第242話 白い霧の外で、姉は頭を下げる
「はい」
セリア・ヴァレストは、逃げずに答えた。
「昨日、この迷宮へ二百六十三人を送ったのは、私たちヴァレスト公爵家です」
白い霧の向こう。
余は、その顔を見つめていた。
恐怖で青ざめている。
両手は震え。
唇も、わずかに動いている。
それでも。
自分は関係ないとは言わなかった。
父が命じたのだとも。
兵たちが勝手に入ったのだとも。
責任を別の誰かへ押しつけなかった。
《目的は》
余が問う。
「弟の治療です」
《ノエル・ヴァレスト》
セリアの目が見開かれた。
「弟の名を……」
《昨日の兵が、何度も口にしていた》
公子を救う。
四日目の朝は迎えられない。
赤金の奇跡果を、最低でも十個持ち帰る。
根も。
枝も。
周辺の土も。
全て、余は聞いている。
《一人を救うために、二百六十三人を送った》
「はい」
《余の配下を殺し》
「はい」
《迷宮を壊し》
「はい」
《余が守る植物の根まで奪おうとした》
セリアは、白布の上で両手を握り締めた。
「はい」
声は小さい。
だが。
否定しなかった。
「その通りです」
《ならば》
白い霧が、ゆっくりと濃くなる。
《なぜ、余がお前の頼みを聞くと思った》
セリアの顔から、さらに血の気が引いた。
答えを間違えれば。
ここで死ぬ。
そう理解している顔だった。
それでも。
彼女は、すぐには言葉を出さなかった。
都合のよい答えを探すのではなく。
自分の中にある言葉を、確かめている。
「聞いていただけるとは」
やがて。
セリアが答えた。
「思っていません」
《何?》
「許していただけるとも」
白い布へ、視線を落とす。
「助けていただけるとも、思っていません」
《では、なぜ来た》
「他に」
セリアの声が震えた。
「何も残っていなかったからです」
◇
白い部屋。
ガルザヴェインが、壁面のセリアを睨んでいる。
「タスケテ、ホシイ」
「ああ」
「デモ、ムリ、ワカッテル」
「そう言っている」
ガルザヴェインは、しばらく考えた。
「ワカラナイ」
「何がだ」
「ムリ、ナラ」
金色の目が細くなる。
「ナンデ、クル」
「余も、それを聞いている」
フィルエが、命の苗床の前で小さく答えた。
「何もしなかったら、弟が死ぬから」
ガルザヴェインが、フィルエを見る。
「シヌ」
「うん」
「ダカラ、クル」
「たぶん」
ガルザヴェインは、再び壁面へ視線を戻す。
「コワイ、ノニ」
「ああ」
恐怖の匂いは。
迷宮の内側まで届いている。
カゲツは、大剣を抱えたまま動かない。
「カゲツ」
「ロード」
「この女の言葉をどう見る」
「虚偽反応」
一拍。
「現時点、確認出来ズ」
「弟を救うためなら、何でもする可能性は」
「有リ」
「迷宮へ入り、隙を見て奪う可能性」
「否定出来ズ」
「そうだな」
今、嘘をついていないことと。
今後、裏切らないことは別だ。
追い詰められた者は。
最後に何をするか分からない。
「ロード」
フィルエが呼ぶ。
「何だ」
「でも」
フィルエは、セリアが置いた木箱を見る。
「昨日の人たちは、武器を持ってきた」
「ああ」
「この人は、本を持ってきた」
「まだ中身までは読んでいない」
「うん」
「罠ではないと確認しただけだ」
「それでも」
フィルエは、静かに言った。
「違うと思う」
違う。
確かに。
昨日の軍と。
目の前の女は。
同じ目的を持ちながら、選んだものが違う。
◇
《木箱を開けろ》
余は命じた。
セリアは、一瞬だけ箱を見た。
「ここで、ですか」
《開けられない理由があるのか》
「ありません」
両手で木箱を引き寄せる。
金属の留め具を外し。
ゆっくりと蓋を持ち上げた。
中に入っていたのは。
一冊の分厚い本。
茶色く変色した革表紙。
四隅には、植物の蔓を模した銀の装飾。
中央には。
根を広げる大樹の紋章が刻まれていた。
《取り出せ》
「はい」
セリアは、本を両手で持ち上げる。
かなり重いらしい。
腕がわずかに下がった。
《表紙をこちらへ向けろ》
大樹の紋章。
その下に。
古い人間の文字。
「ヴァレスト植物大典」
セリアが読み上げた。
「我が家に、七百年以上前から伝わる記録です」
《内容は》
「薬草や魔樹」
「霊樹」
「魔力を持つ果実」
「特殊な土壌」
「枯死した植物から、新しい株を育てる方法」
フィルエが、壁面へ少し身を乗り出した。
「枯れた木から?」
「ああ」
「見たい」
「まだ待て」
「うん」
フィルエは素直に下がった。
だが。
目は本から離れない。
《なぜ、それを持ってきた》
「代価として」
セリアは答えた。
《余が金や宝石を望むと思ったか》
「思いませんでした」
《では》
「昨日の報告に」
セリアは本を抱え直す。
「迷宮の深部から、非常に強い植物の生命反応があると記されていました」
芽。
直接は見ていない。
だが。
存在を推測している。
「そして」
「あなたは、それを守るために」
「二つの軍を動かした」
「道を変えた」
「兵を退かせた」
「最後まで、深部へ近づけなかった」
《それがどうした》
「大切にしているのだと思いました」
余は答えなかった。
セリアは続ける。
「この本なら」
「あなたが守る植物の役に立つかもしれません」
《かもしれない》
「はい」
《役に立たなければ》
「私が差し出せるものは、他にありません」
公爵家の娘。
金貨。
宝石。
領地。
人間社会では、価値のある物をいくつも持っているはずだ。
だが。
余にとっては。
そのどれも、今すぐ必要ではない。
セリアは。
それを考えて。
植物の本を持ってきた。
《本を渡し》
余は問う。
《何を求める》
セリアの腕が、わずかに震える。
「弟を」
声が詰まる。
「ノエルを助ける方法を」
それでも。
言い直す。
「分けてください」
《果実を寄越せとは言わないのか》
「言いません」
《十個必要だと、昨日の軍は言っていた》
「医師たちは」
セリアは首を横に振る。
「実物を見ていません」
「効力も知りません」
「だから」
「確実に治療できる数を求めて、十個と言いました」
《お前は違うのか》
「一個で治るなら、一個だけ」
「半分で治るなら、半分だけ」
「果実でなくても治せるなら」
本を強く抱く。
「何もいただかなくて構いません」
白い霧が。
風もないのに、わずかに揺れた。
◇
「管理音声」
《はい》
「ノエル・ヴァレストの病気について、昨日の遺留品に記録はあったか」
《薬師の診療記録を確認済みです》
「出せ」
白い部屋へ、複数の紙が表示される。
⸻
《患者》
ノエル・ヴァレスト。
年齢十歳。
《症状》
先天性魔力経路脆弱。
黒脈崩壊症、末期。
魔力経路の崩壊範囲:
全身の八十一パーセント。
心臓周辺へ進行。
通常回復魔法:
効果なし。
高位神聖術:
進行遅延のみ。
予想生存時間:
記録作成時点から三日から四日。
⸻
「今は」
《記録作成から三日以上経過しています》
「本当に、時間がないか」
《はい》
フィルエが、悲しそうに紙を見る。
「十歳」
「ああ」
「小さいね」
人間の十歳。
余には、年齢の感覚が完全には分からない。
だが。
子供であることは分かる。
「エリラの実なら、治せる?」
「管理音声」
《完全治療の可能性はあります》
「可能性?」
《実物の効能は、高位肉体損傷、魔力経路損傷、呪詛、毒への強い回復効果を確認済み》
《ただし、黒脈崩壊症末期患者への使用記録はありません》
「一個で足りるか」
《不明》
「半分は」
《不明》
百四十個。
有限。
もう増えない実。
今後。
ガルザヴェインが瀕死になった時。
フィルエが傷ついた時。
配下が死にかけた時。
使うための命。
人間一人へ与えることは。
簡単には決められない。
◇
《セリア・ヴァレスト》
余が呼ぶ。
「はい」
《お前の弟を助ければ》
セリアが顔を上げる。
《余に何を返す》
「この本を」
《それだけか》
「……」
セリアは、答えに詰まった。
最初から。
本だけで足りるとは思っていないのだろう。
「私自身を」
やがて。
セリアが言った。
フィルエが目を見開く。
「何?」
ガルザヴェインの拳へ力が入る。
《どういう意味だ》
「弟が助かるなら」
セリアは、震える声で続ける。
「私は、この迷宮に残ります」
《人質か》
「奴隷でも」
《要らん》
即座に切った。
セリアが言葉を失う。
《余は、人間の奴隷を求めていない》
「ですが」
《お前一人を置いたところで、何になる》
「それは……」
《戦えるのか》
「いいえ」
《植物を育てられるのか》
「専門家ではありません」
《魔法は》
「生活魔法程度です」
《ならば、何の役に立つ》
厳しい問い。
だが。
事実だ。
フィルエのように、植物の命脈を感じられるわけでもない。
ガルザヴェインのように戦えるわけでもない。
カゲツのように軍を動かせるわけでもない。
ただ。
自分の命を差し出す。
それだけでは。
余にとって代価にならない。
「……分かりません」
セリアは、俯いた。
「ですが」
「私が持つものの中で」
「弟の命より大切なものは」
「自分の命しかありません」
《だから差し出すと》
「はい」
《愚かだな》
「はい」
セリアは否定しなかった。
「分かっています」
《弟が助かり、お前が戻らなければ》
余は言う。
《その弟は喜ぶのか》
セリアの顔が。
初めて、大きく歪んだ。
「……」
《お前を失って》
「……」
《自分だけ助かったことを、喜べるのか》
セリアの唇が震える。
答えは。
分かっているはずだ。
寝台に横たわる弟。
ベルガたちを心配していた少年。
自分を救うために姉が消えたと知れば。
それを。
望むとは思えない。
「喜ばないと」
セリアは、涙を流した。
「思います」
《ならば、勝手に自分を差し出すな》
フィルエが。
余の声を聞いて、静かに目を伏せた。
ガルザヴェインも。
何も言わない。
仲間を守るため。
一人で全てを背負おうとした。
以前の自分を。
セリアに重ねたのかもしれない。
◇
「ロード」
フィルエが小さく呼ぶ。
「何だ」
「私」
エリラの実が保管された区画を見る。
「一個、使ってもいいと思う」
余は、すぐには答えなかった。
「理由は」
「この人」
壁面のセリアを見る。
「木を取らないって言った」
「ああ」
「実を全部欲しいとも言わなかった」
「ああ」
「それに」
フィルエは、赤金色の芽へ視線を移す。
「エリラの実は」
「傷ついた命を助けるものだから」
「人間でもか」
「うん」
「昨日の軍の家族だぞ」
「この人は、戦ってない」
「同じ家だ」
「でも」
フィルエは、はっきりと言った。
「同じ人じゃない」
白い部屋が静かになる。
同じ人ではない。
その通りだ。
家が同じ。
血が繋がっている。
目的も同じ。
だが。
選んだ行動は違う。
昨日の軍の罪を。
目の前の女へ全て背負わせることが正しいのか。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「お前は」
ガルザヴェインは、しばらくセリアを見ていた。
「キライ」
「ああ」
「デモ」
短く息を吐く。
「コイツ、タタカッテナイ」
「助けてもよいと?」
「ワカラナイ」
正直な答えだった。
「デモ」
「何だ」
「コロス、チガウ」
カゲツにも問う。
「カゲツ」
「ロード」
「意見は」
「昨日ノ敵軍」
大剣を抱えたまま、答える。
「殲滅、妥当」
「ああ」
「眼前ノ女」
一拍。
「敵対行動、確認出来ズ」
「それだけか」
「交渉相手トシテ」
青い光が静かに揺れる。
「処理可能」
「助けるかどうかは」
「ロードノ判断ニ従ウ」
いつも通り。
最後は、余が決める。
◇
《セリア》
「はい」
《弟のもとへ戻るまで、どれほどかかる》
「馬で急げば」
「日が沈む前には」
《今すぐ戻れば、間に合うのだな》
「……おそらく」
医師は。
今夜。
長くても明け方までと言った。
余の持つエリラの実を、一個。
人間へ渡す。
それが。
今後、どれほどの人間を呼ぶか。
考えなければならない。
ノエルが助かれば。
果実が本物だと証明される。
公爵家は。
秘密を守るかもしれない。
守らないかもしれない。
他の貴族へ漏れるかもしれない。
軍より厄介な者たちが来るかもしれない。
「条件をつける」
余は言った。
フィルエが顔を上げる。
ガルザヴェインも。
カゲツも。
声を出さずに聞く。
《セリア・ヴァレスト》
「はい!」
《まだ、助けるとは決めていない》
セリアの表情が硬くなる。
《まず》
余は告げる。
《お前だけを、迷宮内へ入れる》
セリアの目が見開かれた。
「中へ……」
《武器はない》
「はい」
《木箱と本は、その場へ置け》
「ですが、代価として」
《中へ持ち込ませない》
呪いも。
罠も確認されていない。
それでも。
深部へ、人間の持ち物を入れる気はない。
《本はこちらで受け取る》
「分かりました」
《お前は、こちらが用意する道だけを歩け》
「はい」
《立ち止まるな》
「はい」
《勝手に何かへ触れるな》
「はい」
《道から外れた場合》
一拍。
《殺す》
セリアの顔が青ざめた。
だが。
「承知しました」
と答えた。
《さらに》
「はい」
《弟の病状を、余の前で説明しろ》
「医師の記録なら」
《遺留品から読んだ》
セリアの瞳が揺れる。
ベルガたちの持ち物が。
この迷宮に残っている。
改めて。
全員が死んだという事実を突きつけられたのだろう。
《記録では分からないことを聞く》
「私が知ることなら、全て答えます」
《嘘をついた場合》
「分かっています」
《本当に分かっているのか》
「はい」
セリアは。
涙を拭い。
白い霧を真っ直ぐ見た。
「弟を助けていただける可能性があるなら」
「私は、全てお話しします」
◇
「管理音声」
《はい》
「セリア専用の隔離路を形成」
《既存の深部隔離路を転用可能》
「生活区画も」
「軍用区画も」
「命の苗床も見せるな」
《承知しました》
「通過地点は」
余は迷宮図を見る。
外縁。
空の白い部屋。
交渉用隔離室。
そこまで。
軍は見せない。
万蝕酸界も。
ウルグも。
見せる必要はない。
「ガルザヴェイン」
「ウン」
「覇牙軍団は、姿を隠したまま隔離路の外側を囲め」
「承知」
「カゲツ」
「ロード」
「百骸騎士団は、交渉室の外で待機」
「承知」
「異常があれば」
「即時封鎖」
「ああ」
「フィルエ」
「うん」
「お前は苗床から動くな」
「私も話を聞きたい」
「白い部屋から聞け」
「分かった」
前回。
フィルエを人間の前へ出した。
結果。
傷つけられた。
同じことはしない。
相手が一人でも。
武器を持っていなくても。
警戒は崩さない。
「マネ」
「ロード」
「余の声だけを、セリアへ届けろ」
「ウン」
「他の声は出すな」
「ワカッタ」
全ての準備が整う。
◇
《立て》
霧の向こうへ命じる。
セリアは、両手を地面へつき。
震える脚で立ち上がった。
長く膝をついていたため。
一度、体が揺れる。
それでも倒れない。
《木箱を置け》
「はい」
植物大典を箱へ戻し。
蓋を閉める。
白布の中央へ置く。
《三歩下がれ》
セリアが下がる。
白い霧の中から。
白磁の細い腕が伸びた。
人間の腕ではない。
骨でもない。
迷宮そのものが作った、白い運搬具。
木箱を掴み。
霧の中へ引き込む。
セリアは追わない。
命じられた場所で待っている。
《解析》
《再確認します》
《呪詛反応、無シ》
《発信術式、無シ》
《位置追跡術式、無シ》
《危険物、確認出来ズ》
「フィルエへ直接渡すな」
《一時保管区画へ移送します》
「よし」
白い霧の一部が。
縦に裂ける。
人一人が通れるほどの幅。
その向こうには。
何もない白い通路が伸びていた。
セリアが。
息を呑む。
《入れ》
彼女は。
すぐには動かなかった。
怖いのだ。
一度入れば。
戻れる保証はない。
二百六十三人が。
一人も戻らなかった場所。
「……失礼します」
誰に対してか。
小さく頭を下げ。
一歩。
白い霧の中へ入る。
《止まるな》
「はい」
二歩目。
三歩目。
背後で。
白い霧が閉じる。
森が見えなくなった。
セリアの呼吸が大きく乱れる。
だが。
走らない。
引き返そうともしない。
余の示した白い道だけを。
一歩ずつ。
前へ進んでいく。
帰らぬ二百六十三人の代わりに来た女は。
ついに。
白い迷宮の中へ足を踏み入れた。




