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第240話 白い迷宮は、二百六十三人を一人も返さない

 白陽砲はくようほうの砲身へ、清められた光が集まっていく。


 白い。


 ただ明るいのではない。


 骨を焼き。


 呪いを消し。


 死者を、この世に残った痕跡ごと消す光。


 砲身の周囲では、十二人の魔術兵が杖を構えていた。


 さらに八人の神官兵が祈りを重ねる。


 工兵たちは地面へ固定杭を打ち込み、砲身が反動でずれないように鎖で縛っている。


充填じゅうてん、七十!」


「術式、安定!」


「百骸城陣の中央へ照準!」


 ベルガ・ハインズは、白い霧の向こうに立つ骨の城壁を見ていた。


 冥月百骸騎士団。


 何度砕いても、残った骨を組み直して立ち上がる死者の軍。


 その中央には、冥月骸将めいげつがいしょうカゲツがいる。


「一撃で消す」


 ベルガは言った。


「骨を一片も残すな」


「充填、八十!」


 砲身の白い光が強くなる。


 白い通路の壁が、熱だけで焦げ始めた。


 人間側の兵たちは、砲撃線から左右へ離れていく。


 その顔には、勝利への期待が浮かんでいた。


 骨が残るから戻る。


 なら、骨を残さなければいい。


 正しい考えだ。


 普通のアンデッド軍なら。


「カゲツ」


 余は呼んだ。


「ロード」


「受けるな」


 カゲツの兜の奥で、青い光が揺れた。


「先ホドハ、退カヌト」


「一歩も退くな。だが、真正面から消し飛ばされろとは言っていない」


 白陽砲の光は、さらに増している。


 あれを百骸城陣だけで受ければ。


 カゲツは残っても、騎士団の多くが完全に消える。


「城を変えろ」


「形ヲ?」


「ああ」


 余は、第二防衛線の天井を見た。


 白陽砲の正面。


 城壁の真上。


 そこには、戦闘前に作っておいた空の区画がある。


 何も置いていない。


 配下もいない。


 ただ、強い攻撃を逃がすためだけの空洞。


「正面から上へ流せ」


 カゲツの青い目が強く光った。


「承知」


    ◇


「充填、九十五!」


 ベルガが剣を上げる。


「全隊、衝撃に備えろ!」


 盾兵が盾を床へつく。


 魔術兵が防壁を張る。


 工兵が耳を塞ぐ。


「充填、完了!」


「撃て!」


 白陽砲が吠えた。


 白い光の柱が、狭い通路を埋め尽くす。


 霧が消える。


 床が焼ける。


 壁の表面が溶ける。


 死者を許さない白い太陽が、百骸城陣へ突き進んだ。


冥月軍令めいげつぐんれい


 カゲツが大剣を掲げる。


転城てんじょう


 骨の城壁が、一瞬で形を変えた。


 盾騎士が左右へ分かれる。


 槍騎士が長槍を斜めに組む。


 剣騎士は自分の鎧と骨を、その上へ重ねた。


 真正面を塞いでいた壁が。


 巨大な、斜め上を向く骨の坂へ変わる。


 さらに。


冥月蝕光めいげつしょっこう


 カゲツの背後に浮かぶ青黒い月が、盾の表面へ広がった。


 白陽砲がぶつかる。


 世界から、音が消えた。


 白。


 青黒。


 二つの光が、骨の坂の上で押し合う。


「消し飛べ!」


 人間側の魔術兵が、さらに力を注ぐ。


 白陽砲が太くなる。


 盾騎士の腕が砕けた。


 槍騎士の長槍が、白い光の中で崩れる。


 青黒い月にも、何本もの亀裂が走った。


「カゲツ!」


「未ダ」


 カゲツは大剣を下げない。


「我ガ軍ハ」


 百の骨が軋む。


「壁デハナイ」


 白い光が。


 少しずつ。


 斜め上へ曲がり始める。


「道デアル」


 白陽砲の光が、骨の坂を滑った。


 真正面へ進まず。


 天井へ。


 余が開いた空洞へ。


 白い光の柱が、第二防衛線の天井を貫いた。


 空の区画が白熱する。


 壁が崩れる。


 何もない空間だけが、白い太陽に焼き払われた。


 百骸城陣は。


 残っていた。


《白陽砲、直撃回避》


《百骸騎士団、損傷》


《完全消失、三体》


《重損傷、二十二体》


「三体……」


 カゲツが低く呟く。


「だが、九十体は残った」


「承知」


 白陽砲の光が消える。


 人間側の兵たちは、白い煙の向こうを見た。


 骨の城壁が。


 まだ立っている。


「嘘だろ……」


「白陽砲だぞ」


「アンデッドが、なぜ消えていない!」


 ベルガだけは、驚きながらも砲撃の跡を見ていた。


 天井へ抜けた白い穴。


 斜めに組み替えられた骨。


「流された……」


 彼は気づいた。


「砲撃を上へ逃がされた!」


「再充填を!」


 工兵が叫ぶ。


「次は角度を変えます!」


「間に合わん」


 ベルガが答えるより早く。


 白い壁の中から。


 百を超える足音が響いた。


    ◇


「ガルザヴェイン」


「ウン」


「白陽砲を壊せ」


「覇牙軍団」


 魔神覇王の金色の目が、軍を見渡す。


牙囲がい


 壁。


 天井。


 床の近く。


 新しく作った小型軍用路が、砲兵隊の周囲で一斉に開いた。


「ギャアアアアッ!」


 覇牙刃兵、三十体。


 覇牙弓兵、二十体。


 覇牙槍兵、二十体。


 術兵、十体。


 砲兵隊の真正面ではない。


 左右と後ろ。


 白陽砲を守る盾列の内側へ、直接飛び出した。


「敵だ!」


「砲を守れ!」


「近すぎる! 撃てない!」


 白陽砲は強い。


 だが、巨大だ。


 砲身を動かすだけでも時間がかかる。


 懐へ入られれば。


 ただの大きな金属の塊だった。


 覇牙弓兵の矢が、魔術兵へ降る。


 喉。


 腕。


 杖を持つ手。


 魔術兵たちが倒れる。


 覇牙刃兵は、砲身を固定する術式線を切る。


 工兵が工具で殴りかかる。


 だが、覇牙槍兵の長槍が、盾の隙間から胸へ入った。


「ぐあっ!」


《侵入者一名、死亡》


《侵入者三名、死亡》


《侵入者五名、死亡》


「砲身を捨てろ!」


 ベルガが叫ぶ。


「退け!」


 しかし。


 覇牙術兵が、灰色の魔力を砲身の根元へ集中させた。


 熱ではない。


 重さ。


 白陽砲の片側だけを、急激に重くする。


 固定杭が抜ける。


 砲身が横へ倒れた。


「離れろ!」


 間に合わない。


 巨大な砲身が、人間側の兵十数名をまとめて押し潰した。


 鎧がひしゃげる。


 骨が折れる。


 白陽砲の内部へ残っていた光が暴発した。


 小さな白い爆発。


 砲兵隊が、光と鉄片へ呑まれる。


《白陽砲、破壊》


《侵入者、二十八名死亡》


 たった一度の砲撃。


 それが。


 人間側に許された、最後の大きな一撃だった。


    ◇


「全隊、円陣!」


 ベルガの声が、混乱する兵たちを止めた。


「盾を外! 負傷者を中央!」


 白陽砲を失った。


 砲兵隊も壊滅。


 それでも、ベルガは軍を崩さない。


 百を超える兵が、すぐに円陣を作る。


 外側に盾。


 その隙間へ槍。


 内側に弓と魔術兵。


「東側、ゴブリン!」


「西側、骨の城壁!」


「後方の道は!」


「消えています!」


 ベルガが振り返る。


 通ってきたはずの白い道。


 そこには今。


 壁がある。


 目印の魔力糸も、壁の中へ飲み込まれていた。


「迷宮が道を変えた」


「入口はどこです!」


「分からん!」


 余は、白い部屋で静かに答えた。


「もうない」


 少なくとも。


 こいつらが生きている間は。


「入口を閉鎖」


《完了》


「退避中の重傷者も含め、一人も外へ出すな」


《承知》


 ベルガたちは、公子を救うために来た。


 その思いが嘘だとは思わない。


 だが。


 余の芽を掘り。


 根を持ち帰り。


 残る実まで奪うつもりだった。


「余にも、守るものがある」


 だから。


 一人も帰さない。


    ◇


「カゲツ」


「ロード」


「前へ出ろ」


 青黒い月が。


 骨の軍の上へ広がった。


「百骸騎士団」


 カゲツが大剣を、人間軍へ向ける。


「進軍」


 先ほどまで一歩も退かなかった骸の壁が。


 今度は。


 一歩ずつ前へ進み始めた。


 盾を重ねたまま。


 槍を揃えたまま。


 百体で一つの城となったまま。


 重い足音。


 骨。


 骨。


 骨。


 人間側の円陣へ、死の城が迫る。


「魔術兵、撃て!」


 残った魔術が放たれる。


 炎。


 雷。


 光。


 骨の城へ突き刺さる。


 盾騎士が砕ける。


 槍騎士の腕が落ちる。


 だが。


「骸兵再陣」


 落ちた骨が。


 後ろへ戻る。


 別の骨と繋がる。


 再び盾となる。


 再び腕となる。


 人間側が一体を壊す間に。


 カゲツは二体を戻した。


「聖灰を!」


「もう残りが少ない!」


「全部使え!」


 清められた灰が、骨の城へ投げられる。


 カゲツは、それを見た。


「術騎士」


 青い骨杖が上がる。


冥風めいふう


 冷たい風が、城壁の隙間から噴き出した。


 聖灰は骨へ届かない。


 人間側へ押し戻される。


「目を閉じろ!」


「吸うな!」


 白い灰が、円陣の中へ降る。


 兵たちの視界が塞がる。


「ガルザヴェイン」


「ウン」


「今だ」


「覇牙軍団」


 魔神覇王が拳を上げた。


「進軍」


 人間側の背後。


 左右。


 小さな軍用路から、覇牙軍団が一斉に出る。


 もう、隠れて切るだけではない。


 正面から。


 百を超えるゴブリンが、軍として突撃した。


「ギャアアアアアアッ!」


    ◇


 骸の壁。


 覇牙軍団。


 人間側は、前後から同時に押された。


「盾を分けろ!」


 ベルガが命じる。


「前方五十! 後方五十!」


 円陣が二つへ分かれる。


 だが。


 分けた瞬間。


 カゲツの青い月が輝いた。


死路封陣しろふうじん


 人間軍の左右から、骨槍が地面を破って立ち上がる。


 通路を狭くする。


 二つに分かれた人間軍の間へ、骨の柵が生える。


「隊が分断された!」


「ベルガ隊長!」


「こちらへ戻れ!」


 戻れない。


 骨の柵。


 白い壁。


 グズの黒泥。


 それらが、人間軍を七つの集団へ切り分けていく。


 五十人。


 三十人。


 二十人。


 十数人。


 大軍ではなく。


 小さな群れへ。


「一つずつ喰え」


 余が命じた。


    ◇


 第一の集団。


 三十二名。


 覇牙盾兵が正面を押さえる。


 天井から弓兵。


 左右から刃兵。


 人間の槍兵が突きを放つ。


 覇牙盾兵が受ける。


 槍の隙間へ、霧喰い刃ゴブリンが潜る。


 古参の小さな配下たち。


 覇牙軍団へ霧の歩き方を教えた者たち。


 今は。


 新しい刃兵と並んで走っている。


「ギギッ!」


「ギャッ!」


 小さな刃と大きな刃が、同時に人間兵の膝裏へ入る。


 盾が落ちる。


 覇牙槍兵の槍が、胸へ突き刺さる。


《侵入者、三十二名全滅》


 第二の集団。


 二十七名。


 グズの泥が足を止める。


 ハイハネの霧が声の方向を変える。


 マネがベルガの声を真似た。


「盾を捨てろ!」


「偽声だ!」


「剣へ持ち替えろ!」


「違う!」


「後ろから来るぞ!」


「どれが本物だ!」


 混乱した一瞬。


 百骸弓騎士の骨矢が降る。


 目。


 首。


 鎧の隙間。


 倒れた者へ、百骸剣騎士が無言で刃を振り下ろした。


《侵入者、二十七名全滅》


 第三の集団。


 四十一名。


 魔術兵を多く含んでいた。


「炎の壁を作れ!」


 燃える壁が、覇牙軍団を止める。


 だが。


 カゲツが大剣を横へ振った。


冥月斬めいげつざん


 青黒い月の刃が、炎の壁ごと術式を切る。


 消えた炎の向こうから。


 覇牙軍団が飛び込んだ。


《侵入者、四十一名全滅》


 第四。


 第五。


 第六。


 大軍だった人間たちが。


 一つずつ。


 消えていく。


    ◇


「ロード」


 ルオの声が届いた。


『もう行かなくていいか?』


「ああ」


 余は、迷宮図を見た。


 人間側の反応が。


 次々と消えている。


「来なくていい」


『勝ってるんだな』


「ああ」


『圧倒してる?』


 余は。


 少しだけ間を置いた。


「圧倒している」


 ルオが、声の向こうで笑った。


『ちゃんと軍になったな』


「ああ」


 今度は。


 奇跡を待っていない。


 ガルザヴェイン一人へ、全てを背負わせていない。


 フィルエが飛び出す必要もない。


 ルオが駆けつけなければ終わる戦いでもない。


 余の軍が。


 余の迷宮を守っている。


    ◇


 ベルガの周囲に残っていたのは、四十六名。


 副隊長。


 年老いた薬師。


 盾兵。


 槍兵。


 魔術兵。


 治療兵。


 残った中では、最も強い者たち。


「隊長」


 副隊長が、血に濡れた盾を構える。


「このままでは」


「分かっている」


「撤退路は」


「ない」


 ベルガは、静かに答えた。


 怒鳴らない。


 誰かを責めない。


 白陽砲を失った。


 軍を分断された。


 兵が次々と殺されている。


 それでも。


 指揮官の顔を崩さなかった。


「公子を……」


 年老いた薬師が呟く。


「助けられない」


 ベルガの拳が、剣の柄を強く握った。


「まだだ」


「ですが」


「まだ、奥への道がある」


 彼の前。


 白い壁が、ゆっくり開いた。


 余が開いた。


 細い道。


 人間が数人ずつ通れる幅。


 その奥から。


 微かな甘い香りが流れてくる。


「……果実」


 薬師が顔を上げる。


「この奥です」


「隊長!」


「罠です!」


 副隊長が叫ぶ。


 当然だ。


 今まで閉じていた道が。


 都合よく開くはずがない。


 ベルガも分かっている。


 それでも。


 公子に残された時間はない。


 後ろには、覇牙軍団と百骸騎士団。


 前には、甘い香り。


「進む」


 ベルガは言った。


「隊長!」


「ここで死ぬか」


 細い道を見る。


「奥で死ぬかだ」


 そして。


 四十六人は。


 余が開いた道へ入った。


    ◇


「ロード」


 フィルエが、完全退避室から呼ぶ。


「何だ」


「どこへ連れていくの?」


「万蝕酸界」


 フィルエが息を呑む。


「ウルグのところ?」


「ああ」


「全員?」


「ああ」


 もう。


 芽の場所へは届かせない。


 万蝕酸界を越えた先の扉は、開かない。


 ウルグだけが待っている。


    ◇


 ベルガたちは、透明な部屋へ入った。


 床。


 壁。


 天井。


 白く澄んでいる。


 何もいない。


 罠も見えない。


 甘い香りは。


 さらに奥から漂ってくる。


「止まれ」


 ベルガが命じた。


「床を調べろ」


 工兵は、もうほとんど残っていない。


 副隊長が、折れた槍を床へ突いた。


 槍先が。


 消えた。


「……何だ?」


 槍を引く。


 先端がない。


 溶けている。


「酸だ!」


 薬師が叫ぶ。


「床全体が酸です!」


 透明な床が。


 ぷるん。


 小さく揺れた。


「床ではない」


 ベルガが気づいた。


「魔物だ」


「うるぐ」


 部屋全体から。


 小さな声のような泡が鳴った。


 蝕界しょっかいのウルグ。


 万蝕酸界ばんしょくさんかい


 透明な床。


 透明な壁の下部。


 天井から落ちる滴。


 全てが。


 一体のスライム。


「魔法が効く!」


 薬師が叫ぶ。


「物理攻撃はするな! 酸が飛び散る!」


「魔術兵!」


 残った六人の魔術兵が前へ出る。


「氷結!」


 青い冷気が、透明な床へ放たれる。


 ウルグの表面が凍る。


「効いた!」


 兵たちの顔に、希望が浮かぶ。


 だが。


 凍ったのは。


 表面の薄い一層だけ。


 その下。


 透明な酸が動く。


 氷の内側から。


 じゅううううっ。


 氷が溶けた。


 ウルグの一部となって消える。


「さらに撃て!」


「炎!」


「雷!」


「光!」


 魔法が降る。


 ウルグの体が蒸発する。


 へこむ。


 揺れる。


 確かに効いている。


 だが。


 部屋全体が本体だ。


 一部を削った程度では。


 足場は生まれない。


「魔力防壁を足へ集中しろ!」


 ベルガが叫ぶ。


「全員で走る!」


 兵たちが、足元へ魔力を集める。


 盾兵。


 槍兵。


 薬師。


 それぞれが、自分の魔力で酸を押し返そうとする。


「行け!」


 最初の一人が、ウルグへ足を乗せた。


 靴が溶ける。


 魔力の膜が消える。


 足の皮膚が。


 肉が。


 骨が。


 一歩も進まないまま消えた。


「ぎゃああああああっ!」


 男が倒れる。


 両手を床へつく。


 腕まで溶ける。


 胸。


 顔。


 叫び声ごと、透明な酸の中へ沈んだ。


「下がれ!」


 遅い。


 ウルグの床が、波打った。


 透明な酸の波が、四十六人へ押し寄せる。


「魔力壁!」


 六人の魔術兵が、全員で壁を作る。


 酸の波がぶつかる。


 じゅううううううっ。


 魔力壁が溶ける。


「魔力まで……!」


「ウルグは、弱い魔力も喰う」


 余は言った。


 もちろん。


 人間たちには届かない。


 魔力壁が破れる。


 酸の波が、人間軍へ入った。


    ◇


 盾が消えた。


 鎧が消えた。


 槍も。


 剣も。


 人間の体と区別なく溶けていく。


「助けて!」


「腕が!」


「顔が溶ける!」


「治療を!」


「触れないで! 酸が移る!」


 薬師が叫ぶ。


 だが、逃げる床がない。


 壁へ手をつけば。


 壁の下部もウルグ。


 天井から落ちる透明な滴が、兵の肩へ触れる。


 一滴。


 それだけで鎧へ穴が開く。


 皮膚へ届く。


 男が肩を押さえる。


 押さえた手まで溶け始める。


「いやだ!」


「公子を……!」


「帰りたい!」


「ベルガ隊長!」


 人間軍の叫びが。


 一つずつ。


 酸の中へ消えていく。


《侵入者、十二名死亡》


《侵入者、二十一名死亡》


《侵入者、三十七名死亡》


 残ったのは。


 ベルガ。


 副隊長。


 年老いた薬師。


 そして、最後の魔術兵二人。


 五人だけ。


 全員の魔力を重ね。


 足元へ厚い防壁を作っている。


 それでも。


 靴底から煙が上がっていた。


「進め……!」


 ベルガが叫ぶ。


「あと少しだ!」


 部屋の向こう。


 閉じた白い扉。


 その先に。


 赤金の香りがある。


 だが。


 扉は開かない。


 開けるつもりもない。


「公子が……待っている……!」


 副隊長の防壁が切れた。


 右脚が溶ける。


 倒れた。


「隊長、行ってください!」


 残る魔力を、ベルガへ送る。


「お前も――」


「行け!」


 副隊長の体が。


 酸へ沈んだ。


 年老いた薬師も、持っていた薬瓶を全て投げた。


「中和薬!」


 透明な液体が、ウルグへ広がる。


 一瞬だけ。


 酸の動きが鈍る。


「今です!」


 ベルガが走る。


 だが。


 ウルグが。


 部屋全体を持ち上げるように盛り上がった。


酸界拡張さんかいかくちょう


 透明な壁。


 透明な天井。


 透明な波。


 三方向から。


 最後の五人を包む。


 魔術兵が消える。


 薬師が消える。


 ベルガの魔力防壁だけが、最後まで残った。


「ぐ……!」


 鎧が溶ける。


 剣も半分になる。


 皮膚から煙が上がる。


 それでも、扉へ手を伸ばす。


「ノエル……公子……」


 余は。


 白い部屋から、その男を見ていた。


 ベルガは、悪人ではないのだろう。


 部下を捨てなかった。


 死者へ謝った。


 傷ついた者を帰そうとした。


 一人の公子を救うため。


 二百六十三人を率いて、ここまで来た。


 だが。


「お前が守りたいもののために」


 余は静かに言った。


「余の守るものを奪わせるわけにはいかない」


 ベルガの魔力防壁へ、ウルグの酸が染み込む。


 亀裂。


 光が消える。


「……届かなかった、か」


 最後の言葉。


 透明な酸が。


 ベルガ・ハインズの体を包んだ。


 鎧。


 剣。


 肉。


 骨。


 全てが。


 跡形もなく溶けた。


《指揮官ベルガ・ハインズ、死亡》


《侵入者残存数:ゼロ》


    ◇


 白い迷宮が。


 静かになった。


 人間の声はない。


 足音も。


 祈りも。


 白陽砲の光も。


 残っているのは。


 覇牙軍団の荒い呼吸。


 百骸騎士団の骨が鳴る音。


 そして。


 万蝕酸界で、透明な床が静かに揺れる音だけ。


《ヴァレスト公爵家私兵および同行者》


《侵入者総数:二百六十三名》


《全員死亡》


《生存者:ゼロ》


《逃走者:ゼロ》


《今回総獲得ソウル:3,284,000》


 濃いソウルが。


 迷宮核へ流れ込んでくる。


 二百六十三人分。


 軍として鍛えられた者たち。


 公子を救うという願いを持った者たち。


 その全てを。


 余の迷宮が喰った。


    ◇


「ガルザヴェイン」


「ロード」


「終わった」


「ウン」


 ガルザヴェインは、亡くなった覇牙軍団の仲間たちを見ている。


「七体」


 第一戦。


 第二戦。


 合わせて。


 覇牙軍団の死者は七体。


 重傷者は多い。


 だが、百体以上が生きている。


「オボエル」


「ああ」


「ナマエ、ツケル」


「ああ。全員だ」


 カゲツも。


 完全に消えた百骸騎士団の十体が立っていた場所へ、大剣を向けた。


「我ガ騎士」


「戻せなかったな」


「骨、残ラズ」


「だが、忘れない」


「承知」


「お前たちは、一歩も退かなかった」


 カゲツの兜の奥で。


 青い光が静かに揺れた。


「任務、完遂」


「ああ」


    ◇


「ルオ」


 声の道へ呼びかける。


『何だ、ロード』


「終わった」


『勝った?』


「ああ」


『何人逃げた?』


「一人もいない」


 向こうで。


 短い沈黙があった。


『……すげえな』


「余の軍だ」


『うん』


「もう、お前が偶然来るのを待つだけの迷宮ではない」


『分かってる』


 ルオが少し笑う。


『でも、危なくなったら呼べよ』


「ああ」


『意地張るなよ』


「お前に言われたくない!」


 声の向こうで。


 いつもの笑いが返る。


    ◇


 完全退避室を開く。


 フィルエが最初に出てきた。


「終わった?」


「ああ」


「皆は?」


「死者は出た」


 フィルエの表情が沈む。


「だが、軍は残った」


 覇牙軍団。


 百骸騎士団。


 グズ。


 ハイハネ。


 カゲヌイ。


 マネ。


 皆。


 傷つきながらも戻ってくる。


 赤金果守ゴブリンたちも、実の保存箱を抱えて出てきた。


「芽は?」


《生命反応、安定》


「よかった」


 フィルエは、命の苗床へ向かった。


 白晶足場を通り。


 万蝕酸界の向こうへ。


 ウルグは、許可された足場を溶かさない。


「うるぐ」


 透明な床全体から、声がする。


「守ってくれてありがとう」


 フィルエが言う。


 ウルグが。


 ぷるん。


 大きく揺れた。


    ◇


 エリラの芽は。


 赤金色の葉を広げていた。


 何も知らないように。


 戦いの間も。


 土の中で根を伸ばしていた。


 フィルエが、その前へ座る。


 ガルザヴェイン。


 カゲツ。


 傷ついた軍団も、少し離れた場所から芽を見る。


「守った」


 余は言った。


 前回は。


 道を開け。


 木を失った。


 フィルエを傷つけられ。


 ガルザヴェインを倒され。


 最後にはルオの力へ頼った。


 今回は違う。


 最初から。


 非戦闘員を下げた。


 軍を動かした。


 将が率いた。


 傷ついた者を戻した。


 敵を一人も、芽の前へ立たせなかった。


「今度は」


 フィルエが、芽へ触れないように手を添える。


「ちゃんと守れたね」


「ああ」


 余は答えた。


「今度は、余たちだけで守った」


 二百六十三人の願いは。


 白い迷宮へ届かなかった。


 願いがあるからといって。


 他者の守るものを奪う権利にはならない。


 白い迷宮は。


 二百二十一の新たな牙で。


 二百六十三人を。


 一人も外へ返さなかった。

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