第220話 白い迷宮は、軍になる
黒冠軍第七牙との戦いから、三日が経った。
迷宮は、完全には戻っていない。
壁は直った。
泥も埋まった。
砕けた骨門も、湿骨王列が新しく組み直した。
ハイハネの霧も、カゲヌイの影糸も、グズの黒泥城も、見た目だけなら元通りだ。
だが、音が違う。
ゴブリンたちの声が小さい。
赤金果守ゴブリンたちは、エリラの実を数える時も、前ほど騒がない。
マネは、まだ時々、自分の声を確かめる。
「ロード」
「ああ」
「ロード」
「ここにいる」
「……余の声」
「真似てよい」
「……ロード」
「うまいぞ」
そう言うと、マネは少しだけ震えた。
黒冠に奪われた声は戻った。
だが、戻ったから傷が消えるわけではない。
余は、そのことを覚えた。
ガルザヴェインも同じだ。
魔神覇王ゴブリン・ガルザヴェイン。
進化した。
強くなった。
黒冠隷命を砕き、奪われた配下を呼び戻した。
それでも、彼は勝利に酔っていない。
毎朝、刃戻りのギルと果守りのギギの名が刻まれた白骨板の前に立つ。
「ギル」
低く呼ぶ。
「ギギ」
続けて呼ぶ。
「オボエル」
それだけ言って、訓練へ向かう。
魔神覇王になって最初に覚えたことは、勝ち誇ることではなかった。
忘れないことだった。
◇
「管理音声」
《はい》
「対軍防衛台帳を開け」
《表示します》
白い部屋の壁面に、骨文字の台帳が広がった。
⸻
対軍防衛台帳。
目標:
一、黒冠軍再侵攻への備え。
二、配下が奪われた場合の非殺傷制圧。
三、マネ声核の保護。
四、フィルエおよびエリラの木の防衛。
五、ガルザヴェインを中心とした迷宮軍運用。
六、ゼルヴァン・ギルロア討伐。
⸻
「迷宮軍、か」
余は、その文字を見た。
前なら笑っていたかもしれない。
余の配下は、魔物だ。
ゴブリンは騒ぐ。
グズは褒めると揺れる。
ハイハネは眠そうに飛ぶ。
カゲヌイは影に潜んでいる時が一番落ち着く。
赤金果守は実の数をよく間違える。
マネは声を真似るが、たまに余の口調を大げさにする。
軍とは程遠い。
だが、ゼルヴァンはそこを突いた。
余の配下を軍として奪い、軍列として動かした。
なら、こちらも変わるしかない。
余の迷宮は、罠の集合では足りない。
魔物の寄せ集めでも足りない。
これからは、一つの軍として動けなければならない。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「お前を、迷宮軍の中核にする」
「チュウカク」
「そうだ。お前が前に出るだけではない。お前の声で、配下を立たせる。お前の覇王威令で、迷った配下を戻す。お前の拳で、敵の軍列を砕く」
ガルザヴェインは、しばらく考えた。
「オレ、マエ、ナグル」
「ああ」
「ミンナ、ウゴク」
「ああ」
「オレ、ミンナ、ミル」
「そうだ」
ガルザヴェインの金色の目が、少しだけ重くなった。
「ムズカシイ」
「そうだな」
「デモ、ヤル」
「やれ」
◇
覇王練兵窟は、魔神練兵窟を広げて作った。
ただ殴り合う場所ではない。
中央にガルザヴェインが立つ。
周囲に、霧喰い刃ゴブリンの小隊。
側面にハイハネ。
床下にグズの泥分体。
影にカゲヌイ。
外周に湿骨王列。
後方にマネ。
さらに奥に、赤金果守ゴブリンたちの避難路。
フィルエが、エリラの木の管理をしながら、非戦闘配下の退避を指揮する。
これが新しい形だ。
戦う者は戦う。
守る者は守る。
避難する者は避難する。
そして、誰かが奪われた時は、殺すのではなく、まず取り戻す。
「訓練開始」
余が命じる。
マネが余の声を広げる。
「訓練開始」
今度は本物の声だ。
迷宮全体に届く。
白骨書記が、模擬黒冠核を起動した。
ゼルヴァンの落とした指と黒冠紋の残りから作った、小さな模擬命令核だ。
本物ほど強くはない。
だが、低位配下の行動をわずかに乱すくらいはできる。
霧喰い刃ゴブリンの一体が、びくりと震えた。
「ギ……!」
額に薄い黒い紋が浮かぶ。
訓練だ。
分かっている。
だが、ゴブリンの体は震えている。
黒冠に奪われた記憶が、まだ残っているのだ。
「ガルザヴェイン」
「ウン」
ガルザヴェインが一歩前へ出る。
拳を振らない。
咆えない。
ただ、低く言った。
「モドレ」
覇王威令――帰陣。
黒金の覇気が、静かに広がる。
強くはない。
訓練用に抑えている。
それでも、ゴブリンの額に浮かんだ黒紋が、ぱきりと割れた。
「ギ……ギギ!」
ゴブリンは、その場に座り込んだ。
刃を落とす。
マネがすぐに余の声で言う。
「大丈夫だ。戻った」
フィルエが続ける。
「怖かったら下がっていい」
ゴブリンは首を横に振った。
まだ震えている。
だが、刃を拾った。
「ギ……!」
もう一度、立つ。
ガルザヴェインは頷いた。
「ヨシ」
その一言で、ゴブリンの震えが少し収まった。
◇
次の訓練は、奪われた味方の制圧だった。
模擬黒冠核が、湿骨王列の一部を乱す。
骨槍が、味方のゴブリンへ向きそうになる。
以前なら、ガルザヴェインが拳で砕いていただろう。
だが、それでは味方を壊す。
「カゲヌイ」
余が命じる。
カゲヌイの影糸が走る。
骨槍そのものではなく、骨槍を動かす影を縫う。
動きが止まる。
「グズ」
黒泥が骨槍の根元へ巻きつく。
砕かず、包む。
「湿骨王列、本体へ戻せ」
湿骨王列の別の骨が伸び、乱れた骨槍を自分の中へ引き戻す。
殺さない。
砕かない。
戻す。
「よし」
余は言った。
「次」
ハイハネの霧が乱される。
視界を味方側から奪おうとする。
「マネ、合図」
マネが余の声を出す。
「霧、三歩下がれ」
ハイハネが、自分の霧を引こうとする。
黒冠の模擬命令が邪魔をする。
羽が震える。
そこでガルザヴェインが声を出す。
「帰陣」
黒い濁りが霧から抜ける。
ハイハネが自分の羽で霧を畳む。
「ふぁ……」
眠そうな羽音。
だが、今はその音が安心できた。
「ハイハネ、戻った」
フィルエが言う。
ハイハネの羽が、少しだけ誇らしそうに揺れた。
◇
問題はマネだった。
模擬黒冠核が音路へ触れた瞬間、マネの声が乱れた。
「ロード」
自分の声。
「ロード」
余の声。
「ロード」
その次に、少しだけ黒い声が混じった。
「止まれ」
マネがびくりと震える。
「いや……」
小さな声だった。
「いや、だ……」
「マネ、遮断しろ」
余は言った。
「黒い声は余ではない」
「わかる……でも、声が……」
「マネ」
フィルエが言った。
「ロードの声は、マネを怖がらせない」
マネの震えが止まる。
「怖がらせる声は、違う」
「……違う」
「うん」
マネは、自分の核を震わせた。
新しく張った声核保護膜が、黒い命令を弾く。
ぱき、と小さな音。
黒い声が消える。
マネは、しばらく沈黙した。
それから、余の声を真似た。
「皆、戻れ」
少し震えていた。
だが、黒くない。
余の声だ。
「よし」
余は言った。
「よくやった」
マネは、また自分の声で言った。
「……返せた」
「ああ。返せた」
◇
訓練は、何度も続いた。
霧喰い刃ゴブリンの一体が途中で倒れた。
怖さと疲れで立てなくなったのだ。
フィルエがエリラの実を薄く切って与えた。
「無理しないで」
「ギ……」
「でも、戻ってきた。えらい」
ゴブリンは、小さく鳴いた。
赤金果守ゴブリンたちは、戦闘には出ない。
だが、避難訓練をした。
エリラの木の周囲にいる時、敵が来たらどう動くか。
実の袋を捨てるのか、持つのか。
フィルエの声が聞こえない時は、どの白骨標を目印に逃げるのか。
それを何度も練習する。
最初は混乱した。
実の袋を手放せずに立ち止まる個体がいた。
フィルエは、その個体の前にしゃがむ。
「命が先」
「ギ?」
「実はまた生る。あなたは戻らない」
赤金果守ゴブリンは、袋を見て、フィルエを見た。
そして、ゆっくり袋を置いた。
「そう。逃げる」
「ギギ」
「よし」
余は、その光景を黙って見ていた。
前なら、実を守れと言っていたかもしれない。
今は違う。
実は戻る。
配下は戻らない。
それを、ギルとギギが教えた。
◇
ガルザヴェインの技も、訓練された。
覇王拳・砕城。
壁、盾、門、結界を砕く技。
黒泥の厚い壁を何枚も作り、拳で砕かせる。
ただ破壊するだけではない。
中心を見抜き、一撃で割る。
力任せではなくなっている。
覇王拳・破軍。
前方の敵軍をまとめて崩す技。
湿骨王列が骨兵を並べ、ガルザヴェインが拳圧で隊列だけを崩す。
骨兵を粉々にしないように調整するのが難しい。
「ムズカシイ」
「だから訓練だ」
「ウン」
覇王踏・砕陣。
魔術陣、骨札陣、血晶陣の足場を踏み砕く技。
白骨書記が作った模擬陣を、踏み込み一つで崩す。
最初は陣だけではなく床まで大きく割った。
グズが泣きそうな泥音を出した。
「グズ……」
「すまん」
ガルザヴェインが謝った。
グズは驚いたように泥を揺らした。
魔神覇王が、床を壊して謝る。
これもまた進化かもしれない。
戦傷覇装。
傷を鎧にする技。
過去の傷跡へ魔力を巡らせる。
アレクの白銀傷。
天蓋の猟犬の六牙帰星。
ルオの白鱗打ち。
ゼルヴァンの黒冠傷。
それらを、弱点ではなく防御へ変える。
ガルザヴェインは、自分の傷に手を当てた。
「イタイ」
「痛むか」
「ウン。でも、ツヨイ」
「そうか」
痛みが強さになる。
それは良いことなのか。
余には分からない。
だが、ガルザヴェインはそれを選んだ。
覇王掴み。
実体のないものを掴む技。
影糸、霧の制御、魔力線、命令線。
最初はうまくいかなかった。
何度も空を掴む。
「ナイ」
「見えないからな」
「ツカメナイ」
「ゼルヴァンの黒冠は掴んだ」
「アレ、ムカツイタ」
「怒りで掴んだのか」
「タブン」
「……では、怒りなしで掴めるようにしろ」
「ムズカシイ」
「だから訓練だ」
「ウン」
◇
夕方になると、ルオが来た。
いつものように大声で来なかった。
入口で一度止まり、白い霧へ向かって手を上げる。
「ロード、来たぞ。今日は静かに来た」
《それを声に出す時点で静かではない》
「小さめだろ」
《まあ、前よりはな》
ルオは、今日も空梨を持っていた。
しかし、エリラの実を食べる前に、覇王練兵窟を覗いた。
「お、やってるな」
ガルザヴェインが振り返る。
「ルオ」
「今日は組み手じゃなくて、訓練か?」
「ウン」
「見ていい?」
余は少し迷った。
ルオに見せるべきか。
だが、どうせこいつは規格外だ。
隠しても匂いで気づく。
《邪魔しないなら見てよい》
「しないしない」
ルオは、覇王掴みの訓練を見た。
ガルザヴェインが何度も空を掴み、失敗する。
ルオは首を傾げた。
「それ、見えてないのを掴もうとしてるのか?」
「ウン」
「目で見るんじゃなくて、流れを噛めばいいんじゃね?」
ガルザヴェインが止まる。
「ナガレ」
「うん。空気とか、魔力とか、命令とか、全部ちょっと流れてるだろ。手で掴むんじゃなくて、爪の間に引っかける感じ」
「ツメ」
ルオは、自分の指を立てる。
白銀の鱗が薄く光る。
「こう。がっと掴むんじゃなくて、引っかけて、逃げる前に握る」
説明は雑だ。
だが、感覚は伝わったらしい。
ガルザヴェインがもう一度、模擬命令線へ手を伸ばす。
今度は、拳ではなく爪を立てる。
見えない線が、一瞬だけ引っかかった。
「ツカンダ」
「お、できたじゃん!」
ルオが笑う。
ガルザヴェインの目が光る。
「モウイッカイ」
「やれやれ」
余は白い部屋で複雑な気持ちになった。
ルオは危険だ。
だが、教え方は妙に役立つ。
腹立たしい。
フィルエが、少し笑った。
「ルオ、教えるの上手」
「そうか? オレ、よく分かんないって言われるぞ」
「今日は分かった」
「じゃあ、よかった!」
ルオは嬉しそうだった。
◇
その後、ルオはエリラの実を食べた。
今日はフィルエが十個許可した。
結実数が増え、木の調子も良い。
全部取らなければ問題ない。
ルオは十個を見て、目を輝かせた。
「今日は多いな!」
「木が元気だから」
「やった!」
「でも、食べ残さない」
「食べ残すわけないだろ!」
ルオは本当に残さなかった。
見事な食べっぷりだった。
赤金果守ゴブリンたちは、その様子をじっと見ている。
うらやましそうというより、食べ方を学んでいるようだった。
何を学ぶのだ。
フィルエが、ルオに聞いた。
「ルオ」
「ん?」
「黒冠軍がまた来たら、どう思う?」
ルオは実を飲み込んだ。
「ゼルヴァンってやつ?」
「うん」
「フィルエに何かするなら怒る」
「ガルザヴェインには?」
「組み手相手だから怒る」
「ロードには?」
ルオは少し考えた。
「うーん。ロードはうるさいけど、いなくなったら果物も困るし、まあ怒るかな」
《そこは即答しろ》
「怒る怒る」
《軽い!》
フィルエが小さく笑った。
「でも、ルオは配下じゃないから、戦わなくていい」
「うん。オレ、誰かの配下にはならない」
「知ってる」
「でも、友達が困ってたら手伝うことはあるぞ」
白い部屋で、余は黙った。
友達。
ルオにとって、この迷宮はそういうものになりつつあるらしい。
非常に困る。
だが、完全に悪いことでもない。
「ルオ」
《戦争に首を突っ込むな》
「急に何だよ」
《お前が怒ると面倒なことになりそうだ》
「親父にも言われる」
《だろうな》
「でも、フィルエが危なかったら怒る」
ルオは、そこだけは軽く言わなかった。
余は返す言葉に少し困った。
《……その時は、まず余に言え》
「なんで?」
《勝手に怒るな》
「それは難しい」
《努力しろ》
「努力する!」
たぶん信用できない。
だが、言わないよりはましだ。
◇
夜。
訓練が終わり、エリラの実の管理記録も閉じられた。
今日の結実数は百七十四個。
採取は四十個。
治療、訓練、保存、配下報酬、ルオ用。
残数は十分。
木は安定。
フィルエの判断では、問題なし。
白骨書記は、今日の訓練結果を記録していた。
⸻
対軍訓練記録。
一、覇王威令・帰陣、低出力訓練成功。
二、配下奪取模擬、霧喰い刃ゴブリン一体が復帰成功。
三、マネ声核保護膜、初回遮断成功。
四、非戦闘配下避難訓練、改善必要。
五、覇王掴み、ルオ助言後に成功率上昇。
六、ガルザヴェイン、配下を率いる戦闘への適応開始。
⸻
「ルオ助言後、と書くな」
白骨書記は消さなかった。
まあ、事実だ。
仕方ない。
マネが、また小さく声を出す。
「ロード」
「ここにいる」
「フィルエ」
「いるよ」
「ガルザヴェイン」
「イル」
「グズ」
「グズ」
「ハイハネ」
ふぁさ、と羽音。
「カゲヌイ」
影が揺れる。
「みんな、いる」
マネが言った。
「ああ」
余は答えた。
「みんな、いる」
いない者もいる。
そのことは、忘れない。
だが、いる者を確かめることも必要だった。
白い霧の奥で、エリラの木が静かに揺れる。
黒冠軍は、いずれ来る。
ゼルヴァンは生きている。
次は軍で来ると言った。
だが、こちらもただ待つわけではない。
迷宮は、今日から軍になる。
ただし、黒冠軍のような軍ではない。
奪って従わせる軍ではない。
戻れと呼び、守れと命じ、立てと支える軍だ。
余は、白骨書記に最後の一行を命じた。
「書け」
骨筆が構えられる。
「霧灰白庭迷宮は、配下を駒としてではなく、軍として扱う」
白骨書記が刻む。
「そして、その軍は黒冠の下には立たない」
骨筆の音が、白い部屋に深く響いた。




