第215話 魔神戦王は、仲間を殴れない
ガルザヴェインの指が、白い床を砕いた。
片膝をついたまま。
額に黒い冠の紋を刻まれたまま。
足元をカゲヌイの影糸に縫われ、腕を湿骨王列の骨鎖に絡め取られ、周囲を操られた霧喰い刃ゴブリンたちに囲まれながら。
それでも、魔神戦王ゴブリンは折れていなかった。
「オレ……」
ガルザヴェインの喉から、低い声が漏れる。
「ゼルヴァンノ、ヘイ、チガウ」
額の黒冠紋が脈打つ。
ゼルヴァン・ギルロアの黒冠隷命が、さらに深く食い込もうとする。
黒い命令が、ガルザヴェインの精神核へ爪を立てる。
従え。
膝をつけ。
戦場の牙になれ。
勇者側の盾を砕け。
黒冠の兵となれ。
だが、そのたびにガルザヴェインの内側から黒い魔神性が噴き上がる。
違う。
違う。
違う。
「オレ、ロードノ、マモリ」
白い部屋で、余はその声を聞いていた。
胸を刺されたようだった。
胸などない。
だが、そう感じた。
ガルザヴェインは、余の配下だ。
契約を結んだ魔神戦王だ。
だが、今のあいつは、それだけではない。
エリラの木を守る者。
フィルエを知る者。
ルオに敗れても立つ者。
天蓋の猟犬に膝をつかされても折れなかった者。
そして今、自分の仲間を傷つけられずに苦しんでいる者。
ゼルヴァンは、そこを正確に刺している。
強さではない。
優しさですらない。
守ろうとする意志を、逆に鎖にしている。
「立て、ガルザヴェイン!」
余は叫んだ。
だが、マネの声が、同時に響く。
余と同じ声で。
「膝をつけ」
「違う!」
余は叫ぶ。
マネの偽声は止まらない。
「黒冠に従え」
「違う!」
「ガルザヴェイン、止まれ」
「違うと言っている!」
マネは震えていた。
声の奥に、泣くような乱れがあった。
それでも声は出る。
ゼルヴァンの命令を、余の声に変えて。
余の配下を惑わせるために。
余の迷宮を、内側から壊すために。
「マネ……」
フィルエの声が震える。
「マネ、苦しそう」
「分かっている」
余は言った。
分かっている。
分かっているから、何もできない自分が許せない。
マネの核を壊せば、偽声は止まる。
カゲヌイを壊せば、影糸は止まる。
ハイハネを落とせば、霧は戻る。
グズの泥核を砕けば、黒冠軍の足場は崩れる。
赤金果守ゴブリンを殺せば、エリラの木へ近づく足は止まる。
全部、方法はある。
だが、それは何だ。
余に、余の配下を壊せというのか。
余が育て、名前を呼び、役割を与え、エリラの欠片を分け、馬鹿な失敗に呆れ、少しずつ強くしてきた魔物たちを。
自分の手で。
「……できるか」
また、その言葉が漏れた。
弱い声だった。
ロードらしくない声だった。
だが、事実だった。
◇
黒帰将・落武者が、刃を横へ払った。
白い霧の中に、黒い軍路が生まれる。
操られた魔物たちが、その道に沿って動く。
霧喰い刃ゴブリンが前へ。
湿骨王列の骨槍が左右へ。
グズの黒泥が後方を固める。
ハイハネの霧が黒冠軍を包む。
カゲヌイの影糸がガルザヴェインの足を縫い直す。
赤金果守ゴブリンたちが、震えながら深部へ向かう。
軍列だった。
余の配下だったものが、黒冠の軍列になっていた。
ゼルヴァンは、黒剣を構える。
その顔に、興奮はない。
憎しみもない。
彼は、戦場の状況を見ている。
ガルザヴェインの呼吸。
黒冠隷命の入り具合。
操られた魔物の配置。
味方四人の立ち位置。
すべてを、淡々と見ている。
「抵抗は強い」
ゼルヴァンが言った。
「だが、揺れる」
メルゼアが血晶瓶を掲げる。
「魔神性が黒冠を焼いています。けれど、感情が乱れるたびに入り直せる」
「なら、乱し続ける」
ゼルヴァンの命令は短い。
「足を奪え。腕は残せ。殺すな。折る」
「応」
バロウが大盾を構え、前へ出る。
リシェが影へ沈む。
メルゼアの血晶が、赤黒い杭になる。
オルグの骨札が、ガルザヴェインの周囲へ飛ぶ。
そして、黒帰将が刃を掲げる。
マネが余の声で命じた。
「ガルザヴェイン、抵抗するな」
「黙れ!」
余は叫んだ。
だが、偽声は白い霧の中へ広がる。
ガルザヴェインの額で、黒冠紋が濃くなった。
「グ……ア……!」
ガルザヴェインが頭を振る。
その隙へ、バロウの大盾がぶつかった。
どん、と重い音。
魔神戦王の体が揺れる。
ガルザヴェインは反射で拳を振り上げる。
だが、その拳の先にいたのは、バロウだけではない。
操られた霧喰い刃ゴブリンが三体、バロウの盾の前に出されていた。
盾ではない。
人質。
いや、魔物質。
ガルザヴェインの拳が止まる。
「……!」
止まった瞬間、バロウの戦槌が横から入った。
ガルザヴェインの脇腹に叩き込まれる。
骨が軋む。
黒い血が飛ぶ。
「味方を前に出せば止まる」
ゼルヴァンが言った。
「覚えた」
余の視界が赤く染まるようだった。
「ゼルヴァン……!」
彼は知らない。
いや、知る気がない。
ガルザヴェインにとって、あのゴブリンたちがただの駒ではないことを。
余にとって、あの魔物たちが単なる配置物ではないことを。
知る気がない。
だからできる。
配下を盾にする。
配下に配下を殺させる。
余の声で命令する。
軍の合理が、迷宮の情を踏みにじっていた。
◇
リシェが影から出た。
今度の狙いは、ガルザヴェインの膝。
カゲヌイの影糸が、同時にその足を固定する。
「リシェ」
ゼルヴァンが短く言う。
「深く斬るな」
「分かってる」
黒い短刃が、ガルザヴェインの膝裏を裂いた。
浅く、だが正確に。
ガルザヴェインの足が沈む。
メルゼアの血晶杭が肩へ刺さる。
オルグの骨札が、黒い拘束陣を描く。
湿骨王列の骨鎖が、ガルザヴェインの腕へ絡む。
ガルザヴェインは咆哮した。
「ウオオオオオ!」
魔神咆哮。
骨鎖が砕ける。
血晶杭が割れる。
骨札の一部が燃える。
霧が吹き飛ぶ。
だが、そこへマネの偽声が割り込む。
「止まれ」
ガルザヴェインの咆哮が、一瞬乱れる。
その一瞬で、黒冠隷命がまた額へ食い込む。
「グ……!」
ガルザヴェインが、自分の額を殴る。
黒冠紋が割れる。
だが、血の下にまだ残る。
割っても割っても、ゼルヴァンの左手から伸びる黒い命令が補修する。
「しつこいな」
ゼルヴァンが低く言った。
「魔神性で焼き、契約線で押し戻し、自己意志でも抵抗する。普通なら、初撃で落ちている」
メルゼアが眉を寄せる。
「なら、諦めますか」
「逆だ」
ゼルヴァンは、ガルザヴェインを見た。
「ここまで抵抗する個体だからこそ、戦場に欲しい」
余は、吐き気のような感覚を覚えた。
まただ。
欲しがっている。
ガルザヴェインを。
兵として。
戦争の牙として。
「渡すものか」
余は言った。
「絶対に渡すものか」
◇
深部側で、赤金果守ゴブリンたちが進んでいた。
黒冠の命令を受け、マネの偽声に押され、黒帰将の軍路に沿って。
彼らの手には、小さな袋。
エリラの実を入れるための袋。
普段は、フィルエの許可した分を丁寧に運ぶための袋だ。
それを、今は奪うために使わされている。
「赤金果守、止まれ!」
フィルエが叫んだ。
ゴブリンたちは震えた。
一体が足を止めようとする。
だが、マネの偽声が被さる。
「進め」
余の声で。
余の命令のように。
「違う!」
余は叫ぶ。
だが、赤金果守ゴブリンは迷う。
フィルエの声。
ロードの本物の声。
ロードの偽物の声。
黒冠の命令。
全部が小さな体を引き裂く。
一体が、その場で膝をついた。
両手で頭を抱え、鳴いた。
「ギギ……ギギギ……!」
マネが余の声で言った。
「立て」
違う。
黒冠が言わせている。
ゴブリンは立たない。
その瞬間、黒帰将の刃が揺れた。
「やめろ!」
今度はフィルエが叫んだ。
白い部屋ではなく、深部の木のそばから。
声が直接、通路へ届いた。
刃が止まる。
ほんの一瞬。
黒帰将が、フィルエの声に反応したわけではない。
だが、赤金果守ゴブリンたちの抵抗が、少しだけ強まった。
黒冠の命令が乱れる。
余は、その一瞬に命じた。
「赤金果守、木から離れろ! フィルエの声を聞け!」
数体が止まった。
完全には戻らない。
だが、足が止まった。
フィルエが息を呑む。
「止まった……!」
しかし、ゼルヴァンもそれを見ていた。
「中枢に近い個体の声か」
彼はフィルエを知らない。
だが、声が効くことを見た。
「オルグ」
「はい」
「声の通る道を塞げ」
オルグの骨札が飛ぶ。
白い通路に、骨の符が貼りついた。
フィルエの声が、そこで歪む。
届きにくくなる。
「フィルエ!」
余は叫んだ。
「下がれ! 声を追われる!」
「でも……!」
「下がれ!」
フィルエは、悔しそうに唇を噛んだ。
それでも下がった。
エリラの木を背に。
小さな手を握りしめて。
余は、また何もできない自分を噛みしめた。
◇
ガルザヴェインは、まだ片膝をついていた。
額に黒冠紋。
足に影糸。
腕に骨鎖の残骸。
肩に血晶の傷。
脇腹から黒い血。
それでも立とうとしている。
だが、立とうとするたびに、配下が前に出される。
ゴブリン。
湿骨王列。
影糸。
泥壁。
霧。
全部、仲間。
全部、奪われたもの。
ガルザヴェインの拳が震える。
「ドケ」
彼は、操られたゴブリンへ言った。
「ドケ」
ゴブリンは泣くように鳴いた。
「ギ……」
どけない。
どけないのではない。
どけないようにされている。
「ドケ!」
ガルザヴェインの声が荒くなる。
それでも、ゴブリンは動けない。
その背後から、バロウの盾が突っ込んでくる。
ガルザヴェインは拳を出せない。
避ければ、ゴブリンが潰される。
受ければ、自分が削られる。
彼は、受けた。
盾が胸にぶつかる。
血が飛ぶ。
メルゼアの血晶杭が追撃する。
リシェの影刃が足を裂く。
黒帰将の刃が、ガルザヴェインとロードを繋ぐ命令の道をかすめる。
余の声が、また一瞬遠くなる。
「ガルザヴェイン!」
声が届きにくい。
マネの偽声が、余の声を上から塗る。
「従え」
「違う!」
ガルザヴェインの体が揺れる。
黒冠の紋が、ついに額から胸へ伸びかける。
《警告》
《外部支配命令、深度危険域》
《ガルザヴェイン行動優先権、一部侵食》
「ふざけるな……!」
余は叫ぶ。
「ふざけるな! ガルザヴェインを、奪うな!」
だが、ゼルヴァンは冷静だった。
「あと少しだ」
彼は言った。
「意志は強い。だが、守るものが多すぎる」
黒剣を構え、歩み寄る。
「その重さごと、黒冠で支える」
嫌な言葉だった。
優しそうにすら聞こえる。
だが、それは支配だ。
守れないなら、従え。
従えば、守れる。
その毒。
ガルザヴェインの拳が、白い床にめり込む。
「チガウ……」
声が小さくなる。
「チガウ……」
ゼルヴァンが黒い手を伸ばした。
「黒冠の兵となれ」
その手が、ガルザヴェインの額へ近づく。
余は叫んだ。
「ガルザヴェイン!」
フィルエも叫んだ。
「ガルザヴェイン!」
マネの偽声も叫ぶ。
「従え」
黒帰将の刃が、命令の道を斬る。
ハイハネの霧が視界を奪う。
カゲヌイの影が足を縫う。
グズの泥が床を固める。
赤金果守ゴブリンたちが、泣きながらエリラの木の方へ歩かされる。
全てが、ガルザヴェインを押し潰した。
そして、ゼルヴァンの黒い手が、ガルザヴェインの額へ触れようとした。
◇
その時。
ガルザヴェインの中で、何かが鳴った。
それは、魔神進軍鐘ではなかった。
いつもの、強者を求める鐘ではない。
もっと低い。
もっと深い。
腹の底ではなく、迷宮の底から響くような音。
彼は思い出した。
アレク。
一人で強かった人間。
白銀の傷を残した敵。
天蓋の猟犬。
六人と眠る一人で、魔神戦王を膝づかせた群れ。
ルオ。
規格外の龍神の子。
一撃で自分を膝づかせ、それでも笑って組み手に来る少年。
敗けた。
何度も敗けた。
悔しかった。
だが、敗けても立った。
立てば、強くなれた。
今回は。
今度だけは。
自分が敗ければ、それで終わらない。
ロードの声が奪われている。
マネが泣いている。
グズが削られている。
ハイハネが霧を奪われている。
カゲヌイが自分の影を縫って苦しんでいる。
赤金果守ゴブリンが殺された。
フィルエが声を塞がれた。
エリラの木へ、仲間たちが歩かされている。
迷宮が、黒冠の軍に変えられていく。
ここがなくなる。
ロードの声が消える。
エリラが奪われる。
仲間が仲間を殺し続ける。
その恐怖が、ガルザヴェインの胸を貫いた。
「……イヤダ」
彼は呟いた。
ゼルヴァンの手が止まる。
「何?」
「イヤダ」
ガルザヴェインの声が、少しずつ太くなる。
「アレクニ、マケタ。イヌニ、マケタ。ルオニ、マケタ」
黒い魔神性が、彼の傷跡から噴き出す。
「デモ、タッタ」
額の黒冠紋が、ぎし、と音を立てる。
「タッテ、ツヨク、ナッタ」
ガルザヴェインの金色の目が、ゼルヴァンを見た。
「デモ、コレハ、チガウ」
白い床が震える。
「マケタラ、タテナイ。ナカマ、キエル。ロード、キエル。エリラ、キエル。フィルエ、キエル。ミンナ...キエル...」
彼の拳が、床を砕いた。
「イヤダ」
黒い魔神性の中に、金色が混じった。
ほんの一筋。
だが、確かに。
「オレ、マモル」
黒冠紋が、額で軋む。
「オレ、ナカマ、カエス」
余は、白い部屋で息を呑んだ。
「ガルザヴェイン……?」
管理音声が、警告とも報告ともつかない声を発する。
《異常反応》
《ガルザヴェイン内部魔神性、変質開始》
《進化条件、照合中》
ゼルヴァンが目を細める。
「押さえろ」
黒帰将が刃を上げる。
バロウが盾を構える。
メルゼアが血晶を再形成する。
オルグが骨札を投げる。
リシェが影へ沈む。
操られた配下たちが、一斉にガルザヴェインへ向かう。
だが、ガルザヴェインは片膝をついたまま、動かなかった。
逃げない。
避けない。
ただ、低く吠えた。
「カエセ」
黒い魔神性が、金色を帯びて膨れ上がる。
「オレノ、ナカマ、カエセ」
《進化条件、急速接近》
《要因:敗北記録、守護意志、仲間喪失恐怖、外部支配抵抗、迷宮保護衝動》
ゼルヴァンの黒い手が、再びガルザヴェインの額へ伸びる。
「遅い」
ゼルヴァンは言った。
「お前はもう、黒冠の――」
その言葉は、最後まで続かなかった。
ガルザヴェインの額に刻まれた黒冠紋が、内側から割れた。
黒ではない。
金色でもない。
黒と金が混じった覇気。
それが、紋を押し返した。
ガルザヴェインが、ゆっくり立ち上がる。
片膝を上げる。
白い床を踏む。
黒冠隷命が、ぎしぎしと音を立てて剥がれかける。
まだ完全には砕けない。
だが、ゼルヴァンの命令が、初めて押し返された。
管理音声が叫ぶように告げた。
《進化反応、発生》
《魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェイン》
《進化開始》
白い部屋に、金色の光が差した。
それは、エリラの実の光に似ていた。
だが、もっと荒く、もっと重く、もっと王のようだった。
ガルザヴェインは立った。
黒冠軍の前に。
奪われた配下たちの前に。
ロードの声を取り戻すために。
「オレ、マモル」
その声は、もう震えていなかった。
「オレ、カエス」
そして、魔神戦王の体から、黒金の覇気が噴き上がった。




