表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

225/233

第221話 折れた牙は、白い迷宮を報告する

 迷宮が、黒冠軍の再来に備えて軍としての訓練を始めた頃。


 黒冠軍の前線では、また一つの戦いが終わろうとしていた。


 ルグナ平原東端。


 白い聖旗と黒い冠旗が、夜明け前の風に揺れている。


「聖盾列、前進!」


 勇者側の号令とともに、白い大盾が一斉に押し出された。


 盾と盾の隙間から、槍が伸びる。


 その後ろでは神殿術師たちが祈り、白い結界を何層にも重ねていた。


 対する黒冠軍は、黒槍兵を三列に並べて迎え撃つ。


「前列、下がるな!」


「呪具兵、結界の継ぎ目を狙え!」


 黒い呪杭が地面へ打ち込まれる。


 白い結界が揺れた。


 だが、砕けない。


 勇者側の聖騎士が剣を振り下ろす。


 白い斬撃が黒槍兵をまとめて吹き飛ばす。


 そこへ黒冠軍の魔獣騎兵が側面から突っ込み、聖盾列の端へ牙を立てた。


 白い盾が一枚崩れる。


 黒い槍が差し込まれる。


 勇者側の治癒術師が負傷兵を引き戻す。


 黒冠軍の呪医も、倒れた兵へ黒薬を飲ませて立たせる。


 押す。


 押し返す。


 殺す。


 治す。


 奪う。


 取り返す。


 夜が明けても、戦線はほとんど動かなかった。


 黒冠軍が数十歩進んだ。


 だが、そのために百を超える兵が倒れた。


 勇者側も同じだけの血を流しながら、土地を渡さなかった。


 やがて、両軍の角笛が鳴る。


 短い休戦。


 死体を回収し、陣形を組み直し、次の衝突に備えるためだけの静けさだった。


 黒冠軍第三戦団長ヴァルドレム・ガイザは、丘の上から戦場を見下ろしていた。


「また動かんか」


 その巨体を包む黒鎧には、勇者側の白炎が焦げ跡を残している。


 隣に立つ軍魔導参謀セレイナ・ヴェルが、淡々と答えた。


「東端で十九歩前進。北側で二十七歩後退。補給路への影響はありません」


「つまり、何も変わっていない」


「はい」


 ヴァルドレムは鼻を鳴らした。


「兵だけが減った」


 これが、今の戦争だった。


 黒冠軍は弱くない。


 勇者側も弱くない。


 どちらかが一度勝っても、それだけで土地を征服できない。


 砦を落としても、数日後には奪い返される。


 補給線を裂いても、新しい道が作られる。


 決定的な牙がない。


 だから黒冠軍は、戦局を変える武器と素材を求めた。


 そのために白いSランク相当迷宮へ向かったのが、第七牙だった。


 五人で出た。


 帰ったのは一人だけ。


    ◇


 その日の夜。


 黒冠軍本陣の大天幕で、正式な報告会が開かれた。


 卓上には、王国南東部を記した地図がある。


 その端に、小さな白い印が打たれていた。


 噂では、灰白庭。


 あるいは、白箱迷宮。


 銀刻帰らずと呼ぶ者もいる。


 呼び名は定まっていない。


 正式な名は、黒冠軍も知らない。


 地図の前に、ゼルヴァン・ギルロアが立っていた。


 砕かれた黒鎧は脱いでいる。


 胸と脇腹には厚い包帯。


 左手にも布が巻かれていた。


 指が二本ない。


 手の甲に刻まれていた黒い冠の紋には、深い亀裂が走っている。


 治癒術を受けても、その傷だけは消えていなかった。


「始めろ」


 ヴァルドレムが命じた。


 ゼルヴァンは一度だけ頷く。


「黒冠軍第七牙、白いSランク相当迷宮への探索任務」


 記録官が筆を構える。


「任務目的は、戦争へ転用可能な素材の確認および回収」


 声は落ち着いている。


 だが、次の言葉を出すまでに、ほんのわずかな間があった。


「結果。素材回収、失敗」


 天幕内が静かになる。


「帰還者、一名」


 ゼルヴァンは自分を指した。


「バロウ・ガンド、死亡」


 大盾を持つ、第七牙の壁。


「リシェ・ナイトリィ、死亡」


 影を歩く、第七牙の目。


「メルゼア・ルーン、死亡」


 血晶を操る、第七牙の術。


「オルグ・サイア、死亡」


 骨札を刻む、第七牙の帰路。


 四人の名を、ゼルヴァンは一つずつ口にした。


 顔は崩れない。


 声も震えない。


 それでも、失った指のない左手が、わずかに握られた。


 握り切ることはできなかった。


「第七牙、事実上壊滅」


 記録官の筆が、一瞬止まる。


 それから、重い音を立てて再び動いた。


    ◇


 セレイナが問う。


「まず、確認した事実だけを」


「了解」


 ゼルヴァンは地図へ目を向けた。


「入口から中層まで、霧、泥、影、骨を用いた複数の防衛を確認」


「それらは独立していたか」


「否」


 ゼルヴァンは即答した。


「互いの動きを補っていた。霧が視界を奪い、影が足を止め、泥が道を塞ぎ、骨が攻撃と足場を作る」


「誰かが指揮していた?」


「不明」


 はっきり区切る。


「指揮者の姿は確認していない。迷宮そのものによる制御か、何らかの個体による統率かも分からない」


「では、統制されていると考えた根拠は?」


「こちらの行動に合わせて役割が変化した」


 ゼルヴァンは答える。


「泥は最初、進行を止めるために動いた。後に、支配した際は我々の足場を支えた。影も同様。霧も、支配前後で守る対象を変えた」


「つまり、魔物ごとに判断している可能性もある」


「ある」


「外部の命令を受けている可能性も?」


「ある」


「どちらかは」


「断定不能」


 セレイナは頷いた。


 報告書へ書き加える。


 確認済みと、推測を分けて。


 それが軍の情報だった。


    ◇


黒冠隷命こっかんれいめいは?」


 ヴァルドレムが問う。


「低位ゴブリンに成功」


 ゼルヴァンの答えは短い。


「完全な支配か」


「否」


「理由は」


「一部個体が抵抗した」


 ゼルヴァンの視界に、最初に斬られた小さなゴブリンが浮かぶ。


 仲間の刃で倒れた個体。


「支配後も、別の行動を取ろうとする反応が残っていた」


「迷宮から命令を受けていた?」


「可能性はある」


「確定は?」


「できない」


 セレイナが続けて問う。


「抵抗個体にはどう対処した?」


「支配下の同族へ殺害を命じた」


 天幕の一部で、わずかなざわめきが起こる。


 ゼルヴァンは気にしない。


「軍列の乱れを防ぐためだ」


「その後、迷宮側の反応は変化したか」


「変化した」


「どのように?」


「罠の起動が速くなった。魔物の抵抗も強くなった」


「迷宮が怒った?」


 参謀の一人が聞いた。


 ゼルヴァンは首を横に振る。


「感情があるかは分からない」


 そこで断定を止める。


「確認できたのは、配下と思われる魔物が殺された後、防衛反応が急激に強まったことだけだ」


「制御側が感情的になった可能性」


「ある」


「戦術的に出力を上げただけの可能性」


「それもある」


 ゼルヴァンは、知らないことを知ったようには言わなかった。


 白い迷宮の中に何がいるのか。


 なぜ魔物たちが抵抗したのか。


 それは、まだ分からない。


    ◇


「霧、泥、影、骨も奪えたのか」


「一時的には」


 ゼルヴァンは言った。


「霧を操る魔物。泥で構造を作る魔物。影を縫う魔物。骨の軍列。それぞれに黒冠隷命を試した」


「効果は」


「個体差あり。完全支配には至らないものもいたが、行動の優先を奪うことはできた」


「高位個体には?」


 ゼルヴァンは少し黙る。


「効くか分からなかった」


 過去形ではない。


 試す前の話だ。


「だが、試す価値はあると判断した」


「対象は?」


「落武者に似た個体」


 天幕に置かれた白い板へ、記録官が簡単な姿絵を描く。


 灰白の鎧。


 長い刃。


「魔物というより、戦場で死んだ兵の残りに近かった」


「なぜそう判断した」


「動き、武具、まとっていた気配。さらに、帰るための道へ干渉する能力を持っていた」


「黒冠隷命との相性を見た?」


「ああ」


 ゼルヴァンの目が細くなる。


「命令を受けた兵の残りなら、軍令が届く可能性がある。そう判断した」


「結果は」


「届いた」


 ただし、弱かったからではない。


「黒冠隷命と、元の能力が融合した」


「融合?」


「個体が変質した。戦闘力も指揮能力も上がった」


 ゼルヴァンは、その時の姿を思い出す。


 黒い鎧。


 黒い冠紋。


 操られた迷宮魔物を軍列へ変えた落武者。


「こちらでは便宜上、黒帰将こっきしょうと呼ぶ」


「その黒帰将はどうなった?」


「高位ゴブリンの進化後、支配を破られた」


 セレイナの筆が止まる。


「そこを詳しく」


    ◇


 ゼルヴァンは、ガルザヴェインについて話した。


「ゴブリン系統の個体」


「通常種ではない?」


「比較する意味がない」


 ゼルヴァンは言い切る。


「体格、魔力量、知性、技量、全てが通常の上位種を超えていた」


「戦争に転用できると判断した?」


「ああ」


 それは隠さない。


「勇者側の聖盾列を正面から破壊できると見た」


「黒冠隷命を試した」


「ああ」


「効いた?」


「一時的に」


 ゼルヴァンの左手が、包帯の下で疼く。


「完全支配には至らなかった。だが、命令は入った。行動を鈍らせ、片膝をつかせるところまでは成功した」


「なぜ完全に落ちなかった」


「複数の抵抗要因があった」


 ゼルヴァンは指を立てようとして、二本足りないことに気づく。


 残った指だけで数えた。


「高い自我」


「魔神性と思われる力」


「迷宮側から届いた声」


「そして、自身が守ろうとしていた魔物たちへの執着」


「その執着を利用して、支配を深めようとした」


 セレイナが問う。


「どのように?」


「従えば、仲間を殺さずに済むと告げた」


「反応は?」


「揺れた」


「それでも落ちなかった」


「ああ」


 ゼルヴァンは、白い迷宮で聞いた言葉を思い出す。


 オレ、ゼルヴァンノ、ヘイ、チガウ。


「支配に抵抗しながら、戦闘を継続した」


「その最中に進化した?」


「ああ」


 天幕の空気が変わる。


「進化後の呼称は、こちらで便宜上、魔神覇王まじんはおうとする」


「自称ではないのか」


「確認していない」


 ここも分ける。


「ただし、進化後の能力は覇王という言葉が最も近い」


「何をした」


「支配されていた魔物を呼び戻した」


 ゼルヴァンは、あの重い声を思い出す。


覇王威令はおういれい帰陣きじん


「技名を聞いたのか」


「そう聞こえた」


 断定ではなく、聞き取った範囲。


「その声の後、低位ゴブリン、霧、影、泥、骨の支配が次々に剥がれた」


「黒冠隷命だけを壊す能力?」


「そうは思わない」


 ゼルヴァンは首を横へ振る。


「支配、恐怖、混乱、命令の乱れ。そうしたものから味方を立て直す、より広い力だ」


「根拠は」


「黒冠紋を砕くだけでなく、怯えて動けなくなった魔物まで再び立たせた」


 セレイナがゆっくり息を吐く。


「軍を率いる覇王、ということね」


「そう判断した」


    ◇


「深部から届いた声について報告しろ」


 ヴァルドレムが言った。


 ゼルヴァンは頷く。


「声の主は未確認」


「姿は見ていない?」


「明確には確認していない」


「名前は」


「不明」


「種族」


「不明」


「役割」


「不明」


 一つずつ、分からないと答える。


「分かっていることは?」


「深部から声が届いた」


「何を言った」


「支配された魔物へ止まるよう呼びかけた。高位ゴブリンにも呼びかけた」


「効果は」


「支配への抵抗が一時的に強まった」


「声の主が中枢?」


「断定不能」


「魔物の主?」


「断定不能」


「守られる立場だった?」


「可能性はある」


「理由は」


「高位ゴブリンが、その声の方向と深部を守ろうとした」


 それだけだ。


 ゼルヴァンは、その声の主がフィルエだとは知らない。


 名前も知らない。


 契約を結んでいるかも知らない。


 ただ、深部から届いた声が、魔物へ影響した。


 それだけを報告する。


    ◇


「高位素材について」


 セレイナが話題を変えた。


「回収は失敗した。では、存在は確認したの?」


「直接は確認していない」


 ゼルヴァンは答える。


「木も果実も、目視していない」


 ここも重要だった。


「では、何を見た?」


「赤金色の果実を管理する役割と思われるゴブリン」


「なぜそう判断した」


「袋を持ち、深部へ向かっていた。支配後、他の魔物とは違い、戦闘より運搬を優先させる反応を示した」


「果実そのものは?」


「一部の袋から、強い生命反応と甘い香りを感じた」


「エリラの実?」


「不明」


 ゼルヴァンは即答する。


「神級素材か?」


「不明」


「高位回復素材か?」


「可能性は高い」


「根拠」


「生命反応の強さ。守備の厚さ。運搬役の魔物が支配へ抗ってでも深部へ戻ろうとしたこと」


 セレイナは記録を整理する。



確認済み:


赤金色の果実を扱うと思われるゴブリンが存在。

深部に強い生命反応と甘い香り。

迷宮側が重点的に保護。


未確認:


果実の正式名。

効果。

数量。

木の存在。

神級素材か否か。



「これでいい」


 ゼルヴァンが言った。


「分からないものを、分かったことにするな」


 その言葉は、自分へ向けたものでもあった。


 白い迷宮は、まだ未知だ。


 だから第七牙は死んだ。


    ◇


 報告が終わると、天幕内で軍議が始まった。


「軍を送る」


 ヴァルドレムが最初に言った。


「第七牙を喰った迷宮を放置すれば、次は人間側が素材を得る」


 セレイナは首を横へ振る。


「今すぐは反対です」


「理由」


 彼女は外の戦場を指した。


 天幕の外では、負傷兵の声が続いている。


「今日だけで、東端の戦闘に九百以上を投入しました」


「分かっている」


「明日も同程度が必要です。白い迷宮へ攻略軍を送れば、前線が薄くなる」


「少数精鋭なら」


「一度目の手は、もう知られています」


 セレイナはゼルヴァンの左手を見る。


「黒冠隷命は経験された。次は最初から防がれる可能性が高い」


「なら、別の能力を持つ部隊を送る」


「その部隊も戻らなければ、損失が増えるだけです」


 ヴァルドレムが唸る。


「では、放置か」


「いいえ」


 セレイナの銀色の目が、地図の白い印へ向く。


「他者に調べさせます」


 ゼルヴァンが彼女を見る。


「人間を使うのか」


「使う、というより、欲を向ける」


 セレイナは薄い紙を一枚取り出した。


「白い封鎖迷宮の奥に、赤金色の高位回復果実があるらしい」


「未確認だぞ」


「だから噂にするのです」


 彼女は淡々と言う。


「名称は出さない。効果も断定しない。『どんな重傷でも癒すらしい』『神薬の素材かもしれない』『赤金の奇跡果と呼ぶ者がいる』。その程度で十分です」


「冒険者が動く」


「薬師も」


「貴族もか」


「病人を抱える貴族なら、私兵を出す可能性があります」


 ヴァルドレムの口元がゆっくり歪む。


「白い迷宮を、人間どもに削らせる」


「削れるかは分かりません」


 セレイナは慎重だった。


「ですが、侵入者が増えれば情報も増える。誰がどこまで進み、何を見て、何人帰るか。それだけでも価値があります」


「人間側が素材を手に入れる危険は?」


「あります」


「なら」


「だから、出所を一つにしない」


 彼女は地図上の複数地点を指した。


「赤金の果実があるという噂を、白い迷宮だけでなく、沼地、廃鉱、古戦場、別の迷宮にも流す」


「本物の場所を曖昧にするのか」


「はい。白い迷宮へ向かう者は増やす。しかし、全員がそこへ集中しないようにする」


「随分と細かいな」


「戦争ですから」


 セレイナは言った。


「軍を動かすだけが戦争ではありません」


    ◇


 ゼルヴァンは、黙ってその計画を聞いていた。


 報告書の端には、四人の名が残っている。


 バロウ。


 リシェ。


 メルゼア。


 オルグ。


 人間の冒険者を送り込めば、白い迷宮は消耗するかもしれない。


 あるいは、侵入者を喰ってさらに強くなるかもしれない。


 どちらになるかは分からない。


「ゼルヴァン」


 ヴァルドレムが呼ぶ。


「お前はどう見る」


「噂を流すことには賛成です」


「軍の再侵攻は」


「保留すべきです」


「復讐したくないのか」


 ゼルヴァンは、少しだけ視線を下げた。


「したいかどうかで軍を動かせば、黒冠軍が負けます」


 声は冷静だった。


「今のまま再侵入しても、同じ結果になります」


「次なら勝てるとは言わないのか」


「言いません」


 左手の傷を見る。


「覇王化したゴブリンは、さらに成長する可能性があります。迷宮側も黒冠隷命へ対策するでしょう」


「では、お前は何をする」


「黒冠隷命を作り直します」


 ゼルヴァンは、割れた紋のある左手を卓へ置いた。


「覇王威令に押し返されない形へ」


「もう一度、あのゴブリンを奪うつもりか」


「奪えるなら」


「無理なら」


「殺す」


 短い答えだった。


 だが、その目には、白い迷宮で敗走した時にはなかったものがある。


 怒りではない。


 執着。


 ガルザヴェインという存在を、自分の戦場へ引きずり出すための執着。


「ただし」


 ゼルヴァンは続けた。


「次は少数で入らない」


「軍で行くのか」


「軍で行くにしても、先に迷宮側の軍を崩す手段が必要です」


「奪えないなら?」


「分断する」


「戻されるなら?」


「声を届かなくする」


「深部の未知個体は?」


「位置を突き止める」


 だが、名前は言わない。


 知らないからだ。


 姿も役割も決めつけない。


「まずは情報です」


 ゼルヴァンは言った。


「第七牙の四人は、情報を持ち帰るために死んだ」


 彼の左手が、再び握られようとする。


 指が足りず、形にならない。


「次の部隊を、同じ無知のまま入れることだけは許しません」


    ◇


 軍議の結論が出た。


 白いSランク相当迷宮への大規模侵攻は保留。


 前線戦力は動かさない。


 正式な情報は黒冠軍上層部だけで秘匿。


 その一方で、人間側の闇市場、冒険者酒場、裏の薬材商へ、断片的な噂を流す。


 赤金色の果実。


 強い回復反応。


 封鎖された白い迷宮。


 決して、エリラの実とは言わない。


 黒冠軍も、その名を知らない。


 神級素材とも断定しない。


 確認できていない。


 だからこそ、噂は自由に膨らむ。


 どんな傷でも治る。


 死にかけた者が一晩で立った。


 エリクサーの材料だ。


 食べれば寿命が延びる。


 白いSランク迷宮の奥に、赤金の木がある。


 真実と嘘が混ざるほど、出所は分からなくなる。


「作戦名は」


 記録官が聞いた。


 セレイナは少し考えた。


「赤金散らし」


「そのままだな」


 ヴァルドレムが言う。


「分かりやすい方がよいのです」


 命令書へ黒い封が押された。


 魔王陛下へ提出する正式報告書とは別に、名前のない密命書が三通作られる。


 一通は、王国西部の闇商人へ。


 一通は、冒険者の集まる交易都市へ。


 一通は、薬材を扱う裏組合へ。


 黒冠軍の名は、どこにも書かれていない。


    ◇


 軍議が終わった後も、ゼルヴァンは大天幕に残った。


 卓上には、四枚の小さな黒札が置かれている。


 バロウ・ガンド。


 リシェ・ナイトリィ。


 メルゼア・ルーン。


 オルグ・サイア。


 黒冠軍では、戦死者の名札は軍墓へ納められる。


 だが、遺体はない。


 白い迷宮に残った。


 迷宮に喰われた。


 ゼルヴァンは四枚の札を見た。


「隊長」


 セレイナが、天幕の入口に立っていた。


「治療へ戻るべきです」


「分かっている」


「第七牙の再編申請は出しますか」


 ゼルヴァンは答えなかった。


 しばらくして、四枚の札を重ねる。


「出さない」


「理由は」


「第七牙は、この四人だ」


「新しい部下を持たないと?」


「必要になれば持つ」


 ゼルヴァンは黒札を懐へ入れた。


「だが、同じ名は使わない」


 セレイナは何も言わない。


 ゼルヴァンは立ち上がる。


「白い迷宮は、部下を駒として扱っていなかった」


 その言葉に、セレイナがわずかに目を細める。


「そう判断した根拠は?」


「支配された魔物を殺せる場面で、殺さなかった」


「高位ゴブリンが、ですね」


「ああ」


「迷宮全体がそう考えていたかは分からない」


「分かっている」


 ゼルヴァンは言った。


「だが、あのゴブリンは仲間を守った。そのせいで、支配へ入り込む隙が生まれた」


「次も、そこを狙う?」


「狙う」


 迷いはない。


「だが、同じ形では通らない」


 白い迷宮も学ぶ。


 ガルザヴェインも学ぶ。


 そしてゼルヴァンも学ぶ。


 折れた牙は、同じ噛み方をしない。


    ◇


 数日後。


 王国西部の、とある闇市。


 薬材商の男が、酒場の隅で声を潜めていた。


「赤金色の果実を知ってるか」


 向かいに座る冒険者が眉を上げる。


「果物の話をするために呼んだのか?」


「ただの果物じゃない」


「何だ」


「傷を治す」


「回復薬の材料か」


「そんな程度じゃないらしい」


 薬材商は、さらに声を落とした。


「腕が半分なくなった傭兵が、翌朝には剣を握ってたって話だ」


「嘘くせえ」


「俺もそう思う」


「なら、なぜ話す」


「噂の出所が一つじゃない」


 薬材商は、指を三本立てた。


「西の廃鉱。北の沼地。そして、王国南東部の封鎖迷宮」


「Sランク指定された白いところか?」


「噂ではな」


 冒険者の目が変わる。


「名前は」


「赤金の奇跡果」


 黒冠軍が作った名前だった。


 だが、その場にいる者は知らない。


「本当にあるのか」


「知らん」


「どこに」


「知らん」


「効果は」


「知らん」


「何も知らねえじゃねえか」


「だから、冒険者が調べるんだろ?」


 薬材商は笑った。


 その笑みの向こうで、噂が一つ生まれた。


 酒場から宿へ。


 宿から冒険者組合の裏口へ。


 薬材商から貴族の使用人へ。


 使用人から病床の主へ。


 赤金の奇跡果。


 どんな傷でも治すかもしれない果実。


 その名は、真実を知らないまま歩き始めた。


    ◇


 白い迷宮は、まだその噂を知らない。


 ロードは、黒冠軍が何を決めたか知らない。


 ゼルヴァンが誰に報告したかも知らない。


 赤金の奇跡果という言葉が、どこで生まれたかも知らない。


 ロードが知っているのは、ゼルヴァンが逃げたこと。


 次は軍で来ると言い残したこと。


 そして、天蓋の猟犬がエリラの実を二つ外へ持ち出したことだけだ。


 二つ目の実が誰の手へ渡ったか。


 どこで保管されているか。


 誰が調べているか。


 そこから情報が漏れるか。


 何一つ知らない。


 だから、警戒するしかない。


 外で、複数の火種が同時に育っていることにも気づかないまま。


 黒冠軍が流した噂。


 天蓋の猟犬が持ち帰った実。


 その実を見た者たち。


 白い迷宮の奥で増え続ける、本物の赤金の果実。


 それらは、まだ別々の線だった。


 だが、噂というものは、いつか線と線を結ぶ。


 ゼルヴァンは、失った左手を見ながら白い迷宮を覚えた。


 人間たちは、まだ見たこともない赤金の果実を夢に見始めた。


 そして霧灰白庭迷宮は、自分が次に迎えるものが軍だけではないことを、まだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ