第230話 白銀の龍は、赫月を噛み砕く
赤黒い月が、レオルド・ヴァンゼルの背後で輝いた。
さっきまでの男とは、もう違う。
折られた両脚は繋がっている。
砕かれた腕も動く。
ルオに引き裂かれた皮膚は、赤い結晶のようなものへ変わり、鎧の代わりに全身を覆っていた。
人間の肉。
人間の骨。
人間の魔力。
その全てが、一度壊れ。
別のものとして作り直されている。
《対象レオルド・ヴァンゼル》
《人間領域から離脱》
《推定冒険者等級:SSランク》
管理音声の報告が、白い部屋へ響く。
「SSランク……」
余は、乾いた声で繰り返した。
Sランクは、人間が人間のまま辿り着ける限界。
SSランクは、その限界を踏み越えた存在。
人外。
それが今、余の迷宮の中で生まれた。
仲間を失った悲しみではない。
罪への後悔でもない。
少年に負けた自分が許せない。
自分より強い存在がいることが我慢できない。
ただ、それだけの怒りによって。
「俺は、弱くなかった」
レオルドが、再生した右手で剣を握る。
赤黒い長剣も変わっていた。
刀身はさらに長くなり、刃の内側で赤い光が脈打っている。
「まだ、人間の殻に閉じ込められていただけだ」
「だから何だよ」
ルオの声は低かった。
両脚は白銀の龍脚。
右腕は肩まで龍の鱗に覆われている。
腰から伸びた龍尾が、白い床の上をゆっくり揺れる。
背中には、片方だけ白銀の翼。
首筋から頬にかけて、細かな鱗が浮かんでいた。
人間の少年の姿を残したまま。
必要な部分だけが、龍へ変わっている。
「強くなったら、フィルエにしたことが消えるのか?」
「勝った者が正しい」
レオルドは笑った。
「俺が今からお前を殺せば、全て俺が正しかったことになる」
ルオの龍尾が、床を一度叩いた。
白い区画全体が揺れた。
「ロード」
《何だ》
「壁、絶対に壊すなよ」
余は、フィルエとガルザヴェインを囲む白磁壁へ意識を集中させた。
内側には、ドグルから奪い返した空間収納具もある。
百八十七個のエリラの実。
実は戻った。
だが、木は枯れ始めたままだ。
《守る》
「頼んだ」
《お前も死ぬな》
ルオは返事をしなかった。
金色の瞳だけを、レオルドへ向ける。
「今度は、ちゃんと本気で殺す」
赤い月が輝いた。
白銀の龍脚が床を踏んだ。
二人の姿が、同時に消えた。
◇
最初の衝突を、余は見ることができなかった。
音だけが遅れて届いた。
爆発。
白い通路の壁が、左右へ一斉に砕ける。
次の瞬間、ルオの体が白い部屋の壁面に映った。
後ろへ飛ばされている。
「ルオ!」
白銀の片翼を広げ、空中で体勢を変える。
龍脚が壁へ触れた。
その壁を足場に、すぐさま前へ跳ぶ。
だが。
レオルドは、すでにルオの目の前にいた。
「見えるぞ」
赤黒い剣が振り下ろされる。
「赫月剣――赤夜!」
一本の斬撃ではない。
レオルドの背後に浮かぶ赤い月から、同じ斬撃が何本も生まれた。
正面。
左右。
背後。
頭上。
逃げ道の全てへ、赤黒い刃が落ちる。
ルオは龍腕を上げた。
白銀の爪が正面の刃を受ける。
龍尾が左右の斬撃を弾く。
片翼が体を包み、背後からの刃を防ぐ。
だが、全ては止められない。
一本がルオの頬を裂いた。
一本が左脇腹へ入る。
さらに一本が、白銀の翼を深く斬った。
銀色の鱗と赤い血が飛ぶ。
「……当たった?」
余は、思わず呟いた。
ルオが、今までまともに攻撃を受けたことはほとんどない。
ガルザヴェインとの組み手でも、傷は鱗へ浅くつく程度だった。
だが今は。
頬から血が流れている。
脇腹にも赤い線。
片翼には、大きな裂け目。
「ははっ!」
レオルドが笑った。
「何が龍神の子だ!」
剣を返す。
「俺の方が速い!」
ルオの胸へ、刃が走る。
ルオは龍脚で床を蹴った。
後退する。
だが、赤い月から生まれた二本目の刃が、退路へ先回りしていた。
「遅い!」
刃がルオの肩へ食い込む。
血が飛ぶ。
ルオの体が壁へ叩きつけられた。
白い壁が陥没する。
《ルオ・ゼルファニア、負傷》
「管理音声、状態は!」
《生命反応、安定》
《ただし、対象レオルドの攻撃が龍鱗防御を突破》
「本当にSSランクになったのか……」
レオルドは、自分の剣を見た。
刃についたルオの血。
その血を見て、笑みを深める。
「切れる」
歓喜に満ちた声だった。
「俺は、この化け物を切れる!」
◇
白磁壁の内側。
フィルエが、かすかに目を開けた。
外の衝撃が、何層もの壁を通じて伝わってくる。
「ルオ……」
そのそばで、ガルザヴェインも指を動かした。
意識は戻っている。
だが、立てない。
「ルオ……タタカッテル」
「ああ」
余は答えた。
「戦っている」
「ツヨイ、テキ」
「ああ」
ガルザヴェインは拳を握ろうとした。
指がわずかに動くだけ。
「オレモ……」
「休め」
「デモ」
「今はルオに任せろ」
フィルエが、腫れた顔で壁の外を見ようとする。
「ルオ、怪我した?」
答えたくなかった。
だが、嘘をついても仕方ない。
「ああ」
「……私のせい?」
「違う!」
余は強く言った。
「お前のせいではない!」
「でも、私が捕まったから」
「悪いのは、あいつらだ!」
フィルエの目に、涙が溜まる。
余は白磁壁をさらに厚くした。
「今は、ルオを信じろ」
そう言いながら。
余自身が、一番不安だった。
◇
陥没した壁の中から、ルオが出てきた。
血は流れている。
裂かれた片翼も、まだ完全には戻っていない。
それでも、顔に恐怖はなかった。
レオルドは剣を肩へ担ぐ。
「どうした、クソガキ」
「……」
「さっきまでの威勢はどこへ行った?」
ルオは、頬の血を左手で拭った。
赤い血を見る。
少しだけ首を傾げる。
「なるほど」
「何がだ」
「SSランクって、ちゃんと強いんだな」
レオルドの笑みが引きつる。
恐怖を見たかった。
屈辱を返したかった。
だが、ルオの声にあるのは。
確認。
それだけだった。
「舐めるな!」
赤い月が大きく膨らむ。
「赫月界!」
赤い光が、区画全体を覆った。
白い床。
壁。
天井。
全てが赤く染まる。
《警告》
《周辺空間への高位干渉》
《レオルドを中心に、特殊領域形成》
領域の中で。
レオルドの姿が五つに増えた。
幻ではない。
どれも魔力を持つ。
どれも剣を構えている。
「この月の下では」
五人のレオルドが同時に口を開く。
「俺の斬撃は、どこからでも届く」
五方向から踏み込む。
赤黒い刃がルオへ迫る。
ルオの片翼が開く。
一人目を龍爪で弾く。
二人目を龍尾で払う。
三人目の剣を龍脚で蹴り上げる。
だが、四人目の刃が背中へ入る。
五人目の剣が腹を貫いた。
「ルオ!」
刃が、少年の体を背中まで抜ける。
レオルドが顔を近づけた。
「捕まえたぞ」
「……そうだな」
ルオは、腹を貫かれたまま笑わなかった。
ただ、左手でレオルドの手首を掴む。
「オレも」
左腕にも、白銀の鱗が一気に広がった。
肩から指先まで。
右腕と同じ、完全な龍腕。
「捕まえた」
レオルドの目が見開かれる。
ルオの右の龍拳が、レオルドの顔へ入った。
赤い結晶の皮膚が砕ける。
鼻。
頬骨。
顎。
まとめて潰れた。
レオルドの体が剣から離れ、赤い領域を突き破って飛ぶ。
ルオの腹から剣が抜ける。
血が大量に落ちた。
「ルオ、下がれ!」
《傷を塞げ!》
「後で」
《今すぐだ!》
「こいつが、フィルエの近くにいる方が嫌だ」
ルオは、自分の腹へ龍爪を当てた。
白銀の鱗が傷の周囲を覆う。
完全には治らない。
だが、血が止まった。
左腕。
右腕。
両脚。
龍尾。
片翼。
少年の体に、龍の部分がさらに増えている。
◇
レオルドは、崩れた壁から飛び出した。
潰れた顔が、赤い結晶によって再び作られていく。
「俺の顔を……!」
怒りで、赤い月が脈打った。
「また、俺の顔を殴ったな!」
「顔だけじゃない」
ルオが答える。
「次は中身も壊す」
「黙れ!」
レオルドが剣を振る。
「赫月界――百月刃!」
赤い月の表面から、無数の剣が生まれた。
百本。
それ以上。
区画を埋め尽くす赤黒い刃。
その全てがルオへ向く。
「消えろ!」
刃の雨が降る。
ルオは片翼を広げた。
だが、傷ついた片翼だけでは防げない。
その時。
背中の反対側から、白銀の光が噴き出した。
骨が伸びる。
鱗が重なる。
翼膜が広がる。
二枚目の龍翼。
白銀の両翼が、初めて完全に開いた。
風だけで、赤い刃の軌道が揺れる。
「翼が……増えた?」
ルオは両翼を一度打った。
爆風。
百本の赤い刃が、まとめて後ろへ押し返される。
「なっ――」
自分が放った刃が、レオルドへ戻る。
レオルドは剣を回転させ、赤い刃を弾く。
だが、その向こうからルオが来た。
龍脚で空を蹴る。
両翼で方向を変える。
右から来たと思った瞬間には左。
上へ飛んだと思えば、龍尾を壁へ巻きつけ、真下から跳ね上がる。
速い。
レオルドの目でも、完全には追えない。
「どこだ!」
「ここ」
ルオの龍尾が、レオルドの腹へ巻きついた。
「しまっ――」
尾を引く。
レオルドの体が宙へ浮く。
ルオは両翼を閉じ、一気に上へ飛んだ。
天井寸前で方向を反転。
龍尾に捕らえたレオルドを、白い床へ振り下ろす。
「神龍尾撃――星落し!」
レオルドが頭から床へ叩きつけられた。
白い床が、深く陥没する。
迷宮の複数層が揺れる。
レオルドの赤い結晶皮膚が砕け散った。
だが。
陥没した穴から、赤い斬撃が飛び出す。
ルオの右翼を切り裂いた。
「っ!」
ルオの体勢が崩れる。
穴からレオルドが跳び上がる。
顔も体も、また赤い結晶に覆われ始めている。
「俺は再生する!」
剣を両手で握る。
「どれだけ壊しても、今の俺は戻る!」
「そうか」
「お前は血を流している!」
レオルドはルオの腹を指す。
「翼も傷ついている!」
「だから?」
「先に壊れるのはお前だ!」
赤い月が、さらに大きくなる。
その光がレオルドへ流れ込む。
砕けた結晶が再び皮膚を作る。
折れた骨が繋がる。
《対象レオルド、急速再生継続》
《背後の赤色魔力体より、供給を確認》
「月が力の元か!」
《可能性が高いです》
ルオも、赤い月を見た。
「じゃあ」
両翼を大きく広げる。
「先に、あれ壊す」
◇
ルオが赤い月へ飛ぶ。
「させるか!」
レオルドが、その前へ立つ。
「赫月剣――月守!」
赤い剣を横に構える。
月から流れ込む力が、巨大な盾となってレオルドの前へ広がった。
ルオの龍拳が盾へ入る。
衝撃。
赤い盾に亀裂が走る。
だが、割れない。
「止めたぞ!」
レオルドが剣を振り上げる。
盾の内側から、赤い刃がルオの胸へ突き出された。
ルオは左の龍爪で掴む。
右拳で盾を殴る。
一発。
亀裂が増える。
二発。
赤い光が漏れる。
三発。
レオルドの足が下がる。
「やめろ!」
四発目。
盾が大きくへこむ。
「やめろと言っている!」
五発目。
赤い盾が砕けた。
ルオの龍拳が、レオルドの胸へ届く。
赤い結晶鎧が割れる。
レオルドが月の前から吹き飛ばされる。
道が開いた。
ルオは赤い月へ向かって口を開いた。
頬と顎。
首の前半分。
そこが、完全な龍の形へ変わっていく。
白銀の牙。
喉の奥へ集まる青白い光。
「待て!」
レオルドが叫ぶ。
「それを壊すな!」
ルオは息を吸った。
白銀の鱗の隙間から、光が漏れる。
「龍神息吹――白天」
青白い光が放たれた。
炎ではない。
雷でもない。
命を焼き。
魔力を消し。
空間そのものを白く塗り潰す、龍神の息吹。
赤い月と、正面からぶつかった。
赤。
白。
二つの光が、区画全体を染める。
赤い月の表面に、細い亀裂が生まれた。
一本。
十本。
数え切れないほど。
「やめろおおおおおっ!」
レオルドが、息吹の中へ飛び込んだ。
赤い剣で青白い光を斬り分ける。
皮膚が焼ける。
結晶鎧が溶ける。
それでも進む。
「俺の力だ!」
赤い月へ手を伸ばす。
「俺が、ようやく手に入れた力だ!」
ルオは息吹を止めなかった。
「それで?」
「何?」
「強くなったら」
龍の顎から放たれる光の中で、ルオの声が響く。
「フィルエが痛くなかったことになるのかよ」
赤い月が砕けた。
巨大な赤い破片が、光となって落ちる。
レオルドの背後から、力の供給が消えた。
「……あ」
再生していた赤い結晶皮膚が止まる。
焼けた肉。
砕けた鎧。
折れた骨。
それらが、もう戻らない。
《赫月界、崩壊》
《対象レオルド、急速再生停止》
◇
レオルドが、白い床へ落ちた。
だが。
まだ死んでいない。
剣を杖にして立ち上がる。
体の半分は焼けている。
右目は潰れている。
左腕も動かない。
それでも、赤黒い長剣を握った。
「俺は……SSランクだ」
声はかすれている。
「人外だ」
剣を持ち上げる。
「俺は……誰よりも強い」
ルオが、ゆっくり床へ降りる。
両翼。
両腕。
両脚。
龍尾。
顎と首。
体の多くが龍へ変わっている。
それでも、顔の上半分には少年の姿が残る。
金色の瞳が、レオルドを見ていた。
「まだ、それ言うのか」
「俺は負けない」
「負けてるだろ」
「負けていない!」
レオルドの残る魔力が、全て剣へ集まる。
赤黒い刃が、最後に一度だけ輝いた。
「俺は、弱くない!」
剣を両手で――動く片手だけで握り直す。
「赫月終剣――皆既!」
光を消す斬撃。
最後に残った赤い月の力を、一振りへ変える。
白い区画から、色が消えた。
音も。
魔力も。
全てを呑み込む黒赤の刃が、ルオへ向かう。
《警告》
《高位斬撃接近》
《白磁防壁への到達時、フィルエおよびガルザヴェインへの被害予測》
「ルオ!」
余は叫んだ。
「後ろへ通すな!」
「分かってる!」
ルオは避けなかった。
両翼を広げる。
右腕を前へ。
左腕を重ねる。
白銀の龍爪で、皆既の刃を正面から受け止めた。
衝撃。
龍鱗が飛ぶ。
右腕の爪が一本折れる。
左腕の鱗も裂け、血が流れる。
両脚が床へ沈む。
「消えろおおおおっ!」
レオルドが剣を押す。
ルオの背後には、フィルエとガルザヴェインがいる。
下がれない。
「ロード!」
《何だ!》
「フィルエ、見えてるか!」
《意識はある!》
「なら」
ルオの金色の目が、さらに鋭くなる。
「カッコ悪いとこ、見せられねえな!」
両翼が大きく羽ばたいた。
白銀の鱗が全身で輝く。
龍爪が、黒赤の刃へ食い込む。
「白銀龍爪――裂天!」
掴んだ。
斬撃そのものを。
レオルドの最後の技を。
両側へ引き裂く。
黒赤の皆既が、中央から割れた。
「馬鹿な……!」
そのまま。
レオルドの長剣まで砕けた。
刃が赤い欠片となって散る。
ルオの右の龍爪が、その向こうへ伸びた。
レオルドの胸を貫く。
「……っ」
白銀の爪が、背中から突き出した。
だが、レオルドはまだ死んでいない。
ルオの腕を掴む。
「俺は……SS……」
「そうだな」
「人外……」
「それで?」
ルオの爪が、レオルドの胸の中で何かを掴んだ。
心臓ではない。
人間の魔力器が壊れた後に生まれた、赤い人外核。
SSランクとしての力の中心。
「お前が強くなっても」
爪が核へ食い込む。
「やったことは消えない」
「待て……」
「フィルエに謝れ」
「なぜ……俺が……」
最後まで。
反省はなかった。
ルオの瞳から、わずかな迷いも消える。
「じゃあ死ね」
赤い人外核を握り潰した。
レオルドの体が大きく跳ねる。
赤い光が、全身の亀裂から漏れた。
結晶皮膚が砕ける。
人外として再構成された骨も、肉も、魔力も。
全てが内側から崩れていく。
「俺が……弱い……?」
それが。
レオルド・ヴァンゼルの最後の言葉だった。
ルオが腕を引き抜く。
レオルドの体が白い床へ落ちた。
二度と動かなかった。
《SSランク相当個体、レオルド・ヴァンゼル死亡》
《ソウル獲得:2,080,000》
余は、流れ込んできたソウルの重さに息を失った。
「一人で……二百八万……」
《SSランク到達により、魂格が大幅上昇していました》
《今回戦闘総獲得ソウル》
《4,390,000》
Sランク四人。
SSランク一人。
莫大なソウル。
だが、喜びはなかった。
◇
ルオの体から、龍の部分が少しずつ消えていく。
顎が少年のものへ戻る。
左腕の鱗が薄くなる。
龍脚も、人間の脚へ近づいていく。
両翼は最後まで残っていた。
白銀の翼を引きずるようにして、白磁壁へ向かう。
「ロード」
《今、開ける》
余は何重にも重ねていた壁を解いた。
フィルエが見える。
ガルザヴェインも。
ルオは、最初にフィルエのそばへ膝をついた。
「終わった」
フィルエが、ゆっくり目を開ける。
「……ルオ」
「うん」
「怪我……」
「オレのは平気」
平気ではない。
腹には深い傷。
両腕から血。
右翼も裂けている。
だが、ルオはフィルエだけを見ていた。
「ごめん」
「どうして?」
「遅かった」
ルオの声が、初めて震えた。
「もっと早く来てたら、お前、こんなにならなかった」
フィルエは、動く方の手を少し持ち上げた。
ルオの頬へ触れようとする。
だが、途中で力が抜ける。
ルオが、その手を自分から取った。
血に濡れた頬へ当てる。
「来てくれた」
フィルエは、小さく言った。
「助けてくれた」
「……うん」
「だから、ありがとう」
ルオは答えなかった。
ただ。
フィルエの折れた指へ触れないように。
その手を、両手で大事に包んだ。
少し離れた場所で。
ガルザヴェインの金色の目も、薄く開いていた。
「ルオ……」
「ガルザヴェイン」
「カッタ?」
「勝った」
「ソウカ」
「お前も守っただろ」
「マケタ」
「負けても、来た」
「……」
「フィルエの前に立った」
ルオは、ガルザヴェインへ言った。
「だから次、また組み手しようぜ」
ガルザヴェインの目が、ほんの少しだけ光った。
「ツギ、マケナイ」
「おう」
白い区画に、ようやく戦いではない声が戻った。
だが。
エリラの木は、灰色の葉を落とし続けている。
実は取り戻した。
フィルエも。
ガルザヴェインも生きている。
それでも。
失ったものが戻ったわけではなかった。
余は、枯れ始めた木を見ながら、静かに言った。
「まず、皆を治す」
そして。
もう二度と、呼ぶ手段がないまま奇跡を待つことはしない。
次にルオが迷宮の外にいる時でも。
フィルエが危険になった瞬間、余の声を届ける。
そのための繋がりが必要だった。




