第236話 白い迷宮は、二百二十一の新たな牙を得る
エリラの芽が白い土を破ってから、八日目。
ルオ・ゼルファニアは、霧灰白庭迷宮の中を歩いていた。
今日は果物を食べに来ただけではない。
フィルエから、
「芽の近くでは走らない」
「ガルザヴェインと組み手しない」
「触る前に聞く」
と三度も念を押されたため、本当にゆっくり歩いている。
非常に珍しい。
だが、その代わり。
ルオは普段よりも長く、迷宮の中を見ていた。
浅層。
白灰薬果林。
グズの黒泥城。
ハイハネの霧。
カゲヌイの影。
湿骨王列。
傷から回復しつつある霧喰い刃ゴブリンたち。
そして、覇王練兵窟で歩行訓練をしているガルザヴェイン。
ルオは一通り見た後、妙な顔をした。
「ロード」
「何だ」
「前から思ってたんだけどさ」
「嫌な言い方だな」
「ここ、魔物少なくない?」
白い部屋が静まり返った。
「……少ない?」
「うん」
ルオは周囲を見回す。
「一体一体は強いぞ」
「当然だ」
「ガルザヴェインはすげー強い」
「当然だ」
「グズも便利だし、ハイハネとカゲヌイも面倒だし、骨の奴らも数えづらい」
「褒めているのか?」
「褒めてる」
ルオは少し考えてから続けた。
「でも、数が少ない」
「他と比べてか」
「うん」
「お前、他の迷宮へも入ったことがあるのか」
「散歩してたら、たまに入る」
「迷宮を何だと思っている!」
「洞窟より面白い場所」
「お前の基準は聞いていない!」
ルオは気にせず話を続ける。
「オレが見た大きい迷宮は、もっと魔物がいたぞ」
「どれほどだ」
「何百。多いところだと、もっと」
「何百……」
「強い奴が前で戦っても、後ろから次の群れが出てきた」
ルオは、覇王練兵窟の方を見る。
「ここは、ガルザヴェインが倒れたら急に苦しくなる」
その言葉に。
余は何も返せなかった。
黒冠軍戦。
三十五人との連戦。
赫月の晩餐。
全て、そうだった。
ガルザヴェインは強い。
グズたちも、成長している。
だが、一度大きな戦いをすれば、次に出せる戦力がない。
傷ついた配下を休ませる間、迷宮全体が無防備に近くなる。
赫月の晩餐は、そこを狙った。
三十五人を先に入れ。
こちらが疲弊した直後に侵入した。
結果。
余は配下を守るため、道を開けるしかなかった。
「管理音声」
《はい》
「現在の戦力数を確認しろ」
《戦闘可能配下を集計します》
壁面に、現在の戦力が表示される。
個体として数えられる戦闘配下。
軍列として動かせる骨兵。
負傷中のゴブリン。
霧、影、泥の特殊個体。
数え方の違いはある。
だが。
《常時運用可能な戦闘個体数は、同格迷宮の平均を大きく下回っています》
「……ルオの言う通りか」
《はい》
「ほらな」
ルオが少し得意そうに胸を張る。
「なぜお前が偉そうなのだ」
「気づいたから」
フィルエが、エリラの芽の前から言った。
「ロード」
「何だ」
「増やす?」
余は、白い迷宮全体を見た。
強い個体だけでは足りない。
罠だけでも足りない。
戦える者。
交代できる者。
傷ついた仲間を下げ、その間を埋める者。
軍が必要だ。
「増やす」
余は決めた。
「今度は、百や二百では足りないとは言わせん」
◇
白い部屋へ、ダンジョン新聞を呼び出した。
「購入欄を開け」
《ダンジョン新聞・迷宮取引欄を表示します》
黒い紙面が広がる。
罠。
魔物。
区画。
進化素材。
軍団一括購入。
通常なら一体ずつ選ぶ。
だが、今欲しいのは個ではない。
数。
そして、最初から軍として動ける兵。
「ゴブリン軍団を探せ」
《検索します》
紙面が切り替わった。
⸻
《軍団一括商品》
商品名:
覇牙強兵ゴブリン軍団
内容:
強制強化済みゴブリン百二十体。
全個体へ基礎身体強化、恐怖耐性、軍列理解、命令共有能力を付与済み。
構成:
・覇牙盾兵 二十体。
・覇牙槍兵 三十体。
・覇牙刃兵 三十体。
・覇牙弓兵 二十体。
・覇牙術兵 十体。
・覇牙小隊長 十体。
指揮官:
購入者側で指定。
価格:
4,800,000ソウル。
注意:
個体ごとの自我あり。
食料、寝床、訓練区画が必要。
一括返品不可。
⸻
「百二十体」
最低百。
条件は満たしている。
しかも、強制強化済み。
ただ数だけを増やすのではない。
軍列を理解し。
命令を共有し。
ガルザヴェインの号令へ応じられる。
「指揮官は」
《指定してください》
「決まっている」
余は、覇王練兵窟へ声を送った。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「百二十体のゴブリンを、お前に預ける」
ガルザヴェインの足が止まった。
「ヒャクニジュウ」
「ああ」
「オレガ、ヒキイル?」
「そうだ」
ガルザヴェインは、しばらく黙った。
強敵と戦うと言われた時なら、すぐに目を輝かせただろう。
だが今度は違う。
百二十の命。
百二十体の仲間。
守り。
率い。
死なせないように動かす責任。
「ムズカシイ」
「ああ」
「デモ」
ガルザヴェインは、ゆっくり拳を握った。
「ヤル」
「よし」
《指揮官を魔神覇王ゴブリン・ガルザヴェインに設定》
《購入を承認しますか》
「承認だ」
《4,800,000ソウルを消費します》
◇
覇王練兵窟の床に、百二十の魔法陣が現れた。
一列ではない。
役割ごとに分けられた六つの軍列。
白い光が立ち上がる。
最初に現れたのは、二十体の盾兵。
通常のゴブリンより一回り大きい。
片腕に、体の半分を覆える黒い盾。
その後ろへ、長槍を持つ三十体。
短い刃を二本持つ三十体。
小型弓を背負った二十体。
骨杖と灰色の布を持つ術兵十体。
そして、胸に小さな牙印を刻んだ小隊長十体。
百二十体が、光の中から現れた。
誰も騒がない。
誰も勝手に走らない。
全員が整列したまま、中央に立つガルザヴェインを見る。
「……」
ガルザヴェインも、百二十体を見ていた。
自分と同じゴブリン。
だが、今までの小さな群れとは違う。
最初から兵として強化された者たち。
一体が、拳を胸へ当てた。
「ギャッ!」
百十九体も続く。
「ギャッ!」
声が重なり、覇王練兵窟を震わせた。
ガルザヴェインは、ゆっくり前へ出る。
「オレ、ガルザヴェイン」
百二十体が聞く。
「オマエラ、オレノ、ドレイ、チガウ」
余は、その言葉に少し驚いた。
「オマエラ、ロードノ、ナカマ」
ガルザヴェインの金色の目が、全軍を見る。
「オレモ、ナカマ」
一体の盾兵が、わずかに顔を上げた。
「タタカウ」
ガルザヴェインが拳を握る。
「デモ、ムダニ、シナナイ」
黒冠軍戦。
赫月の晩餐戦。
守れなかった仲間の記憶が、その声に乗っている。
「オレ、マモル」
百二十体へ向けて。
魔神覇王が、初めて軍へ命じた。
「オマエラモ、マモレ」
沈黙。
次の瞬間。
百二十体が、武器を床へ打ちつけた。
「ギャアアアアッ!」
盾。
槍。
刃。
弓。
杖。
その全てが一つの音になる。
《軍団登録》
《正式名称を指定してください》
「魔神覇王直属」
余は言った。
「覇牙軍団」
《登録しました》
⸻
魔神覇王直属・覇牙軍団。
総数:百二十体。
軍団長:ガルザヴェイン。
⸻
ガルザヴェインは、軍団の前に立った。
もう。
ただ一人で前へ出る覇王ではない。
百二十の牙を率いる王になった。
◇
「ロード」
フィルエが呼ぶ。
「何だ」
「前からいたゴブリンたち、大丈夫?」
その言葉で、余も気づいた。
霧喰い刃ゴブリンたち。
赤金果守ゴブリンたち。
以前から迷宮にいる、小さな配下。
突然現れた百二十体の強化兵を、少し離れた場所から見ている。
「自分たちはいらなくなる」
そう思った個体もいるかもしれない。
「全ゴブリンへ伝えろ」
マネが余の声を迷宮へ広げる。
「新しい兵は、お前たちの代わりではない」
小さな耳が動く。
「お前たちを守るために増やした」
霧喰い刃ゴブリンが顔を上げる。
「役割は消えない」
赤金果守ゴブリンたちも。
「新しい軍団が来ても、お前たちが余の配下であることは変わらない」
しばらくして。
霧喰い刃ゴブリンの一体が、覇牙軍団へ近づいた。
新しい刃兵が、その小さな個体を見る。
体格は違う。
装備も違う。
だが、同じゴブリン。
覇牙刃兵が拳を差し出した。
霧喰い刃ゴブリンも、小さな拳を当てる。
「ギッ」
「ギャッ」
それで十分だった。
◇
次は。
軍帰路喰らいの落武者。
一度、ゼルヴァンの黒冠隷命に呑まれ。
黒帰将へ変質し。
ガルザヴェインの覇王威令によって取り戻された存在。
現在は、深部の影で静かに立っている。
灰白の鎧。
長い刃。
以前より強くなってはいる。
だが、黒冠との融合で受けた傷は、まだ魂の奥に残っていた。
「落武者」
灰白の兜が、わずかに余へ向く。
「お前へ、新しい力を与える」
反応はない。
だが、聞いている。
「ただし」
余は、封印保存していた赤い欠片を表示した。
レオルド・ヴァンゼル。
SSランクへ覚醒した際に生まれた、人外核の残り。
強烈な怒り。
執念。
自分の弱さを許せなかった醜い感情。
そのまま使うつもりはない。
「管理音声」
《はい》
「人格も、執念も、全て消せ」
《完全浄化には480,000ソウルが必要です》
「承認する」
《480,000ソウルを消費》
赤い欠片が、白い炎に包まれる。
レオルドの声が聞こえた気がした。
俺は弱くない。
俺が正しい。
俺が上だ。
その残響が、一つずつ白い炎に焼かれる。
怒りが消える。
傲慢が消える。
執着が消える。
最後に残ったのは。
人間の限界を突破した魂格。
高密度の魔力。
赤い月の力。
ただ、それだけ。
《人外核残滓、浄化完了》
「人格反応は」
《検出されません》
「よし」
これなら使える。
レオルドは要らない。
あいつの力だけを。
余の配下の次へ繋げる。
「落武者へ融合した場合は」
《進化可能性あり》
《ただし、結果は完全には予測できません》
「危険度は」
《高》
「本人の意思は」
灰白の落武者が、一歩前へ出た。
長い刃を、床へ立てる。
兜の奥で、淡い光が灯った。
「……受ケル」
初めて。
はっきりした声を聞いた。
「喋れたのか」
「今、喋ッタ」
「そうだな」
自分でも驚いているらしい。
「本当に受けるのだな」
「軍ヲ」
落武者が、空の通路を見る。
「守ル、軍ヲ」
かつて。
帰れなかった軍の残響だった存在。
今度は。
帰る場所を守る軍を率いる。
「承認する」
《進化費用:1,800,000ソウル》
《実行しますか》
「実行だ」
◇
浄化された人外核残滓が、落武者の胸へ入った。
灰白の鎧が揺れる。
最初に広がったのは、赤い光だった。
だが。
レオルドの赤ではない。
血のような赤は、鎧の中で黒く沈む。
その上から、青白い死の光が重なった。
赤い月が。
死者を照らす、暗い月へ変わる。
落武者の鎧が大きくなる。
肩当て。
胸当て。
腰の外套。
全てが、古い将軍の鎧へ変わっていく。
長い刃も。
片刃の大剣へ姿を変えた。
背後に、青黒い月が浮かぶ。
《進化反応》
《軍帰路喰らいの落武者、進化》
《新規個体》
《冥月骸将》
鎧の将軍が、片膝をついた。
「ロード」
「名が必要だな」
余は、青黒い月を見る。
影。
死者。
それでも、夜を照らす月。
「カゲツ」
兜の奥の光が揺れる。
「お前の名は、カゲツだ」
「カゲツ」
一度、自分で繰り返す。
「拝命」
冥月骸将カゲツ。
新しい将軍が、白い迷宮に生まれた。
◇
「将軍だけでは、軍にならんな」
《百体規模のスケルトンナイト軍団を購入可能です》
「表示しろ」
⸻
《骸騎士軍団・一括召喚》
内容:
強化済みスケルトンナイト百体。
構成:
・盾騎士 二十体。
・槍騎士 三十体。
・剣騎士 三十体。
・弓騎士 十体。
・術騎士 十体。
指揮系統:
冥月骸将との接続可能。
特殊特性:
骨が残存する限り、指揮官の能力による再編成が可能。
価格:
3,500,000ソウル。
⸻
「購入だ」
《承認しますか》
「承認」
《3,500,000ソウルを消費》
深部の新しい骨兵区画に、百の青白い魔法陣が浮かぶ。
盾を持つ骨の騎士。
長槍を持つ騎士。
剣。
弓。
骨杖。
全員が、湿骨王列とは違う。
最初から個別の騎士として組まれている。
鎧には、青黒い月の紋。
百体が現れ。
一斉にカゲツへ向いて、片膝をついた。
カゲツは、大剣を掲げる。
「冥月軍令」
声を張らない。
それでも。
百体の頭蓋の奥へ、青い光が同時に灯った。
「立テ」
百体が、一つの音で立ち上がる。
盾。
槍。
剣。
弓。
杖。
隊列が一瞬で完成した。
《軍団名を指定してください》
「正式名は」
余は、百の骸骨騎士を見る。
「冥月百骸騎士団」
《登録しました》
「普段は、百骸騎士団と呼ぶ」
「承知」
カゲツが頭を下げる。
⸻
冥月骸将カゲツ直属。
冥月百骸騎士団。
総数:百体。
⸻
正面を受ける骨の軍。
通路を塞ぐ盾。
逃げ道を断つ槍。
砕かれても、骨を集めて再び陣へ戻す将軍。
覇牙軍団が動の軍なら。
百骸騎士団は、静かに敵を閉じ込める死の軍だった。
◇
ルオは、二つの軍を見て腕を組んだ。
「今度は多いな」
「誰の指摘だと思っている」
「オレ」
「得意そうにするな」
「でも、これなら連戦できる」
フィルエが聞く。
「ガルザヴェインとカゲツは、どっちが上?」
「役割が違う」
余は答えた。
「ガルザヴェインは、覇牙軍団を率いて前線を崩す」
「ウン」
「カゲツは、百骸騎士団で道を塞ぎ、敵を逃がさない」
「拝命」
「どちらが上という話ではない」
ルオは二人を見る。
「戦ったら?」
「戦わせるな!」
ガルザヴェインとカゲツが、互いを見た。
ほんの一瞬。
ガルザヴェインの目が光る。
カゲツの兜の奥も光る。
「考えるな!」
「カンガエテナイ」
「未思考」
「絶対に嘘だ!」
◇
軍は増えた。
百二十体。
百体。
合計二百二十体。
これだけでも十分なはずだった。
だが。
ダンジョン新聞の購入欄に、一つだけ妙な商品が残っていた。
黒い枠。
中身の説明が、ほとんどない。
⸻
《限定商品》
未知高位魔物・封印召喚
入手数:
一体。
危険度保証:
SランクからSSSランク。
種族:
購入後まで非公開。
属性:
非公開。
大きさ:
非公開。
性格:
非公開。
能力:
非公開。
返品:
不可。
再抽選:
不可。
価格:
8,000,000ソウル。
注意:
必ずしも購入者の希望する形状・役割・性質とは限りません。
⸻
「……怪しい」
《はい》
「何が出る」
《購入前には開示されません》
「最低でもSランク」
《はい》
「最高ならSSS」
《はい》
「ゴブリンかもしれない?」
《可能性があります》
「竜かもしれない?」
《可能性があります》
「虫かもしれない?」
《可能性があります》
「巨大な何かが出て、迷宮を壊す可能性は」
《否定できません》
「買うなよ、ロード」
ルオが言った。
「なぜだ」
「絶対、変なの出るぞ」
「お前に言われたくない!」
「オレは商品じゃないぞ!」
「変なのではある!」
フィルエが商品欄を見る。
「返品できない」
「ああ」
「性格も分からない」
「ああ」
「危ないかも」
「ああ」
「買うの?」
余は、現在の戦力を見た。
前線は増えた。
軍もできた。
だが。
命の苗床へ至る最後の一線。
ガルザヴェインも。
カゲツも。
軍団も。
全てを越えた敵が来た時。
最後に立つものが、まだ必要だ。
「買う」
「ロード」
「最低でもSランクだ」
ルオが嫌そうな顔をする。
「そういう賭け方する奴、だいたい外すぞ」
「余は迷宮の王だ!」
「関係ある?」
「ある!」
《購入を承認しますか》
一瞬。
本当に一瞬だけ迷った。
「承認だ!」
《8,000,000ソウルを消費します》
◇
白い部屋の中央に。
黒い箱が落ちてきた。
大きくない。
両手で抱えられる程度。
「小さいな」
ルオが覗き込む。
「巨大な竜ではなさそう」
「まだ中で縮んでいる可能性がある」
「箱から出した瞬間、大きくなるかも」
「怖いことを言うな!」
フィルエとガルザヴェイン。
カゲツ。
マネ。
グズ。
ハイハネ。
カゲヌイ。
赤金果守ゴブリンたち。
覇牙軍団。
百骸騎士団。
全員が、少し離れた場所から箱を見ている。
「開けるぞ」
黒い箱の留め金を外す。
蓋が。
ゆっくり開いた。
中から。
ぬるり。
透明に近い、暗い緑色の何かが出てきた。
「……」
拳ほどの大きさ。
丸い。
柔らかい。
床の上で、ぷるんと揺れる。
「スライム?」
ルオが言った。
余も見た。
どう見ても。
小さなスライムだった。
「これが?」
《解析を開始します》
「Sランク以上?」
《解析中》
スライムは、その場で一度だけ跳ねた。
ぽよん。
赤金果守ゴブリンたちが、少し安心したように近づこうとする。
「待て!」
余が止めた。
遅かった。
スライムの体から、一滴だけ床へ落ちる。
じゅううううううっ。
白磁の床が。
煙を上げて消えた。
「……え?」
深い穴が開く。
床だけではない。
その下の岩層まで。
何層も。
溶け続ける。
「全員、下がれええええっ!」
配下たちが一斉に後退した。
ガルザヴェインまで、思わず一歩下がる。
スライムは、何も知らないように揺れている。
ぷるん。
《解析完了》
《未登録高位魔物》
《種族仮称》
《万蝕酸界粘体》
《危険度》
《SSSランク候補》
白い部屋が静まり返った。
「……SSS?」
《候補です》
「これが?」
《はい》
小さなスライムが、また跳ねた。
床がさらに溶ける。
「止めろ! 動くな!」
スライムが止まった。
余の命令は聞くらしい。
購入契約によって、最低限の繋がりはある。
「能力を出せ」
⸻
《万蝕酸界粘体》
身体構成:
全身が超高濃度溶解酸。
物理攻撃:
無効。
斬撃、打撃、刺突による損傷なし。
物理攻撃を受けた場合、体液が飛散する危険あり。
魔法攻撃:
有効。
接触効果:
人間、魔物、武具、壁、床を問わず溶解。
例外:
接触対象の総魔力量が、当該個体を上回る場合。
対象自身の魔力によって酸が押し返され、溶解は発生しない。
⸻
「魔力量が、こいつより上なら溶けない」
《はい》
「こいつの魔力量は」
《極めて高いです》
「具体的に」
《現在のガルザヴェインを上回ります》
ガルザヴェインが、スライムを見る。
「オレヨリ」
《はい》
「サワル」
「やめろ!」
ガルザヴェインが指先を、ほんの少しだけスライムへ近づけた。
触れた。
じゅっ。
黒い皮膚から煙が上がる。
「熱ッ!」
「馬鹿者!」
ガルザヴェインが急いで手を引く。
フィルエが、エリラの実を持って駆け寄った。
「触らない!」
「スコシ、ダッタ」
「少しでも駄目!」
スライムは、悪びれずに揺れている。
ルオがしゃがみ込んだ。
「じゃあ、オレなら?」
「触るな!」
「魔力量、こいつより多いぞ」
「本当か」
《比較します》
《ルオ・ゼルファニアの総魔力量が上回っています》
「ほら」
ルオは、ゆっくり指を伸ばした。
透明なスライムの表面へ触れる。
煙は出ない。
皮膚も溶けない。
スライムの方が、ルオの指へ寄ってきた。
ぷるん。
「冷たい」
「本当に溶けていないな」
「ちょっとぬるぬるする」
「余計な感想はいらん!」
スライムは、ルオの手へ少しだけ体を乗せようとした。
「持ち上げるな!」
「まだ持ってない!」
「絶対に落とすな!」
「ロード、心配しすぎ!」
「落ちた場所が消えるのだぞ!」
◇
「名前がいるな」
フィルエが言った。
「この危険物にか」
「配下だから」
確かに。
名無しのままでは命令しづらい。
小さなスライムが。
泡を一つ出した。
「うる……ぐる……」
「今、声を出したか?」
《発声器官は確認できません》
「でも、ウルグって聞こえた」
ルオが言う。
スライムが、もう一度揺れる。
「うるぐ」
「……ウルグ」
悪くない。
短い。
呼びやすい。
「お前の名は、ウルグだ」
スライムが跳ねた。
「跳ねるな!」
じゅうううっ。
また床が溶けた。
《個体名登録》
《蝕界のウルグ》
小さな体。
だが、触れればほとんどの存在が溶ける。
物理攻撃は無効。
魔法攻撃だけが有効。
そして。
ウルグを上回る魔力量がなければ、接触した時点で肉体も装備も消える。
本当に。
最悪の当たりだった。
いや。
防衛用としては、最高の当たりかもしれない。
◇
「専用区画が必要だ」
《はい》
「今すぐだ!」
このまま白い部屋へ置けば、床がなくなる。
「命の苗床の一つ前」
余は迷宮図を開いた。
「エリラの芽へ至る、最後の区画だ」
フィルエが顔を上げる。
「ウルグを置くの?」
「ああ」
「芽の近くで大丈夫?」
「近くには置かん」
現在。
命の苗床へは五重の防衛路がある。
だが、それらの道を全て。
一つの区画へ繋ぎ直す。
「苗床へ向かう者は、必ずウルグの区画を通る」
《構造変更可能》
「迂回路は」
《作成しません》
「壁抜けは」
《苗床周辺の空間固定により遮断可能》
「転移は」
《同様に遮断》
「掘って下から入る場合は」
《全経路を当該区画へ再接続します》
「つまり」
余は、迷宮図を見る。
「どの方法を使っても、ウルグを越えなければエリラの芽へ届かない」
《はい》
「形成しろ」
《専用区画形成費用:2,700,000ソウル》
「承認!」
◇
命の苗床の一つ前。
白い通路が大きく広がった。
床。
壁。
天井。
全てに、通常の白磁とは違う素材が使われる。
ウルグ自身の酸へ耐えるための、迷宮専用の耐蝕白晶。
部屋は広い。
だが、何もない。
水も。
橋も。
足場も。
最初は。
「ウルグを移す」
「どうやって?」
ルオが聞く。
「お前が運べ」
「オレ?」
「触れられるのはお前だけだ!」
「いいけど」
「絶対に落とすな」
「分かったって」
ルオが両手でウルグをすくう。
透明な酸の体が、ルオの手の中でぷるぷる揺れる。
配下たちは、全員かなり離れてついていく。
ガルザヴェインなど、先ほど溶かされた指を胸元へ隠していた。
「怖いのか」
「コワクナイ」
「手を隠しているぞ」
「タマタマ」
非常に分かりやすい。
ルオが専用区画の中央へウルグを置いた。
「ここな」
ウルグが、床へ広がり始める。
拳ほどだった体が薄くなる。
広がる。
さらに広がる。
床一面へ。
透明な膜となって。
やがて。
部屋全体の床が、ウルグの体になった。
《酸界拡張を確認》
床だけではない。
壁の下部。
天井から垂れる透明な滴。
全て、ウルグの一部。
侵入者が入れば。
一歩目から接触する。
「物理攻撃をすれば」
《体液が飛散し、接触範囲が拡大します》
「魔法なら倒せる」
《はい》
「ただし、弱い魔法では足りない?」
《有効な損傷を与えるには、高位魔法が必要です》
「魔力量がウルグより多い者なら、触れても溶けない」
《はい》
つまり。
力だけの戦士。
硬い鎧。
巨大な盾。
どれも意味がない。
比較されるのは。
ウルグ以上の魔力を持つかどうか。
それだけ。
「区画名を指定してください」
余は、透明な酸の海となった部屋を見た。
「万蝕酸界」
《登録しました》
⸻
最深部直前区画。
万蝕酸界。
守護個体:
蝕界のウルグ。
⸻
◇
「配下が通る時はどうするの?」
フィルエが聞いた。
「許可された者だけに、足場を出す」
余が命じると。
ウルグの体の上へ、白晶の足場が浮かび上がった。
一つ。
二つ。
苗床へ続く扉まで。
ロードが許可した時だけ現れる道。
「侵入者が乗った場合は」
《認証外個体の重量を感知した時点で、足場を消去可能》
「よし」
ガルザヴェインが、足場の端からウルグを見る。
「オチタラ」
「溶ける」
「……」
「落ちるなよ」
「オチナイ」
足が少し震えている。
「ガルザヴェイン、今日は通らなくていい」
フィルエが言う。
「ウン」
即答だった。
やはり怖いのだ。
カゲツは、酸界の入口へ立った。
「この先、我ガ軍モ配置スルカ」
「いや」
余は答えた。
「百骸騎士団は、一つ前で敵を削る」
「承知」
「万蝕酸界へ入った後は、ウルグ一体で受ける」
物理攻撃をする骸骨騎士を一緒に入れても、酸に巻き込まれる。
ここは。
ウルグだけの戦場だ。
「ルオ」
「何だ」
「お前は勝手にウルグを外へ持ち出すな」
「しないって」
「果物を食べさせるな」
「スライムって果物食うのかな」
「試すな!」
「聞いただけだろ!」
ウルグが、酸の床全体を小さく波打たせた。
まるで。
笑っているようだった。
◇
その夜。
白骨書記が、新しい戦力台帳を作った。
⸻
《霧灰白庭迷宮・新規戦力》
第一軍。
魔神覇王ゴブリン・ガルザヴェイン。
直属:
覇牙軍団。
総数:
百二十体。
役割:
前線突破。
機動戦。
変則戦。
敵軍の分断。
⸻
第二軍。
冥月骸将カゲツ。
直属:
冥月百骸騎士団。
総数:
百体。
役割:
正面防衛。
通路封鎖。
長期戦。
退路遮断。
⸻
最深部直前守護。
蝕界のウルグ。
種族:
万蝕酸界粘体。
危険度:
SSSランク候補。
配置:
万蝕酸界。
能力:
物理攻撃無効。
魔法攻撃有効。
全身超高濃度溶解酸。
ウルグを上回る魔力量を持たない接触者を溶解。
⸻
新規戦闘配下:
二百二十一体。
⸻
百二十のゴブリン。
百の骸骨騎士。
一体の酸の災害。
これまで。
余の迷宮には、強い個がいた。
だが。
数が足りなかった。
一度戦えば、次がなかった。
今は違う。
ガルザヴェインの後ろには、百二十の牙がいる。
カゲツの背後には、百の骸骨騎士が立つ。
その全てを越えた先には。
触れるだけで敵を溶かすウルグが待っている。
そして。
万蝕酸界のさらに奥。
五重の防衛路に守られた命の苗床で。
エリラの芽が、八枚の赤金色の葉を静かに広げていた。
「ロード」
フィルエが苗床から呼ぶ。
「何だ」
「これで、少し安心?」
余は、新しい軍を見た。
覇牙軍団。
百骸騎士団。
万蝕酸界。
十分か。
分からない。
世界には。
Sランクがいる。
SSランクがいる。
龍神の子がいる。
そして、まだ見たことのない存在がいる。
「少しだけだ」
余は答えた。
「だが、前よりは遥かにましだ」
ルオが言う。
「今度は、数が少ないって言わないぞ」
「当然だ」
「でも、ウルグは一匹だよな」
「一匹で十分すぎる!」
万蝕酸界の床が。
ぷるん、と一度だけ揺れた。
白い迷宮は。
二百二十一の新しい牙を得た。




