第219話 白い迷宮は、奪われた声の傷を塞ぐ
黒冠軍第七牙が去った後、迷宮は一日中静かだった。
静かすぎた。
いつもなら、浅層ではゴブリンどもが騒いでいる。
中層ではグズが泥を練る音がする。
深部ではハイハネの羽音が眠そうに揺れ、カゲヌイの影糸が白い床を走る。
赤金果守ゴブリンたちは、エリラの実を数え間違えてはフィルエに直される。
それが日常だった。
だが、その日は違った。
霧喰い刃ゴブリンたちは、刃を磨かない。
赤金果守ゴブリンたちは、実の数を数えても声が小さい。
マネは、白い壁の奥でずっと声を確かめている。
「ロード」
自分の声。
「ロード」
余の声。
「ロード」
また自分の声。
何度も。
何度も。
まるで、奪われた声が本当に戻っているかを確かめるように。
余は、そのたびに返した。
「ここにいる」
マネが沈黙する。
しばらくして、また声がする。
「ロード」
「ここにいる」
それを何度も繰り返した。
面倒ではなかった。
むしろ、返さなければならないと思った。
マネは余の声を奪われた。
余の声で、余の配下を裏切らされた。
その傷は、エリラの実を食べればすぐ治るようなものではない。
だから、余は返す。
何度でも。
「ロード」
「ここにいる」
◇
白骨書記は、深部の小さな白い壁面に二つの名を刻んでいた。
刃戻りのギル。
果守りのギギ。
黒冠に抗い、死んだ配下たちの名だ。
もとは名のないゴブリンだった。
数えきれないほどいる低位配下の一体だった。
だが、黒冠隷命に逆らった。
自分を止めた。
命令に抗い、迷宮のために死んだ。
なら、名前を残す。
余はそう決めた。
白骨書記が骨筆を走らせるたび、壁に小さな音が鳴る。
かり。
かり。
かり。
フィルエは、その横にエリラの実を二つ置いた。
供え物のようだった。
「それは食べないのか」
余が聞くと、フィルエは首を横に振った。
「今日は、この子たちの分」
「……そうか」
「明日には、また実る」
「ああ」
エリラの実は、全部取らなければ戻る。
だから、二つ置いても大きな損失ではない。
だが、そういう問題ではないのだろう。
フィルエは、二つの実の前で小さく手を合わせた。
赤金果守ゴブリンたちも、ぎこちなく真似をした。
霧喰い刃ゴブリンたちは、刃を床に置いて頭を下げた。
グズの泥が、壁の下に静かに小さな台座を作る。
ハイハネの霧が、血の匂いを薄く消す。
カゲヌイの影が、二つの名の下にそっと寄り添う。
ガルザヴェインは、一番後ろに立っていた。
大きすぎる体を、少しだけ小さく見せるように。
「ギル」
彼は低く言った。
「ギギ」
名を呼ぶ。
それだけだった。
だが、十分だった。
「オボエル」
余は答えた。
「ああ。覚えろ」
「ウン」
「余も覚える」
白い部屋に、しばらく誰の声もなかった。
◇
弔いが終わると、修復が始まった。
泣いて終わりではない。
悔しがって終わりでもない。
ゼルヴァンは生きて逃げた。
次は軍で来ると言った。
なら、こちらも動かなければならない。
「管理音声。黒冠軍戦後改修を開始しろ」
《承知しました》
壁面に、対軍防衛台帳が開く。
⸻
対軍防衛台帳・第一改修。
一、命令防壁
各配下核へ、外部命令を感知する薄膜を付与。
黒冠隷命、魅了、恐怖、洗脳、偽声命令に対応。
二、マネ声核保護
音路へ外部命令が侵入した場合、自動遮断。
ロード本人の契約線と照合しない命令は、偽命令として隔離。
三、配下同士の殺害防止規則
外部支配下にある味方への攻撃は、殺害ではなく拘束、転倒、隔離を優先。
ただし敵兵と密着している場合は、ガルザヴェイン判断。
四、非戦闘配下避難路
赤金果守、未熟ゴブリン、補修係を深部避難区画へ即時退避。
フィルエの声が届く短距離命脈路を追加。
五、覇王練兵窟
ガルザヴェインの新技訓練区画を作成。
対象技:覇王威令・帰陣、魔神覇王吼、覇王拳・砕城、覇王拳・破軍、覇王踏・砕陣、戦傷覇装、覇王掴み。
六、黒冠残滓解析
ゼルヴァンの落とした指、黒冠紋の破片、オルグの骨札灰を保存解析。
⸻
「ゼルヴァンの指は?」
《保存済み》
「気持ち悪いな」
《解析素材として有用です》
「分かっている。だが気持ち悪い」
ゼルヴァンは逃げた。
だが、指を二本残した。
そこには黒冠隷命の紋の残滓がある。
余の配下を奪った力の欠片。
それは不快だ。
だが、不快だからこそ調べる。
同じことを二度とさせないために。
「白骨書記。解析台帳を作れ」
白骨書記が骨筆を構えた。
「題名は、黒冠隷命対策」
骨筆が走る。
⸻
黒冠隷命対策台帳。
目的:
ゼルヴァン・ギルロアの支配能力を解析し、再侵攻時の被害を抑える。
対象資料:
ゼルヴァンの切断指二本。
黒冠紋残滓。
オルグ・サイアの骸路札灰。
マネ声核の汚染痕。
カゲヌイ影糸の支配痕。
ハイハネ霧制御糸の支配痕。
グズ泥核表面の黒冠接触痕。
⸻
「全部だ」
余は言った。
「一つも見逃すな」
《承知しました》
◇
ガルザヴェインの練兵窟も作り直された。
以前の魔神練兵窟では、もう足りない。
あそこは魔神戦王が拳を振るうための場所だった。
今必要なのは、魔神覇王が軍を率いるための場所。
床は広くする。
周囲に小型配下を配置できる足場を作る。
霧、影、泥、骨が同時に動けるようにする。
ガルザヴェインが覇王威令を放った時、配下がどう動くかを訓練する。
名は、
覇王練兵窟。
「名前がそのままだな」
《分かりやすさを優先しました》
「まあよい」
ガルザヴェインは、練兵窟の中央に立った。
周囲には、霧喰い刃ゴブリンたち。
ハイハネ。
カゲヌイ。
湿骨王列の一部。
グズの泥分体。
そしてマネ。
マネはまだ震えている。
だが、参加すると言った。
「無理をするな」
余が言うと、マネは小さく答えた。
「声、戻す、練習……する」
「そうか」
「偽声、もう、いや」
「ああ」
「だから、ちゃんと、返す」
余は少し黙った。
「よし。やれ」
ガルザヴェインが、低く息を吐く。
「覇王威令――帰陣」
黒金の覇気ではなく、今は抑えた威令。
声が広がる。
霧喰い刃ゴブリンたちの足がそろう。
ハイハネの霧が安定する。
カゲヌイの影糸が迷わず伸びる。
グズの泥が足場を支える。
マネが余の声を乗せる。
「戻れ。立て。迷うな」
今度は、偽命令ではない。
余の命令を広げる声。
霧喰い刃ゴブリンたちは、震えながらも刃を構える。
その中の一体が、途中で座り込んだ。
黒冠に操られて仲間を斬った個体だ。
まだ、手が震えている。
ガルザヴェインは近づいた。
踏み潰さない。
急かさない。
ただ、しゃがんだ。
「コワイカ」
「ギ……」
「オレモ、コワカッタ」
ゴブリンが顔を上げる。
「ナカマ、キズツケル、コワイ」
ガルザヴェインの言葉は拙い。
だが、まっすぐだった。
「デモ、ツギ、マモル」
「ギ……」
「オマエモ、マモル」
ゴブリンは、震える手で刃を拾った。
ガルザヴェインは頷く。
「ヨシ」
白い部屋で、余はその光景を見ていた。
魔神覇王。
ただ敵を殴るだけではない。
配下を立たせる王。
その意味が、少しだけ見えた気がした。
◇
フィルエの防衛導線も作られた。
エリラの木の周囲に、三つの偽フィルエ反応を置く。
もちろん、本物ではない。
命脈の薄い残響だけを写したものだ。
黒冠軍がフィルエを狙うなら、まず迷う。
さらに、フィルエが声を出せば、声が複数方向から返る。
どれが本物か、外からは分かりづらい。
マネも補助に入る。
今度は、余の声ではなく、フィルエの声の残響を広げる練習だ。
「マネ、できる?」
「フィルエ、声、やわらかい」
「真似しにくい?」
「うん。でも、する」
フィルエが微笑む。
「無理しないで」
「する。守る」
マネの声はまだ震えている。
だが、その震えは少しずつ変わっている。
恐怖だけではない。
役割を取り戻そうとする震えだ。
エリラの木の実は、今日も増えていた。
《現在結実数:百六十八個》
「また増えたな」
「うん」
フィルエは葉を見上げる。
「木は、みんなが戻ったから落ち着いてる」
「そうか」
「でも、少し悲しい」
「木もか」
「たぶん」
エリラの木の根元には、刃戻りのギルと果守りのギギの名が刻まれた小さな白骨板が置かれている。
その横に、赤金の実が二つ。
まだ置かれている。
誰も食べない。
ゴブリンたちも取らない。
ルオが来たら食べたがるかもしれないが、その時はフィルエが止めるだろう。
いや、ルオなら空気を読むかもしれない。
……読むだろうか。
少し不安だ。
◇
その不安は、夕方に現実になった。
《外縁に高位魔力反応》
「……このタイミングでか」
《照合》
《ルオ・ゼルファニア》
白い部屋に、微妙な沈黙が落ちた。
迷宮入口で、ルオがいつものように手を振っていた。
「よー! 来たぞー!」
声が明るい。
いつも通りだ。
だが、白い霧の中の空気を感じたのか、ルオは途中で首を傾げた。
「……ん?」
彼は鼻をひくひく動かす。
「なんか、今日は違うな」
余は外部音声を開いた。
《ルオ》
「お、ロード。今日、なんか暗いぞ」
《色々あった》
「敵来た?」
《来た》
「強かった?」
《厄介だった》
「倒した?」
《四人殺した。一人逃がした》
「おー」
ルオの顔から、いつもの軽い笑みが少し消えた。
「誰か死んだ?」
余は黙った。
フィルエが代わりに答えた。
「配下が二体」
「そっか」
ルオは、少しだけ頭を下げた。
意外だった。
お調子者で、果物好きで、迷宮を散歩のように歩く少年。
だが、死を軽く扱うわけではないらしい。
「今日は果物、やめとくか?」
ルオが言った。
余は少し驚いた。
フィルエも驚いた顔をした。
「……食べないの?」
「いや、食べたいけどさ。そういう日じゃないなら、また今度でいい」
ルオは頭をかいた。
「オレ、空気読めないってよく言われるけど、読めないなりに読むぞ」
《少し見直した》
「なんだよ、少しって」
ルオは笑った。
だが、いつもの大声ではなかった。
フィルエが、白い霧の入口まで出た。
「来て」
「いいのか?」
「うん。今日は、食べるより、会ってほしい」
「誰に?」
「ギルとギギ」
ルオは、少し真面目な顔になった。
「分かった」
◇
ルオは、迷宮の中を壊さずに歩いた。
いつもより静かだった。
ゴブリンたちも、今日は彼を見ても騒がない。
赤金果守ゴブリンたちは、フィルエの後ろから顔を出している。
ルオはエリラの木の根元へ来た。
二つの小さな名。
刃戻りのギル。
果守りのギギ。
ルオは、それを読んだ。
漢字は読めないらしく、途中でフィルエに聞いた。
「これ、なんて読む?」
「やいばもどりのギル。かもりのギギ」
「そっか」
ルオは、二つの供えられた実を見た。
「これ、食べちゃだめなやつだな」
「うん」
「分かった」
彼はその場にしゃがみ込んだ。
そして、袋から青い空梨を二つ取り出した。
「じゃあ、これ置いていい?」
フィルエが頷いた。
「うん」
ルオは、二つの空梨をエリラの実の横に置いた。
「外の果物。うまいぞ」
そう言って、少しだけ手を合わせるような仕草をした。
誰に教わったのかは分からない。
作法としては雑だった。
だが、気持ちはあった。
余は白い部屋で、それを見ていた。
「ルオ」
「何?」
《今日は、組み手もなしだ》
「分かってる」
《本当に分かっているのか》
「分かってるって」
ルオは、ガルザヴェインを見た。
「今日は休めよ、ガルザヴェイン」
「ウン」
「次はやるけどな」
「ウン」
ガルザヴェインは、静かに頷いた。
その声も、今日は少し低かった。
◇
ルオは、エリラの実を食べずに帰った。
初めてだった。
去り際に、彼は余へ言った。
「ロード」
《何だ》
「そのゼルヴァンってやつ、また来るんだろ?」
《来るだろう》
「大変だな」
《他人事だな》
「他人だし」
《そうだな》
「でも、フィルエとガルザヴェインに何かするなら、オレもちょっと怒るかも」
白い部屋が静かになった。
「ちょっとか」
「ちょっと怒る。すげー怒るかも」
《お前が怒るとどうなる》
「さあ?」
ルオは首を傾げた。
「親父に怒るなって言われてるから、あんま怒ったことない」
聞きたくない情報だった。
怒った龍神の子がどうなるかなど、知りたくない。
《怒るな》
「ゼルヴァンに言えよ」
《それはそうだ》
ルオは手を振った。
「また来る。次は果物食う」
《今日は見直したが、次は許可制だ》
「分かってるって、ロード」
白い霧が開き、ルオは外へ出ていった。
その背中は、いつもより少し静かだった。
◇
夜。
迷宮はまだ静かだった。
だが、昼よりは少しだけ息をしている。
ゴブリンたちが小さく刃を磨く音が戻った。
ハイハネの羽音が眠そうに揺れた。
グズの泥が、ゆっくり補修を続ける。
カゲヌイの影糸が、白い床を細く走る。
マネが、また小さく声を出す。
「ロード」
「ここにいる」
「フィルエ」
「いるよ」
「ガルザヴェイン」
「イル」
マネは少し黙る。
そして、自分の声で言った。
「みんな、いる」
「ああ」
余は答えた。
「みんな、いる」
いない者もいる。
ギルとギギは、もういない。
だが、名は残った。
記録は残った。
次に守る理由になった。
白い部屋の壁面には、対軍防衛台帳が開かれている。
最重要敵。
ゼルヴァン・ギルロア。
その名は、まだ消えない。
そして遠く外では、ゼルヴァンが白い迷宮の情報を黒冠軍へ持ち帰っている。
次は軍で来る。
奴はそう言った。
ならば来い。
余は、静かに思った。
次は、余の迷宮も軍として迎える。
奪われた配下たちは、もうただの罠ではない。
ガルザヴェインは、ただの戦王ではない。
マネの声は、ただ真似るだけではない。
フィルエは、ただ木を守るだけではない。
エリラの木は、ただ実るだけではない。
霧灰白庭迷宮は、黒冠に声を奪われた迷宮では終わらない。
奪われた声を取り戻した迷宮として、次を待つ。
余は、白骨書記へ命じた。
「最後に一行書け」
骨筆が構えられる。
「黒冠軍再来までに、迷宮全体を一つの軍にする」
骨筆が、深く刻んだ。
その音は、静かな宣戦布告のようだった。




