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第244話 赤金の実は、死にかけた少年の胸で溶ける

 セリア・ヴァレストは、馬を休ませなかった。


 森を抜け。


 土の道へ出て。


 公爵領へ続く街道へ入っても。


 速度を落とさない。


 白磁の箱は、外套の内側へ抱えている。


 片手で手綱を握り。


 もう片方の腕で、箱が揺れないように胸へ押しつけていた。


 落としてはいけない。


 壊してはいけない。


 帰るまで開けてはいけない。


 弟へ使用する時は、人払いをする。


 迷宮の主から命じられた言葉を。


 何度も。


 頭の中で繰り返している。


「ノエル……」


 弟に残された時間は。


 もう、ほとんどない。


 公爵邸を出た時点で。


 今夜を越えられないと告げられていた。


 白い迷宮へ着き。


 言葉を交わし。


 契約を結び。


 戻るまでに。


 半日近くを使っている。


「まだ」


 馬の背で。


 セリアは小さく呟いた。


「まだ、待っていて」


 馬の息が荒い。


 白い泡が口元に浮かんでいる。


 だが。


 止められない。


 途中の村で別の馬へ乗り換える時間さえ惜しかった。


 セリアは、手綱を強く引く。


「お願い!」


 馬が、最後の力で速度を上げた。


    ◇


 ヴァレスト公爵邸。


 ノエルの寝室では。


 五人の医師と、三人の神官が寝台を囲んでいた。


「魔力経路、さらに崩壊!」


「胸部から首へ拡大しています!」


「神聖術を重ねろ!」


「これ以上は、公子の体が耐えません!」


「止めれば心臓が――」


 ノエルの体には。


 黒い筋が浮かんでいた。


 首。


 胸。


 両腕。


 皮膚の下を、黒い根のようなものが這っている。


 血管ではない。


 崩壊した魔力経路。


 体内へ留まれなくなった魔力が。


 肉と骨の間を、無秩序に侵食している。


「ごほっ……!」


 ノエルが咳をする。


 口から。


 黒い霧が漏れた。


 寝台の横に立つディルク公爵が、息子の手を握る。


「ノエル」


「父……上……」


「ここにいる」


「姉様は……?」


 ディルクの顔が歪む。


「もうすぐ戻る」


「ほんと……?」


「ああ」


 何の保証もない。


 それでも。


 父親は答えた。


「セリアは、必ず戻る」


 ノエルは。


 ほんの少しだけ笑った。


「よかった……」


「何がだ」


「姉様まで……帰らなかったら」


 声が途切れる。


「ベルガさんたちみたいに……」


「喋るな」


 ディルクの手が震える。


「今は休め」


「父上」


「何だ」


「ベルガさんたち」


 浅い呼吸の間に。


 少年は尋ねた。


「死んだの?」


 寝室にいた者たちの動きが止まった。


 誰も。


 答えられない。


 ノエルは。


 父親の顔を見て。


 すぐに理解した。


「そっか」


 責める声ではなかった。


 怒りも。


 泣き声もない。


「僕のために?」


「違う」


 ディルクは、ほとんど叫ぶように言った。


「余が命じた」


「お前のせいではない」


「でも」


「お前のせいではない!」


 寝室へ。


 公爵の声が響いた。


 ノエルは、驚いたように目を開く。


 ディルクは。


 自分が怒鳴ったことへ気づき。


 顔を伏せた。


「……すまない」


「父上」


「何だ」


「僕」


 ノエルの目から。


 涙が流れた。


「死んだ方が、よかった?」


 ディルクの呼吸が止まった。


「何を言っている」


「僕が、もっと早く死んでたら」


「ベルガさんたち」


「行かなくてよかった?」


「黙れ!」


 今度の怒声は。


 怒りではない。


 恐怖だった。


「二度と、そのようなことを言うな」


「でも」


「お前が生きることと」


 ディルクは、息子の小さな手を両手で包む。


「あの者たちが死んだことを」


「同じ秤へ載せるな」


「命令したのは余だ」


「判断したのも余だ」


「お前は」


 声が崩れる。


「生きていただけだ」


 ノエルは。


 父親の涙を見た。


 初めてだった。


 ディルク・ヴァレストは。


 家臣の前でも。


 家族の前でも。


 涙を見せる男ではなかった。


「父上」


「何だ」


「ごめんなさい」


「謝るな」


「うん」


 ノエルの目が。


 ゆっくり閉じる。


「セリアが戻るまで起きていろ」


「眠い……」


「寝るな」


「少しだけ」


「駄目だ」


 ディルクは。


 息子の手を握ったまま叫ぶ。


「ノエル!」


 返事がない。


「心拍低下!」


 医師が声を上げた。


「神聖術を!」


「もう限界です!」


「それでもやれ!」


 白い光が、寝台を包む。


 ノエルの体が小さく跳ねる。


 黒い筋は消えない。


 むしろ。


 神聖術を押し返すように、胸元へ集まり始めた。


「心臓へ到達します!」


「止めろ!」


「止まりません!」


 その時。


 屋敷の外から。


 馬の蹄が、石畳を打つ音が響いた。


    ◇


「門を開けて!」


 セリアの声。


 公爵邸の正門が開く。


 馬は中庭へ入った直後。


 前脚を折るように膝をついた。


「お嬢様!」


 使用人たちが駆け寄る。


 セリアは、倒れかけた馬から飛び降りた。


 足がもつれる。


 地面へ片膝をつく。


 それでも。


 白磁の箱だけは、落とさなかった。


「馬をお願い!」


「お嬢様、お怪我は」


「ノエルは!」


 老執事の顔を見る。


 答えを聞く前に。


 全てを察した。


「……最奥の寝室です」


 セリアは走り出した。


 外套を脱ぐ余裕もない。


 泥のついた靴のまま。


 廊下を走る。


「お嬢様!」


 使用人が驚いて道を開ける。


 階段。


 長い廊下。


 閉ざされた扉。


 その向こうから。


 医師たちの叫びが聞こえる。


「心拍が消えます!」


「セリア!」


 扉の外にいた側近が呼ぶ。


「全員、出て!」


 セリアは叫んだ。


「何?」


「部屋から出てください!」


「今は治療中だ!」


「全員です!」


 右手の甲。


 白と灰の契約紋が、わずかに光る。


 秘密を守る。


 果実を誰にも見せない。


 使用前に人払いをする。


 迷宮の主との契約。


「父上!」


 寝室へ飛び込む。


 ディルクが振り返る。


「セリア!」


「戻りました」


「何か得られたのか!」


「はい」


 セリアは、胸に抱く白磁の箱を見せないように外套で包む。


「全員を部屋から出してください」


「今は一刻を争う!」


「だからです!」


 医師が怒鳴る。


「我々がいなければ、公子の命は――」


「もう」


 セリアは、寝台を見る。


 ノエルの胸は。


 ほとんど動いていない。


「あなたたちでは助けられないのでしょう」


 医師の顔が強張る。


「それは」


「責めていません」


「今まで、ありがとうございます」


 セリアは深く頭を下げた。


「ですが」


「ここからは」


 白磁の箱を抱く腕へ力を込める。


「私に任せてください」


 ディルクが娘を見る。


「セリア」


「父上も」


「余も出ろと?」


「はい」


「何を持ち帰った」


「今は話せません」


「余にもか」


「話せません」


 契約がある。


 だが。


 それだけではない。


 一人でも見れば。


 赤金の実の存在が広がる。


 父親であっても。


 今は見せられない。


「私を信じてください」


 ディルクの目が揺れる。


 息子。


 娘。


 どちらも。


 失うかもしれない。


「失敗したら」


 声が震える。


「ノエルは」


「分かっています」


「お前まで」


「私は死にません」


「なぜ言い切れる」


「約束したからです」


「誰と」


 セリアは答えない。


 答えられない。


 契約紋が、わずかに熱を持つ。


 ディルクは。


 娘の右手へ浮かんだ白と灰の紋様を見た。


「……契約を結んだのか」


 秘密そのものではない。


 見れば分かる事実。


 セリアは否定しなかった。


「はい」


「何者と」


「今は話せません」


 ディルクは。


 長く。


 娘を見つめた。


 そして。


「全員、出ろ」


 医師たちが驚く。


「閣下!」


「聞こえなかったのか」


 ディルクは、息子の手を一度だけ握る。


「全員、部屋から出ろ」


「ですが――」


「責任は余が取る!」


 医師。


 神官。


 使用人。


 一人ずつ。


 寝室から退出する。


 最後に。


 ディルクが扉の前で振り返った。


「セリア」


「はい」


「ノエルを」


 声が詰まる。


「頼む」


 セリアは。


 強く頷いた。


「はい」


 扉が閉じる。


 鍵が掛かる。


 寝室には。


 セリアとノエルだけが残った。


    ◇


「ノエル」


 寝台へ駆け寄る。


 弟の顔は青白い。


 唇は紫に近い。


 胸の黒い筋が。


 心臓の真上へ集まっている。


「姉様、戻ったよ」


 返事はない。


 耳を胸へ当てる。


 小さな音。


 とても弱い。


 止まりかけている。


「間に合った」


 自分へ言い聞かせるように。


 セリアは呟く。


「まだ、間に合った」


 外套の内側から。


 白磁の箱を取り出す。


 灰色の糸で封じられた、小さな箱。


 迷宮の主は。


 帰るまで開けるなと言った。


 今。


 帰ってきた。


「開けます」


 誰もいない。


 それでも。


 遠くの迷宮へ許可を求めるように呟く。


 灰色の糸へ指をかける。


 契約紋が光る。


 糸が。


 自らほどけた。


 白磁の蓋を。


 ゆっくり開く。


 甘い香りが。


 寝室へ広がった。


「これが……」


 赤金の実。


 セリアが想像していたものより。


 小さい。


 両手で抱えるほどではない。


 人間の拳より少し大きい程度。


 表面は赤。


 その内側から。


 金色の光が脈打っている。


 ただの果物には見えない。


 部屋に満ちていた死の臭いが。


 香りに押し流されていく。


 ノエルの指が。


 ほんのわずかに動いた。


「分かるの?」


 セリアは。


 実を寝台の横へ置く。


 弟の体を起こす。


 首を支え。


 背中へ枕を重ねる。


「食べられる?」


 返事はない。


 意識がない。


 この状態で。


 果実を噛ませることはできない。


「どうすれば」


 迷宮の主からは。


 使い方を詳しく聞いていない。


 実を一個渡された。


 弟へ使用しろ。


 それだけ。


 丸ごと食べさせるのか。


 果汁だけでいいのか。


 煮るのか。


 切るのか。


「管理音声……」


 セリアは、聞いたことのない存在を呼ぶこともできない。


 契約は。


 秘密を守るためのもの。


 迷宮と声を繋ぐ契約ではない。


 自分で判断するしかない。


「ごめんね」


 実を手に取る。


「少しだけ、切るね」


 寝室の果物用小刀を使う。


 刃を。


 赤金の皮へ当てる。


 だが。


 押しても入らない。


「硬い?」


 さらに力を入れる。


 刃が滑る。


 赤金の皮には、傷一つつかない。


「どうして……」


 セリアが焦る。


 時間がない。


 ノエルの胸の音が。


 さらに弱くなっている。


 その時。


 右手の契約紋が光った。


 白と灰の円環から。


 細い魔力が。


 赤金の実へ流れる。


 実が。


 セリアの手の中で、柔らかくなった。


「契約者だから……?」


 迷宮側が。


 渡した相手にだけ使用できるよう封じていたのかもしれない。


 今なら。


 切れる。


 だが。


 切る必要はなかった。


 実の表面に。


 自然に一本の線が走る。


 皮が開く。


 中から。


 赤金色の果汁が浮かび上がった。


 床へ落ちない。


 空中で。


 一滴の大きな球となって留まる。


 果肉も。


 皮も。


 少しずつ光へ変わる。


 赤金の実一個分が。


 一つの液体へ溶けていく。


「ノエル」


 セリアは弟の口を開く。


 果汁の球を。


 唇へ近づける。


「飲んで」


 赤金色の液体が。


 細い流れとなって、口の中へ入る。


 喉は動かない。


 飲み込めない。


「お願い」


 セリアが、弟の首を支える。


「飲んで!」


 果汁が。


 喉の奥へ留まる。


 このままでは。


 気管へ入るかもしれない。


 だが。


 次の瞬間。


 赤金の果汁が、液体ではなくなった。


 金色の光。


 細い光の糸となり。


 喉の粘膜から、直接ノエルの体内へ染み込んでいく。


「消えた……?」


 口の中には。


 もう何もない。


 実も。


 果汁も。


 皮も残っていない。


 全てが。


 ノエルの中へ入った。


    ◇


 何も起きなかった。


 一呼吸。


 二呼吸。


 ノエルの胸は動かない。


「ノエル?」


 セリアが、弟の頬へ触れる。


 冷たい。


「お願い」


 胸へ耳を当てる。


 音が。


 聞こえない。


「嘘」


 手首へ指を当てる。


 脈がない。


「ノエル」


 肩を揺らす。


「起きて」


 返事がない。


「起きてよ」


 さらに強く揺らす。


「私、戻ったよ」


 目を開けない。


「果実も」


 涙が落ちる。


「もらってきた」


 ノエルの頬へ。


 セリアの涙が落ちる。


「お願いだから」


 声が崩れる。


「一人にしないで」


 弟の胸へ顔を伏せる。


「ノエル!」


 寝室の外。


 ディルクが扉を叩いた。


「セリア!」


 返事をしなければ。


 扉を破られる。


 だが。


 答えられない。


 助けられなかった。


 間に合わなかった。


 迷宮の主から。


 貴重な実を一つもらったのに。


 全て。


 無駄にした。


「ごめんなさい」


 誰へ向けた言葉か分からない。


 ノエルへ。


 ベルガたちへ。


 父へ。


 迷宮の主へ。


「ごめんなさい……」


 その時。


 とくん。


 小さな音がした。


 セリアの泣き声が止まる。


「……え?」


 ノエルの胸。


 心臓の辺り。


 もう一度。


 とくん。


 弱い。


 だが。


 確かに。


 心臓が動いた。


「ノエル?」


 黒い筋が集まっていた胸元に。


 赤金色の光が浮かぶ。


 最初は。


 指先ほど。


 次に。


 拳ほど。


 光は、心臓を包むように広がっていく。


 黒い筋が。


 金色の光へ触れた。


 じゅっ。


 焼けるような音。


 黒い魔力が。


 霧となって浮かぶ。


「何……?」


 ノエルの体が、大きく跳ねた。


「うあ……っ!」


 意識のないまま。


 苦痛の声が漏れる。


 両腕。


 胸。


 首。


 浮かんでいた黒い筋が。


 皮膚の下で暴れ始めた。


 逃げるように。


 赤金の光から離れようとする。


「ノエル!」


 セリアが弟の体を押さえる。


 黒い筋が。


 首から顔へ。


 腕から指先へ。


 胸から腹へ。


 全身へ逃げる。


 だが。


 赤金の光も追う。


 心臓から。


 血管ではない、新しい道を通り。


 壊れた魔力経路へ流れ込んでいく。


 崩れた場所。


 裂けた場所。


 黒く腐った場所。


 一つずつ。


 金色の光で満たす。


「魔力経路を……」


 医師たちができないと言ったこと。


 一度壊れた魔力経路は。


 作り直せない。


 回復魔法では治らない。


 それを。


 赤金の実は。


 内側から組み直している。


「ぐああああああっ!」


 ノエルが叫んだ。


 体が反り返る。


 黒い魔力が。


 口。


 鼻。


 指先。


 全身の毛穴から噴き出した。


 寝室の天井へ。


 黒い霧が渦巻く。


 セリアは。


 逃げなかった。


 弟の体を抱き締める。


「大丈夫!」


「大丈夫だから!」


 何の保証もない。


 それでも。


 言い続ける。


「姉様がいるから!」


 ノエルの目が。


 薄く開いた。


 金色の光が、瞳の奥へ映っている。


「……姉、様」


「ノエル!」


「痛い……」


「うん」


「すごく……痛い」


「ごめんね」


「でも」


 少年は。


 荒い呼吸の中で。


 小さく呟いた。


「胸が」


「何?」


「動いてる」


 セリアの涙が。


 さらに溢れた。


「うん」


 弟の胸へ手を当てる。


 とくん。


 とくん。


 とくん。


 心臓が。


 さっきより強く。


 確かに動いている。


    ◇


 赤金の光は。


 夜になるまで消えなかった。


 一時間。


 二時間。


 ノエルは何度も苦しんだ。


 叫び。


 吐き。


 黒い魔力を体外へ出し続けた。


 セリアは。


 一度も部屋を開けなかった。


 水を飲ませ。


 汗を拭き。


 手を握り続けた。


 寝室の外では。


 ディルク。


 医師。


 神官。


 使用人たちが。


 何もできず待っている。


 時折。


 ノエルの叫び声が聞こえる。


 扉を破ろうとする者もいた。


 だが。


 ディルクが止めた。


「待て」


「しかし、公子が!」


「セリアを信じろ」


「閣下!」


「余は」


 扉を睨む。


「もう一人の子まで、信じられぬ父にはならん」


 誰も。


 それ以上は言えなかった。


    ◇


 夜が深くなった頃。


 寝室から。


 声が消えた。


 ディルクが立ち上がる。


「セリア!」


 返事はない。


 扉へ手をかける。


 鍵は内側。


「破るぞ」


 騎士が構える。


 その前に。


 鍵が外れた。


 扉が。


 ゆっくり開く。


 セリアが立っていた。


 髪は乱れ。


 顔は涙と汗で濡れている。


 外套も。


 服も。


 黒い魔力の汚れが付着していた。


「セリア」


 ディルクが娘の肩を掴む。


「ノエルは」


 セリアは。


 すぐに答えなかった。


 疲れ切った顔で。


 父親を見る。


 そして。


 泣きながら笑った。


「眠っています」


「……何?」


「息をしています」


 医師たちが、一斉に部屋へ入る。


 寝台の上。


 ノエルは眠っている。


 顔色は。


 まだ青白い。


 痩せたまま。


 だが。


 胸が動いている。


 規則正しく。


 ゆっくりと。


「脈を!」


 医師が手首へ触れる。


「ある」


「心拍は」


「安定しています!」


「黒脈は!」


 服を開く。


 胸。


 首。


 腕。


 皮膚の下を這っていた黒い筋が。


 消えていた。


 一部だけではない。


 全て。


「あり得ない」


 医師の手が震える。


「魔力経路を確認!」


 水晶器具が、ノエルの胸へ当てられる。


 内部の魔力経路が。


 淡い金色の線として映る。


「これは……」


 部屋中が静まった。


 以前。


 八割以上が崩壊していた魔力経路。


 今は。


 全身へ繋がっている。


 まだ細い。


 不安定な部分もある。


 だが。


 壊れてはいない。


「再生している」


 医師が。


 信じられないものを見る目で呟く。


「魔力経路が」


「作り直されている……」


 ディルクは。


 寝台へ近づく。


 ノエルの頬へ触れる。


 温かい。


「ノエル」


 眠る少年の瞼が。


 わずかに動いた。


「父上……」


 弱い。


 だが。


 昨日までとは違う。


 死にかけた声ではない。


「お腹、空いた」


 ディルクの顔が。


 崩れた。


 息子を抱き締める。


「父上、苦しい」


「すまない」


「泣いてる?」


「泣いていない」


「姉様と同じ嘘」


「黙れ」


 そう言いながら。


 ディルクは。


 息子を離さなかった。


    ◇


「セリアお嬢様」


 医師が振り返る。


「何を使ったのです」


 セリアの右手。


 契約紋が熱を持つ。


 口を開こうとした瞬間。


 喉が。


 自動的に止まった。


 声が出ない。


 秘密を伝える行為を。


 契約が封じている。


「お嬢様?」


 セリアは。


 右手を胸へ置く。


「話せません」


 それだけは。


 許された範囲。


「なぜです」


「契約です」


「誰との?」


「話せません」


 ディルクが、娘の手の甲を見る。


 白と灰の円環。


「迷宮か」


 問いではない。


 推測。


 セリアは答えない。


 契約も。


 否定も許さない。


 沈黙するしかない。


「父上」


 やがて。


 許された言葉を選ぶ。


「私は」


「一人で、白い迷宮へ入りました」


 部屋にいた者たちが息を呑む。


「そして」


「治療の機会をいただきました」


「それ以上は」


 首を横へ振る。


「何も話せません」


 医師が食い下がる。


「同じ病の者を救えるかもしれないのです!」


「公子だけではありません!」


「黒脈崩壊症で苦しむ者は、他にも――」


「駄目です」


 セリアは。


 迷わず遮った。


「なぜ!」


「約束したからです」


「大勢の命が救えるかもしれない!」


「そのために」


 セリアの声が強くなる。


「また軍を送るのですか」


 医師が黙る。


「欲しいと」


「分けてほしいと」


「次々に人を向かわせますか」


「それは」


「昨日」


 セリアは、父を見る。


「二百六十三人が死にました」


「もう」


 涙を拭う。


「同じことはしません」


 ディルクは。


 長い間。


 娘を見つめた。


「全員」


 低い声で命じる。


「今夜、この部屋で見聞きしたことを外へ漏らすな」


「閣下」


「ノエルは」


 息子を見る。


「奇跡的に容体が安定した」


「それだけだ」


「治療方法は不明」


「セリアも知らない」


 医師が口を開きかける。


「これは公爵命令だ」


 誰も。


 逆らえなかった。


    ◇


 同じ夜。


 霧灰白庭迷宮。


 余は。


 命の苗床の前で、エリラの芽を見ていた。


 百三十九個。


 残る実。


 一個減った。


 ノエルが助かったかどうか。


 まだ分からない。


 人間側から連絡する手段はない。


 セリアとの契約は。


 秘密保持と敵対禁止。


 会話を繋ぐものではない。


「ロード」


 フィルエが呼ぶ。


「何だ」


「今」


 胸へ手を置く。


「何か、あった」


「何か?」


「うん」


「芽?」


「違う」


 フィルエは。


 エリラの芽ではなく。


 保管されている実の方を見る。


「使った実」


「遠くにあるぞ」


「分かってる」


「では」


「消えた」


 フィルエは、目を閉じる。


「でも」


 少しだけ笑う。


「命に変わった」


「分かるのか」


「なんとなく」


《エリラの実遠隔反応は、管理範囲外のため確認不能》


「管理音声には聞いていない」


《はい》


 フィルエは。


 枯れたエリラの木へ手を触れた。


「たぶん」


「助かったよ」


 余は。


 すぐには答えなかった。


 確証はない。


 それでも。


 フィルエがそう感じるなら。


 信じてもよい気がした。


「そうか」


「うん」


「なら」


 百三十九個の実を見る。


「無駄ではなかったな」


「うん」


 エリラの芽が。


 赤金色の葉を揺らす。


 その瞬間。


《生命反応上昇》


「何だ」


《エリラの芽に成長反応》


 細い茎の先。


 新しい葉ではない。


 小さな。


 丸い膨らみが生まれていた。


「これは」


 フィルエが近づく。


 触れないように。


 顔だけを寄せる。


「花?」


《花芽である可能性》


「もう?」


 まだ。


 発芽してから、それほど経っていない。


 高さも。


 以前のエリラの木には遠く及ばない。


 それなのに。


 赤金色の葉の間へ。


 小さな蕾が生まれている。


「実を一個使ったから?」


《因果関係不明》


「またそれか」


 管理音声は。


 分からないものを、分からないとしか言わない。


 だが。


 フィルエは。


 小さな蕾を見ていた。


「誰かを助けたから」


「芽も、次へ進んだのかもしれない」


「植物が、遠くの出来事を知るのか」


「この子なら」


 フィルエは。


 赤金色の芽へ、優しく声をかける。


「知ってても、おかしくないよ」


 小さな蕾が。


 まだ開かないまま。


 ほんの少しだけ。


 金色の光を漏らした。


 赤金の実は。


 遠い公爵邸で。


 死にかけた少年の胸へ溶けた。


 壊れた魔力経路を繋ぎ。


 止まりかけた心臓を、再び動かした。


 そして。


 白い迷宮に残った芽もまた。


 初めての花を咲かせようとしていた。

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― 新着の感想 ―
正確なところは分からなくても推測は出来ますから、豪商・王侯貴族・聖職者達が犯罪者をかき集めて生贄としてダンジョンに放り込むという事態になりかねない気がします。さらに犯罪者が尽きたら……。
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