第216話 黒金覇王圏は、奪われた声を取り戻す
黒金の覇気が、ガルザヴェインの体から噴き上がった。
黒だけではない。
金だけでもない。
魔神性の黒。
エリラの実に似た命の金。
そして、何度も敗北し、それでも立ち上がった傷の色。
それらが混ざり、深部手前の白い霧を押し広げた。
ゼルヴァンの黒冠が、ガルザヴェインの額で軋む。
黒い命令の紋が、まだ残っている。
消えてはいない。
だが、もう深くは入らない。
内側から、押し返されていた。
ガルザヴェインは立った。
片膝ではない。
両足で。
白い床を踏み割り、操られた配下たちの前に、黒冠軍第七牙の前に、そして余の声を奪ったゼルヴァンの前に。
「オレ、マモル」
その声は、魔神戦王の声ではなかった。
もっと低い。
もっと広い。
まるで、彼の声だけで迷宮の壁が震えているようだった。
「オレ、カエス」
管理音声が、白い部屋で告げた。
《進化反応、確定》
《魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェイン》
《進化完了》
《新規個体名》
《魔神覇王ゴブリン・ガルザヴェイン》
白骨書記の骨筆が、震えながら走った。
フィルエが息を呑む。
「覇王……」
余は、何も言えなかった。
言葉が出なかった。
ただ、見ていた。
ガルザヴェインの傷跡が光っている。
アレクの白銀傷。
天蓋の猟犬の六牙帰星の傷。
ルオの白鱗打ちの痕。
ゼルヴァンの黒冠が刻もうとした命令の傷。
それら全てが、消えたわけではない。
むしろ、残っている。
残ったまま、王の証のように黒金の光を放っている。
ゼルヴァンが、初めて眉を動かした。
「進化……?」
メルゼアが、血晶瓶を握りしめる。
「魔力格が変わっています。黒冠隷命の食い込みが、押し返されています」
オルグが骨札を投げようとして、手を止めた。
「隊長、これは」
「まだ支配は切れていない」
ゼルヴァンは冷静に言った。
だが、その声にはほんの少しだけ硬さが混じっていた。
「押し込め」
黒冠隷命が、再びガルザヴェインへ向かう。
黒い冠の命令が、額へ、胸へ、精神核へ入り込もうとする。
だが、ガルザヴェインは逃げなかった。
避けなかった。
ただ、息を吸った。
そして、吠えた。
「黒金覇王圏」
その言葉を、誰が教えたわけでもない。
ガルザヴェイン自身の中から出た名だった。
黒金の覇気が、円となって広がった。
◇
それは、ただの威圧ではなかった。
強者が弱者を怯えさせる圧でもない。
魔神の咆哮でもない。
命令だった。
だが、ゼルヴァンの黒冠隷命とは違う。
従え、ではない。
戻れ、だった。
お前たちは、黒冠の兵ではない。
お前たちは、余の迷宮の配下だ。
お前たちは、ガルザヴェインの仲間だ。
お前たちは、エリラを守る者だ。
その声なき命令が、黒金の圏となって広がる。
まず、霧喰い刃ゴブリンたちが止まった。
額に刻まれていた黒冠の紋が、びしりと割れる。
「ギ……?」
一体が刃を落とした。
次に、もう一体。
その次に、三体。
彼らの目に、迷いが戻る。
迷いが戻るということは、心が戻ったということだ。
「ギギッ!?」
霧喰い刃ゴブリンたちは、自分たちの手に血がついているのを見た。
仲間の血だ。
自分たちが斬った、同じ迷宮の配下の血。
小さな体が震える。
その震えを見て、余の胸がまた痛んだ。
だが、今は止まらない。
黒金の圏は、さらに広がる。
ハイハネの霧が揺れた。
黒冠軍を守るようにまとわりついていた灰霧が、突然、方向を失う。
羽音が戻る。
ふぁさ。
ふぁさ。
さっきまでの苦しそうな羽音ではない。
怯えながらも、自分で羽ばたく音。
《ハイハネ制御霧、外部命令から離脱》
「ハイハネ!」
フィルエが声を上げる。
灰霧が一気に反転した。
黒冠軍を守る霧ではなく、黒冠軍の視界を遮る霧へ。
ハイハネが戻った。
次に、カゲヌイの影糸が震える。
ガルザヴェインの足を縫っていた影糸が、ひとつ、またひとつと抜けた。
黒い糸が自分自身の影へ戻り、裂けた影を縫い直していく。
《カゲヌイ、外部支配命令から離脱中》
カゲヌイの影が、ガルザヴェインの足元から離れた。
そして、今度は黒冠軍の影を狙う。
リシェが即座に影へ沈もうとした。
だが、カゲヌイの糸がそれを追った。
「影が戻った!」
リシェが鋭く叫ぶ。
ゼルヴァンは歯を食いしばらない。
顔を大きく歪めもしない。
ただ、状況を見て、判断を変える。
「黒帰将、再制圧」
黒帰将・落武者が刃を掲げる。
しかし、黒金覇王圏がその刃にも届いた。
黒帰将の黒い鎧が軋む。
灰白の下地が、一瞬だけ見えた。
本来の軍帰路喰らいの落武者。
余の配下だった残響。
黒冠の軍令と融合し、黒く染まった将。
その内側に、まだ灰白の帰路喰らいが残っている。
「戻れ」
余は思わず言った。
聞こえたかは分からない。
だが、ガルザヴェインの黒金覇王圏が、同じ意味を押し広げる。
黒帰将の刃が震えた。
完全には戻らない。
強い。
ゼルヴァンとの相性が悪すぎる。
軍令と帰路喰らいが、まだ深く噛み合っている。
だが、黒冠の命令は揺らいだ。
◇
グズの黒泥城が、低く唸った。
「グ……ズ……」
門が震える。
黒冠軍の背後を守っていた泥門が、開く。
いや、違う。
開くのではない。
向きを変える。
黒冠軍の進軍路を守っていた城が、今度は彼らの足元を飲み込もうとする。
「グズ!」
余は叫んだ。
「戻ったか!」
「グズ!」
泥が力強く鳴る。
グズは戻った。
完全ではなくとも、自分で動いている。
バロウの足元が沈む。
「ぬっ!?」
大盾の巨体が一瞬バランスを崩す。
メルゼアが血晶で足場を作ろうとする。
だが、グズの黒泥がそれを食う。
「隊長、泥門の制御が戻っています!」
「分かっている」
ゼルヴァンの左手の黒冠紋が、さらに濃くなる。
だが、今度は奪えない。
黒金覇王圏が、グズの泥核を包んでいる。
支配命令が触れる前に、黒金の圏が弾く。
湿骨王列も動いた。
黒冠軍のために作っていた骨橋が、ばらばらに崩れる。
骨槍が方向を変える。
黒冠軍へ。
ただし、まだ迷っている骨もある。
黒帰将の刃が、湿骨王列の一部を縛っているからだ。
それでも、戻り始めている。
《湿骨王列、一部制御権回復》
《霧喰い刃ゴブリン、多数回復》
《赤金果守ゴブリン、外部命令解除進行》
赤金果守ゴブリンたちが、その場で崩れ落ちた。
小さな袋を抱えたまま。
泣くように鳴いている。
「ギ……ギギ……!」
フィルエが叫んだ。
「袋を置いて! もう大丈夫!」
赤金果守ゴブリンたちは、震える手で袋を床へ置いた。
エリラの木へ向かう足が止まる。
余は、そこでようやく息を吐いた気がした。
まだ終わっていない。
だが、最悪の一つは止まった。
◇
そして、マネ。
余の声を奪われていた配下。
白い壁の奥で、マネは震えていた。
黒冠の命令が、まだ声帯のような核に絡みついている。
余の声で命令を出す。
それが、ゼルヴァンに与えられた役割だった。
マネは、また声を出そうとした。
余の声で。
「ガルザヴェイン、従――」
言葉が詰まった。
黒金覇王圏が、マネの核へ届いた。
マネの中に残っていたものを揺らす。
お前は、声を奪うための道具ではない。
お前は、声を真似る配下だ。
ロードの命令を偽るためではない。
ロードの声を広げるために、ここにいる。
マネの声が崩れた。
余の声ではなくなる。
知らない声。
小さく、震えた、本来のマネの声。
「……ろ……ど……」
白い部屋で、余は固まった。
マネが、自分の声で言った。
「ロード……ゴメン……」
その瞬間、余の中で何かが切れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、返すべき言葉だけが、真っ先に出た。
「謝るな」
白い部屋から、余はマネへ言った。
「お前が悪いのではない」
マネの核が震える。
「ゴメン……声……とられた……」
「奪った奴が悪い」
余はゼルヴァンを見た。
「お前の声を奪った奴が悪い」
黒冠の命令が、最後にもう一度マネへ食い込もうとした。
だが、ガルザヴェインが吠えた。
「カエレ!」
黒金覇王圏が、さらに強く広がる。
マネの中の黒冠紋が砕けた。
《マネ、外部支配命令から離脱》
マネは、しばらく震えていた。
そして、今度は自分の意思で余の声を真似た。
だが、さっきの偽声とは違う。
黒冠に汚された声ではない。
余の命令を、迷宮へ広げるための声だ。
「皆、戻れ」
それは余の声だった。
だが、今度は本物に聞こえた。
いや、本物だ。
余がそう命じ、マネがそれを広げた。
「皆、戻れ。黒冠の命令を捨てろ。余の配下は、余の元へ戻れ」
マネの声が、霧に広がる。
ハイハネが羽ばたく。
グズの泥が唸る。
カゲヌイの影が震える。
湿骨王列の骨が鳴る。
霧喰い刃ゴブリンたちが刃を落とす。
赤金果守ゴブリンたちが、泣きながらフィルエの方へ走る。
《外部支配命令、広範囲で破断》
《黒冠隷命、低位配下への支配維持失敗》
《配下制御権、回復》
白い部屋で、余は拳を握ったつもりになった。
「戻った……」
フィルエが、小さく泣きそうな声で言う。
「戻った」
◇
だが、黒帰将はまだ残っていた。
黒帰将・落武者。
軍帰路喰らいの落武者が、黒冠の軍令と融合して変質した存在。
他の配下の支配は剥がれた。
だが、黒帰将だけは、まだゼルヴァン側に立っている。
灰白と黒。
二つの色が鎧の上でせめぎ合っていた。
ゼルヴァンは、冷静に状況を見た。
操っていた低位魔物の大半を失った。
霧も、泥も、影も、骨も、かなり戻された。
マネも奪い返された。
ガルザヴェインは進化した。
黒金の覇気は、黒冠隷命への強烈な対抗場になっている。
普通なら撤退判断の場面だ。
だが、ゼルヴァンは退かなかった。
「メルゼア」
「はい」
「記録しろ。支配解除能力あり。中心は魔神級ゴブリン」
「記録します」
「オルグ」
「はい」
「撤退路を確保」
「承知」
「バロウ、正面。リシェ、右影」
「応」
「了解」
ゼルヴァンは、黒剣を構えた。
「奪えないなら、測る」
余は、その冷静さに吐き気を覚えた。
まだ測るつもりか。
まだ、ガルザヴェインを、余の配下を、迷宮を戦争の材料として見るつもりか。
「もう十分だ」
余は低く言った。
「ガルザヴェイン」
「ロード」
「殺せる敵を殺せ。今度は、配下を気にする必要はない」
ガルザヴェインの金色の目が、黒金に燃えた。
「ワカッタ」
その声は、以前より深い。
魔神覇王。
戦う王ではなく、奪われたものを取り戻す王。
彼は一歩踏み出した。
その一歩で、黒金覇王圏が前へ押し出される。
ゼルヴァンの黒冠紋が、わずかに軋んだ。
「黒帰将」
ゼルヴァンが命じる。
「止めろ」
黒帰将が刃を構える。
ガルザヴェインは、その刃を見た。
帰路を喰らう落武者。
黒冠に染められた、迷宮の軍の残響。
「オマエモ」
ガルザヴェインは言った。
「カエス」
黒帰将が刃を振るう。
命令の道を斬る黒い刃。
ガルザヴェインは避けない。
拳を上げる。
ただの拳ではない。
黒金の覇気をまとった、魔神覇王の拳。
「覇王拳――黒金砕冠!」
拳と刃がぶつかった。
黒い冠の紋が砕けるような音がした。
黒帰将の刃が、半ばで止まる。
鎧の黒が剥がれ、下から灰白が覗く。
落武者が揺れる。
ゼルヴァンの左手の黒冠紋が、びしりとひび割れた。
「……!」
初めて、ゼルヴァンの表情がはっきり変わった。
ガルザヴェインは、さらに拳を押し込む。
「カエレ」
黒帰将の鎧に刻まれた黒冠が、砕けた。
灰白の霧が噴き出す。
軍帰路喰らいの落武者が、黒い将の姿から引き剥がされる。
《黒帰将・落武者、黒冠支配崩壊》
《名称変質解除中》
しかし、完全には戻らない。
黒冠との融合で、落武者は深く変質している。
それでも、ゼルヴァンの命令下からは外れた。
黒帰将の刃が、床に落ちる。
がしゃん、と音がした。
その音は、余には奪われたものがひとつ戻った音に聞こえた。
◇
黒冠軍第七牙は、一瞬で不利になった。
奪った魔物の大半を失い、黒帰将まで崩された。
ゼルヴァンの黒冠隷命は、ガルザヴェインの黒金覇王圏に押されている。
だが、彼は崩れない。
「撤退線」
ゼルヴァンが言った。
オルグが骨札を展開する。
「構築済み」
「目的変更。素材回収を放棄。情報を持ち帰る」
「承知」
余はそれを聞いた。
「逃げる気か」
逃がすものか。
余の配下を奪い、殺させ、声を汚し、ガルザヴェインを兵器にしようとした男を。
「逃がすな!」
余が命じる。
グズの泥門が動く。
ハイハネの霧が回る。
カゲヌイの影が伸びる。
湿骨王列の骨が門を作る。
マネが、余の声を広げる。
「閉じろ」
今度は本物の命令だ。
迷宮が、黒冠軍の背後を塞ぐ。
ゼルヴァンは黒剣を構えた。
「バロウ、道を開け」
「応!」
バロウが大盾を前に出す。
だが、ガルザヴェインがその前に立った。
黒金の覇気をまとった魔神覇王。
バロウの顔が引きつる。
「これは……正面は厳しいですな」
ガルザヴェインは拳を握る。
「オマエラ、ニガサナイ」
その声に、迷宮全体が応えた。
奪われていた配下たちが、今度は自分の意思で黒冠軍を囲む。
霧喰い刃ゴブリンは震えながらも刃を構える。
グズの泥が門を閉じる。
ハイハネの霧が逃げ道を隠す。
カゲヌイの影が足元を狙う。
赤金果守ゴブリンたちは、エリラの木の方へ逃げ込んだが、振り返って小さく鳴いた。
「ギギッ!」
怖い。
それでも、敵を見ている。
余は、その鳴き声を聞いて、静かに言った。
「よく戻った」
マネが、小さく自分の声で言った。
「ロード……」
「マネ」
「声、返す」
「ああ」
マネは深く震え、そして余の声を迷宮中へ広げた。
「黒冠軍第七牙を逃がすな」
白い霧が、閉じた。
黒冠軍第七牙は、初めて本当の意味で、迷宮の腹に閉じ込められた。
ゼルヴァンは、それでも笑わなかった。
怯えもしなかった。
ただ、黒剣を構え直す。
「いいだろう」
彼は言った。
「ならば、帰るために戦う」
ガルザヴェインが一歩前へ出た。
魔神覇王の黒金の圏が、深く広がる。
「ココハ、ロードノ、メイキュウ」
その声は、黒冠の命令よりも重く響いた。
「オマエラノ、グン、チガウ」
次の瞬間。
魔神覇王と黒冠軍第七牙の、本当の戦いが始まった。




