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第245話 咲いた花は、一つの約束を覚えている

 エリラの芽に生まれた小さな蕾は。


 その夜。


 開かなかった。


 赤金色の葉の間で。


 淡い光を抱いたまま。


 硬く閉じている。


「管理音声」


《はい》


「変化は」


《花芽形成後、成長速度低下》


「弱っているのか」


《生命反応、安定》


「開花までどれほどかかる」


《比較対象不足》


「推定でもよい」


《算出不能》


「また分からんのか」


《はい》


 白い部屋から命の苗床を見つめる。


 蕾は小さい。


 指先よりも小さく。


 以前のエリラの木に咲いていた花とは、形も違う。


 前の木の花は白に近かった。


 咲いた後。


 中心から赤金色の実が育った。


 だが。


 今の蕾は。


 外側からすでに赤い。


 細い金色の線が、幾重にも表面を巡っている。


 さらに。


 蕾の付け根には、白銀色の筋。


 茎へ繋がる部分には、青黒い小さな紋様。


 ルオの龍神系統。


 ガルザヴェインの魔神性。


 フィルエの命脈。


 それらの影響が。


 目に見える形で現れ始めている。


「同じ木ではない」


 余が呟く。


 フィルエは、苗床の前へ座ったまま頷いた。


「うん」


「エリラの木ではないかもしれない」


「うん」


「それでも、エリラの名で呼ぶのか」


 フィルエは。


 すぐには答えなかった。


 枯れた幹を見る。


 新しい芽を見る。


 その二つの根は。


 土の下で絡み合っている。


「まだ」


「まだ?」


「名前は変えない」


 蕾へ顔を近づける。


「この子が」


「自分が何になるか教えてくれるまで」


 余には。


 植物が自分の名を教えるという感覚は分からない。


 だが。


 フィルエがそう言うなら。


 今は仮称のままでよい。


    ◇


 朝になっても。


 蕾は閉じたままだった。


 フィルエは、いつも通り土の状態を確かめる。


 戻り水を少量。


 根元へ与える。


 赤金果守ゴブリンたちは。


 その様子を、息を止めるように見守っていた。


「ギ……」


「まだ触らない」


「ギッ」


「水も増やさない」


「ギギッ」


「周りを掘るのも駄目」


 三体が。


 持っていた小さな匙を、そっと後ろへ隠した。


「掘るつもりだったな」


「ギッ!」


「なぜ誤魔化す!」


 フィルエが、三体から匙を取り上げる。


「根がどうなってるか見たかったの?」


「ギ……」


「管理音声で見られるから、掘らない」


「ギギッ」


 赤金果守ゴブリンたちは。


 少し残念そうに苗床の周囲へ座った。


「ロード」


「何だ」


「この子たちも、花が見たいんだよ」


「見たいだけなら匙はいらん」


「それはそう」


 フィルエが笑う。


 戦いが終わってから。


 少しずつ。


 迷宮の中へ、以前の空気が戻っている。


 だが。


 完全に同じではない。


 覇牙軍団の足音。


 百骸騎士団の骨が鳴る音。


 万蝕酸界の奥で揺れるウルグ。


 以前にはなかった戦力が。


 今は、迷宮の一部として存在している。


    ◇


「ロード」


 覇王練兵窟から、ガルザヴェインの声が届いた。


「何だ」


「覇牙軍団」


「ああ」


「訓練、スル」


「負傷者は」


「外ス」


「補充兵は」


「別隊」


「よし」


 戦いで傷ついた兵の中には。


 まだ完全に回復していない者もいる。


 エリラの実は使わない。


 命に関わる傷ではないからだ。


 通常の治療区画。


 戻り水。


 回復薬。


 時間。


 それらで治す。


 百二十体という定数は戻った。


 だが。


 全員が同時に戦えるわけではない。


「ガルザヴェイン」


「ウン」


「補充した兵を、すぐ前列へ置くな」


「ワカッテル」


「本当に?」


「最初、後ロ」


「ならよい」


 ガルザヴェインは。


 以前なら。


 強い者から前へ出したかもしれない。


 だが、今は違う。


 新しい兵が。


 迷宮の道を知らないこと。


 霧の歩き方。


 グズの泥を避ける位置。


 カゲヌイの影糸が通る場所。


 それらを覚える必要があると理解している。


「霧喰い刃ゴブリンを、補充兵の案内につけろ」


「ウン」


「前からいた者たちの方が、迷宮を知っている」


「センセイ」


「先生?」


「フィルエ、イッタ」


「そう呼べと言ったのか」


 フィルエが、命の苗床から答える。


「教える人だから」


「人ではないぞ」


「教えるゴブリン」


「なら、ゴブリン先生か」


「ロード」


「何だ」


「変」


「余も言ってから思った!」


 ガルザヴェインは。


 何が変なのか分からないまま。


「ゴブリン、センセイ」


 と繰り返した。


「覚えるな!」


    ◇


 百骸騎士団では。


 カゲツが、聖灰への対策を始めていた。


 白骨書記が回収した聖灰。


 人間側が使った袋の中に残っていたもの。


 それを。


 透明な白磁容器へ入れている。


「直接触れるな」


「承知」


 カゲツは大剣の先で、容器をわずかに動かした。


 灰の近くへ。


 壊れた骨の一片を置く。


 青い魔力を流す。


 骨が浮き上がる。


 聖灰へ近づく。


 じゅっ。


 白い煙が出た。


 青い光が弱まる。


「再陣は」


「阻害サレル」


「完全に使えないか」


「接触範囲ノミ」


「なら」


 余は考える。


「灰を洗い落とせば」


「再利用可能性、有リ」


「戻り水を使うか」


「検証スル」


 白磁の器へ。


 少量の戻り水を流す。


 聖灰のついた骨を浸す。


 水が白く濁る。


 灰が。


 骨の表面から少しずつ剥がれていく。


 カゲツが再び青い魔力を送る。


 骨が。


 今度は動いた。


「使えるな」


「再陣反応、回復」


「なら、戦場で回収した骨は、戻り水へ入れろ」


「承知」


「ただし」


 余は、別の問題を見る。


「人間が次に、灰だけを使うとは限らない」


「聖油」


「聖火」


「神聖術」


「複合対策ノ可能性」


「ああ」


「完全には防げん」


「故ニ」


 カゲツは答える。


「受ケナイ」


「正しい」


 今回。


 白陽砲を受け流したように。


 敵の対策を。


 真正面から受け切る必要はない。


 壁は。


 動かないだけのものではない。


 形を変え。


 攻撃を流し。


 生き残るために使う。


「百骸騎士団へ、新しい陣形を覚えさせろ」


「命令ヲ」


「聖灰が来た場合」


「前列だけを分離」


「灰を受けた骨を即座に切り離す」


「後列が新しい壁を作る」


「承知」


 カゲツが大剣を掲げる。


「百骸騎士団」


 百の青い目が灯る。


「新陣形、開始」


 骨の軍が。


 静かに動き始めた。


    ◇


 昼前。


 ダンジョン新聞が落ちてきた。


「今度は何だ」


《通常号です》


「開けろ」


 紙面が広がる。


---


《南東部・大規模消失事件》


人間勢力によるものと推定される武装集団、二百名以上が消息を絶つ。


所在不明となったのは、王国南東部の有力貴族家に属する私兵である可能性が高い。


ただし。


家紋。


旗。


正式な遠征記録。


いずれも確認されていない。


人間側は現時点で、事故、魔物襲撃、無許可迷宮侵入のいずれかを調査中。


---


「もう記事になったか」


《はい》


 公爵家が。


 まだ正式に発表していなくても。


 二百六十三人もの兵が消えれば。


 完全には隠せない。


 食料。


 馬車。


 武器。


 白陽砲。


 それだけの物資を動かせば、どこかで見られる。


 紙面には、迷宮ロードたちのコメントが続いていた。


---


《ロードコメント》


井守:


「二百以上を無断で入れて、帰らぬなら、それは侵略であろう。人間は負けた時だけ事故と呼ぶ」


鉄喰み坑道:


「何を狙った? 金なら兵を二百も使えば赤字だ」


嘆き歌う井戸:


「南東部の白い迷宮だろう。最近、赤い果実の噂がある」


錆王墓域:


「果実一つへ二百。人間は飢えているのか」


泥眠り沼:


「病人でもいたんじゃないか。人間は死にかけると何でもする」


---


「井守」


 久しぶりに見た名。


 以前から。


 何度も記事へコメントしていた古参ロード。


「まだいたのだな」


《はい》


「当たり前のように出すな」


《存続確認済みです》


 井守は。


 余の迷宮を知っているわけではない。


 人間側が呼ぶ白い迷宮と。


 余たちの霧灰白庭迷宮を結びつけているかも分からない。


 だが。


 無断侵入した軍が全滅したことへ。


 同情はしていない。


「他の記事は」


 紙面をめくる。


---


《Bランク迷宮・連続昇格》


北方の《吊り骨回廊》、Bランク上位へ。


西部の《赤砂喰い穴》、Bランクへ昇格。


中央域の《歌わぬ鐘塔》、Bランク査定を拒否。


査定拒否理由:


「人間の基準で測られる必要はない」


---


「拒否できるのか」


《査定対象となった後、外部評価を受け入れない迷宮も存在します》


「余も拒否できる?」


《可能です》


「だが、宝物庫機能は」


《Aランク到達条件の一部として、別途解放が必要》


「査定を拒否しても、機能は解放できるのか」


《条件次第》


「曖昧だな」


 今すぐ決めることではない。


 だが。


 人間側に認められなくても。


 迷宮は成長できる。


 それは覚えておく。


 さらに紙面をめくる。


---


《Sランク迷宮消滅》


南方海域の《千口海胎》、攻略により消滅。


攻略勢力:


人間国家三国による合同艦隊。


投入戦力:


船舶百四十二隻。


高位冒険者三百名以上。


聖術師四十七名。


戦闘期間:


十一日。


迷宮消滅に伴い、周辺海域で大規模な海底崩落を確認。


合同艦隊の帰還数:


二十三隻。


---


 白い部屋が静まった。


「Sランクが」


《はい》


「攻略された」


《はい》


 Sランク。


 それでも。


 人間が国を三つ合わせ。


 数百の高位戦力を投入すれば。


 消される。


 余も。


 攻略されれば消える。


 配下も。


 迷宮も。


 存在自体がなくなる。


「コメントを出せ」


---


《ロードコメント》


井守:


「海を支えていた迷宮を壊し、海底が落ちた。人間は勝利と呼ぶだろう」


夜銅城:


「十一日耐えたなら、立派だ」


石胎母:


「千口海胎は、幼体を外へ逃がさなかった。最後まで抱えて消えた」


赤錆刑場:


「合同艦隊の次の標的に注意せよ」


名無きロード:


「Sでも死ぬ」


---


 最後の言葉。


 短い。


 だが。


 何より重かった。


「Sでも死ぬ」


 ルオ。


 ウルグ。


 ガルザヴェイン。


 カゲツ。


 軍を得た。


 以前より強くなった。


 だが。


 絶対ではない。


 人間が。


 国ごと来れば。


 もっと上の存在を連れてくれば。


 余の迷宮も。


 消える可能性はある。


「ロード」


 フィルエが呼んだ。


「何だ」


「大丈夫?」


「何が」


「静かだから」


「考えている」


「何を」


「次の敵を」


「まだ来てないよ」


「来てからでは遅い」


 フィルエは。


 少し困ったように笑った。


「でも」


「何だ」


「花が咲くかもしれない日まで」


「敵のことだけ考えなくてもいいと思う」


「……」


 正しいかもしれない。


 今。


 外縁に敵はいない。


 軍も。


 公爵家の兵も。


 冒険者も。


 来ていない。


 なら。


 今だけは。


 目の前の蕾を見てもよい。


    ◇


 夕方。


 ルオが来た。


『入っていい?』


「一人か」


『うん』


「何か持っているか」


『果物』


「土は」


『今日はない』


「棒は」


『ない』


「ガルザヴェインと組み手する道具は」


『持ってないって!』


「なら入れ」


 白い霧を開く。


 ルオが。


 大きな籠を抱えて入ってくる。


 今日は。


 いつもより静かだった。


「どうした」


「何が?」


「走らない」


「いつも走るなって言うだろ」


「言われる前に守るとは思わなかった」


「失礼だな」


 ルオは。


 命の苗床へ着くと。


 すぐに蕾へ気づいた。


「これ!」


「触るな」


「触らないって!」


「顔を近づけすぎるな」


「匂い嗅ぐだけ」


 ルオが鼻を動かす。


 以前。


 芽が出た時は。


 青い果物のような匂いだと言った。


 今は。


 しばらく目を閉じている。


「どうだ」


「変」


「何が」


「匂いが一つじゃない」


 ルオが蕾を見る。


「甘い」


「うん」


「でも、ちょっと冷たい匂いもする」


「冷たい匂い?」


「雪とかじゃない」


 言葉を探す。


「月の光みたいな」


「月に匂いがあるのか」


「龍には分かる」


「便利な言葉だな!」


「あと」


 ルオが。


 さらに顔を近づける。


「ガルザヴェインっぽい」


「どういう意味だ」


「強そうな匂い」


 覇王練兵窟から。


 ガルザヴェインが顔を上げた。


「オレ」


「ああ」


「ハナ、オレ?」


「お前が花なわけではない」


「オレノ、ニオイ」


「少し入っているらしい」


 ガルザヴェインは。


 少し嬉しそうだった。


「フィルエは?」


 ルオが尋ねる。


「フィルエの匂いもする?」


「する」


「どんな」


「森の中で、雨が降る前の匂い」


 フィルエは。


 少し目を丸くした。


「私、そんな匂い?」


「うん」


「嫌?」


「好き」


 即答だった。


 フィルエは。


 特に深く考えず。


「そう」


 と笑った。


 ルオだけが。


 後から自分の答えに気づいたように、少し顔を逸らした。


「ロードの匂いは?」


 フィルエが聞く。


 ルオが、白い壁を見る。


「白い石」


「余は迷宮だからな」


「あと」


「まだあるのか」


「心配しすぎの匂い」


「そんなものはない!」


    ◇


 日が落ちる頃。


 蕾に変化が起きた。


《花芽、開花反応》


「来た!」


 フィルエが苗床へ近づく。


 赤金果守ゴブリンたちも集まる。


 ルオ。


 ガルザヴェイン。


 少し離れた場所には、カゲツ。


 マネ。


 グズ。


 ハイハネ。


 カゲヌイ。


 皆が。


 小さな蕾を見ている。


 蕾の先端へ。


 細い裂け目が入った。


 金色の光が漏れる。


 一枚目の花弁が。


 ゆっくり外へ開く。


 赤。


 だが。


 内側は白銀。


 二枚目。


 青黒い縁。


 三枚目。


 淡い灰。


 四枚。


 五枚。


 合計八枚。


 色の違う花弁が。


 同じ中心を囲う。


 赤金。


 白銀。


 青黒。


 灰白。


 四つの色が。


 二枚ずつ。


 重なるように咲いていく。


「前の花と全然違う」


 フィルエが呟く。


「ああ」


 以前のエリラの花は。


 白い五枚の花弁。


 中心だけが金色だった。


 今、咲いた花は。


 八枚。


 しかも。


 一枚ごとに宿す力が違う。


《開花完了》


《既存植物記録との一致、確認出来ズ》


「新種か」


《可能性、高》


「能力は」


《解析中》


 花の中心に。


 小さな光の粒が浮かんでいる。


 花粉ではない。


 液体でもない。


 赤金色の光。


 その周囲を。


 白銀の細い輪。


 青黒い小さな火。


 灰色の霧が巡っている。


「綺麗」


 フィルエが。


 小さく笑った。


 ルオも。


 目を輝かせている。


「食べられる?」


「花を見て最初に聞くことか!」


「匂い甘いから」


「食べるな!」


「聞いただけだって!」


 ガルザヴェインが。


 花へ顔を近づけようとする。


「オレモ、ニオイ」


「近づきすぎるな!」


「ルオ、ヤッタ」


「お前はルオより体が大きい!」


 カゲツだけは。


 少し離れた場所から、静かに花を見ていた。


「カゲツ」


「ロード」


「何か感じるか」


「冥月反応」


 兜の奥の青い光が揺れる。


「微弱ニ有リ」


「お前の力も入っている?」


「可能性、有リ」


「種を植えた時には、お前はいなかったぞ」


「花芽形成時」


 一拍。


「迷宮内ニ存在」


「後から影響したのか」


《否定出来ません》


 この芽は。


 育つ間。


 周囲にいる者の力を。


 少しずつ受け取っているのかもしれない。


 フィルエ。


 ガルザヴェイン。


 ルオ。


 迷宮。


 そして。


 カゲツ。


 この先。


 誰が近くにいるかによって。


 さらに変わる可能性がある。


「危険ではないか」


《現時点、異常反応無シ》


「ウルグの影響は」


《検出されません》


「よかった」


 酸の花が咲いたら。


 触れた瞬間、全員溶ける。


 絶対に困る。


    ◇


 花が完全に開いた瞬間。


 白い部屋に。


 新しい通知が響いた。


《特殊条件達成》


「何だ」


《命を救うために使用された神級素材が、契約を介して新たな生命へ変換されました》


「ノエルのことか」


《対象名は確認不能》


《ただし、遠隔生命転換反応を検出》


「助かったのか」


《生命反応の消滅ではなく、定着を確認》


 フィルエが。


 嬉しそうに花を見る。


「やっぱり」


「ああ」


「助かった」


 確証が。


 初めて得られた。


 エリラの実は。


 無駄にならなかった。


《追加条件》


《生命転換を感知した新生樹が、開花》


《新規機能候補を確認》


「機能?」


《花の能力を解析します》


 壁面へ。


 文字が一つずつ浮かぶ。


---


《未登録新生樹・第一花》


仮称:


誓命花せいめいか


性質:


契約を伴う救命行為へ反応。


周囲の高位生命属性を取り込み、花弁へ保持。


現在保持属性:


・命脈。

・龍神。

・魔神。

・冥月。

・迷宮核。


推定能力:


開花中、命の苗床周辺に存在する味方個体の生命力および魔力回復速度を上昇。


契約違反、敵対意思、強制支配に反応し、花を閉じる。


---


「回復区画?」


《はい》


「実を使わずとも」


《軽度から中度の損傷であれば、回復促進効果を期待可能》


「重傷は」


《即時治療不可》


「死にかけた者は」


《エリラの実ほどの効果はありません》


 それでも。


 価値は大きい。


 今まで。


 エリラの実を使うほどではない負傷者は。


 治療区画で時間をかけて治していた。


 この花がある間。


 回復が早まる。


 ガルザヴェインの内部魔力経路。


 覇牙軍団の傷。


 カゲツの消耗。


 それらにも効果があるかもしれない。


「命の苗床を、治療区画として使うか」


「駄目」


 フィルエが即座に言った。


「なぜだ」


「人がたくさん入ったら、芽が傷つく」


「では」


「花の力だけ、別の場所へ流せる?」


「管理音声」


《白磁根脈を介した転送が可能》


「治療区画へ繋げ」


《必要ソウル:180,000》


「承認」


 命の苗床から。


 細い赤金色の線が。


 白磁根脈へ流れ込む。


 治療区画へ。


 淡い光が満ち始める。


《誓命花回復圏、形成完了》


 覇牙軍団の負傷兵がいる区画。


 赤金色の光が。


 傷口へ薄く集まる。


《回復速度上昇》


《内部魔力循環改善》


 ガルザヴェインが。


 自分の肩を動かした。


「イタイ、ヘッタ」


「本当か」


「ウン」


《ガルザヴェイン、内部魔力経路回復率》


《九十一パーセントから九十四パーセントへ上昇》


「いきなり三パーセント?」


《蓄積していた損傷の一部が修復されました》


 ガルザヴェインが。


 拳を握る。


「クンレン」


「まだ駄目だ」


「ヨンパーセント」


「残り六パーセントある!」


「スコシ」


「その少しで倒れたのを忘れたか!」


「……ウン」


 忘れてはいないらしい。


    ◇


 誓命花。


 それは。


 実を一つ失った代わりに。


 迷宮が得た新しい力だった。


 だが。


 余は。


 花の説明にある一文を見ていた。


「契約違反に反応し、花を閉じる」


《はい》


「セリアが秘密を漏らせば」


《誓命花が反応する可能性があります》


「契約陣だけでなく」


《新生樹も、契約状態を感知しています》


 つまり。


 セリアが。


 約束を守っている間。


 花は咲く。


 破ろうとすれば。


 遠く離れていても。


 何かが起こる。


「監視になっているな」


 フィルエが、少し悲しそうに花を見る。


「嫌?」


「必要だ」


「うん」


「契約は、信じるだけでは成り立たん」


「うん」


「破られない仕組みがいる」


「分かってる」


 フィルエは。


 花へ触れないように手を添える。


「でも」


「何だ」


「閉じないといいね」


「ああ」


 セリアが。


 約束を守るなら。


 この花は。


 咲き続ける。


    ◇


 その頃。


 ヴァレスト公爵邸。


 深夜。


 ノエルは。


 温かいスープを、少しずつ飲んでいた。


「ゆっくり」


 セリアが器を支える。


「分かってる」


「一気に飲まない」


「お腹空いた」


「三日もまともに食べてないんだから」


「だからいっぱい食べたい」


「胃が驚くわ」


「姉様、医者みたい」


「医師たちが言っていたの」


 寝台の周囲には。


 今は家族しかいない。


 ディルク。


 セリア。


 ノエル。


 母である公爵夫人は。


 別領にいたため、まだ戻れていない。


「姉様」


「何?」


「ベルガさんたち」


 ノエルは。


 器へ視線を落とした。


「やっぱり、死んだんだよね」


 セリアの手が止まる。


 ディルクも。


 窓際で目を伏せた。


「うん」


 セリアは。


 今度は誤魔化さなかった。


「全員」


「僕のために?」


「ノエル」


 ディルクが口を開こうとする。


 だが。


 セリアが、父を見た。


 嘘をつかない。


 そう伝える目だった。


「あなたを助けるために」


「父上と」


「私と」


「皆で決めた」


「ベルガたちは」


「それを実行した」


 ノエルの瞳に涙が浮かぶ。


「僕が、生きたから」


「違う」


 セリアは。


 強く言った。


「あなたが生きたことと」


「ベルガたちが死んだことを」


「同じにしないで」


 迷宮の主に言われた言葉。


 姉が自分を差し出せば。


 弟は喜ぶのか。


 その問い。


 今なら。


 少し分かる。


「ベルガたちが死んだのは」


「私たちが」


「奪う方法を選んだから」


「あなたが生きたからじゃない」


「でも」


「あなたは」


 ノエルの手を握る。


「これから生きなきゃいけない」


「忘れずに」


「私たちが間違ったことも」


「ベルガたちが帰らなかったことも」


「全部」


 ノエルは。


 泣きながら頷いた。


「うん」


 ディルクは。


 娘の言葉を黙って聞いていた。


 そして。


 長い間。


 何も言えなかった。


    ◇


 翌朝。


 公爵家の作戦室。


 ディルクは。


 残った側近たちを集めた。


「白い迷宮への遠征は」


 全員が、公爵を見る。


「失敗した」


「ベルガ以下、二百六十三名」


「全員が死亡」


 重い沈黙。


「赤金の奇跡果は」


 一人の側近が問う。


「確認できなかった」


 ディルクは答える。


 嘘。


 だが。


 娘との約束を守るため。


 そして。


 これ以上、誰も向かわせないため。


「ノエル公子は」


「既存治療の積み重ねにより、容体が安定した」


「ですが」


 医師が、少しだけ顔を上げる。


 昨日。


 何が起きたか。


 彼らも分かっている。


 少なくとも。


 通常治療ではない。


 だが。


 ディルクの視線を受け。


 口を閉ざした。


「今後」


 公爵は続ける。


「白い封鎖迷宮への接近を、ヴァレスト領内で禁ずる」


「冒険者」


「薬師」


「商人」


「全てだ」


「理由は」


「二百六十三人を失った危険迷宮だからだ」


「討伐要請は」


 別の側近が尋ねる。


 ディルクは。


 一瞬だけ目を閉じた。


「出さない」


「しかし」


「出さない」


 低く。


 断定する。


「こちらが無断で侵入した」


「家紋を隠し」


「許可も得ず」


「軍を送った」


「敗れたから討伐を求めるなど」


 拳を握る。


「恥の上塗りだ」


 誰も。


 反論できなかった。


「この件は」


「ヴァレスト家の失策として処理する」


「白い迷宮に関する噂は」


「領内で可能な限り止めろ」


 セリアは。


 作戦室の後方で。


 父の言葉を聞いていた。


 右手の契約紋は。


 熱を持たない。


 言葉を止めない。


 契約に反していない。


「父上」


 会議の後。


 セリアが呼び止める。


「何だ」


「ありがとうございます」


「何に対してだ」


「追わないと決めてくださったことに」


 ディルクは。


 娘の右手へ視線を落とした。


「追えば」


「お前は余へ知らせるのだろう」


 セリアは。


 少しだけ目を見開いた。


 答えようとした。


 だが。


 契約紋が。


 わずかに熱を持つ。


 言葉が止まる。


 ディルクは。


 それだけで察した。


「答えなくてよい」


「……はい」


「余は」


 窓の外を見る。


「ベルガを失った」


「兵も」


「お前まで」


 一度、言葉を止める。


「失うところだった」


「父上」


「同じ間違いはせん」


 ディルクは。


 それ以上。


 何も尋ねなかった。


    ◇


 遠く離れた白い迷宮。


 誓命花は。


 朝になっても。


 閉じなかった。


《契約状態、安定》


「セリアは約束を守ったか」


《重大な違反反応、無シ》


「そうか」


 フィルエが。


 花の前で微笑む。


「咲いたままだね」


「ああ」


「よかった」


 花は。


 遠くの公爵家で交わされた言葉を。


 直接聞いてはいない。


 それでも。


 契約の糸を通じて。


 約束が守られたことだけを知っている。


 八枚の花弁が。


 ゆっくりと開き。


 赤金。


 白銀。


 青黒。


 灰白。


 四つの光を。


 白い迷宮の中へ広げていた。


 咲いた花は。


 一つの約束を覚えていた。

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