第232話 枯れた木は、ひとつの種を残す
戦いが終わった翌朝。
エリラの木は、完全に枯れていた。
赤金色だった幹は灰色へ変わり、枝からは一枚の葉も残らず落ちている。
甘い香りもない。
フィルエが触れても、枝は揺れない。
昨日まで、百を超える実を生らせていた木。
ガルザヴェインを治した木。
傷ついたゴブリンたちを何度も救った木。
ルオが、毎回嬉しそうに実を食べていた木。
その全てが、昨日のことだとは思えないほど。
エリラの木は静かだった。
死んでいた。
◇
「管理音声」
《はい》
「残った実の数を、もう一度出せ」
《確認します》
白い部屋の壁面に、数字が並ぶ。
⸻
《エリラの実・残数記録》
赫月の晩餐が採取した数:百八十七個。
侵入者による消費:二個。
奪還数:百八十五個。
戦闘後使用数:
・フィルエ治療:五個。
・ガルザヴェイン治療:八個。
・ルオ治療:四個。
・負傷配下治療:二十六個。
・枯れたエリラの木へ返した実:一個。
現在残数:百四十一個。
⸻
「百四十一個」
《はい》
以前なら、それだけあれば何も心配しなかった。
一個でも木に残っていれば、翌日には元の数へ戻る。
百四十一個など、余るほどの数だった。
だが、今は違う。
明日になっても増えない。
明後日になっても。
一カ月待っても。
使えば、確実に減る。
百四十一個。
それが、現在この世界に残されているエリラの実の全てなのかもしれない。
「フィルエ」
《うん》
「今後の使用量は、お前が決めろ」
「分かった」
「ただし、過度に惜しむな」
「うん」
「傷ついた者がいるなら、必要な分を使え」
「分かってる」
「だが、必ず記録しろ」
「それも分かってる」
以前のように、一日何個だの、一人一個だの、細かい制限をつけるつもりはない。
必要な時には、必要な数を使う。
ただし、もう無限ではない。
それだけだ。
フィルエは、静かに頷いた。
その隣で、赤金果守ゴブリンたちが、百四十一個の実を数えている。
「百三十八……百三十九……百四十……百四十一」
「ギギッ」
今日は、一体も数を間違えなかった。
誰も最初から数え直さない。
それが少し寂しかった。
◇
フィルエの傷は、ほとんど塞がっていた。
曲がっていた指も戻っている。
焼かれた手にも、新しい皮膚ができた。
切られた脚も、歩ける程度まで治っている。
だが、痛みが完全に消えたわけではない。
体ではなく。
心に残ったもの。
余には、それを治す方法が分からない。
ガルザヴェインも、まだ覇王練兵窟の奥で横になっている。
外傷は治った。
砕かれた肩も戻った。
だが、体内の魔力の流れと、覇王化した精神核の消耗は残っている。
起き上がろうとするたび、フィルエに止められていた。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「状態は」
「タテソウ」
「立つな」
「デモ、タテソウ」
「立てそうなのと、立ってよいのは違う」
「ムズカシイ」
「難しくない。寝ていろ」
「ウン」
素直に返事をした。
だが、少ししてから。
ガルザヴェインの巨体が、また動いた。
「何をしている」
「ネガエリ」
「本当だな」
「……ウン」
「今、立とうとしただろう」
「ネガエリ」
「嘘が下手だぞ」
フィルエが、ガルザヴェインの額を軽く押した。
「休む」
「ウン」
今度こそ、魔神覇王は目を閉じた。
◇
マネの声も戻っていた。
だが、時々、何もない場所で声を止める。
自分が発した声を疑っているのだ。
「ロード」
「何だ」
「今ノ、オレノ、コエ?」
「ああ」
「黒冠、チガウ?」
「違う」
「ホント?」
「本当だ」
マネが、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「ロード」
今度は余の声。
以前よりも、少しだけ似ている。
「うまいぞ」
「……ホントノ、ロード?」
「今のはお前だ」
「ウン」
「だが、余の声を返した。それでよい」
「返セタ」
「ああ」
マネは、それ以上何も言わなかった。
白い壁の中で、小さく落ち着く。
◇
「ロード」
今度は、別の場所から声が届いた。
白い部屋ではない。
迷宮内でもない。
細い声の道。
昨日、ルオと結んだ契約。
『フィルエ、起きてるか?』
「起きている」
『怪我は?』
「ほとんど治った」
『ガルザヴェインは?』
「寝かせている」
『ちゃんと寝てる?』
「立とうとしていた」
『やっぱりな』
声の向こうで、ルオが少し笑った。
その笑い声に、昨日の冷たい殺意はない。
「お前の傷は」
『もう平気』
「本当か」
『ほんとほんと』
「管理音声で確認できないのが不便だな」
『見るなって言っただろ』
「なら、正直に答えろ」
『ちょっと翼の根元が痛い』
「平気ではないではないか!」
『もう治ってきてるって』
「今日は飛ぶな」
『親父みたいなこと言うなよ』
「お前の親父も同じことを言うなら、正しいのだろう」
『二人に増えた……』
ルオが嫌そうな声を出す。
少しだけ、白い部屋の空気が軽くなった。
『木は?』
その一言で。
また、静けさが戻る。
「枯れたままだ」
『……そっか』
「実は百四十一個残っている」
『もう増えないんだよな』
「ああ」
ルオは少し黙った。
『オレの分、いらないからな』
「何?」
『今残ってるやつ。オレが食わなきゃ、減らないだろ』
「お前は果物を食べるために通っていたのではなかったのか」
『そうだけど』
「フィルエが許可するなら、食べてよい」
『でも』
「必要以上に惜しんでも、実は喜ばん」
余は、枯れた木を見る。
「食べる者がいるから、実として生ったのだろう」
正しいかは分からない。
だが、そう思いたかった。
『……じゃあ、フィルエがいいって言った時だけ食う』
「最初からそうだ」
『そうだった』
ルオの声に、少しだけ明るさが戻った。
『また後で行く』
「今日は来るな」
『何でだよ』
「休め」
『ロードも休めよ』
「余は迷宮だ。休む必要はない」
『昨日からずっと同じこと考えてるだろ』
「……」
『それ、休んでないのと一緒だぞ』
「うるさい」
『じゃあ、またな』
「ああ」
声の道が静かになる。
切れたわけではない。
ルオが会話を終えただけ。
呼べば、また届く。
そのことが、少しだけ安心だった。
◇
白骨書記は、新しい名誉記録を作っていた。
先の三十五人との戦いで死んだ霧喰い刃ゴブリン三体。
そして、《赫月の晩餐》に捕らえられ、最後まで仲間を呼ばずに殺された一体。
名前を持っていなかった。
だが、余は一体ずつ記録を確認した。
傷。
行動。
最後にいた場所。
仲間を庇ったか。
敵へ刃を向けたか。
逃げたか。
立ったか。
「この個体は、炎から仲間を押し出した」
骨筆が動く。
「火押しのギラ」
刻む。
「この個体は、弓使いの弦を切った」
刻む。
「弦切りのキキ」
「この個体は、最後の盾列へ潜り込んだ」
刻む。
「盾潜りのググ」
そして。
最後の一体。
赫月の晩餐に捕まったゴブリン。
腕を折られ。
脚を踏み砕かれ。
何度も痛めつけられても。
仲間を呼ばなかった。
「……声を耐えた」
余は言った。
「悲鳴は上げた。だが、仲間を呼ぶ声は出さなかった」
白骨書記の骨筆が待つ。
「声耐えのギン」
骨筆が、深く刻んだ。
⸻
火押しのギラ。
弦切りのキキ。
盾潜りのググ。
声耐えのギン。
迷宮防衛戦にて死亡。
内部名誉記録へ保存。
⸻
ガルザヴェインが、横になったまま名を聞いていた。
「ギラ」
「ああ」
「キキ」
「ああ」
「ググ」
「ああ」
「ギン」
「ああ」
「オボエル」
「覚えろ」
「ウン」
赤金果守ゴブリンたちも、骨板の前へ小さな実の皮を置いた。
もう実そのものを供えることはしなかった。
有限になったからではない。
亡くなった者たちへ、皆で分けて食べた実の香りを残すためだった。
◇
昼を過ぎた頃。
フィルエが、保管されているエリラの実を一つずつ確認していた。
傷んでいないか。
収納具の影響を受けていないか。
香りや生命反応が落ちていないか。
百四十一個。
一つずつ。
赤金果守ゴブリンたちも手伝う。
「これは大丈夫」
「ギッ」
「こっちも」
「ギギッ」
「これは少し皮が裂けてる」
フィルエが、裂け目のある実を持ち上げた。
赫月の晩餐が乱暴に採取した時、枝へぶつけたのだろう。
果皮に細い傷。
そこから、赤金色の果汁がわずかに滲んでいる。
「保存には向かない」
「なら治療用へ回すか」
「うん。でも、中も確認する」
フィルエは白骨の小刀を使い、果実をゆっくり切った。
甘い香りが広がる。
柔らかな赤金色の果肉。
その中心に。
小さなものがあった。
「……何?」
フィルエの手が止まる。
「どうした」
「中に、何かある」
果肉の中央。
薄い金色の殻に包まれた、小さな核。
種のように見える。
だが、今まで食べてきた実の中心には、同じものがあっただろうか。
「フィルエ」
「うん」
「今までの実にもあったか」
「小さい硬いところはあった。でも、これは違う」
「何が」
「光ってる」
確かに。
金色の核は、ほんのわずかに明滅している。
強くはない。
見逃してしまいそうなほど、微かな光。
「管理音声」
《はい》
「解析しろ」
《対象を確認》
《エリラの実内部に、独立した生命反応》
「独立した?」
《はい》
「種か」
《可能性があります》
フィルエが、金色の核を両手で包む。
「生きてる?」
《微弱ですが、生体反応を確認》
白い部屋が静まった。
「他の実も調べろ」
《非破壊検査を開始します》
百四十個。
残る全ての実へ、管理音声の解析が走る。
一個。
十個。
五十個。
百個。
《検査完了》
「結果は」
《同様の独立生命反応を持つ核は、一個のみ》
「一個だけ?」
《はい》
「なぜだ」
《不明》
「推定しろ」
少し間がある。
《エリラの木が枯死する直前、残存生命力を果実の一部へ移した可能性》
「可能性、か」
《断定できません》
最後の瞬間。
全ての実が取られ。
木が枯れる直前。
どこかの果実一つへ。
命を残した。
そういうことなのかもしれない。
だが、証拠はない。
芽が出るかも分からない。
同じ木になる保証もない。
それでも。
何もなかった場所に。
一つだけ。
可能性が残った。
◇
「植える」
フィルエが即座に言った。
「待て」
「どうして?」
「失敗すれば、この実も失う」
「でも、植えないと何にもならない」
「保存し、解析を続ける方法もある」
「いつまで?」
「それは……」
分からない。
「ロード」
フィルエは、金色の核を大事に抱えた。
「私は植えたい」
「本当に、エリラの木になるとは限らない」
「うん」
「芽が出ないかもしれない」
「うん」
「出ても、実が生らないかもしれない」
「それでも」
フィルエの目は、枯れた木を見ている。
「このまま箱の中に置くより、土に戻したい」
余は、しばらく答えなかった。
フィルエの判断を止める理由。
有限の実を一つ守るため。
失敗を恐れるため。
だが。
この核は、食べるために残ったのか。
植えるために残ったのか。
それも分からない。
「管理音声」
《はい》
「発芽に必要な環境は」
《不明》
「元の木があった環境を再現できるか」
《一部可能》
壁面へ、条件が並ぶ。
⸻
《元エリラの木周辺環境》
・魔神契約跡。
・戻り水脈。
・白磁根脈。
・灰霧循環。
・フィルエの命脈反応。
・ガルザヴェインの魔神性残響。
・龍神系統個体ルオの生命反応残滓。
⸻
「最後の二つまで必要なのか」
《必要条件かは不明》
《ただし、旧環境を再現するなら含めるべきです》
「必要ソウルは」
《命の苗床形成:1,400,000ソウル》
「高いな」
《神級素材候補の育成環境です》
「今回得たソウルは」
《直近二戦闘での追加獲得量》
《三十五名侵入者戦:1,427,000》
《赫月の晩餐戦:4,390,000》
《合計:5,817,000》
「使えるな」
《はい》
さらに、死体処理。
迷宮の修復。
配下の治療区画。
白磁壁の再形成。
それらにもソウルが必要だ。
だが、一百四十万なら払える。
「形成しろ」
フィルエが顔を上げる。
「いいの?」
「ああ」
「失敗するかもしれない」
「余が止めたところで、お前は植えるだろう」
「……たぶん」
「なら、最も良い場所を作る」
余は命じた。
「命の苗床を形成」
《承認しますか》
「承認」
《1,400,000ソウルを消費します》
◇
枯れたエリラの木の根元で、白い床がゆっくり開いた。
木の根を傷つけないように。
死んでいても。
無造作に壊さない。
その下に、小さな空間が生まれる。
戻り水が細い流れとなって通る。
白磁の根脈が、土のような柔らかい床を包む。
ハイハネの灰霧が、薄く循環する。
ガルザヴェインが眠っている場所から、魔神性の残響だけを引く。
ルオが初めて戦った時に残した、微かな白銀の生命反応も回収する。
そして。
フィルエが苗床の前へ座った。
「私の命脈も?」
《必要量は微少です》
「どうすればいい?」
「手を置け」
フィルエは、柔らかな土へ手を置いた。
灰色の光が、指先から流れ込む。
土の中へ。
戻り水へ。
白磁根脈へ。
命の苗床が、静かに淡い光を帯びた。
「これでいい」
《環境形成、完了》
フィルエは、金色の核を見た。
小さい。
手のひらの中央へ乗るほど。
「植えるよ」
「ああ」
赤金果守ゴブリンたちが、周囲で見守る。
白骨書記も。
マネも。
ハイハネも。
カゲヌイも。
グズの泥分体も。
ガルザヴェインは来られない。
だが、遠くから声だけを出した。
「フィルエ」
「うん」
「ユックリ」
「分かった」
フィルエが、小さな穴を掘る。
金色の核を、その中へ置く。
柔らかな土をかぶせる。
手で押さえる。
戻り水を、ほんの少しだけかけた。
全員が待った。
一呼吸。
二呼吸。
十。
百。
何も起きない。
「管理音声」
《はい》
「反応は」
《生命反応、変化なし》
「死んだのか」
《否》
《微弱反応は維持》
「なら、眠っている?」
《可能性があります》
「いつ芽が出る」
《不明》
フィルエは、土の上へ手を置いたまま動かなかった。
「出ないね」
「すぐに出るとは限らん」
「うん」
「明日かもしれない」
「うん」
「一カ月後かもしれない」
「うん」
「何年先かもしれない」
「……うん」
「それでも、生きてはいる」
フィルエは、小さく頷いた。
「待つ」
「ああ」
「今度は、ちゃんと皆で守る」
「ああ」
遠くから、ガルザヴェインの声が届く。
「オレモ」
「お前はまず寝ろ」
「ネテル」
「起きて喋っているだろう!」
「ネナガラ、シャベッタ」
「屁理屈を覚えるな!」
フィルエが笑った。
小さく。
だが、確かに。
◇
夜。
命の苗床には、何の変化もなかった。
フィルエは、そのそばで眠っている。
赤金果守ゴブリンたちも、交代で見張るつもりだったらしい。
だが、三体とも苗床の周囲で眠ってしまった。
白骨書記だけが起きている。
いや、あれは眠るのだろうか。
余は白い部屋から、苗床を見ていた。
芽はない。
光もない。
ただ、土。
何もないように見える。
「管理音声」
《はい》
「監視を続けろ」
《承知しました》
「変化があれば、すぐ知らせろ」
《はい》
余も、別の区画を確認しようと意識を外しかけた。
その時。
《微弱反応》
「何?」
苗床を見る。
何も見えない。
「どこだ」
《土中》
「種か」
《はい》
金色の核が。
土の中で。
一度だけ。
とくん、と脈打った。
芽は出ない。
根も伸びない。
それきり、また静かになる。
「今のは」
《生命反応、一時上昇》
「生きているのだな」
《はい》
余は、眠っているフィルエを起こさなかった。
明日。
自分で伝えればいい。
今夜は休ませる。
枯れた木は戻らない。
失った配下も戻らない。
傷も、記憶も消えない。
だが。
死んだ木は、最後に一つだけ。
小さな命を残していた。




