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第218話 黒冠は、片手の痛みで白い迷宮を覚える

ゼルヴァン・ギルロアは、夜の荒野へ転がり出た。


 黒い骨の門が背後で砕ける。


 骨符師オルグ・サイアが、自分の体ごと作った最後の退路。


 その門は、ゼルヴァン一人を外へ吐き出した直後、黒い灰になって崩れた。


 白い霧は、もうそこにはない。


 代わりにあるのは、冷たい夜風と、乾いた土と、遠くで燃える戦場の残り火だった。


 ゼルヴァンは片膝をついた。


 左手が痛む。


 いや、左手だったものが痛む。


 指が二本、ない。


 ガルザヴェインの**覇王掴み(はおうづかみ)**に黒冠隷命こっかんれいめいの紋を捕まれ、逃げるために自分で斬り落とした。


 左手の甲に刻まれていた黒冠の紋は、大きく割れている。


 血が流れる。


 黒い血ではない。


 赤黒い、普通の血だ。


「……生きているな」


 ゼルヴァンは、自分にそう言った。


 声は冷静だった。


 だが、呼吸は乱れていた。


 胸も痛む。


 ガルザヴェインの拳がかすっただけで、鎧は砕け、肋骨にひびが入っている。


 直撃を受けていれば死んでいた。


 いや、死んだ者たちを見れば分かる。


 バロウは盾ごと砕かれた。


 リシェは影ごと裂かれた。


 メルゼアは血晶陣ごと潰された。


 オルグは自分自身を退路に変え、砕けた。


 黒冠軍第七牙は、ゼルヴァンだけを残して失われた。


 その事実を、彼はゆっくり飲み込んだ。


 感情は、後でいい。


 今は、情報を持ち帰る。


 それがオルグの死の意味だった。


 それがバロウたちの死の意味だった。


 それを無駄にすれば、彼らはただ白い迷宮に喰われただけになる。


 ゼルヴァンは立ち上がった。


 足元がふらつく。


 だが、倒れない。


 黒剣を杖のように突き、彼は夜の森を抜けた。


    ◇


 黒冠軍の前線陣地へ戻ったのは、夜が明ける直前だった。


 見張りの魔人兵が、最初は誰か分からなかった。


 黒鎧は砕け、外套は裂け、左手は血で染まり、顔には白い霧の残りがこびりついている。


 それでも、古傷のある顔を見て、兵が息を呑んだ。


「ゼルヴァン隊長……?」


「医療幕舎へは行かん」


 ゼルヴァンは言った。


「参謀幕舎へ通せ」


「ですが、その傷は――」


「通せ」


 兵はそれ以上言えなかった。


 ゼルヴァンの声が、まだ隊長の声だったからだ。


 幕舎の中には、夜戦の報告書が積まれていた。


 勇者側との前線は、また動いていない。


 夜襲があった。


 小競り合いがあった。


 聖騎士の偵察隊を一つ退けた。


 だが、決定打はない。


 相変わらず、戦線は腐っていた。


 その中へ、ゼルヴァンは血を落としながら入った。


 参謀たちが一斉に振り返る。


「第七牙隊長」


「五名で出たはずだ」


「他の者は」


 ゼルヴァンは、短く答えた。


「死んだ」


 幕舎が静まり返った。


「バロウ・ガンド、死亡」


 誰も口を挟まない。


「リシェ・ナイトリィ、死亡」


 記録官が震える手で筆を取る。


「メルゼア・ルーン、死亡」


 血の匂いが濃くなる。


「オルグ・サイア、死亡」


 ゼルヴァンは左手を卓上に置いた。


 血が地図へ落ちる。


 王国南東部の、白い迷宮の印の上へ。


「灰白庭、または白箱迷宮と呼ばれる白いSランク相当迷宮」


 彼は言った。


「あそこは、ただの素材庫ではない」


 参謀の一人が、低く問う。


「攻略失敗か」


「攻略は目的ではなかった」


「では、素材は」


「回収失敗」


「情報は」


「持ち帰った」


 ゼルヴァンは、砕けた左手を見た。


「代価は、第七牙四名」


    ◇


 治療師が呼ばれた。


 ゼルヴァンは拒まなかった。


 ただし、報告を止めることも許さなかった。


 左手に焼いた薬を押し当てられながら、彼は淡々と話した。


「迷宮内の魔物には、統制がある」


 参謀たちが耳を傾ける。


「ただの野良ではない。罠も魔物も、個別ではなく、一つの指揮に近い反応を示す」


「迷宮に主がいると?」


「断定はしない」


 ゼルヴァンは即答した。


「だが、制御はある。こちらの行動に合わせて罠が変わる。声を使う魔物もいた。命令の中継として使われている可能性がある」


「声を使う魔物?」


「他者の声を真似る。私の命令を奪わせれば、逆に迷宮側の命令中継として使われた」


 記録官が書く。


 ゼルヴァンは続けた。


「黒冠隷命は、低位魔物には通る」


 そこで、彼の左手がわずかに震えた。


「ただし、完全ではない。迷宮側の命令系統と競合する。抵抗個体が出る。抵抗個体は処理すれば軍列維持は可能だった」


 参謀の一人が眉をひそめた。


「抵抗した魔物を、同じ魔物に処理させたのか」


「ああ」


「迷宮側の反応は」


「乱れた」


 ゼルヴァンは、少しだけ目を伏せた。


「有効だった。だが、怒りを引き出しすぎた」


「怒り?」


「感情かどうかは知らん」


 ゼルヴァンは言った。


「だが、反応が変わった。罠の起動が荒くなり、魔物の抵抗が強まった。特に、ゴブリン系上位個体が進化した」


 幕舎内の空気が変わる。


「進化?」


「ああ」


 ゼルヴァンは、血で濡れた左手を握ろうとして、指が足りないことに気づく。


 その痛みが、記憶を鮮明にした。


「魔神戦王級のゴブリンだった」


「魔神戦王?」


「呼称は便宜上だ。だが、格はその程度では収まらない」


 彼は、はっきり言った。


「戦闘中に進化した。進化後は、魔神覇王と呼ぶべき個体」


 治療師の手が一瞬止まった。


「ゴブリンが、覇王?」


「そうだ」


 嘲笑は起きなかった。


 ゼルヴァンの左手を見れば、笑える者はいない。


「その個体は、黒冠隷命を押し返した」


 ゼルヴァンは続ける。


「それだけではない。奪った魔物を呼び戻した。霧、影、泥、骨、低位ゴブリン。全て、黒冠の支配を剥がされた」


「黒冠隷命の対抗能力か」


「違う」


 ゼルヴァンは首を横に振った。


「黒冠隷命だけを狙ったものではない。もっと広い。軍を戻す、陣を戻す、混乱を押し返す類の覇気だ。恐怖、命令、洗脳、威圧、そうしたものに対して有効と思われる」


 記録官が急いで書く。


「技名は?」


 ゼルヴァンは、一瞬だけ沈黙した。


 あの声を思い出す。


 戻れ。


 それは、敵ながら重い声だった。


「覇王威令・帰陣」


 彼は言った。


「少なくとも、私はそう聞いた」


    ◇


 報告は続いた。


「拳技も複数確認」


 ゼルヴァンは、地図の白い印へ血のついた指を置いた。


「覇王拳・砕城。防御破壊。バロウの大盾を補強ごと粉砕した」


 記録官が書く。


「魔神覇王吼。影や潜伏を揺さぶる咆哮。リシェが影から弾き出された」


 書く。


「覇王爪・裂軍。軍列、影路、支援線をまとめて裂く。リシェはこれで死亡」


 書く。


「覇王踏・砕陣。術式陣、血晶陣、骨符陣の足場を踏み砕く。メルゼアの血晶陣を破壊」


 書く。


「戦傷覇装。傷を鎧にする。メルゼアが傷跡を狙ったが、防がれた」


 書く。


「覇王掴み。実体以外も掴む。私の黒冠隷命紋を掴まれ、破損した」


 ゼルヴァンは、左手を持ち上げる。


 黒冠の紋は、ひび割れている。


 これが何よりの証拠だった。


「この個体を戦場へ出せば、白盾連隊を砕ける」


 参謀の一人が呟いた。


 ゼルヴァンは冷たく見た。


「出せればな」


「次は奪えるか」


「現状では不可能」


 即答。


 幕舎が静まる。


「黒冠隷命は通じた。だが、進化前だ。進化後の魔神覇王には、正面からは通らない。左手の紋も破損している。再戦には、別の方法が要る」


「では、軍で行くか」


 別の参謀が言った。


 ゼルヴァンは、ゆっくり頷いた。


「私がそう言い残した」


「実際に行くべきか」


「今すぐは愚かだ」


 ゼルヴァンは言った。


「迷宮側は、こちらの黒冠隷命を経験した。次は最初から対策してくる。魔神覇王もいる。霧と影と泥と骨を統制している。さらに、エリラの実らしき高位果実がある」


 その言葉に、数人が反応した。


「エリラ?」


「確定ではない」


 ゼルヴァンは言った。


「だが、赤金の果実。高位生命反応。守備の厚さ。迷宮側の配下が命令に逆らってまで守ろうとした。戦争素材としては、最重要候補だ」


「回収できるか」


「少数では無理だ」


 ゼルヴァンの声は、悔しさを隠していた。


「軍で包囲し、外側から崩す必要がある。だが、あの迷宮は封鎖されている。人間側に気づかれれば、王国と勇者側が動く」


「なら、今は情報を秘匿する」


「そうだ」


 ゼルヴァンは頷いた。


「第七牙の損失は、表向きには偵察任務中の戦死とする。灰白庭の詳細は、黒冠上層へだけ送れ」


「魔王陛下へも?」


「当然だ」


 ゼルヴァンは、白い迷宮の印を見た。


「あれは、戦局を変える素材を持っている可能性が高い。だが同時に、戦局を変える魔物を育てている」


 彼の目は冷えていた。


「次に行くなら、略奪では足りない」


「では?」


「戦争だ」


    ◇


 その頃。


 白い迷宮の奥では、ロードが台帳を見ていた。


 ソウルは増えた。


 一百六十万。


 黒冠軍第七牙の四人分。


 重い魂だった。


 しかし、白い部屋は静かだった。


 戦勝の空気ではない。


 葬送に近い。


 刃戻りのギル。


 果守りのギギ。


 二つの名が、内部名誉記録へ刻まれている。


 フィルエは、エリラの木のそばにいた。


 赤金果守ゴブリンたちは、彼女の足元で静かに座っている。


 いつものように騒がない。


 実を数える声も小さい。


 マネは、白い壁の奥からまだ出てこない。


 時々、声を確認するように、小さく呟いている。


「ロード」


 自分の声で。


 それから、余の声で。


「ロード」


 そして、また自分の声で。


「……返せた」


 余は、そのたびに答えた。


「ああ。返せた」


 何度でも答えた。


 それが必要なら、何度でも。


 ガルザヴェインは、魔神練兵窟ではなく、戦場跡にいた。


 彼は白い床に残った傷跡を見ている。


 黒冠軍の血。


 配下の血。


 自分の血。


 全部が混ざった場所。


「ガルザヴェイン」


「ロード」


「休め」


「マダ」


「何をしている」


「オボエル」


 彼は短く言った。


「ゼルヴァン。クロカン。ギル。ギギ。マネノ、コエ。ゼンブ、オボエル」


 余は何も言えなかった。


 ガルザヴェインは、強くなった。


 だが、ただ強くなっただけではない。


 覚えるものが増えた。


 守るものが増えた。


 痛みが増えた。


 それが覇王というものなのかもしれない。


「ソウルを使う」


 余は言った。


 ガルザヴェインが振り返る。


「どこへ」


「配下の回復。マネの声の安定。黒冠隷命への防御。赤金果守の保護区画。それから、お前の覇王化に合わせた練兵窟の改修」


「オレ?」


「お前はもう魔神戦王ではない。魔神覇王だ。今までの練兵窟では足りん」


 ガルザヴェインの金色の目が少しだけ揺れた。


「ツヨク、ナル」


「ああ」


「ミンナモ」


「ああ。皆もだ」


 余は壁面に、改修予定を出した。



黒冠軍戦後改修案。


一、黒冠隷命対策層の形成。

 命令系、洗脳系、精神干渉系への防御膜を各配下核へ付与。


二、マネ声核保護。

 外部命令が音路へ侵入した際、自動遮断する骨膜を設置。


三、赤金果守防衛区画の強化。

 非戦闘員避難路を追加。

 フィルエの声が確実に届く短距離命脈路を整備。


四、覇王練兵窟の新設。

 ガルザヴェインの覇王威令、覇王拳、覇王踏、戦傷覇装、覇王掴みの訓練場。


五、配下連携再訓練。

 奪われた場合、殺し合わずに拘束、分断、撤退する手順を作成。


六、内部名誉記録室の設置。

 刃戻りのギル、果守りのギギの名を刻む。


想定消費ソウル:1,200,000


現在増加分:1,600,000



「使う」


《承認しますか》


「承認だ」


《1,200,000ソウルを消費します》


《残存増加分:400,000》


 惜しくはなかった。


 いや、少しは惜しい。


 だが、必要だ。


 ソウルはまた得られる。


 だが、声を奪われる痛みは、二度と味わわせたくない。


 配下に配下を殺させる地獄は、二度と見たくない。


    ◇


 エリラの木のそばで、フィルエが空を見上げていた。


 もちろん、迷宮の中に空はない。


 だが、彼女は時々、天井の向こうを見るような顔をする。


「ロード」


「何だ」


「ゼルヴァン、また来る?」


「来るだろう」


「軍で?」


「本人がそう言った」


「なら、もっとたくさん来るね」


「ああ」


「ルオにも言う?」


 余は黙った。


 その発想はなかったわけではない。


 ルオ・ゼルファニア。


 龍神系統の災害級常連。


 果物目当てで来て、フィルエに懐き、ガルザヴェインと組み手をしている規格外。


 あいつがいれば、黒冠軍の大軍相手でも大きな抑止になるかもしれない。


 だが。


「ルオを戦力として数えるな」


「どうして」


「あいつは配下ではない」


「うん」


「契約もしていない」


「うん」


「それに、戦争に巻き込めば龍神とやらが出てくる可能性もある」


「それは困る」


「とても困る」


 余は断言した。


「ルオは、来たら相手をする。果物を食うなら管理する。組み手をするなら場所を作る。だが、こちらから軍にぶつける駒にはしない」


「分かった」


 フィルエは頷いた。


「でも、ゼルヴァンがフィルエを狙ったら?」


 余は一瞬、言葉を失った。


 その可能性。


 ゼルヴァンは観察する男だ。


 フィルエの声が赤金果守ゴブリンに届いたことを見ている。


 フィルエがエリラの木の近くにいることも、完全ではなくとも察したかもしれない。


 次に来るなら、フィルエを狙う可能性がある。


「……その対策も入れる」


《追加項目》



七、フィルエ防衛導線の強化。

 フィルエの位置情報を偽装。

 命脈契約線を複数化。

 緊急時、ガルザヴェインおよびグズが即時防衛へ入る構造を作成。


追加消費:300,000



「承認」


《承認しました》


 残る増加分は少なくなった。


 だが、必要だ。


 フィルエは、静かに言った。


「ありがとう」


「礼はいい。お前が奪われたら、余が困る」


「うん」


「とても困る」


「うん」


「だから勝手に前へ出るな」


「……できるだけ」


「できるだけではない!」


 少しだけ、いつもの空気が戻った。


 だが、完全ではない。


 ギルとギギの名は、まだ新しい。


 マネの声も、まだ震える。


 ガルザヴェインの額の傷も、まだ黒い。


 ゼルヴァンは逃げた。


 そして、次は軍で来ると言った。


    ◇


 夜。


 白い部屋に、ダンジョン新聞は落ちてこなかった。


 号外はない。


 だが、余は知っている。


 今回の戦いは、どこかに伝わる。


 ゼルヴァンが生きて帰ったからだ。


 黒冠軍の上層へ。


 魔王側かもしれない戦争勢力へ。


 灰白庭と呼ばれる白い迷宮には、戦争を変える素材があるかもしれない。


 魔神覇王がいる。


 声を真似る魔物がいる。


 命令を奪っても、取り返してくる。


 エリラの実らしき赤金の果実がある。


 その情報が、外へ行った。


 それは危険だ。


 だが、同時に。


 ゼルヴァンは、代価も持ち帰った。


 左手の損傷。


 失った四人の部下。


 破られた黒冠隷命。


 魔神覇王への恐怖。


 それもまた、情報だ。


「管理音声」


《はい》


「黒冠軍が次に来る場合、規模は」


《不明》


「予測しろ」


《小隊ではなく中隊以上の可能性》


「大軍か」


《戦争勢力であれば、迷宮攻略部隊を編成する可能性があります》


「そうか」


 余は、白い部屋の中央で静かに考えた。


 天蓋の猟犬は、目的を果たして逃げた。


 ルオは、果物を食べに通っている。


 黒冠軍は、戦争のために来た。


 次は、おそらく軍で来る。


 世界は、余の迷宮を放っておかない。


 ならば、こちらも腹を広げるしかない。


 噛み砕く牙を増やすしかない。


「白骨書記」


 白骨書記が現れる。


「新しい台帳だ」



対軍防衛台帳。


対象:

黒冠軍再侵攻。


最重要敵:

ゼルヴァン・ギルロア。


防衛方針:

一、命令奪取対策。

二、配下同士の殺害防止。

三、フィルエ防衛。

四、エリラの木秘匿。

五、ガルザヴェイン覇王戦術の確立。

六、戦争勢力への情報流出抑制。

七、ゼルヴァン討伐。



 余は、最後の一行を見た。


 ゼルヴァン討伐。


「ああ」


 余は低く言った。


「次は、必ず殺す」


 白い霧の奥で、ガルザヴェインが同じように拳を握った。


 遠く離れた黒冠軍の陣地では、ゼルヴァンが失った左手を布で巻きながら、白い迷宮の名を地図へ刻んでいる。


 互いに、次を見ていた。


 黒冠軍は、戦争のために。


 霧灰白庭迷宮は、守るために。


 次の戦いは、もう始まっていた

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