第229話 龍神の子は、母を奪われた日の怒りを思い出す
「何やってんだ、てめぇら」
ルオ・ゼルファニアの声が、白い区画へ落ちた。
いつもの明るさはない。
からかうような軽さもない。
低く。
震え。
押し殺しきれない怒りと殺意が混じっていた。
Sランク冒険者パーティー《赫月の晩餐》の五人が、一斉にルオを見る。
彼らは全員、数え切れないほどの死地を越えてきた。
格上の魔物とも戦った。
竜種の討伐にも参加した。
国を滅ぼしかけた災害からも生還した。
だからこそ、分かった。
目の前にいる少年は危険だ。
見た目は十二、十三歳ほど。
武器もない。
鎧もない。
それなのに。
ただ立っているだけで、白い床が細かく震えている。
空気が重い。
呼吸するたび、喉の奥へ刃を差し込まれるような圧がある。
シアン・ヴェルクが、亀裂の入った眼鏡を押さえた。
「計測できません」
声が、わずかにかすれていた。
「魔力が大きすぎるのか?」
レオルド・ヴァンゼルが問う。
「違います」
シアンの額に汗が流れる。
「魔力の境目が……見つからない」
「何だ、それは」
「分かりません」
ルオは、五人を見ていなかった。
最初に見ていたのは、ドグル・ハインの肩へ担がれたフィルエだった。
腫れた頬。
血に濡れた口元。
不自然な方向へ曲がった指。
焼かれた手。
切られた脚。
力なく垂れ下がった腕。
ルオの金色の瞳が、細くなる。
「フィルエ」
返事はなかった。
意識が薄れている。
それでも、ルオの声を聞いたのか、まぶたがわずかに動いた。
「……ルオ?」
その声を聞いた瞬間。
ルオの中で、遠い日の記憶が開いた。
◇
赤い血。
崩れた家。
焦げた匂い。
まだ小さかったルオの前で、母親が倒れていた。
動かない手。
血に濡れた髪。
最後まで自分を守ろうとしていた背中。
その向こうに立っていた、黒い影。
魔王。
あの日。
ルオは怒った。
空が割れ、大地が燃え、周囲にいた者たちが止めなければ、幼い龍神の子は町ごと消し飛ばしていた。
それ以来。
父である龍神から、何度も言われた。
怒るな。
お前の怒りは、弱い者には大きすぎる。
力を抑えろ。
笑っていろ。
だからルオは笑うようになった。
果物を食べ。
散歩をし。
気になるものを見つければ首を突っ込み。
怒りそうになっても、なるべく軽く流した。
だが。
今。
フィルエの姿が。
母親の最後の姿と重なった。
◇
ルオの首筋から、白銀の鱗が広がる。
一枚。
二枚。
頬へ。
鎖骨へ。
右腕へ。
金色の瞳孔が、縦に細く裂けた。
「ロード」
ルオが、フィルエから目を離さずに聞いた。
「フィルエ、生きてるか」
《生きている》
断響結界は、ルオの魔力へ耐えられず砕けている。
今度は余の声も、五人へ届いた。
《だが重傷だ》
「ガルザヴェインは」
《生きている。戦闘不能だ》
「木は」
余は、すぐに答えられなかった。
灰色の葉が、また一枚落ちる。
《実を全て取られた》
「戻るのか」
《……木は枯死を始めている》
ルオは、ゆっくりと五人へ顔を向けた。
「そうか」
短い声だった。
その短い声の方が。
叫ばれるより、遥かに恐ろしかった。
◇
レオルドは赤黒い長剣を構えた。
「何者かは知らんが、邪魔をするなら殺す」
「隊長」
シアンが小さく言う。
「慎重に」
「分かっている」
レオルドはルオから目を離さない。
「ガスト。正面」
「おう」
「ミレイア、後方から焼け」
「分かったわ」
「シアンは死角へ」
「はい」
「ドグルは女を離すな」
ドグルが、フィルエを担ぎ直した。
「商品を傷つけないようにします」
その言葉で。
ルオの右手が、完全に龍のものへ変わった。
少年の細い腕ではない。
白銀の鱗に覆われた龍腕。
五本の指には、白く鋭い爪。
「今」
ルオが言った。
「何て言った?」
ドグルが笑う。
「こいつか?」
フィルエの体を、見せつけるように少し持ち上げる。
「迷宮で拾った商品だよ。欲しいなら、金を――」
ドグルの言葉が止まった。
ルオが消えたからだ。
「え?」
次の瞬間。
ルオはドグルの目の前にいた。
「その手」
白銀の龍爪が、フィルエを押さえているドグルの腕を掴む。
「どけろ」
ひねった。
鎧が潰れる。
骨が砕ける。
肩から腕が、鎧ごと引き千切られた。
「ぎゃああああああっ!」
血が噴き出す。
フィルエの体が落ちる。
だが、床へは届かなかった。
ルオの左腕が、フィルエを優しく受け止めていた。
右手は龍の爪。
左手は、まだ人間の少年の手。
「ごめん」
ルオはフィルエへ言った。
「遅くなった」
「ルオ……」
「もう大丈夫」
ドグルが、失った腕を押さえながら後退する。
「殺せ! こいつを――」
ルオが、また消えた。
フィルエを抱いたまま。
次に現れた時には、倒れているガルザヴェインのそばにいた。
「ロード」
《何だ》
「二人を囲え」
余は即座に床を動かした。
フィルエをガルザヴェインのそばへ横たえる。
その周囲に、何層もの白磁壁を作る。
今度は敵を閉じ込めるためではない。
二人を守るための壁。
ルオはフィルエの頬へ、一瞬だけ触れた。
「そこで待ってろ」
そして、立ち上がる。
「すぐ終わらせる」
◇
ドグルが、残った腕で鎖を振るった。
「このガキがあああっ!」
十本を超える鎖が、ルオへ殺到する。
魔物の骨を砕き。
ガルザヴェインの腕を縛り。
フィルエを痛めつけた鎖。
ルオは避けなかった。
右の龍爪で、一番太い鎖を掴む。
「これで」
爪が鎖へ食い込む。
「フィルエ縛ったのか」
「離せ!」
ドグルが鎖を引く。
ルオは動かない。
逆に。
軽く腕を引いた。
ドグルの巨体が宙へ浮いた。
「な――」
ルオは鎖を振るった。
ドグルの体が白い壁へ叩きつけられる。
轟音。
鎧が陥没する。
もう一度。
反対側の壁へ。
三度目。
白い床へ。
ドグルの口から血と歯が飛び出す。
「や、やめ……」
「フィルエも言っただろ」
ルオの声は冷たい。
「やめてって」
鎖をさらに引く。
ドグルの体が、ルオの前へ滑ってくる。
白銀の龍爪が、胸当てへ触れた。
「何で聞かなかった?」
「ま、待て……!」
爪が鎧を裂く。
金属が紙のように開く。
そのまま胸へ食い込み、皮膚と肉を引き裂いた。
「ぎゃあああああっ!」
ドグルの絶叫が区画に響く。
「痛いか?」
「やめろ! やめてくれ!」
「フィルエも痛かった」
ルオは、ドグル自身の鎖を首へ巻いた。
引く。
首の骨が、不自然な音を立てた。
それでも止めない。
最後に龍爪を胸へ突き込み、内側から鎧ごと引き裂いた。
ドグルの体が、力を失って床へ落ちる。
《Sランク域個体、ドグル・ハイン死亡》
《ソウル獲得:520,000》
巨大な空間収納具が、床へ転がった。
その中には、奪われたエリラの実が全て入っている。
余はすぐに床を動かし、収納具を白磁壁の内側へ引き込んだ。
実は戻った。
だが、木はまだ枯れ続けている。
◇
「全員同時だ!」
レオルドが叫んだ。
ガストが正面から走る。
シアンが影へ消える。
ミレイアが両手へ炎を集める。
レオルドの赤黒い長剣には、巨大な半月が浮かんだ。
四人のSランク冒険者。
一人なら国の戦力として数えられる者たち。
その四人が、同時にルオを殺しに来る。
「剛拳奥義――獄岩崩!」
ガストの両拳が、岩山のような魔力をまとう。
「炎術奥義――紅蓮葬界!」
ミレイアの炎が、床も壁も逃げ道もまとめて焼く。
「無音殺技――首落とし!」
シアンの短剣が、気配も音もなくルオの首へ迫る。
「赫月剣奥義――満月断ち!」
レオルドの剣が、逃げ場のない円形の斬撃を作る。
四つのSランク技。
どれか一つでも直撃すれば、ガルザヴェインですら深手を負う。
ルオは。
動かなかった。
白銀の鱗が、右腕から肩へ広がる。
右脚にも鱗が浮かぶ。
「遅い」
床が爆発した。
ルオの姿が消える。
ガストの拳は空を砕いた。
ミレイアの炎が、何もいない場所を焼く。
シアンの短剣は、残像の首を通り抜ける。
レオルドの満月断ちだけが、ルオの移動先を追った。
「逃がさん!」
赤黒い円が、ルオの背中へ迫る。
ルオの肩から、片方だけ白銀の龍翼が開いた。
大きくはない。
だが、一度羽ばたいただけで空間が歪んだ。
ルオの体が、空中であり得ない角度へ曲がる。
満月断ちが、髪を数本だけ切った。
「翼……?」
レオルドが目を見開く。
「竜人か!」
「違う」
ルオは、ガストの頭上へ現れた。
「オレはルオだ」
白銀の龍脚が、ガストの肩へ落ちる。
「がっ――」
右肩が潰れた。
鎖骨。
肩甲骨。
腕の骨。
まとめて砕ける。
ガストの巨体が、床へ片膝をついた。
「このっ!」
残る左拳を振り上げる。
ルオの龍爪が、その拳を正面から掴んだ。
「この手で」
指を一本、逆方向へ折る。
「フィルエを殴ったな」
「ぐあっ!」
二本目。
三本目。
一本ずつ。
太い指が折れていく。
「やめろ!」
四本目。
「やめろおおっ!」
最後に親指。
ガストの拳は、もう拳ではなくなった。
「この足で」
ルオの龍尾が、腰の後ろから生える。
白銀の鱗に覆われた長い尾。
それが、ガストの両脚へ巻きついた。
「蹴ったな」
尾が締まる。
両脚の骨が、同時に砕けた。
「ぎゃあああああっ!」
ガストが床へ倒れる。
ルオは、動かなくなった脚の上へ立った。
「何回蹴った?」
「し、知らねえ……!」
「オレも数えてない」
龍脚が、ガストの胸へ落ちた。
一度。
胸骨が割れる。
二度。
肋骨が内側へ沈む。
三度。
背中側の床までひび割れる。
ガストの口から血が溢れる。
「や……め……」
「フィルエもそう言った」
四度目。
ガストの胸が完全に潰れた。
《Sランク域個体、ガスト・ロウガ死亡》
《ソウル獲得:640,000》
余は流れ込むソウルの大きさを感じた。
だが、それどころではなかった。
ルオの怒りが。
まだ少しも弱まっていない。
◇
「化け物……!」
ミレイアが後退する。
だが、逃げない。
両手を合わせ、全ての魔力を炎へ変える。
「焼き尽くせ!」
巨大な紅蓮の炎が、龍の形となってルオへ襲いかかる。
「炎術最終奥義――紅蓮竜葬!」
炎の竜が口を開く。
ルオは、それを見て初めて少しだけ顔を動かした。
「竜?」
首筋の鱗が、顎まで広がる。
少年の口元が、ほんの一瞬だけ龍の形へ変わった。
「それが?」
ルオが息を吸う。
白銀の鱗の隙間から、青白い光が漏れる。
「竜のつもりかよ」
吐いた。
青白い炎。
火というより、光に近い。
ミレイアの紅蓮竜が、正面から飲み込まれた。
「そんな……!」
紅蓮が消える。
青白い炎は止まらない。
ミレイアが何重もの炎壁を張る。
一枚。
二枚。
五枚。
十枚。
全て、一瞬で焼き抜かれた。
「待って!」
ミレイアの顔から、初めて余裕が消える。
「私は、あの女を少し焼いただけよ!」
ルオの瞳が、さらに細くなる。
「少し?」
「命に関わる傷じゃない!」
「だからいいって?」
「迷宮の魔物でしょう!?」
青白い炎が、ミレイアの足元を包んだ。
「熱いっ!」
すぐには全身を焼かない。
足から。
少しずつ。
炎が膝へ上がる。
「やめて! 消して!」
「フィルエも熱かった」
「謝る! 謝るから!」
「オレに謝ってどうすんだよ」
炎が腰へ。
胸へ。
両腕へ。
ミレイアの服と皮膚が、青白い光の中で焼けていく。
「助けてええええっ!」
「助けてって言われて、助けたのか?」
炎が顔まで覆った。
絶叫が途切れる。
青白い火が消えた時、そこには黒く焼けた影しか残っていなかった。
《Sランク域個体、ミレイア・ゾルド死亡》
《ソウル獲得:590,000》
◇
「シアン!」
レオルドが叫ぶ。
「逃げるぞ!」
返事はない。
シアンはすでに影の中へ潜っていた。
仲間を助けるためではない。
自分だけ逃げるために。
白い床の影を渡り、出口へ向かう。
ルオは、そちらを見てもいなかった。
「逃げられると思ってる」
白銀の龍尾が、床を叩く。
衝撃が影の中へ伝わった。
「なっ――」
シアンの体が、影から無理やり吐き出される。
床を転がる。
立ち上がるより早く、龍尾が足首へ巻きついた。
「離せ!」
短剣で尾を斬る。
刃が白銀の鱗へ当たり、砕けた。
「嘘だろ……」
龍尾がシアンを持ち上げる。
そのまま壁へ叩きつけた。
一度。
骨が折れる。
二度。
眼鏡が砕ける。
三度。
血が壁へ残る。
「や、やめ……」
「フィルエの脚を切ったの」
ルオが近づく。
「お前だな」
「浅く切っただけです!」
「浅ければいいのか?」
「逃げられないようにしただけで――」
「同じにしてやる」
龍爪が、シアンの右脚を掴んだ。
膝の下から、皮膚と鎧をまとめて引き裂く。
「ぎゃあああっ!」
次に左脚。
爪が肉へ食い込む。
シアンが必死に影へ潜ろうとする。
だが、影そのものを龍尾が押さえつけている。
「入れない……!」
「もう逃げなくていい」
ルオは、龍尾を振り上げた。
シアンの体が天井近くまで持ち上がる。
「待っ――」
振り下ろす。
頭から白い床へ叩きつけられた。
床が陥没する。
シアンの体は、そこで動かなくなった。
《Sランク域個体、シアン・ヴェルク死亡》
《ソウル獲得:560,000》
《現在戦闘獲得ソウル:2,310,000》
四人。
ほんの短い時間で。
Sランク域の四人が、惨たらしく殺された。
残ったのは。
リーダーのレオルド・ヴァンゼルだけだった。
◇
レオルドは、赤黒い長剣を両手で構えていた。
額には汗。
呼吸は乱れている。
それでも、逃げなかった。
逃げられないと分かっているからだ。
「……お前」
声が震える。
「何者だ」
「ルオ」
「それは名前だ!」
「さっき言っただろ」
ルオが一歩近づく。
レオルドが剣を振るう。
「赫月剣奥義――満月断ち!」
赤黒い円が、ルオへ広がる。
ルオは右の龍爪で刃を掴んだ。
握る。
満月の斬撃が砕けた。
赤黒い長剣にも、亀裂が走る。
「そんな……」
「お前がリーダーだな」
ルオは剣を離した。
レオルドが反射で後退する。
「全部取れって言ったのも」
一歩。
「フィルエを売れって言ったのも」
もう一歩。
「ガルザヴェインを痛めつけろって言ったのも」
レオルドは答えなかった。
「お前だな」
「……そうだ」
ここで否定しても無駄だと理解したのだろう。
レオルドは、唇を歪めた。
「俺が命じた」
「そうか」
「それがどうした」
ルオの足が止まる。
「迷宮の魔物に、所有権でもあると思っているのか?」
レオルドは笑った。
恐怖を押し殺すために。
自分がまだ上にいると思い込むために。
「強い者が奪う」
「弱い者は奪われる」
「俺たちは実を見つけた」
「女も見つけた」
「だから取った」
「それだけだ」
ルオは、静かに聞いていた。
「フィルエが嫌がっても?」
「弱い者の都合など知るか」
「木が枯れても?」
「俺たちには関係ない」
「ガルザヴェインが守ろうとしても?」
「負けた奴が悪い」
レオルドは剣を構え直した。
「それが世界だ」
ルオの金色の目が、冷たく細くなる。
「じゃあ」
次の瞬間。
ルオはレオルドの横にいた。
「今のお前も」
白銀の龍脚が、レオルドの右膝へ横から入る。
骨が折れた。
脚が逆方向へ曲がる。
「ぐあああっ!」
レオルドが倒れかける。
反対側へ回る。
左膝にも、龍脚が入った。
砕ける。
「両方折れたな」
レオルドが床へ倒れる。
「弱いからだ」
「き、貴様……!」
「お前の理屈だろ?」
ルオは、レオルドの右腕を踏んだ。
手首の骨が砕ける。
「ぐっ!」
次に肘。
龍爪で掴み、逆方向へ折る。
「ぎゃあああっ!」
「弱い奴が悪い」
「やめろ!」
「知らねえよ」
左腕。
肩から外す。
皮膚が引かれ、裂ける。
血が白い床へ広がる。
「奪われる方が悪いんだろ?」
「俺は……!」
「何だよ」
ルオは、龍爪をレオルドの胸へ置いた。
鎧を剥がす。
その下の服も。
さらに皮膚へ爪をかける。
「俺はSランクだぞ!」
「だから?」
爪が皮膚を引き裂いた。
「がああああっ!」
「Sランクなら、何してもいいのか?」
「そうだ!」
痛みに叫びながらも、レオルドは言った。
「強い者が正しい!」
「じゃあ今はオレが正しいな」
さらに皮膚を引く。
「やめろおおおっ!」
「オレの方が強いから」
レオルドの目に、涙が浮かぶ。
だが、その涙は罪への後悔ではない。
痛み。
屈辱。
自分が負けていることへの怒り。
「なぜだ……」
レオルドが呟く。
「何で、俺が……」
「お前が弱いから」
「違う……」
「弱いだろ」
「違う!」
「地面で泣いてる」
「違う!」
「クソガキにボコボコにされてる」
「黙れ!」
「弱いな、お前」
「黙れええええええっ!」
◇
レオルドの怒りが、限界を越えた。
仲間を殺された怒りではない。
フィルエを奪い返された怒りでもない。
自分の行いを悔いる気持ちなど、一欠片もない。
ただ。
自分が弱いことが許せない。
自分が少年に負けていることが許せない。
Sランクである自分が。
人間の頂点である自分が。
地面に転がされ。
骨を折られ。
皮膚を引き裂かれ。
弱いと言われている。
それだけが。
レオルドの全てを焼いた。
「俺は……弱くない」
赤黒い魔力が、体の奥から漏れ始める。
「管理音声」
《解析中》
「何が起きている」
《対象レオルド・ヴァンゼル、魔力器に異常》
人間の体には、魔力を保持できる限界がある。
Sランク。
人間が、人間のまま到達できる最高点。
レオルドは、すでにそこへ届いていた。
これ以上強くなろうとすれば、器が壊れる。
今。
レオルドの中で、その器が砕けた。
《魔力器、崩壊》
「死ぬのか」
《否》
赤黒い魔力が、折れた骨へ絡む。
右膝。
左膝。
腕。
肩。
砕かれた部分が、異常な音を立てて繋がり始める。
《崩壊後、再構成開始》
「再構成?」
レオルドの裂かれた皮膚が、赤黒い魔力に覆われる。
人間の皮膚ではない。
薄い赤い結晶のようなものへ変わっていく。
折れた指が伸びる。
骨が太くなる。
筋肉が、人間の形を保ったまま別の密度へ変わる。
「俺は……」
レオルドが立ち上がった。
両脚は、もう折れていない。
「弱くない」
赤黒い長剣が、床から浮かぶ。
亀裂が塞がる。
刃が伸びる。
剣の周囲に、巨大な赤い月が浮かんだ。
白い区画全体が震える。
壁に亀裂が走る。
フィルエとガルザヴェインを守る白磁壁まで、圧力だけで軋んだ。
「管理音声!」
《対象、人間種の限界を突破》
《危険度、急上昇》
《推定冒険者等級――SSランク》
「SS……?」
《Sランクは、人間が到達できる最高域》
《SSランクは、その人間の領域を踏み越え、人外へ至った者》
余は、立ち上がったレオルドを見た。
もはや。
さっきまでの人間ではない。
怒りだけで、人の領域から外れた存在。
「こんな奴が……」
よりにもよって。
この男が。
人外へ至った。
◇
レオルドは、自分の両手を見た。
痛みは消えている。
骨も戻った。
引き裂かれた皮膚も、赤い結晶へ変わっている。
体の奥から、今まで感じたことのない力が溢れてくる。
「そうか」
レオルドは笑った。
「これが……上か」
ルオは、その姿を黙って見ていた。
「俺は弱くなかった」
レオルドが赤黒い剣を握る。
「まだ、完成していなかっただけだ」
「クソみたいな言い訳だな」
ルオの声は変わらない。
「お前のおかげだ、ガキ」
赤い月が、レオルドの背後で大きくなる。
「礼に、苦しまず殺してやる」
「いらねえ」
ルオは、白磁壁の中にいるフィルエを一度だけ見た。
ガルザヴェイン。
枯れ始めたエリラの木。
母親の記憶。
全てを胸の奥へ押し込む。
「ロード」
《何だ》
「フィルエとガルザヴェイン、絶対守れ」
《分かっている》
「壁、もっと厚くしろ」
《お前はどうする》
ルオの両脚を、白銀の鱗が覆っていく。
人間の脚ではない。
地面を踏み砕き、空を蹴るための龍脚。
腰から龍尾が伸びる。
背中から、片翼だけだった白銀の翼が大きく開く。
右腕は完全な龍腕。
左腕にも、少しずつ鱗が広がる。
頬。
顎。
首。
少年の姿を残しながら。
必要な部分だけが、龍へ変わっていく。
「今度は」
ルオの金色の瞳が、レオルドを真っすぐ捉えた。
「ちゃんと本気で殺す」
レオルドの赤い月が輝く。
ルオの白銀の鱗が光る。
SSランクへ覚醒した人外の冒険者。
そして。
初めて本気で戦おうとする、龍神の子。
二つの力がぶつかる前から。
霧灰白庭迷宮の最深部は、崩れ始めていた。




