第243話 命を乞う者へ、迷宮は代価を問う
白い霧が、セリア・ヴァレストの背後で閉じた。
森の光が消える。
鳥の声も。
風に揺れる葉の音も。
何も聞こえなくなった。
前にあるのは、白い通路だけ。
壁。
床。
天井。
どこを見ても、継ぎ目のない白。
明かりを置いている様子はない。
それでも、通路全体が淡く照らされている。
セリアは、足を止めかけた。
《止まるな》
どこからともなく声が響く。
「はい」
すぐに歩き出す。
足音が、白い通路へ細く反響した。
一歩。
また一歩。
自分の呼吸だけが、異様に大きく聞こえる。
左右の壁の向こうに何かいる。
姿は見えない。
だが。
見られている。
そんな感覚が消えなかった。
◇
セリアが歩く隔離路の外側。
覇牙軍団が、壁の内側にある小型軍用路へ配置されていた。
盾兵。
槍兵。
刃兵。
弓兵。
姿を見せないまま。
通路を進む一人の女へ、百二十体の視線が向けられている。
ガルザヴェインは、隔離路の上方に作られた指揮区画からセリアを見ていた。
「ヒトリ」
「ああ」
「ブキ、ナイ」
「ああ」
「デモ」
金色の目が細くなる。
「シンジナイ」
「それでいい」
余は答えた。
「警戒を解く必要はない」
「ウン」
「ただし、余が命じるまで攻撃するな」
「ワカッタ」
ガルザヴェインは、壁の向こうを見たまま拳を下ろした。
第二防衛線には、カゲツと百骸騎士団。
交渉室を中心に。
前後。
左右。
全ての通路を囲むように配置されている。
「カゲツ」
「ロード」
「状況は」
「対象、隔離路ヲ進行中」
「不審な魔力反応」
「確認出来ズ」
「隠し武器」
「確認出来ズ」
「精神状態は」
「強イ恐怖反応有リ」
一拍。
「敵意、無シ」
「最後まで監視しろ」
「承知」
万蝕酸界のウルグは、さらに奥。
命の苗床の一つ前から動かしていない。
セリアが歩いている場所と、ウルグの区画は繋がってすらいない。
それでも念を押す。
「ウルグ」
「うるぐ」
「来るなよ」
「うるぐ」
「人間が一人入ったからといって、見に来るな」
「……うるぐ」
「今、間があったな?」
透明な床が、小さく揺れる。
非常に不安だった。
◇
セリアの前方に、白い扉が現れた。
それまで壁しかなかった場所へ。
音もなく。
縦の線が走る。
左右へ開く。
《中へ入れ》
「はい」
セリアは、扉の前で一度だけ息を整えた。
そして。
部屋へ入った。
何もない。
広さは、人間の応接室より少し大きい程度。
中央に、白い椅子が一脚。
その前には、低い白磁の台。
窓はない。
別の出口もない。
セリアが入ると。
背後の扉が閉じた。
白い壁へ戻る。
「……」
《椅子へ座れ》
セリアは、言われた通り椅子へ腰を下ろす。
背筋を伸ばす。
両手を膝へ置く。
震えを隠そうとしている。
だが、指先は白くなるほど強く握られていた。
《これから質問する》
「はい」
《嘘をつくな》
「はい」
《知らないことは、知らないと答えろ》
「分かりました」
《自分に都合のよい推測を、事実のように話すな》
「はい」
セリアは。
その言葉に少しだけ驚いたようだった。
だが。
すぐに頷いた。
《まず》
余は問う。
《ノエル・ヴァレストの病は、いつからだ》
「生まれた時からです」
《詳しく》
「弟は、生まれた時から魔力の流れが弱かったと聞いています」
「幼い頃は」
一度、言葉を選ぶ。
「疲れやすい程度でした」
「長く走ることができない」
「高熱を出しやすい」
「魔法を使うと、体の内側が痛む」
「そのくらいでした」
《黒脈崩壊症と診断されたのは》
「六歳の時です」
「初めて、指先から黒い魔力が漏れました」
セリアの表情が曇る。
「最初は、右手の小指だけでした」
「でも」
「一年ごとに広がりました」
「腕」
「胸」
「脚」
「今は」
声が細くなる。
「心臓の近くまで」
余は、薬師の診療記録と照合する。
内容に矛盾はない。
《治療は》
「王都の神官」
「宮廷魔術師」
「高位薬師」
「他国から招いた医師」
「できることは、全部試しました」
《効果は》
「一時的に痛みを弱くするだけです」
《ノエル自身の魔力を抜く方法は》
「試しました」
《結果は》
「体力まで落ちました」
《魔力経路を作り直す術は》
「人間にはできないと言われました」
「一度壊れ始めた魔力経路は」
「治すのではなく」
「崩壊を遅らせることしかできないと」
セリアは、膝の上で拳を握る。
「だから」
「赤金の奇跡果の噂を聞いた時」
「父は」
「最後の可能性だと思いました」
《そして軍を送った》
「はい」
その答えだけは。
やはり、逃げなかった。
◇
《お前は軍の派遣に賛成したのか》
セリアの呼吸が止まる。
少し。
答えが遅れた。
「……止めませんでした」
《聞いたのは、賛成したかだ》
「はい」
顔を上げる。
「賛成しました」
《理由は》
「ノエルを助けたかったからです」
《迷宮の魔物が死んでもよいと》
セリアの唇が震える。
「その時は」
「そこまで考えませんでした」
《違う》
余の声が、白い部屋へ低く響く。
《考えなかったのではない》
「……」
《考える必要がないと思ったのだ》
セリアは。
何も言えなかった。
《人間ではない》
《迷宮の魔物だ》
《殺しても》
《奪っても》
《弟を救えるなら、それでよい》
「……はい」
涙が一滴。
膝へ落ちた。
「そう思っていました」
言い訳をしなかった。
「ベルガたちが出発する時も」
「私は」
声が詰まる。
「必ず持ち帰ってくださいと、言いました」
《実をか》
「はい」
《根も》
「……はい」
《木を枯らす可能性を考えたか》
「考えませんでした」
《そこに暮らす者のことは》
「考えませんでした」
白い部屋へ。
セリアの泣く音だけが、小さく残る。
フィルエが、命の苗床の前で目を伏せていた。
ガルザヴェインの拳が。
ゆっくりと握られる。
「キライ」
「ああ」
「ヤッパリ」
「ああ」
だが。
ガルザヴェインは動かなかった。
余の質問を。
セリアの答えを。
最後まで聞いている。
カゲツは静かに告げた。
「虚偽反応、確認出来ズ」
彼女は。
自分に不利なことまで話している。
◇
《なぜ、今は間違いだったと言える》
セリアは、涙を拭わなかった。
「全員が死んだから」
《結果が悪かったからか》
「それもあります」
正直な答えだった。
「ベルガたちが果実を持ち帰って」
「ノエルが助かっていたら」
「私は」
一度、言葉を止める。
「迷宮で何が起きたかを、深く考えなかったかもしれません」
フィルエが、静かにセリアを見る。
「でも」
セリアは続けた。
「報告を読みました」
「魔物が負傷した仲間を下げたこと」
「別の魔物が、その場所へ入ったこと」
「骸骨の将軍が、騎士たちを守ったこと」
「軍が」
「ただ使い捨てられているのではないと」
「分かりました」
《それで》
「私たちと同じだと」
「思いました」
ガルザヴェインの金色の目が細くなる。
《同じではない》
余は否定した。
《人間と迷宮の魔物は違う》
「はい」
《同じにするな》
「分かりました」
セリアは、すぐに言葉を修正した。
「同じではありません」
「ですが」
「守りたいものがあること」
「仲間を失えば悲しむこと」
「死んだ者が戻らないこと」
両手を、膝の上で強く握る。
「そこまで違うとは」
「もう思えません」
余は。
しばらく返事をしなかった。
◇
「ロード」
フィルエが呼ぶ。
「何だ」
「この人」
「ああ」
「前に来た時だったら」
フィルエは、枯れたエリラの木を見る。
「木を取ったと思う」
「ああ」
「でも」
「今は、しないと思う」
「どうして分かる」
「分からない」
フィルエは首を横へ振る。
「でも、今は」
「木を取ったら、私たちが悲しむって知ってる」
「知っただけだ」
「うん」
「知っても、弟を助けるためなら取るかもしれない」
「うん」
「それでもか」
フィルエは、セリアの顔を見た。
「それを聞けばいい」
余は。
再びセリアへ声を届ける。
◇
《もし》
セリアが顔を上げる。
《余がお前の弟を助けないと答えたら》
「……」
《お前はどうする》
難しい問い。
今までの謝罪より。
ずっと。
セリアの本心が出る問いだった。
「帰ります」
小さな声。
《それだけか》
「はい」
《軍を連れて戻らないと》
「戻りません」
《父親が軍を送ると言ったら》
「止めます」
《止められなければ》
セリアの顔が強張る。
「ヴァレスト家の名で」
「この迷宮には、何もなかったと公表します」
《二百六十三人が死んでいる》
「全滅した事実は隠せません」
《では》
「危険な迷宮だった」
「それだけを伝えます」
《赤金の奇跡果は》
「存在を確認できなかったと」
《嘘をつくのか》
「はい」
セリアは、迷わなかった。
「この迷宮を守るためではありません」
《何?》
「これ以上」
拳を握る。
「誰も来させないためです」
「果実があると分かれば」
「父だけではありません」
「王家」
「他の貴族」
「病人を抱える者」
「戦争のために回復素材を欲しがる者」
「全員が来ます」
その通りだった。
「ノエルを助けられなくても」
セリアは言う。
「同じ理由で」
「さらに多くの人が死ぬのは止めます」
《信じろと》
「信じていただけるとは思っていません」
《証明は》
「できません」
前と同じ答え。
それでも。
セリアは続けた。
「だから」
「契約してください」
余の意識が、わずかに動いた。
《契約》
「はい」
「言葉だけでは信用できないなら」
「この迷宮の秘密を外へ漏らせない契約を」
「私に結んでください」
◇
「管理音声」
《はい》
「可能か」
《契約内容によります》
「人間へ、秘密保持を強制する契約」
《可能》
「破った場合は」
《罰則設定が必要です》
「死か」
セリアの顔が青ざめる。
だが。
逃げない。
《可能です》
フィルエが顔を上げた。
「死ぬの?」
「破ればな」
「他の罰は?」
《発声封印》
《記憶の一部消去》
《魔力経路封鎖》
《生命力徴収》
《複数選択可能》
「ロード」
フィルエが静かに言う。
「殺さなくていい」
「秘密を漏らした場合だぞ」
「うん」
「次の軍が来る」
「でも」
フィルエは、セリアを見る。
「話そうとした時に、声が出なくなればいい」
確かに。
秘密を話せないなら。
目的は達成できる。
死まで求める必要はない。
「記録へ書く場合は」
《契約対象の意思を通じた情報伝達全般を封鎖可能》
「他者に察するよう誘導する行為は」
《同様に封鎖可能》
「契約の存在を利用し、別の者へ推測させる行為」
《封鎖対象へ含められます》
「なら」
余は条件を組み始める。
⸻
《仮契約条件》
一。
セリア・ヴァレストは、霧の中で見聞きした情報を、迷宮側の許可なく外部へ伝えてはならない。
二。
赤金の果実、エリラの芽、迷宮軍、配下、内部構造、契約内容を秘密対象とする。
三。
口頭、文字、魔法、暗号、態度、誘導を問わず、第三者へ秘密を伝える行為を禁止する。
四。
秘密を伝えようとした場合、対象行為を強制停止。
五。
意図的な違反を繰り返した場合、関連記憶を封印。
六。
迷宮への敵対行為、軍の誘導、内部への侵入補助を禁止する。
七。
契約は、ロード側の判断により解除可能。
⸻
「これなら死なない」
フィルエが言う。
「ああ」
だが。
セリア側にとっては。
公爵家の重要情報を、迷宮へ握られるに等しい。
契約を破れば。
声が止まり。
記憶まで封じられる。
《セリア》
「はい」
《契約条件を聞け》
余は、一つずつ伝えた。
セリアは。
途中で口を挟まなかった。
全て聞き終えた後。
「一つだけ」
《何だ》
「父とノエルには」
少し迷いながら続ける。
「助けていただいた場合」
「治療に使ったものについて、どこまで話せますか」
《余が許可した範囲だけだ》
「果実を使ったことは」
《許可しない》
「では」
「迷宮に助けられたことは」
余は少し考える。
《お前が一人で迷宮へ入り》
《何らかの治療手段を得た》
《そこまでなら許可する》
「場所や」
「方法は」
《話すな》
「分かりました」
《父親が再び軍を動かそうとした場合は》
「止めます」
《止まらなければ》
セリアは。
ゆっくり答えた。
「その時は」
「先に、あなたへ知らせます」
「そして」
一度。
目を閉じる。
「ヴァレスト家を離れます」
公爵令嬢が。
家を捨てる。
簡単なことではないはずだ。
《弟を置いてか》
「ノエルを連れて」
《父親と敵対する可能性がある》
「はい」
《本当にできるのか》
「分かりません」
セリアは正直に答えた。
「でも」
「やると決めます」
余は。
しばらく沈黙した。
「管理音声」
《はい》
「契約を用意しろ」
《承知しました》
白い交渉室の床に。
細い灰色の線が現れる。
セリアの椅子を囲うように。
円を描く。
白。
灰。
黒。
三色の文字が、床へ刻まれていく。
「これは……」
《契約陣だ》
セリアの呼吸が速くなる。
《まだ契約を結ぶと決めたわけではない》
「はい」
《お前の覚悟を確認する》
灰色の線が。
セリアの足元へ近づく。
《右手を床へ置け》
セリアは椅子から降りる。
片膝をつく。
右手を。
契約陣の中央へ置いた。
《契約条件を受け入れるか》
「受け入れます」
《迷宮の秘密を守るか》
「守ります」
《父親に命じられても》
「話しません」
《弟に頼まれても》
一瞬。
指が震えた。
それでも。
「話しません」
《弟が再び病に倒れ》
《秘密を話せば助けられると言われても》
セリアの目から。
新しい涙が落ちた。
最も残酷な問いだった。
それでも。
答えなければならない。
「……話しません」
《なぜだ》
「一度」
涙を拭わずに答える。
「ノエルを助けるために」
「他の命を奪おうとしました」
「二度目は」
右手へ力を込める。
「しません」
契約陣が。
淡く光った。
《意思確認》
《重大な虚偽反応、検出されません》
契約を結ぶことはできる。
だが。
まだ。
エリラの実を渡すかどうかは決めていない。
「フィルエ」
「うん」
「実の状態は」
《保管中の百四十個、全て安定》
「一個を使った場合」
《残数百三十九個》
ただ一個。
だが。
有限の一個。
この迷宮の配下を救える一個。
人間の少年へ渡せば。
もう戻らない。
「ロード」
フィルエは言った。
「私が決めていいって言ったよね」
エリラの実の使用量は。
フィルエが決める。
余が、そう任せた。
「ああ」
「一個」
フィルエは。
迷わず答えた。
「使う」
「本当に?」
「うん」
「治る保証はない」
「だから、最初は一個」
「効かなければ」
フィルエは少し考える。
「その時は、その時に決める」
「人間だぞ」
「うん」
「昨日の敵の家族だ」
「うん」
「百四十個しかない」
「知ってる」
フィルエは。
エリラの実が入った保存区画へ手を向ける。
「でも」
「助けられるかもしれない命があるのに」
「何もしなかったら」
枯れたエリラの木を見る。
「この実を残した意味が」
「少しだけ、違う気がする」
余には。
その感覚を完全には理解できない。
エリラの実は資源だ。
配下の命を守るための物。
有限になった以上。
人間へ使うことは損失でもある。
だが。
この実を管理するフィルエが。
使うと言った。
「分かった」
余は答えた。
「契約成立後」
「一個だけ渡す」
フィルエが、小さく頷いた。
◇
《セリア・ヴァレスト》
「はい」
《契約を結ぶ》
セリアの顔が上がる。
《ただし》
「はい」
《まだ、弟を救えるとは断言しない》
「分かっています」
《治療物は一つだけ》
息を呑む。
《効かなかった場合》
「……」
《追加で渡す保証はない》
「はい」
《それでも契約するか》
「します」
《迷宮の秘密を守るか》
「守ります」
《二度と》
余は。
昨日の軍を思い出す。
白陽砲。
聖灰。
壊された壁。
死んだ配下。
《余の守るものを、奪う側へ立たないか》
セリアは。
契約陣の中央で、深く頭を下げた。
「誓います」
「二度と」
「奪う側には立ちません」
《契約を承認》
灰色の線が。
一斉に光った。
セリアの右手から。
細い白い紋様が腕へ伸びる。
痛みはない。
だが。
何かが、自分の言葉と記憶へ繋がったことを感じたのだろう。
セリアの肩が震える。
《秘密保持契約、成立》
《契約対象:セリア・ヴァレスト》
《敵対禁止条項、適用》
《情報伝達制限、適用》
光が消える。
右手の甲に。
白と灰の小さな円環だけが残った。
「これが……契約」
《そうだ》
セリアは、その紋様を見つめた。
そして。
両手を床へつく。
「ありがとうございます」
《まだ礼を言うな》
白い台の上へ。
小さな箱が現れた。
白磁で作られた箱。
周囲を灰色の糸で封じている。
セリアが顔を上げる。
《開けるな》
「はい」
《中には》
一拍。
《赤金の果実が一個入っている》
セリアの呼吸が止まった。
「本当に……」
《効力は保証しない》
「はい」
《帰るまで開けるな》
「はい」
《箱を壊すな》
「はい」
《お前以外へ持たせるな》
「はい」
《弟へ使用する前に》
「はい」
《人払いをしろ》
「誰にも見せるなということですね」
《そうだ》
「分かりました」
セリアは。
白磁の箱へ、両手を伸ばす。
触れる直前。
手が止まった。
「重い……」
《果実一個分だ》
「違います」
セリアは首を横へ振る。
「そういう意味ではありません」
箱を。
胸へ抱く。
「二百六十三人が」
声が震える。
「持ち帰れなかったものを」
「私一人が」
《勘違いするな》
余は、厳しく遮った。
《あの者たちが死んだから、お前へ渡すのではない》
「……はい」
《軍が強かったからでも》
《お前が公爵令嬢だからでもない》
《お前が一人で来て》
《謝り》
《契約を受け入れたからだ》
「はい」
《昨日の軍と》
《今のお前を》
《同じにするな》
セリアは。
涙を流しながら。
「はい」
と答えた。
◇
「管理音声」
《はい》
「帰還路を開け」
《承知しました》
交渉室の壁に。
白い扉が現れる。
《立て》
セリアは、白磁の箱を抱いたまま立ち上がる。
《道を外れるな》
「はい」
《外へ出たら》
「はい」
《振り返らずに帰れ》
セリアは。
扉の前で、一度だけ足を止めた。
「最後に」
《何だ》
「お名前を」
余は答えなかった。
「何と、お呼びすればよいでしょうか」
《必要ない》
「ですが」
《人間に名乗る名はない》
霧灰白庭迷宮。
それは、余たちだけの名。
人間側へ教えるつもりはない。
「では」
セリアは少し考えた。
「迷宮の主様と」
《好きにしろ》
「分かりました」
そして。
深く頭を下げる。
「迷宮の主様」
「弟を助ける機会をくださり」
「ありがとうございます」
《急げ》
余はそれだけ返した。
《時間がないのだろう》
セリアの顔が引き締まる。
「はい!」
扉の先へ走りかける。
《走るな》
「……はい!」
急ぎながらも。
転ばないように。
白い道を進んでいく。
覇牙軍団は、最後まで姿を見せなかった。
百骸騎士団も。
ウルグも。
フィルエも。
エリラの芽も。
セリアが見たのは。
白い通路。
白い部屋。
そして。
弟の命を救うかもしれない、小さな白磁の箱だけ。
◇
白い霧が開く。
セリアが森へ出た。
外の光へ、一瞬だけ目を細める。
背後で。
霧が閉じた。
彼女は、命じられた通り振り返らなかった。
白磁の箱を胸へ抱き。
森の中を歩き始める。
最初は早足。
やがて。
人の道へ出たところで。
木へ繋いでいた馬へ乗る。
公爵邸へ。
死にかけている弟のもとへ。
一刻でも早く。
◇
「ロード」
声の道から。
ルオが呼んだ。
『今、人間が出ていった?』
「見ていたのか」
『近くにいた』
「来るなと言っただろう!」
『入ってないぞ』
「森の近くにいるではないか!」
『で、何渡した?』
「関係ない」
『果物?』
「なぜ分かる!」
『甘い匂いしたから』
「鼻が良すぎる!」
ルオが、声の向こうで笑う。
『人間にあげたんだな』
「一個だけだ」
『フィルエが決めた?』
「ああ」
『じゃあ、いいんじゃない』
「軽いな」
『だって』
ルオの声が、少しだけ真面目になる。
『あの実って、誰かを治すためにあるんだろ』
「余の配下を、だ」
『今まではな』
「……」
『増えないから大事なのは分かる』
『でも』
『一個で助かるなら』
『食われるためじゃなくて』
『助けるために使われる方が、果物もいいだろ』
「果物の気持ちを勝手に決めるな」
『ロードも前に似たようなこと言ってたぞ』
「言っていない!」
『食べる奴がいるから実として生った、とか』
「……」
言った。
確かに。
言った。
『ほら』
「うるさい」
声の向こうで。
ルオが楽しそうに笑った。
◇
命の苗床。
フィルエが、百三十九個になったエリラの実を確認していた。
《完全保管数:百三十九個》
昨日までは百四十個。
今日。
一個減った。
明日になっても戻らない。
「フィルエ」
「うん」
「後悔していないか」
「まだ分からない」
「何?」
「弟が助かるか分からないから」
「ああ」
「助かったら」
フィルエは、赤金色の芽を見る。
「よかったって思う」
「助からなければ」
「悲しい」
「実を使ったことを後悔するか」
フィルエは。
少しだけ考えた。
「しない」
「なぜだ」
「助けようとしたから」
短い答え。
余には。
まだ完全には分からない。
だが。
フィルエが管理すると決めた実だ。
その判断を。
余は受け入れる。
エリラの芽が。
赤金色の葉を一度だけ揺らした。
まるで。
一つ減った果実が。
遠くの誰かへ届くのを見送るように。
白い迷宮は。
初めて。
奪いに来た人間ではなく。
頭を下げた人間へ。
一つの命を託した。




