言葉を選ぶ。
「所有物ではなく」
「失いたくない存在として扱っている」
「家とも言いました」
「ああ」
「迷宮を家と呼ぶ存在」
「魔物でしょうか」
「分からん」
「精霊」
「迷宮核に宿った意識」
「高位魔族」
「古代の呪具」
「どれも否定できない」
「しかし」
ゼルヴァンの目が。
前を向いたまま細くなる。
「こちらが何をしたか」
「全て覚えている」
「交渉が成立しても」
「ゼルヴァン」
「何だ」
「あなたは」
「いずれ殺されます」
「ああ」
「平然と答えないでください」
「分かっていた」
「それでも行くのですか」
「必要なら」
「復讐ではないと」
「言いましたよね」
「そうだ」
「では」
「何です」
ゼルヴァンは。
白布に包まれた左手を見る。
「決着だ」
セレイナが。
深く息を吐く。
「同じでは」
「それは復讐とほぼ同じです」
「違う」
「どこが」
「今度は」
ゼルヴァンの残った三本の指が。
僅かに動く。
「奪わずに勝つ」
「交渉が成立すれば」
「戦いません」
「分かっている」
「本当に?」
「二日後までは」
「それ以降は」
「軍議次第だ」
前方。
黒冠軍の馬車が待っている。
だが。
そのさらに遠く。
街道を外れた岩場に。
一人の男が立っていた。
黒冠軍の鎧ではない。
腰には。
金色の認証札。
布へ包まれた長い武器。
その男は。
ゼルヴァンたちを見るより先に。
白い迷宮の方角を見ていた。
「止まれ」
セレイナが。
即座に声を上げる。
男が。
ゆっくり振り返る。
「依頼人か?」
「ゼグラド・ヴェイン」
「そう呼ばれてる」
「なぜここに」
「地図通り来た」
「契約では」
「合流地点は西部街道です」
「道を間違えた」
「……」
ゼグラドは。
悪びれない。
「白い迷宮は」
「あっちか?」
「近づいてはいけません」
「何で」
「交渉中です」
「失敗したら」
「オレの仕事だろ」
「まだ失敗していません」
「じゃあ」
ゼグラドは。
布に包まれた武器を肩へ乗せる。
「二日待つ」
「五キロ以上離れてください」
「細かいな」
「契約です」
金色の札が。
風に揺れる。
「分かった」
だが。
ゼグラドの視線は。
白い迷宮から離れない。
「中に」
「何がいる」
「依頼内容以外は話しません」
「龍だ」
セレイナが。
初めて言葉を失った。
ゼルヴァンも。
ゼグラドを見る。
「感じるのか」
「かなり遠い」
「でも」
男の口元が上がる。
「こっち見てた」
◇
同じ頃。
霧灰白庭迷宮。
ルオが。
急に立ち上がった。
「来た」
「何が」
「強い奴」
「五キロ以内には」
《高位反応、未確認》
「もっと遠い」
「なら座れ」
「ちょっと見てくる」
「行くな!」
「何で」
「一時停戦契約を結んだ!」
「オレは契約してない」
「そういう問題ではない!」
ルオの白銀の翼が。
僅かに背中から現れる。
余は。
白い壁をルオの前へ作った。
「二日待て」
「長い」
「待て!」
「一回見るだけ」
「お前の一回見るだけは」
「絶対戦うだろう!」
「相手が来たら」
「来ていない!」
ルオは。
壁の向こうを見る。
見えない。
それでも。
気配だけを感じている。
「ゴールドプレート」
「そう言っていた」
「強さの名前?」
「分からん」
「人間なら」
「Sとか?」
「分からん!」
「SS?」
「知らん!」
ルオの笑みが。
さらに深くなる。
「じゃあ」
「戦えば分かる」
「戦うなと言っている!」
ガルザヴェインが。
横からルオの肩を掴んだ。
「待ツ」
「お前まで?」
「ゼルヴァン」
金色の目が。
燃える。
「二日後、来ル」
「ウン」
「オレ、待ツ」
ルオは。
ガルザヴェインを見る。
「お前」
「我慢できるんだ」
「オレ、覇牙王」
「関係ある?」
「アル」
「じゃあ」
ルオは。
翼を引っ込めた。
「オレも待つ」
「なぜ急に素直なんだ」
「ガルザヴェインが待てるなら」
「オレも待てる」
「張り合うな!」
それでも。
二人は待つ。
二日。
たった二日。
その間に。
黒冠軍が。
果実一個のために払う代価を決める。
取引を選ぶか。
戦争を選ぶか。
そして。
金色の認証札を持つ魔族冒険者もまた。
ルオと同じように。
まだ見ぬ相手の強さを想像しながら。
戦わずに待っていた。
二日後。
一個の果実を巡る交渉は。
戦争を止めるのか。
それとも。
今までで最大の戦いを始めるのか。
まだ。
誰にも分からなかった。




