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第227話 フィルエは、最後の実の前に立つ

「待って!」


 少女の声が、エリラの木の区画へ響いた。


 赤金色の実へ伸びていた手が止まる。


 Sランク冒険者パーティー《赫月の晩餐かくげつのばんさん》の五人が、ゆっくりと振り返った。


 赤金色の木を背にして、フィルエが立っている。


 灰色の髪。


 白い肌。


 細い体。


 武器は持っていない。


 鎧も着ていない。


 ただ両手を広げ、五人とエリラの木の間に立っていた。


《エリラの実、残存数:八個》


 あと八個。


 それが今、枝に残されている全てだった。


「フィルエ、戻れ!」


 余は叫んだ。


 契約線を通じて、余の声はフィルエへ届いている。


「聞こえているだろう! 今すぐ戻れ!」


 フィルエの肩が震えた。


 それでも、彼女は下がらなかった。


 レオルド・ヴァンゼルが、興味深そうに目を細める。


「人型か」


 斥候のシアン・ヴェルクが、眼鏡越しにフィルエを観察した。


「人間ではなさそうです」


「魔物か?」


「分かりません。魔力反応も生命反応も、既知の種族と少し違います」


 炎術師ミレイア・ゾルドが、指先に小さな炎を灯す。


「木の番人かしら」


 拳闘士のガスト・ロウガは、にやにやと笑っていた。


「こんな細いのが?」


 鎖と空間収納具を持つドグル・ハインが、フィルエの背後にある木を見る。


「隠れていたなら、木の情報を持っているかもしれません」


 レオルドは頷いた。


「話を聞こう」


 その声だけなら、穏やかに聞こえた。


 だが、赤黒い長剣の柄から手を離してはいない。


    ◇


「フィルエ!」


 余は、もう一度呼んだ。


「戻れ! 余の命令だ!」


「……ごめん」


 フィルエが、小さく答える。


「謝る必要はない! 戻ればいい!」


「でも、あと八個しかない」


「分かっている!」


「全部取られたら、この木は死ぬ」


「分かっていると言っている!」


 分かっている。


 だから、苦しい。


 目の前の五人へ罠を起動したい。


 白磁壁で押し潰したい。


 戻り水で溺れさせたい。


 グズの黒泥で引きずり込みたい。


 カゲヌイの影糸で切り刻みたい。


 湿骨王列の槍を、全方向から突き立てたい。


 だが、フィルエがいる。


 エリラの木がある。


 この区画で大規模防衛を起動すれば、フィルエも木も巻き込む。


 配下を出せば、今度こそ死ぬ。


 ガルザヴェインも立てない。


「管理音声!」


《はい》


「フィルエだけを強制移動させろ!」


《不可能です》


「なぜだ!」


《フィルエは迷宮構造物ではありません》


「なら、床を動かせ!」


《対象五名がフィルエに近接しています。急激な構造変化は、フィルエへの危険を伴います》


「白磁壁を間へ出せ!」


《実行可能》


「やれ!」


 フィルエと五人の間で、白い床が盛り上がる。


 白磁壁が生まれようとした。


 だが、シアンが即座に足元を見た。


「床が動く!」


「ガスト」


 レオルドが短く呼ぶ。


「おう!」


 ガストが拳を振り下ろした。


剛拳技ごうけんぎ――地殻割ちかくわり!」


 白磁壁が完成する前に、拳が床へ叩き込まれる。


 轟音。


 生まれかけた壁が、内側から砕けた。


 白い破片が飛び散る。


 フィルエが腕で顔を守る。


「くっ……!」


「フィルエ!」


 ガストは、砕けた床を見て笑った。


「隠れてる奴が何かしてるな」


 余は外部音声を開いた。


《そこから離れろ》


 だが、余の声が五人へ届く直前。


 ミレイアが周囲の音の流れに気づいた。


「遠隔音声よ」


 彼女は指を鳴らす。


断響結界だんきょうけっかい


 透明な膜が、五人とフィルエの周囲を包んだ。


 外から入る声。


 遠隔で流される音。


 音を使った幻術や命令。


 それらを遮る結界。


《そこから――》


 余の声が途中で切れた。


「何?」


 レオルドには届いていない。


「声による罠を切りました」


 ミレイアが答える。


「以前の戦闘跡に、偽の声へ惑わされた形跡がありましたから」


「そのまま維持しろ」


「ええ」


「余の声が……!」


 白い部屋で、余は叫んだ。


 フィルエには、契約線を通して声を届けられる。


 だが、五人には届かない。


 交渉もできない。


 警告も。


 脅しも。


 何一つ。


 余は、フィルエの目と耳を通して見ることしかできなかった。


    ◇


「何者だ」


 レオルドがフィルエへ問う。


 フィルエは答えず、エリラの木を背にしたまま言った。


「その実を、それ以上取らないで」


 レオルドが枝を見る。


「理由は?」


「必要な分なら渡すから」


「必要な分?」


「だから、全部は取らないで」


 ガストが鼻で笑った。


「もう取った後に言うなよ」


「まだ八個残ってる」


「八個しか、だろ?」


「違う」


 フィルエは首を横に振った。


「八個も残ってる」


 レオルドの目が、少しだけ冷たくなる。


「質問に答えろ。なぜ残す必要がある」


 フィルエは唇を噛んだ。


 言えば、この者たちへ木の秘密を一つ教えることになる。


 だが、言わなければ止まらない。


「全部取ったら……」


 フィルエは、背後の木へ一度だけ触れた。


「この木は枯れる」


 五人の間に、短い沈黙が落ちた。


 こいつらは知らなかった。


 今、初めて知った。


 正式な名前も。


 実が再び増える条件も。


 エリクサーの素材であることも。


 何一つ知らない。


 ただ、全部取れば木が枯れる。


 その一つだけを、フィルエの口から聞いた。


 ミレイアが木を見る。


「本当なの?」


「本当」


「証拠は?」


「この木を見ていれば分かる」


「私には分からないわ」


 シアンが幹と枝へ視線を走らせた。


「嘘をついている反応には見えません」


「なら、どうする?」


 ドグルがレオルドへ聞く。


 余は祈った。


 残せ。


 八個だ。


 すでに百七十九個も奪った。


 それで十分だろう。


 もう帰れ。


 レオルドは、フィルエではなく木を見た。


「それがどうした?」


 フィルエの目が見開かれる。


「……枯れるんだよ」


「聞こえている」


「もう実が生らなくなる」


「それが俺たちに何の関係がある」


 余の中で、何かが軋んだ。


「必要な分なら、もう持ってる」


 フィルエが言う。


「それだけあれば、十分でしょ」


「お前が決めることではない」


「でも――」


「俺たちが欲しい分が、必要な分だ」


 レオルドは、フィルエの横から腕を伸ばした。


 枝に残る赤金色の実を一つ取る。


《残存数:七個》


「やめて!」


 フィルエが、その手首を掴んだ。


 空気が止まった。


 レオルドは、自分の腕を掴む細い手を見下ろす。


「離せ」


「返して」


「離せと言った」


「返して!」


 レオルドが手を振った。


 ただ、それだけだった。


 フィルエの体が宙へ浮く。


 背中から白い床へ叩きつけられた。


「っ……!」


 息が詰まる。


 それでも、フィルエはすぐに立とうとした。


「フィルエ、戻れ!」


 余の声は、契約線を通じて届いている。


「もういい! 木から離れろ!」


「まだ……七個ある」


「実の話をしているのではない!」


 フィルエは立った。


 もう一度、木の前へ向かう。


 そこへガストが歩み寄った。


「しつこいな」


 大きな手が、フィルエの髪を掴む。


「やめろ!」


 フィルエの頭が後ろへ引かれる。


「離して!」


「木から離れろって言われてんだろ?」


 ガストが笑った。


「誰に言われたかは知らねえけどな」


 そのままフィルエを床へ投げた。


 小さな体が転がる。


 赤金色の木から離される。


「やめろ……」


 余の声は五人へ届かない。


「やめろ!」


    ◇


 フィルエは、床へ手をついた。


 立ち上がろうとする。


 ガストの足が、その手を踏んだ。


「っ!」


 指が白い床へ押しつけられる。


「木に触る手は、これか?」


「どいて……!」


「聞こえねえな」


 ガストが、さらに体重をかけた。


 小さな骨が軋む。


「ガスト」


 レオルドが呼ぶ。


「顔は潰すな」


 余は、一瞬意味が分からなかった。


 ガストも首を傾げる。


「何で?」


「珍しい個体だ」


 レオルドは、フィルエを値踏みするように見た。


「迷宮深部にいる人型。既知の種族とも違う。生かして持ち帰れば、欲しがる貴族がいる」


 ドグルが頷く。


「収集家なら、かなり出しますね」


「なら、手足だけか」


 ガストが笑った。


「骨は治せる。顔は避けろ」


 レオルドの声には、迷いがなかった。


 フィルエを一人の存在として見ていない。


 果実と同じ。


 持ち帰る物。


 売る物。


 値段のつく物。


「ふざけるな」


 余は白い部屋で低く言った。


「フィルエは物ではない」


 誰にも届かない。


 レオルドが残る実を指した。


「採取を続けろ」


「了解」


 ドグルの鎖が伸びる。


《残存数:六個》


「やめて!」


 フィルエが立とうとする。


 踏まれている手を、無理やり引き抜いた。


 皮膚が裂ける。


 指が不自然な方向へ曲がっていた。


 それでも、木へ走ろうとする。


 シアンが横から足を払った。


 フィルエの体が前へ倒れる。


 床へ手をつけない。


 傷ついた手を庇い、肩から落ちた。


「学ばないね」


 シアンは細い短剣を抜いた。


「走るなら、走れなくすればいい」


 刃が、フィルエのふくらはぎを浅く裂いた。


「っあ……!」


 血が白い床へ落ちる。


 深くはない。


 殺さないために。


 だが、脚へ力を入れれば激しい痛みが走る位置だった。


「シアン!」


 余は叫ぶ。


 当然、届かない。


 フィルエは脚を引きずりながら、それでも木へ進んだ。


「やめて」


 声が震える。


「お願いだから……」


 ミレイアが、残った実の付け根へ炎を当てる。


 赤金色の実が落ちる。


《残存数:五個》


 ドグルが受け止め、収納具へ入れる。


「やめて!」


 フィルエはミレイアの腕を掴もうとした。


 ミレイアは火をまとった手で、その手を払う。


 熱がフィルエの皮膚を焼いた。


「熱っ……!」


「触らないで」


 ミレイアは冷たく言った。


「汚れるでしょう」


 フィルエが焼けた手を胸へ抱える。


 その背中を、ガストが蹴った。


 鈍い音。


 フィルエの体が前へ飛ぶ。


 木の根元へ倒れ込む。


「フィルエ!」


 口元から、赤い血が落ちた。


 呼吸が浅い。


 肋骨が折れた可能性がある。


「管理音声!」


《はい》


「フィルエの状態を!」


《右手指骨折》


《左手表皮熱傷》


《右脚切創》


《肋骨損傷の可能性》


《生命反応低下》


「止めろ!」


 余は誰に向かって叫んだのか、自分でも分からなかった。


「もう止めろ! 実はくれてやる! フィルエから離れろ!」


 五人には、何も届かない。


《残存数:四個》


    ◇


「ヴェルグレイヴ!」


 余は、最深部のさらに奥へ意識を飛ばした。


 封じられた場所。


 長い眠りの中にある、最後の切り札。


「ヴェルグレイヴ、起きろ!」


 反応はない。


「聞こえているなら答えろ!」


 静寂。


「フィルエが殺される!」


 何も動かない。


「エリラの木が枯れる!」


 闇は眠ったまま。


「頼む……!」


 余は、初めてその言葉を口にした。


「起きてくれ、ヴェルグレイヴ!」


《対象、反応なし》


「強制的に起こせ!」


《不可能です》


「なぜだ!」


《覚醒条件未達》


「条件など知るか! 今起きろ!」


《強制起動不能》


「役立たずが!」


 余の怒鳴り声が、最深部の闇へ吸い込まれる。


 ヴェルグレイヴは起きない。


 フィルエが殴られている。


 木が奪われている。


 配下たちは傷つき、ガルザヴェインは動けない。


 それでも。


 最後の切り札は、何の反応も返さなかった。


    ◇


 フィルエは、エリラの木の根元へ手をかけた。


 立とうとする。


 折れた指が震える。


「もういい」


 余は言った。


「フィルエ、もういい」


「よくない……」


「よい!」


「よくない」


 フィルエは、血のついた口元を拭った。


「この木は、ずっと生きてた」


「分かっている」


「皆を治した」


「ああ」


「ガルザヴェインも」


「ああ」


「ゴブリンたちも」


「分かっている!」


「だから、一人にできない」


「お前まで死んだら、木を覚えている者がいなくなる!」


「ロードがいる」


「余は……!」


 言葉が詰まる。


 余はいる。


 だが、手がない。


 フィルエを抱き起こせない。


 五人の前へ立てない。


 木を自分の体で守れない。


 余は迷宮だ。


 この迷宮の全てのはずなのに。


 目の前の一人すら、守れない。


《残存数:三個》


 ガストが、木の根元にいるフィルエへ近づいた。


「邪魔だ」


 髪を掴む。


 フィルエが木へしがみつく。


「離さない」


「なら、腕ごと折るか」


 ガストが、フィルエの腕を掴んだ。


 木から引き剥がそうとする。


「やめろ!」


 余は叫ぶ。


 フィルエは必死に幹へ指をかける。


 折れた指。


 焼けた手。


 それでも離さない。


「しつこい!」


 ガストの膝が、フィルエの腹へ入った。


「うっ……!」


 力が抜ける。


 木から手が離れた。


 ガストは、フィルエの体を床へ投げた。


 今度は仰向け。


 立ち上がる前に、腹を蹴る。


 一度。


 二度。


 三度。


「やめろ!」


 フィルエの体が、蹴られるたびに小さく跳ねた。


「やめろおおおお!」


 口から血が溢れる。


 目の焦点が揺れる。


 それでも、木へ手を伸ばしている。


「……やめて」


 声は、もうほとんど出ていなかった。


「木を……殺さないで……」


 レオルドは、最後に残る三つの実を見た。


「ドグル」


「はい」


「採れ」


 鎖が伸びる。


《残存数:二個》


「やめろ!」


《残存数:一個》


 最後の一個。


 枝の一番低い場所に、赤金色の実が揺れている。


 フィルエの目が、それを見た。


 体を起こそうとする。


 動かない。


 ガストに蹴られた腹を押さえ、床を這う。


「あと……一つ……」


 余の声が震えた。


「フィルエ、動くな」


「守る……」


「動くな!」


「守らないと……」


「もういい!」


「よく……ない……」


 フィルエが、最後の実へ手を伸ばす。


 その腕を、ドグルの鎖が巻き取った。


「捕まえた」


 鎖が引かれる。


 フィルエの体が、木から遠ざけられた。


「いや……!」


 爪が床を掻く。


 届かない。


 最後の実へ。


 あと少し。


 だが、ドグルの鎖は強い。


 フィルエの細い腕を背中側へ捻り上げる。


「大人しくしろ」


「離して……!」


「商品が暴れるな」


 フィルエの肩が、嫌な音を立てた。


「っああ!」


「やめろ!」


 余は、何もできない。


 ただ、叫ぶ。


 ただ、見る。


 ただ、フィルエの痛みが契約線を通して流れ込んでくるのを感じる。


 レオルドが、最後の一個へ手を伸ばした。


    ◇


「ロード」


 低い声がした。


 ガルザヴェイン。


 魔神覇王が、白い床へ両手をついていた。


「動くな」


「フィルエ、ヤラレテル」


「分かっている」


「エリラ、サイゴ」


「分かっている!」


「オレ、イク」


「行くな!」


 ガルザヴェインが、震える脚へ力を入れる。


 立てないはずの体。


 傷は塞がっている。


 だが、内部の魔力経路は壊れたまま。


 覇王技を使うだけの力も残っていない。


 それでも、巨体が少しずつ上がる。


「駄目だ!」


「イク」


「今のお前では勝てない!」


「ワカル」


「なら休め!」


「フィルエ、トラレル」


「分かっている!」


「エリラ、カレル」


「分かっている!」


「ロード」


 ガルザヴェインの金色の目が、白い部屋を見ているように感じた。


「ナイテル」


「泣いていない」


「ナイテル」


「余に目はない!」


「デモ、ナイテル」


 ガルザヴェインは、完全に立ち上がった。


 脚が震えている。


 脇腹の傷が、また開き始める。


 黒い血が落ちる。


 それでも、立った。


「ナラ、イク」


「命令だ! 止まれ!」


 ガルザヴェインの足が、一瞬だけ止まる。


 余の命令が届いている。


 彼は余の配下だ。


 命令に従うべき存在。


 だが。


 ガルザヴェインは、もう一歩を踏み出した。


「ゴメン、ロード」


 魔神覇王が、余の命令へ初めて逆らった。


「フィルエ、マモル」


 次の一歩。


「エリラ、マモル」


 さらに一歩。


「オレノ、ナカマ、マモル」


 ガルザヴェインが、エリラの木の区画へ続く通路を歩き始める。


 遅い。


 ふらついている。


 血を落としている。


 それでも止まらない。


 最後の実へ手を伸ばしていたレオルドが、通路の奥から近づく重い足音を聞いた。


「何だ?」


 ガストが振り返る。


 白い霧の奥。


 黒い巨体が、壁へ手をつきながら現れた。


 魔神覇王ゴブリン・ガルザヴェイン。


 傷だらけ。


 力もほとんど残っていない。


 それでも、金色の目だけは死んでいなかった。


「フィルエヲ」


 ガルザヴェインが、血を吐きながら拳を握る。


「ハナセ」


 レオルドは、最後の実へ伸ばしていた手を止めた。


 そして、笑った。


「先ほどの戦闘で暴れていた個体か」


 シアンが眼鏡越しにガルザヴェインを見る。


「魔力は大きく落ちています。重傷です」


「なら、ちょうどいい」


 ガストが拳を鳴らした。


「さっき遊べなかった分、こいつで遊ぶか」


 余は白い部屋で叫んだ。


「ガルザヴェイン、逃げろ!」


 だが、魔神覇王は逃げなかった。


 血まみれのフィルエ。


 最後のエリラの実。


 それらを背にするように、五人の前へ立った。


「ココカラ」


 拳が上がる。


「ウシロ、イカセナイ」


 傷ついた魔神覇王と、無傷に近い五人のSランク冒険者。


 勝ち目のない戦いが、始まろうとしていた。

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