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第228話 傷ついた覇王は、フィルエを渡さない

 魔神覇王ゴブリン・ガルザヴェインが、白い霧の奥から現れた。


 脇腹から、黒い血が流れている。


 肩の傷も開いていた。


 胸には先ほど受けた盾撃の痕が残り、覇王化したばかりの魔力の流れも乱れている。


 立っているだけで、脚が震えていた。


 それでも。


 ガルザヴェインは、血まみれのフィルエと、最後の実が残るエリラの木を背にするように、五人の前へ立った。


「フィルエヲ」


 呼吸が乱れる。


 それでも、拳を上げる。


「ハナセ」


 ドグル・ハインの鎖に拘束されたフィルエが、顔を上げた。


「ガルザヴェイン……」


「ダイジョウブ」


 大丈夫ではない。


 フィルエにも分かった。


 余にも分かっている。


「ガルザヴェイン、下がれ!」


 余は契約線を通して叫んだ。


「今のお前では勝てない!」


「ワカル」


「なら戻れ!」


「イヤダ」


 ガルザヴェインは、余の命令に逆らった。


 フィルエを守るために。


 エリラの木を守るために。


 ガスト・ロウガが、大きな拳を鳴らした。


「立つのもやっとじゃねえか」


 シアン・ヴェルクが眼鏡越しにガルザヴェインを観察する。


「表面の傷は塞がっています。でも、体内の魔力の流れが壊れている」


 ミレイア・ゾルドが笑った。


「さっきの戦闘で力を使い切ったのね」


「なら、捕獲できるかもしれないな」


 ドグルが鎖を揺らす。


 レオルド・ヴァンゼルは、最後の一個へ伸ばしていた手を下ろした。


「殺す前に、価値を確かめる」


 ガルザヴェインの金色の目が細くなる。


「オレ、オマエラノ、モノ、チガウ」


「お前が決めることではない」


 レオルドが、赤黒い長剣を抜いた。


 刃に浮かぶ赤い光が、三日月のように曲がる。


「強い物は、強い者が持つ」


「チガウ」


「何が違う?」


「オマエ、ツヨクナイ」


 ガストの笑みが消えた。


 ミレイアも眉を動かす。


 レオルドだけが、薄く笑った。


「なら、確かめてみろ」


    ◇


「ドグル」


 レオルドが命じる。


「女を押さえていろ。実の採取も続けろ」


「了解」


 フィルエの腕に巻きついた鎖が、さらに強く締まった。


「っ……!」


「やめろ!」


 余の声は、断響結界だんきょうけっかいの外へ漏れない。


 五人には届かない。


 ガルザヴェインには届く。


 そして、フィルエの痛みも届く。


 ガルザヴェインの足元で、白い床が砕けた。


「ハナセ!」


 彼の巨体が消えた。


 速い。


 傷つき、魔力を失っているとは思えない踏み込み。


 最初に狙ったのはドグルだった。


 フィルエを拘束している男。


覇王拳はおうけん――砕城さいじょう!」


 黒い拳が、ドグルの胸へ迫る。


 だが、その前へガストが割り込んだ。


剛拳技ごうけんぎ――岩王受がんおううけ!」


 両腕を交差し、全身へ灰色の魔力をまとわせる。


 拳と腕が衝突した。


 轟音。


 ガストの両足が床へ沈む。


 腕の皮膚が裂ける。


「ぐっ……!」


 ガストの顔から余裕が消えた。


「弱っていて、これかよ!」


 ガルザヴェインは止まらない。


 右拳を受け止められたまま、左の肘をガストの側頭部へ振るう。


 ガストが頭を下げる。


 肘が髪をかすめた。


 その背後から、シアンが滑り込む。


「そこ」


 短剣が、ガルザヴェインの右膝裏へ入った。


 深くはない。


 だが、先ほどの戦いで傷ついていた場所を正確に狙われた。


「グッ!」


 ガルザヴェインの膝が沈む。


 ミレイアが指を向けた。


炎術えんじゅつ――焼鎖しょうさ!」


 細い炎が、鎖のようにガルザヴェインの脇腹へ巻きつく。


 塞がりかけていた傷を焼く。


 肉の焦げる音。


 黒い血が熱で弾けた。


「ガルザヴェイン!」


「マダ!」


 魔神覇王が咆えた。


魔神覇王吼まじんはおうこう!」


 重い声が、区画全体を震わせる。


 ガストが吹き飛ぶ。


 シアンの体が横へ流される。


 ミレイアの炎鎖が散る。


 ドグルの鎖も、大きく揺れた。


 フィルエを拘束していた部分が、一瞬だけ緩む。


「今だ、フィルエ! 離れろ!」


 フィルエは、傷ついた脚へ力を入れた。


 鎖から腕を抜こうとする。


 だが、ドグルがすぐに気づいた。


「逃がすかよ」


 鎖を引く。


 フィルエの肩が後ろへ捻られた。


「っああ!」


「フィルエ!」


 ガルザヴェインが振り返った。


 その一瞬だった。


 レオルドが間合いへ入る。


「戦いの最中に、余所を見るな」


 赤黒い剣が、ガルザヴェインの胸を斜めに裂いた。


赫月剣技かくげつけんぎ――半月断はんげつだち」


 黒い血が大量に飛ぶ。


 ガルザヴェインの巨体が揺れた。


「グアアッ!」


 レオルドは剣を返す。


 今度は、首。


 ガルザヴェインが腕を上げて受けた。


 戦傷覇装せんしょうはそうが、腕の古傷を鎧に変える。


 赤黒い刃が止まった。


「ほう」


 レオルドの目が光る。


「傷で受けるか」


「オレノ、キズ」


 ガルザヴェインは、刃を腕で挟んだ。


「オレノ、チカラ」


「なら、その傷ごと斬る」


 レオルドの魔力が膨れ上がる。


 赤黒い刃が、戦傷覇装へ食い込む。


 アレクの白銀傷。


 天蓋の猟犬に刻まれた傷。


 ルオの一撃を受けた痕。


 黒冠隷命に抗った傷。


 それらが光り、刃を止める。


 だが。


 今のガルザヴェインには、鎧を維持する力が足りない。


 光に亀裂が走った。


「ガルザヴェイン、離れろ!」


「イヤダ!」


 ガルザヴェインは剣を挟んだまま、額をレオルドの顔へ叩き込んだ。


 鈍い音。


 レオルドの鼻から血が噴く。


「隊長!」


 ガストが叫ぶ。


 レオルドが二歩下がった。


 初めて、その顔から笑みが消えた。


「……この状態で、俺に血を流させるか」


 ガルザヴェインは、崩れそうな脚で踏みとどまる。


「オマエ、ヨワイ」


「言ったな」


 レオルドの目に、冷たい殺意が宿った。


    ◇


「全員で削れ」


 レオルドが命じた。


「殺すな。立てなくしろ」


「遊んでいいんですか?」


 ガストが笑う。


「好きにしろ。ただし、とどめは待て」


 四人が同時に動いた。


 シアンが消える。


 正面ではない。


 ガルザヴェインの視界の端を、何度も出入りする。


 短剣が、けんと傷口だけを狙う。


 一撃。


 左足。


 二撃。


 右肩。


 三撃。


 脇腹。


 深く斬らない。


 動きを少しずつ奪う。


覇王爪はおうそう――裂軍れつぐん!」


 ガルザヴェインが爪を振るう。


 黒い斬撃が、シアンの逃げ道ごと裂く。


 シアンの外套が切れた。


 胸へ浅い傷が走る。


「っ!」


「シアン!」


「大丈夫です」


 シアンは後退しながら、目を細めた。


「弱っています。でも、技の範囲は広い」


「なら、狭めればいいわ」


 ミレイアが両手を広げる。


「炎術――炎葬檻えんそうおり!」


 ガルザヴェインの周囲に、炎の柱が八本立った。


 柱同士が火の壁で繋がる。


 広い爪技を振るえば、炎が内側へ倒れ込む構造。


 ガルザヴェインは爪を止める。


 その背後から、ドグルの鎖が飛んだ。


 首。


 両腕。


 腰。


 三方向へ絡みつく。


「捕まえた!」


 ガルザヴェインが鎖を掴む。


「覇王掴み!」


 鎖に流れる魔力を爪へ引っかける。


 握る。


 一本が砕けた。


 二本目も。


 だが、三本目を砕こうとした瞬間、ドグルが反対の手を引いた。


 フィルエを拘束している鎖だ。


「動けば、こいつの肩が外れるぞ」


 ガルザヴェインの手が止まった。


 フィルエの腕が、背中側へ強く引かれている。


「ガルザヴェイン、気にしないで!」


「ダメ」


「戦って!」


「フィルエ、イタイ」


 ガストの拳が、止まったガルザヴェインの腹へ入った。


「剛拳技――獣砕連打じゅうさいれんだ!」


 一発。


 二発。


 三発。


 同じ傷へ。


 ガルザヴェインの巨体が、拳を受けるたびに揺れる。


 四発目で、黒い血を吐いた。


 五発目で、片膝が床についた。


「やめろ!」


 余は叫んだ。


 ガストには届かない。


「立てよ、覇王様!」


 六発目。


 胸。


「弱い魔物を率いて、王になった気分か?」


 七発目。


 顎。


「お前も結局、迷宮の中でしか威張れねえんだよ!」


 八発目。


 脇腹。


 焼かれ、斬られ、何度も開いた傷へ拳がめり込む。


「ガルザヴェイン!」


 余は、構造を動かそうとした。


 床を沈める。


 壁を出す。


 ガストとガルザヴェインを分ける。


 だが、シアンが床の動きを読む。


「右へ!」


 五人が一斉に移動する。


 白磁壁が空振りし、逆にガルザヴェインだけを囲いかける。


「止めろ!」


 余は自分で壁を崩した。


 何をしても、フィルエとガルザヴェインを巻き込む。


 五人は、そのことまで利用している。


    ◇


 その間にも、最後の実は残っていた。


 一個。


 赤金色の実が、低い枝で揺れている。


 レオルドが、それを見た。


「ドグル」


「はい」


「採れ」


「やめて!」


 フィルエが叫ぶ。


 ドグルは片手でフィルエの鎖を握り、もう片方の鎖を木へ伸ばした。


 鎖の先端が、最後の実へ近づく。


「ガルザヴェイン!」


 フィルエが叫ぶ。


 魔神覇王は、ガストに殴られながら顔を上げた。


 最後の実が見えた。


「エリラ……」


 ガルザヴェインの額に、覇王の光が浮かぶ。


「まだ動くのか?」


 ガストが笑う。


「動くな!」


 余は叫んだ。


「もういい! 木よりお前が大事だ!」


「イヤダ」


 ガルザヴェインが、床へ両手をつく。


「ギル、ギギ、マモッタ」


 黒い血が、指の間から流れる。


「フィルエ、マモッタ」


 脚へ力を入れる。


「ロード、マモリタイ」


 巨体が上がる。


「ダカラ」


 片膝を上げる。


「マダ、タツ」


 ガストが拳を振り下ろす。


 ガルザヴェインは、その拳を額で受けた。


 血が飛ぶ。


 それでも立つ。


「魔神覇王吼!」


 咆哮が、至近距離で炸裂した。


 ガストの巨体が吹き飛ぶ。


 炎葬檻の柱が揺れる。


 ドグルの鎖が大きく逸れ、最後の実を取り損ねた。


 ガルザヴェインは、残った鎖を引きちぎる。


 シアンが背後へ迫る。


 振り返らない。


 カゲヌイもいない。


 ハイハネも。


 グズも。


 皆、余が下がらせている。


 それでも、ガルザヴェインはシアンの気配を読んだ。


 肘を後ろへ叩き込む。


 シアンの短剣と衝突する。


 短剣が折れた。


 肘がシアンの胸へ入る。


「がっ!」


 シアンが白い床を転がる。


 ガルザヴェインは、次にミレイアへ向かう。


「来ないで!」


 炎が放たれる。


「炎術――灼流しゃくりゅう!」


 炎の奔流がガルザヴェインを包む。


 黒い皮膚が焼ける。


 だが、止まらない。


「戦傷覇装!」


 過去の傷が光る。


 炎を受けた場所。


 焼かれた場所。


 天蓋の猟犬との戦いで火灰を浴びた記録。


 それらが鎧となり、炎を押し分ける。


 ガルザヴェインの拳がミレイアへ迫る。


「隊長!」


 ミレイアが叫ぶ。


 赤黒い斬撃が横から入った。


「赫月剣技――血月墜けつげつつい!」


 レオルドの剣が、ガルザヴェインの右肩へ食い込む。


 刃だけではない。


 上から巨大な重圧が落ちる。


 ガルザヴェインの体が、白い床へ叩きつけられた。


 床が大きく陥没する。


「グアアアアッ!」


 右肩の骨が砕けた。


 ガルザヴェインの拳が、床へ落ちる。


 戦傷覇装の光も、ついに消えた。


「今だ!」


 ドグルの鎖が、両腕と両脚へ巻きつく。


 ガストも戻ってくる。


 ガルザヴェインの背中へ足を乗せた。


「今度こそ寝てろ」


 踏みつける。


 傷ついた肩が床へ沈む。


「ガルザヴェイン!」


 フィルエが泣きながら叫ぶ。


「もういい! もう戦わないで!」


「マダ……」


「もういい!」


「フィルエ……」


 ガルザヴェインは顔を上げようとする。


 ガストが後頭部を蹴った。


 顔が床へ叩きつけられる。


「もういいって言われてるぞ」


 もう一度。


「聞き分けろよ、魔物」


 三度目。


 黒い血が、白い床へ広がる。


「やめろ!」


 余の声は届かない。


 ただ、ガルザヴェインには届いている。


「もう立つな! 余の命令だ!」


「ロード……」


「立つな!」


「ゴメン……」


 ガルザヴェインの指が、床を掻いた。


 だが、もう力が入らない。


「マモレナカッタ」


「違う!」


「フィルエ……エリラ……」


「お前は守った!」


「デモ……」


「もういい! だから休め!」


 ガルザヴェインの金色の目が、少しずつ閉じていく。


 最後に、フィルエを見た。


「ゴメン」


 そのまま、動かなくなった。


《ガルザヴェイン、戦闘不能》


《生命反応あり》


《重傷》


 生きている。


 だが、戦えない。


 迷宮の最後の戦力が、倒れた。


    ◇


 レオルドは、倒れたガルザヴェインを見下ろした。


「全快なら、面倒だったな」


 シアンが胸を押さえながら起き上がる。


「今の状態でも、私の肋骨が二本折れました」


 ガストも口元の血を拭う。


「俺も腕が痺れてる」


 ミレイアの外套は、炎を押し分けられた時の熱で一部焦げていた。


 ドグルの鎖も、三本が破壊されている。


 五人は勝った。


 だが、重傷のガルザヴェイン一体に、無傷では済まなかった。


 それでも。


「大したことなかったな」


 ガストは、倒れたガルザヴェインの顔を蹴った。


「やめて!」


 フィルエが叫ぶ。


「もう動かないでしょ!」


「だから蹴れるんだろ」


 もう一度、足を上げる。


「ガスト」


 レオルドが止めた。


「時間を使うな」


「ちぇっ」


「実を回収する。女も運べ」


 ドグルが頷く。


 最後の実へ鎖を伸ばした。


「やめて……」


 フィルエの声が震える。


 鎖の先端が、赤金色の実を包む。


「お願い……」


 枝から実が離れた。


《エリラの実、残存数:ゼロ》


 白い部屋に、警告が響いた。


《警告》


《エリラの木、結実維持条件喪失》


《枯死反応、開始》


「……あ」


 フィルエが、木を見た。


 赤い葉の色が薄くなる。


 金色だった裏葉が、灰色へ変わり始める。


 赤金色の幹から、光が消えていく。


 枝が、ゆっくり下がった。


「いや……」


 フィルエの瞳から、涙が落ちる。


「いや……いや……!」


 木へ這っていこうとする。


 ドグルが鎖を引いた。


 フィルエの体が後ろへ引きずられる。


「離して!」


「採取は終わった」


「返して!」


「何を?」


「最後の実!」


 ドグルは、最後の一個を空間収納具へ投げ込んだ。


 暗い空間が閉じる。


「返してえええっ!」


 フィルエの声が、断響結界の中で響いた。


 木の葉が、一枚落ちる。


 赤ではない。


 灰色になった葉。


 白い床へ、音もなく落ちた。


「……余が」


 白い部屋で、余は呟いた。


「余が道を開いた」


 配下を守るためだった。


 実は戻ると思った。


 数個取れば帰ると思った。


 それが。


 木を枯らした。


 フィルエを傷つけた。


 ガルザヴェインを倒させた。


「余が……」


《ロード》


 管理音声が呼ぶ。


「黙れ」


《しかし――》


「黙れ!」


 余の声が白い部屋を震わせた。


    ◇


 レオルドは、枯れ始めた木を見ても何も感じていない。


「本当に枯れたか」


 ミレイアが葉を拾う。


「急速に生命反応が落ちています」


「なら、あの女の話は本当だったわけだ」


 シアンが言う。


「惜しかったですか?」


 レオルドは肩をすくめる。


「実は全部取った」


「木を持ち帰れなくても?」


「今ある物で十分だ」


 フィルエが、血まみれの顔でレオルドを睨んだ。


「最低……」


「何?」


「あなたたち、最低」


 ガストが拳を振り上げる。


「まだ殴られ足りねえか?」


「待て」


 レオルドがフィルエの顎を掴んだ。


 傷ついた顔を左右へ向ける。


「多少腫れているが、治せる」


「顔は傷つけすぎない方がいいですね」


 ドグルが言う。


「珍しい種族を集めている貴族を何人か知っています」


「売るの?」


 ミレイアがフィルエを見る。


「この子を?」


「高く売れるなら」


「なら、傷は治してからね」


「商品価値が下がるからな」


 フィルエの顔から、怒りの色すら消えた。


 理解できないものを見る目だった。


「私を……売る?」


「殺されるよりいいだろ」


 レオルドは平然と言った。


「買い手次第では、綺麗な服も食事も与えられる」


「私は、ここにいる」


「もう木は枯れた」


「それでも」


「ここへ残って何になる?」


 フィルエは、倒れたガルザヴェインを見る。


 傷ついた配下たちが隠れている方向を見る。


 そして、見えない余へ顔を向けるように、白い部屋の方角を見た。


「私の帰る場所」


 レオルドは、鼻で笑った。


「帰る場所は、強い者が決める」


 ドグルへ顎を動かす。


「運べ」


「了解」


 太い腕が、フィルエの体を抱え上げた。


「離して!」


 傷ついた手で抵抗する。


 拳でドグルの胸を叩く。


 力が入らない。


 ドグルは気にも留めない。


「暴れるな」


 フィルエを肩へ担ぐ。


 折れた肋骨へ肩が当たり、フィルエが苦痛に息を詰まらせた。


「っ……!」


「フィルエ!」


 余は叫ぶ。


 声は彼女へ届く。


「すまない!」


「ロード……」


「必ず助ける!」


 何を使って。


 誰が。


 ガルザヴェインは倒れた。


 配下たちは戦えない。


 ヴェルグレイヴは目覚めない。


 余には腕がない。


 それでも。


「必ずだ!」


 言うしかなかった。


 約束するしかなかった。


「だから、今は耐えろ!」


 フィルエは、苦しそうに目を開けた。


「……うん」


 弱い返事だった。


    ◇


 五人が、エリラの木の区画から出ようとする。


 ドグルの空間収納具には、百八十七個の赤金色の実。


 肩には、拘束されたフィルエ。


 後ろには、枯れ始めたエリラの木。


 白い床には、倒れたガルザヴェイン。


 レオルドが、最後に振り返った。


「帰りに残った魔物を狩るか?」


 ガストが嬉しそうに聞く。


「時間があればな」


「果実も女も手に入れたんだ。少しくらい遊んで帰ろうぜ」


「出口までの状況を見て決める」


 ミレイアが断響結界を維持したまま歩き出す。


 シアンが前へ。


 レオルドとガストが中央。


 ドグルがフィルエを担ぎ、後ろを歩く。


 白い門へ向かう。


「止めろ……」


 余は、最深部の闇へ意識を叩きつけた。


「ヴェルグレイヴ!」


 反応はない。


「起きろ!」


 静寂。


「フィルエが連れていかれる!」


 何も動かない。


「今しかないんだぞ!」


《反応なし》


「役立たずがああああっ!」


 余の叫びが、誰もいない白い部屋へ響く。


 五人の足音は止まらない。


 フィルエが、ドグルの肩越しに手を伸ばす。


 余の方へ。


 ガルザヴェインの方へ。


 枯れ始めた木の方へ。


 だが、何にも届かない。


    ◇


 その時だった。


 白い迷宮全体が、わずかに震えた。


「……何だ?」


 レオルドが足を止める。


 ミレイアが顔を上げた。


「魔力反応?」


 シアンの眼鏡に、強い光が走る。


 直後。


 眼鏡の片方に亀裂が入った。


「なっ……!」


「どうした」


「測れません」


「何?」


「大きすぎる……!」


 余も、その気配を感じた。


 入口。


 いや。


 もう入口ではない。


 浅層。


 中層。


 深部。


 順番に通っていない。


 一つの魔力が、白い迷宮の中を一直線に走ってくる。


 罠を避けるのではない。


 罠が反応するより早く通り過ぎる。


 白い霧が、後から吹き飛ぶ。


 グズの泥が驚いたように揺れる。


 ハイハネの羽が、かすかに持ち上がる。


 マネが、小さく呟いた。


「ルオ……?」


 余は、声を失った。


 そうだ。


 この気配を知っている。


 龍神系統高位個体。


 災害級常連。


 果物が好きで。


 フィルエに懐き。


 ガルザヴェインと組み手をする、お調子者の少年。


「ルオ!」


 余は叫んだ。


 声つなぎの契約は、まだない。


 外へ直接呼びかけることはできない。


 だが、今。


 ルオは、自分から来た。


    ◇


 断響結界が、突然ひび割れた。


「結界が!」


 ミレイアが両手を上げる。


「何もしていないのに……!」


 透明な膜へ、外から何かが触れたわけではない。


 ただ、近づいてくる存在の魔力に耐えられず、勝手に割れ始めた。


 ぱき。


 ぱきぱき。


 そして。


 結界が砕けた。


 白い霧の向こうから、一人の少年が歩いてきた。


 淡い銀青の髪。


 金色の瞳。


 人間の少年に見える姿。


 だが、いつもの笑顔はない。


 手には、フィルエへ渡すつもりだったのだろう。


 外の赤い果物が入った袋を持っていた。


 袋が、少年の手から落ちる。


 果物が白い床へ転がった。


 ルオ・ゼルファニアは、最初に枯れ始めたエリラの木を見た。


 次に。


 血まみれで倒れているガルザヴェイン。


 そして。


 ドグルの肩へ担がれたフィルエを見た。


 腫れた頬。


 血に濡れた口元。


 曲がった指。


 焼かれた手。


 力なく垂れた腕。


 その姿が、ルオの金色の瞳へ映る。


 少年の呼吸が止まった。


 一瞬。


 別の光景が、その目の奥を横切った。


 赤い血。


 動かない手。


 自分を守るように倒れた女。


 その向こうに立つ、黒い影。


 母親。


 魔王。


 消えかけていた記憶が、フィルエの姿と重なった。


 ルオの首筋から、白銀の鱗が浮かび始める。


 一枚。


 二枚。


 頬へ。


 肩へ。


 金色の瞳孔が、縦に細く裂けた。


 いつもの明るい声ではなかった。


 低い。


 震えている。


 怒りと。


 殺意で。


「……何やってんだ」


 五人が、少年を見る。


 ガストが眉をひそめた。


「何だ、このガキ」


 ルオは、ゆっくり顔を上げた。


 その金色の目には、もう笑みの欠片もなかった。


「何やってんだ、てめぇら」

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― 新着の感想 ―
エリラの木はダンジョンには過ぎた力で対応困難な強者を呼び寄せていましたから、枯れて良かった。その点は冒険者達に感謝しないといけません。
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