第217話 魔神覇王は、奪われた軍を率いて噛み砕く
ガルザヴェインが立っていた。
額に刻まれかけた黒い冠の紋は、砕けている。
だが、完全には消えていない。
傷として残っている。
ゼルヴァン・ギルロアの**黒冠隷命**は、ガルザヴェインを兵にすることはできなかった。
魔神戦王は折れなかった。
折れず、立ち、進化した。
今、白い霧の中に立つのは、魔神戦王ではない。
魔神覇王ゴブリン・ガルザヴェイン。
奪われた配下を呼び戻し、黒冠の命令を押し返した、新たな王だった。
「覇王威令――帰陣」
ガルザヴェインの声が、迷宮の奥まで響いた。
それは、従わせる声ではなかった。
戻れ、という声だった。
お前たちの陣は黒冠の下ではない。
ここだ。
この白い迷宮だ。
ロードの迷宮だ。
エリラの木を守る場所だ。
黒冠に奪われていた魔物たちの額や核から、黒い紋が剥がれていく。
霧喰い刃ゴブリンたちは、刃を落とした。
ハイハネの霧は、黒冠軍を守る霧から、黒冠軍を包囲する霧へ変わった。
カゲヌイの影糸は、ガルザヴェインの足元から離れ、敵の影へ向いた。
グズの黒泥城が、黒冠軍の背後を塞ぎ直す。
湿骨王列の骨橋が崩れ、骨槍が黒冠軍へ向く。
赤金果守ゴブリンたちは、フィルエのもとへ逃げ戻った。
そして、マネ。
余の声を奪われた配下。
マネは白い壁の奥で震えながら、自分の声を取り戻した。
「ロード……ごめん……」
「謝るな」
余は即座に言った。
「お前が悪いのではない。奪った奴が悪い」
マネは震えた。
「声……返す……」
「ああ。返せ」
マネは、今度は自分の意思で余の声を真似た。
それは、黒冠に汚された偽命令ではない。
余の本当の命令を、迷宮全体へ広げるための声だった。
「皆、戻れ。黒冠の命令を捨てろ。余の配下は、余の元へ戻れ」
白い霧が震えた。
配下が戻る。
迷宮が戻る。
奪われた声が戻る。
だが、死んだ者は戻らない。
黒冠隷命に抵抗した霧喰い刃ゴブリン。
エリラの木へ向かう命令に抗った赤金果守ゴブリン。
小さな二体は、白い床の上で動かなかった。
余は、それを見た。
見て、命じた。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「黒冠軍を殺せ」
白骨書記の骨筆が止まった。
フィルエも息を呑んだ。
だが、余は止まらない。
「一人も逃がすな」
ゼルヴァン・ギルロア。
バロウ・ガンド。
リシェ・ナイトリィ。
メルゼア・ルーン。
オルグ・サイア。
五人全員が、この迷宮の中身を見た。
ガルザヴェインの進化を見た。
マネの声を奪った。
エリラの木へ向かう道を見た。
黒冠隷命がどこまで通り、どこで破られるかを知った。
誰一人、外へ返してはならない。
「奴らは余の配下を奪った」
余の声は冷えていた。
「余の配下に、余の配下を殺させた」
マネが、壁の奥で小さく震える。
「余の声を汚した」
白い部屋の空気が、静かに沈んだ。
「だから、殺せ」
ガルザヴェインは、ゆっくり頷いた。
「ワカッタ」
「ゼルヴァンもだ」
「ウン」
「隊長だからこそ逃がすな。あいつが一番危険だ」
「ワカッタ」
魔神覇王の拳が黒く燃える。
その奥に、金色の覇気が揺れた。
「クロカン、ミナ、トメル」
「止めるだけではない」
余は言った。
「殺せ」
ガルザヴェインは、低く答えた。
「コロス」
◇
黒冠軍第七牙は、すでに包囲されていた。
背後はグズの黒泥城。
左右には湿骨王列の骨槍。
上にはハイハネの霧。
足元にはカゲヌイの影糸。
前には、魔神覇王ガルザヴェイン。
そして、その周囲には、戻ったばかりの霧喰い刃ゴブリンたちがいた。
彼らは震えていた。
怖いのだ。
自分たちは、ついさっきまで仲間を斬らされていた。
黒冠の命令に逆らえず、同じ迷宮の配下を殺した。
だが、それでも刃を拾った。
震える手で。
泣きそうな顔で。
それでも、黒冠軍へ向けた。
「ギ……ギギッ!」
それは、立派な雄叫びではない。
けれど、逃げない声だった。
余は、静かに言った。
「無理に前へ出るな。だが、戦える者は戦え」
マネが余の声を広げる。
「戦える者は戦え。守れる者は守れ。非戦闘員は下がれ」
赤金果守ゴブリンたちは、フィルエの後ろへ下がる。
彼らは戦闘員ではない。
だが、エリラの実を抱え、木を守る。
それも戦いだ。
グズが唸る。
ハイハネが羽ばたく。
カゲヌイの影が伸びる。
湿骨王列が骨槍を並べる。
霧喰い刃ゴブリンたちが、ガルザヴェインの足元へ集まる。
もう、ガルザヴェインは一人ではなかった。
黒冠に奪われた軍が、今度はロードの軍として立っている。
ゼルヴァンはそれを見て、黒剣を構えた。
「バロウ」
「応」
「正面を受けろ」
「任せろ」
重甲鬼人バロウ・ガンドが前へ出た。
大盾はすでに傷だらけ。
だが、彼は怯まない。
黒冠軍第七牙の壁として、魔神覇王の前に立つ。
「来い、化け物」
バロウは笑った。
「隊長には、触らせん」
ガルザヴェインは、静かに拳を引いた。
魔神性の黒。
覇王威の重さ。
敗北を刻んだ傷の熱。
それらが拳へ集まる。
だが、バロウも一人ではない。
メルゼアが血晶を盾へ流す。
オルグが骨札を盾の表面へ貼る。
リシェの影が盾の隙間を埋める。
ゼルヴァンが黒冠の命令を、バロウの背に薄く重ねる。
黒冠軍四人分の支援が、バロウの大盾へ集まった。
同時に、迷宮側も動く。
「グズ!」
余が命じる。
黒泥がバロウの足元へ流れる。
ただ沈めるのではない。
踏ん張る力を、わずかにずらす。
「ハイハネ!」
灰霧がバロウの視界を揺らす。
盾の端が、半歩ずれて見える。
「カゲヌイ!」
影糸がバロウの盾の影へ絡む。
盾そのものではなく、盾を構える姿勢を縫う。
「湿骨王列!」
骨槍が左右から突き出し、バロウの退路を塞ぐ。
霧喰い刃ゴブリンたちも走った。
彼らはバロウを倒せない。
傷すら浅いだろう。
それでも、盾の留め具へ刃を投げる。
鎧の関節へ小さな刃を滑り込ませる。
震えながら、働いた。
バロウの盾が重くなる。
視界が揺れる。
足元がずれる。
盾の影が引かれる。
支援が乱れる。
その瞬間。
「覇王拳――砕城」
ガルザヴェインの拳が突き出された。
盾と拳がぶつかる。
一瞬、盾が耐えた。
バロウの両足が白い床へめり込む。
筋肉が膨れ、牙が剥き出しになる。
「おおおおおお!」
だが、盾の留め具が霧喰い刃ゴブリンの刃で裂けた。
影糸が構えを崩した。
グズの泥が踏み込みをずらした。
ハイハネの霧が盾の中心を見誤らせた。
そして、砕城が入った。
盾が爆ぜた。
血晶が粉になる。
骨札が燃え尽きる。
影の膜が裂ける。
拳は、そのままバロウの胸へ届いた。
重甲が砕ける。
胸骨が砕ける。
背中の鎧が内側から膨らみ、割れた。
バロウの巨体が宙へ浮く。
彼は一瞬だけ目を見開いた。
恐怖ではない。
納得に近い顔だった。
「……重い、な」
それが最後の言葉だった。
バロウ・ガンドは白い床へ落ちた。
二度と動かなかった。
《黒冠軍第七牙、バロウ・ガンド死亡》
《ソウル獲得:460,000》
濃いソウルが流れ込む。
戦場で鍛えられた強者の魂。
重く、硬く、熱い。
だが、余は喜ばなかった。
まだ四人いる。
そして、ゼルヴァンはまだ生きている。
◇
リシェ・ナイトリィが動いた。
影翼斥候。
彼女は、バロウの死を見ても足を止めなかった。
むしろ、その死で生まれた一瞬の隙を使い、影へ沈んだ。
狙いはガルザヴェインではない。
マネだ。
マネが余の声を広げる限り、迷宮側の連携は崩れない。
だから、声を潰しに来る。
「マネ!」
フィルエが叫ぶ。
カゲヌイが動いた。
影軍縫帥カゲヌイ。
先ほどまでゼルヴァンに奪われ、ガルザヴェインの足を縫わされていた配下。
今は、自分の意思で影を伸ばす。
影と影がぶつかる。
リシェは速い。
外の戦場で何度も敵陣へ潜った斥候の動きだ。
カゲヌイの糸を短剣で切り、影の隙間をすり抜け、マネの隠れる白壁へ迫る。
「声を消す」
リシェの短刃が黒く光る。
だが、マネの近くには、霧喰い刃ゴブリンが三体いた。
小さな体で、壁の前へ立つ。
リシェの短刃が一体の肩を裂く。
「ギッ!」
それでも、ゴブリンは下がらなかった。
二体目がリシェの足へ刃を投げる。
三体目が影に向かって灰を撒く。
それはルオが持ってきた外の果物の皮を、カゲヌイの影粉と混ぜた簡単な灰だった。
戦術としては雑だ。
だが、影が少し濁った。
リシェの影潜りが一瞬だけ遅れる。
その一瞬に、カゲヌイの影糸が足首を縫った。
「っ!」
リシェは自分の影を切って逃げようとする。
だが、カゲヌイは怒っていた。
奪われた怒り。
仲間を縛らされた怒り。
その影糸は、足だけではなく、影の退路ごと縫った。
ガルザヴェインが振り向く。
そして吠えた。
「魔神覇王吼」
咆哮が白い通路を震わせた。
ただの音ではない。
影を震わせる覇王の声。
リシェの隠れていた影が、霧の中で浮き上がった。
「まずい――」
リシェが短く呟く。
ガルザヴェインが踏み込む。
「覇王爪――裂軍」
爪が横へ走った。
一人を斬るためだけの爪ではない。
軍列の継ぎ目、影の道、支援線をまとめて裂く爪。
リシェは短刃で受けようとした。
だが、短刃ごと裂かれた。
影翼が散る。
黒い羽が白い霧の中へ舞う。
リシェの体が、白い床へ倒れる。
彼女は最後に、カゲヌイの影を見た。
「……そっちの影の方が、しつこいね」
それが最後だった。
《黒冠軍第七牙、リシェ・ナイトリィ死亡》
《ソウル獲得:380,000》
カゲヌイの影糸が、しばらく彼女の影の残滓を見ていた。
余は静かに言った。
「よくやった、カゲヌイ。霧喰い刃ゴブリンたちもだ」
肩を裂かれたゴブリンが、震えながら鳴く。
「ギ……ギギッ」
「怖くても立った。十分だ」
◇
メルゼア・ルーンは、バロウとリシェの死を見ても下がらなかった。
彼女は血晶瓶を全て開いた。
赤黒い液体が空中へ浮き、針、杭、壁、鎖へと変わっていく。
血晶術師。
戦場で血と鉱石を操る術者。
その目は、ガルザヴェインだけを見ていなかった。
配下たちを見ている。
戻ったばかりの魔物たちを。
つまり、また仲間を狙ってくる。
「隊長、退路を」
「構築する」
ゼルヴァンが答える。
オルグが骨札を展開し始めた。
メルゼアは頷いた。
「では、私が足止めします」
声に震えはない。
恐怖はあるだろう。
だが、それよりも任務が前にある。
「血晶術――赤軍葬晶」
赤黒い杭が、無数に広がった。
狙いはガルザヴェインだけではない。
霧喰い刃ゴブリン。
赤金果守ゴブリン。
ハイハネ。
カゲヌイ。
グズの泥核。
湿骨王列の骨。
戻ったばかりの配下たちを、同時に狙っている。
「またか」
余の声が低くなる。
「また、仲間を狙ってガルザヴェインを止める気か」
だが、今度はガルザヴェイン一人で受けさせない。
「全員、守れ!」
マネが余の声を広げる。
「全員、守れ!」
ハイハネが羽を広げる。
灰霧が赤金果守ゴブリンたちを包む。
グズの泥が、フィルエとエリラの木の前に厚い壁を作る。
カゲヌイの影糸が、血晶杭の落下点をずらす。
湿骨王列が骨の傘を作る。
霧喰い刃ゴブリンたちは、傷ついた仲間を引きずって後ろへ下がらせる。
赤金果守ゴブリンたちは、実の袋を抱えて伏せる。
それぞれが、自分で動いた。
ガルザヴェインは、それを見た。
そして、拳ではなく足を上げる。
「覇王踏――砕陣」
足が白い床を踏み砕いた。
衝撃が円となって広がる。
血晶の杭が空中で軌道を失う。
赤黒い術式陣が足元から割れる。
メルゼアの血晶網が、根元から崩れた。
「術式陣を踏み砕く……!」
メルゼアは血を吐いた。
だが、まだ終わらない。
自分の血をさらに流し、最後の血晶をガルザヴェインの胸へ向ける。
狙いは傷跡。
アレクの白銀傷。
六牙帰星の傷。
ルオの白鱗打ちの痕。
黒冠隷命の傷。
そこを貫けば、覇王化したばかりの魔力流を乱せる。
「血晶術――戦傷穿ち」
赤い針が、ガルザヴェインの胸へ飛ぶ。
ガルザヴェインは避けなかった。
傷跡が光る。
「戦傷覇装」
彼の傷が、鎧になった。
消すのではない。
隠すのでもない。
過去に受けた傷を、戦歴としてまとい、防御へ変える。
血晶の針は、傷を貫くはずだった。
だが、その傷そのものが、針を噛み砕いた。
赤い結晶が粉になる。
メルゼアの目が見開かれる。
「傷を、鎧に……」
その瞬間、湿骨王列の骨槍がメルゼアの足元を貫いた。
殺すためではない。
逃がさないために。
グズの泥が彼女の足を絡める。
ハイハネの霧が視界を奪う。
カゲヌイの影が腕を縫う。
戻った配下たちが、メルゼアを逃がさない。
ガルザヴェインは、一歩で間合いを詰めた。
「オマエ、ナカマ、ネラッタ」
拳が引かれる。
「ユルサナイ」
覇王拳――破軍。
拳が、メルゼアの周囲の血晶陣ごと彼女を叩き砕いた。
赤黒い結晶が一斉に割れ、白い霧へ散る。
メルゼア・ルーンは、その中で崩れ落ちた。
《黒冠軍第七牙、メルゼア・ルーン死亡》
《ソウル獲得:410,000》
ソウルが流れ込む。
ガルザヴェインの傷が、わずかに光った。
エリラの実の力ではない。
戦傷覇装が、敵の術を喰ったのだ。
◇
残ったのは、ゼルヴァンとオルグだった。
オルグ・サイアは、骨札を広げている。
顔は青白い。
すでに何枚もの札を使っている。
退路を作るための札。
封鎖を避ける札。
グズの泥を乾かす札。
カゲヌイの影を切る札。
残りは少ない。
それでも、彼は震える指で最後の黒い骨札を取り出した。
「隊長」
オルグは言った。
「一人分なら、通せます」
ゼルヴァンは即座に答えた。
「使え」
「私ごとになります」
「任務を果たせ」
オルグは、ほんの少し笑った。
「承知」
余は、その会話を聞いた瞬間に叫んだ。
「止めろ! ゼルヴァンを逃がすな!」
マネが、余の声を迷宮へ広げる。
「ゼルヴァンを逃がすな!」
グズの泥門が閉じる。
ハイハネの霧が退路を塗り潰す。
カゲヌイの影糸が、オルグの足元へ走る。
湿骨王列が骨門を生やす。
霧喰い刃ゴブリンたちも走る。
さっきまで震えていた小さな配下たちが、オルグの骨札へ刃を投げた。
刃は浅い。
届かないものも多い。
だが、何本かが骨札へ当たり、黒い札の表面に傷をつける。
赤金果守ゴブリンたちも戦えないなりに動いた。
フィルエの後ろから、エリラの実の皮を粉にした袋を投げる。
その粉は攻撃ではない。
だが、命の香りが一瞬だけ骨札の黒い気配を乱した。
オルグの指が震える。
「小物まで……!」
オルグが歯を食いしばる。
それでも、黒い骨札を自分の胸へ突き刺した。
「骨符禁術――骸路札」
オルグの体が、黒い骨の門へ変わっていく。
自分自身を退路にする禁術。
ゼルヴァン一人を外へ出すためだけの、最後の札。
ガルザヴェインが踏み込む。
「ゼルヴァン!」
魔神覇王の拳が黒く燃える。
「ニガサナイ!」
ゼルヴァンは黒剣を構える。
逃げるだけではない。
最後まで、ガルザヴェインの力を測ろうとしている。
黒冠の紋が砕けかけた左手を、まだ前へ出す。
黒冠隷命の残り火が、ガルザヴェインの覇王威へ触れる。
だが、もう通らない。
黒い命令は、覇王威に触れた瞬間、焼けて崩れた。
「もう、キカナイ」
ガルザヴェインは言った。
拳が振るわれる。
「覇王拳――砕城!」
黒い骨門が砕ける。
オルグの体も砕ける。
だが、門は一瞬だけ開いた。
ゼルヴァンの体が黒い骨の隙間へ沈む。
ガルザヴェインの拳が、ゼルヴァンへ届く。
完全には届かない。
だが、左手を掴んだ。
「覇王掴み」
実体だけではない。
命令線。
魔力線。
黒冠の紋。
その根を掴む技。
ゼルヴァンの左手に刻まれた黒冠隷命の紋が、悲鳴のように軋んだ。
「ぐ……!」
ゼルヴァンの顔が歪む。
ガルザヴェインは、そのまま握り潰そうとする。
グズの泥が骨門へ絡む。
ハイハネの霧が穴を塞ぐ。
カゲヌイの影糸がゼルヴァンの足へ伸びる。
湿骨王列の骨槍が黒い門の縁を砕く。
霧喰い刃ゴブリンたちが、ゼルヴァンの影へ刃を投げる。
全員で、逃がすまいとした。
だが、オルグの骸路札が最後の力でゼルヴァンを引いた。
ゼルヴァンは黒剣を振った。
自分の左手へ。
指が二本、白い床へ落ちる。
黒冠の紋が大きく砕ける。
その代わり、ゼルヴァンの体は骨門の奥へ沈んだ。
「魔神覇王」
ゼルヴァンは、消える寸前に言った。
「次は、軍で来る」
「来ルナ」
「来る」
「ゼルヴァン!」
余は叫んだ。
「逃げるな!」
ゼルヴァンの姿が消えた。
残されたのは、砕けた骨札と、オルグの崩れた体。
そして、白い床に落ちたゼルヴァンの指だった。
《黒冠軍第七牙、オルグ・サイア死亡》
《ソウル獲得:350,000》
《ゼルヴァン・ギルロア、外部離脱》
《ゼルヴァン・ギルロア、左手損傷》
《黒冠隷命紋、大規模破損》
余は、白い部屋で叫んだ。
「逃がした……!」
殺すつもりだった。
全員殺すつもりだった。
だが、ゼルヴァンだけは逃げた。
部下の命を退路に変えて。
《総獲得ソウル:1,600,000》
重いソウルが流れ込む。
四人分。
全員、三十万を大きく超える濃い魂。
迷宮にとっては莫大な獲得だ。
だが、勝利の味はしなかった。
逃げられた。
ゼルヴァンに。
あいつにだけは、逃げられた。
◇
白い霧が、静かに戻る。
戦場だった通路に、配下たちが集まってくる。
霧喰い刃ゴブリンたちは、倒れた仲間のそばに膝をついた。
赤金果守ゴブリンたちは、フィルエの後ろから出てきて、果守りのギギの亡骸を見つめている。
マネは、声を出せずに震えていた。
グズの泥が、死んだゴブリンたちのそばを避けるように流れる。
ハイハネの霧が、そっと血の匂いを薄める。
カゲヌイの影が、亡骸の上に静かに寄り添う。
ガルザヴェインは、血まみれだった。
覇王化したとはいえ、無傷ではない。
黒冠隷命に食い込まれた額。
血晶針を受けた肩。
黒剣に裂かれた脇腹。
バロウの盾撃を受けた胸。
それでも、彼は立っている。
もう膝はついていない。
魔神覇王は、倒れた仲間たちを見た。
「ギル」
彼は言った。
「ギギ」
余がつけた名だ。
黒冠に抵抗して死んだ霧喰い刃ゴブリン、刃戻りのギル。
エリラの木への命令に抗って死んだ赤金果守ゴブリン、果守りのギギ。
ガルザヴェインは、その名を口にした。
「オボエル」
「ああ」
余は答えた。
「覚えろ」
「ウン」
フィルエが、エリラの実をいくつか持ってきた。
今日は制限など考えない。
フィルエが管理する。
必要なら使う。
全部は取らない。
それでいい。
傷ついた配下たちへ、薄く切ったエリラの実が分けられる。
ガルザヴェインにも、いくつか渡された。
彼は慎重に受け取り、ゆっくり食べた。
「ウマイ」
いつもと同じ言葉。
だが、今日は少しだけ重かった。
「ガルザヴェイン」
フィルエが言う。
「守ってくれてありがとう」
ガルザヴェインは、しばらく黙った。
それから、低く答える。
「マモレナカッタ、ナカマ、イル」
「うん」
「デモ、モドシタ」
「うん」
「ツギ、モット、マモル」
余は頷いた。
「そうだ」
◇
白骨書記が、血の気のない骨筆で台帳を開いた。
余は、記録を命じた。
「黒冠軍第七牙、侵入」
書く。
「ゼルヴァン・ギルロア、黒冠隷命により配下を奪取」
書く。
「マネ、声を奪われる」
書く。
「霧喰い刃ゴブリン一体、抵抗後に殺害。内部名、刃戻りのギル」
書く。
「赤金果守ゴブリン一体、抵抗後に殺害。内部名、果守りのギギ」
書く。
「ガルザヴェイン、魔神覇王へ進化」
書く。
「新規技、覇王威令・帰陣。支配下配下の復帰に成功」
書く。
「新規技、覇王拳・砕城。バロウ・ガンドを討伐」
書く。
「新規技、魔神覇王吼。リシェ・ナイトリィの影潜行を暴く」
書く。
「新規技、覇王爪・裂軍。リシェ・ナイトリィを討伐」
書く。
「新規技、覇王踏・砕陣。血晶陣および骨符陣を破壊」
書く。
「新規技、戦傷覇装。メルゼア・ルーンの血晶術を防ぐ」
書く。
「新規技、覇王拳・破軍。メルゼア・ルーンを術式ごと粉砕」
書く。
「新規技、覇王掴み。ゼルヴァンの黒冠隷命紋を損傷」
書く。
「黒冠軍第七牙、バロウ・ガンド死亡。ソウル四十六万」
書く。
「リシェ・ナイトリィ死亡。ソウル三十八万」
書く。
「メルゼア・ルーン死亡。ソウル四十一万」
書く。
「オルグ・サイア死亡。ソウル三十五万」
書く。
「総獲得ソウル、一百六十万」
書く。
「ゼルヴァン・ギルロア、逃走」
白骨書記が、そこで止まった。
余は少しだけ黙った。
そして、言った。
「逃がした。だが、左手と部下四人を奪った」
骨筆が刻む。
「次に来るなら、軍で来ると言い残した」
書く。
「次は、声を奪わせない」
書く。
「次は、配下に配下を殺させない」
書く。
「次は、ゼルヴァンを殺す」
白骨書記の骨筆が、最後の一文を深く刻んだ。
⸻
黒冠軍第七牙戦闘記録。
勝敗:部分勝利。
得たもの:
魔神覇王ガルザヴェインの誕生。
配下奪還。
黒冠軍四名討伐。
大量ソウル獲得。
黒冠隷命への対抗手段獲得。
配下たちの自立戦闘確認。
失ったもの:
配下二体。
マネの声への傷。
ゼルヴァンに情報を持ち帰られたこと。
黒冠軍再来の可能性。
最重要敵:
ゼルヴァン・ギルロア。
⸻
余は、その名を見た。
ゼルヴァン・ギルロア。
黒冠軍第七牙隊長。
余の配下を奪い、殺させ、声を汚した男。
逃げた。
だが、次は逃がさない。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「よく守った」
魔神覇王は、少しだけ目を伏せた。
「マモレナカッタ、ナカマ、イル」
「ああ」
「デモ、モドシタ」
「ああ」
「ツギ、モット、マモル」
「そうだ」
ガルザヴェインは、拳を握った。
黒く、静かな拳。
その奥に、覇王の火が残っている。
「ツギ、ゼルヴァン、コロス」
「ああ」
余は答えた。
「次は、ゼルヴァンを殺す」
白い霧の奥で、エリラの木が静かに揺れた。
その実の数は、今日も多い。
だが、迷宮のどこかでは、小さな二つの名が新しく刻まれた。
刃戻りのギル。
果守りのギギ。
黒冠に抗い、死んだ配下たち。
その名を、余は忘れない。
魔神覇王も、忘れない。
そして霧灰白庭迷宮は、また一つ、守る理由を増やした。




