第214話 黒冠は、魔神の額へ命令を刻む
黒帰将・落武者の刃が振り下ろされた。
その刃は、ただ肉を斬るものではない。
道を斬る。
命令を斬る。
帰る場所を斬る。
迷宮の中を流れる命令の筋へ、黒い刃が触れた瞬間、白い霧の奥で、いくつもの配下が揺れた。
グズの泥門が、黒冠軍の背後を守るように閉じる。
ハイハネの霧が、ロード側の視界を濁らせる。
カゲヌイの影糸が、ガルザヴェインの足元を縫う。
湿骨王列の骨橋が、黒冠軍の進軍路を作る。
赤金果守ゴブリンたちは、泣くように鳴きながら、エリラの木の方へ歩かされている。
そしてマネは、余の声で命令を出し続けていた。
「進め」
違う。
余ではない。
「ガルザヴェインを止めろ」
違う。
それは余の命令ではない。
「エリラの実を運べ」
「黙れ!」
白い部屋で、余は叫んだ。
だが、マネの声は止まらない。
余の声で、余の迷宮が汚されていく。
それを、ガルザヴェインは聞いていた。
黒い霧の中で。
仲間だった魔物たちに囲まれながら。
魔神戦王は、拳を握りしめていた。
「カエセ」
低い声だった。
怒りだけではない。
悔しさ。
戸惑い。
そして、恐怖。
自分が殴れば壊れてしまう仲間たちが、敵として前にいる。
それでも、進まなければならない。
止めなければ、迷宮が壊される。
エリラの木が奪われる。
フィルエが危ない。
ロードの声が、さらに奪われる。
「オレノ、ナカマ、カエセ」
ガルザヴェインが踏み込んだ。
◇
最初に襲いかかったのは、操られた霧喰い刃ゴブリンたちだった。
十二体。
すでに一体は抵抗して斬られた。
残った個体は、黒冠の命令で隊列を組んでいる。
以前のような小さな群れではない。
黒帰将の刃に導かれ、軍列として動いている。
正面から三体。
左右から四体。
背後から影を使って五体。
狙いはガルザヴェインの足首、膝裏、指。
小さな刃が一斉に走った。
「グ……!」
ガルザヴェインは踏み潰さない。
蹴り飛ばさない。
拳を振れば、ゴブリンごと砕いてしまう。
だから、彼は足を止めた。
それが、ゼルヴァンの狙いだった。
「踏めないか」
黒鎧の隊長は、静かに言った。
「なら、止まる」
ゼルヴァンは黒剣を抜いた。
長すぎない剣。
飾りの少ない実戦剣。
だが、刃には黒い冠の紋が薄く走っている。
「バロウ」
「応」
「正面」
大盾の巨体、バロウが進む。
黒い大盾を構え、戦槌を肩に担ぐ。
「魔神級のゴブリンか。こいつは戦場に欲しいですな」
「まだ魔神と決まったわけではない」
メルゼアが言った。
「ただ、ゴブリン系統であるのは確かです。ですが、格が異常に高い。通常の王種、将種とは比較になりません」
ゼルヴァンはガルザヴェインを見た。
金色の目。
黒い魔神性。
体に刻まれた戦歴の傷。
そして、配下を踏み潰さないために、拳を止めている動き。
「ゴブリンの上位種」
彼は低く言った。
「いや、上位という言葉では足りんな」
ガルザヴェインが、操られたゴブリンたちを払いのける。
掌で押すだけ。
殺さないように、骨を砕かないように。
それでも数体が転がる。
だが、黒帰将の刃が鳴ると、彼らは再び立ち上がった。
「戦場に立てば、白盾を砕ける」
ゼルヴァンの目が細くなる。
「使える」
余は、その言葉を聞いた。
「……使える?」
白い部屋で、余の声が低くなる。
「ガルザヴェインを、物扱いしたか」
《ゼルヴァン、ガルザヴェインへの支配試行準備》
「ふざけるな」
◇
バロウが突っ込んだ。
大盾を前に。
操られた湿骨王列が、足元に骨橋を作る。
グズの泥が、バロウの踏み込みを支える。
ハイハネの霧が、彼の巨体を隠す。
味方だった配下が、黒冠軍の突撃を補助している。
ガルザヴェインは、歯を剥いた。
「ジャマ、スルナ」
大盾がぶつかる。
魔神戦王の拳が、盾を受け止めた。
衝撃で白い床が割れる。
バロウの足が沈む。
だが、すぐにグズの泥が支えた。
余の配下の泥が、敵の足を支える。
その光景に、余は奥歯を噛んだ気分になった。
「グズ……!」
グズの泥が震える。
きっと抵抗している。
だが、黒冠隷命と黒帰将の指揮が、泥を動かしている。
バロウが笑った。
「重いな、魔神ゴブリン!」
「チガウ」
ガルザヴェインが盾を押す。
「オレ、ロードノ、マモリ」
盾が軋む。
バロウの笑みが消える。
「隊長、こいつ、力が――」
言い終わる前に、ガルザヴェインが盾ごとバロウを押し返した。
だが、そこへ黒帰将が刃を振るう。
ガルザヴェインの帰る足場を斬る。
彼の踏み込みの後ろにある道を、意味ごと断つ。
体勢が崩れる。
その瞬間、リシェが影から出た。
影翼斥候。
黒い刃が、ガルザヴェインの脇腹へ走る。
カゲヌイの影糸が、同時に足を縫う。
味方の影と敵の刃が、同じ瞬間に来る。
ガルザヴェインは避けられない。
黒い刃が脇腹を裂いた。
「グ……!」
血が飛ぶ。
リシェはすぐに影へ戻る。
ゼルヴァンが言った。
「殺すな。削れ」
「了解」
「こいつは奪う」
その一言に、ガルザヴェインの金色の目が動いた。
「ウバウ?」
「そうだ」
ゼルヴァンは左手を上げる。
黒冠の紋様が、今までより濃く浮かび上がる。
「お前は戦場で使える」
「ツカウ?」
「勇者側の盾を割る牙になる」
ガルザヴェインは、ゆっくり拳を握った。
「オレ、ダレノ、モノデモナイ」
ゼルヴァンは答えない。
ただ、黒冠隷命を発動した。
◇
黒い冠の命令が、ガルザヴェインへ向かった。
低位ゴブリンを捕った時とは違う。
ハイハネの霧を奪った時とも違う。
カゲヌイの影糸へ触れた時とも違う。
黒冠の命令は、一本の鎖ではなかった。
王冠のように広がり、ガルザヴェインの額へ落ちる。
命令の冠。
戦場で兵を縛る黒い冠。
それが、魔神戦王の額へ触れた。
「ガルザヴェイン!」
余は叫んだ。
契約線を強く繋ぐ。
「聞くな! 余の声だけを聞け!」
だが、マネが同時に余の声で叫んだ。
「ガルザヴェイン、従え」
「違う!」
余は叫ぶ。
「それは余ではない!」
マネの偽声が重なる。
「黒冠に従え」
「違う!」
「ゼルヴァンに従え」
「違う!!」
余の本物の声。
マネに奪われた偽物の声。
ゼルヴァンの黒冠の命令。
全部が、ガルザヴェインの頭の中でぶつかる。
ガルザヴェインの金色の目が揺れた。
「グ……ア……!」
彼の額に、黒い冠の紋が浮かびかける。
すぐに、黒い魔神性がそれを焼く。
だが、焼き切れない。
また浮かぶ。
また焼く。
「ガルザヴェイン!」
フィルエの声が響いた。
「戻って!」
その声で、ガルザヴェインの目が一瞬だけ定まる。
「フィ……ルエ……」
だが、ゼルヴァンはその反応を見逃さなかった。
「感情反応あり」
冷静な声。
「そこも縛る」
黒冠隷命が、さらに深く入ろうとする。
ガルザヴェインの体が震えた。
拳が、ゆっくり下がる。
黒冠軍の方ではなく、迷宮の奥へ向きかける。
「……まずい」
余は言った。
「管理音声!」
《ガルザヴェインへの外部支配命令、侵入中》
「遮断しろ!」
《魔神性および契約線が抵抗中》
「結果は!」
《抵抗中。完全支配には至っていません》
「なら、まだいける!」
だが、ゼルヴァンは淡々としていた。
「完全に奪えなくてもいい」
彼は言った。
「一拍止まれば、十分だ」
バロウが盾を構える。
リシェが影へ沈む。
メルゼアが血晶瓶を開く。
オルグが骨札を投げる。
黒帰将が刃を掲げる。
操られた配下たちが、一斉に動いた。
ガルザヴェインの動きが、黒冠隷命に抵抗するため一瞬鈍る。
その一瞬へ、全てが叩き込まれた。
◇
バロウの盾が、ガルザヴェインの胸を打つ。
リシェの影刃が、膝裏を裂く。
メルゼアの血晶術が、黒い結晶の杭となって肩へ刺さる。
オルグの骨札が、ガルザヴェインの周囲に拘束陣を作る。
黒帰将の刃が、ガルザヴェインの命令経路を斬ろうとする。
カゲヌイの影糸が、足を縫う。
ハイハネの霧が、視界を奪う。
湿骨王列の骨鎖が、腕へ絡む。
グズの泥が、足元を固める。
そしてマネが、余の声で命じた。
「止まれ」
「違う!」
余の叫びが、白い部屋を震わせる。
ガルザヴェインは止まらなかった。
だが、遅れた。
ほんの一拍。
それだけで、攻撃は入る。
ガルザヴェインの巨体が揺れる。
血が飛ぶ。
黒い魔神性が乱れる。
「グアアアア!」
咆哮。
魔神咆哮が通路を震わせる。
骨鎖が砕ける。
血晶の杭が割れる。
オルグの骨札が燃える。
バロウが盾ごと三歩下がる。
リシェが影へ逃げる。
だが、ゼルヴァンは下がらない。
黒冠の命令を、さらに押し込む。
「膝をつけ」
ガルザヴェインの膝が、わずかに沈んだ。
「つくな!」
余は叫んだ。
「ガルザヴェイン、つくな!」
フィルエも叫ぶ。
「ガルザヴェイン!」
ガルザヴェインの額に、黒冠の紋がまた浮かぶ。
彼は、自分の拳で額を殴った。
ごん、と鈍い音。
黒冠の紋が割れる。
血が流れる。
だが、完全には消えない。
「オレ……」
ガルザヴェインの声が震える。
「オレ、ロードノ……」
マネの偽声が重なる。
「ゼルヴァンに従え」
「チガウ……!」
「黒冠の兵となれ」
「チガウ!」
「戦場で盾を割れ」
「チガウ!!」
ガルザヴェインの拳が震える。
自分の仲間を殴れない。
黒冠の命令に従えない。
ロードの声を聞きたい。
だが、ロードの声が奪われている。
迷宮そのものが、歪んで聞こえる。
その苦しみが、白い部屋まで伝わってきた。
余は、何もできない。
契約線を強くすることしかできない。
声を届けることしかできない。
その声すら、マネに真似られている。
「……くそ」
余は吐き捨てるように言った。
「余の声を、余の配下を、余の迷宮を……」
言葉が震える。
「返せ」
◇
ゼルヴァンは、ガルザヴェインを見ていた。
その目には、欲があった。
だが、冒険者の欲ではない。
軍人の欲だ。
戦場で使える兵器を見つけた時の目。
「やはり、完全には落ちないか」
彼は言った。
メルゼアが血晶瓶を握る。
「それでも、命令は入っています」
「十分だ」
ゼルヴァンは黒剣を構えた。
「抵抗を削る。意志を折れば、黒冠は深く入る」
バロウが盾を鳴らす。
「折れますかね、あれ」
「折る」
短い言葉だった。
その冷たさが、余の神経を逆撫でした。
ガルザヴェインは、折れない。
折らせない。
そう思いたい。
だが、目の前の光景は残酷だった。
ガルザヴェインは、操られた配下たちを傷つけないように戦っている。
そのせいで、攻撃を受ける。
黒冠隷命に抵抗するために、魔神性を消耗している。
そのせいで、動きが鈍る。
ロードの声とマネの偽声が混ざる。
そのせいで、一瞬迷う。
迷った一瞬を、黒冠軍が正確に突く。
強い。
ゼルヴァンの小隊は、天蓋の猟犬とは違う強さを持っている。
美しい連携ではない。
宝を取るための技でもない。
軍だ。
相手の弱点を見つけ、そこへ部隊全体で圧をかける。
抵抗する味方を処理し、奪った敵を盾にし、必要なら仲間すら消耗品として使う。
それが軍の強さだった。
◇
ガルザヴェインの足元で、赤金果守ゴブリンが一体、震えていた。
操られている。
手には、小さな袋。
エリラの実を運ぶための袋。
だが、そのゴブリンは進めない。
自分の足を噛んでいる。
血が出ている。
それでも、黒冠の命令が足を動かそうとする。
「ギ……ギ……!」
ゼルヴァンが、それを見た。
「また抵抗個体か」
「やめろ!」
余は叫んだ。
だが、黒帰将が動く。
刃が上がる。
ガルザヴェインがそれを見た。
そして、動いた。
黒冠隷命で体が重い。
影糸で足が縫われている。
骨鎖が腕を絡めている。
それでも、動いた。
「ヤメロ!」
ガルザヴェインの拳が、黒帰将の刃を受けた。
刃が彼の腕に食い込む。
赤金果守ゴブリンは斬られなかった。
代わりに、ガルザヴェインの腕が裂けた。
「グ……!」
「庇ったか」
ゼルヴァンが言う。
「なら、そこだ」
黒冠隷命が、さらに強くなる。
ガルザヴェインは配下を守った。
その瞬間に生まれた感情の揺れ。
そこへ黒冠の命令が入り込もうとする。
「守るなら、従え」
ゼルヴァンの声が低く響いた。
「従えば、殺さずに済む」
「……」
「黒冠の兵となれ。そうすれば、ここにいる魔物を殺さずに使える」
余は怒鳴った。
「聞くな!」
だが、言葉が遅い。
ゼルヴァンの言葉は、ガルザヴェインの一番痛いところを刺した。
守りたい。
殺したくない。
仲間を取り戻したい。
なら、従えばいい。
そう囁く。
それは、強い者への命令ではなく、守る者への毒だった。
ガルザヴェインの額に、黒い冠が濃く浮かんだ。
「ガルザヴェイン!」
フィルエが叫ぶ。
「だめ!」
その声で、ガルザヴェインの目が揺れる。
だが、黒冠の命令は消えない。
彼の拳が、ゆっくり下がる。
黒い魔神性が、鈍る。
ゼルヴァンが一歩近づいた。
「膝をつけ」
ガルザヴェインの膝が、沈む。
白い部屋で、余は叫び続けた。
「つくな! ガルザヴェイン、つくな!」
マネの偽声が重なる。
「膝をつけ」
「違う!」
偽声。
本物の声。
命令。
呪い。
守りたい気持ち。
殺したくない迷い。
すべてが、ガルザヴェインを押し潰していく。
そして。
魔神戦王の片膝が、白い床についた。
◇
白い部屋が、静まり返った。
《警告》
《ガルザヴェイン、行動制御低下》
《外部支配命令、深度上昇》
《危険域》
「……」
余は、声を出せなかった。
また膝をついた。
天蓋の猟犬に。
ルオに。
そして今度は、黒冠の命令に。
ただの敗北ではない。
これは違う。
今度の膝は、体を砕かれた膝ではない。
心を縛られ、仲間を盾にされ、守りたい気持ちを逆手に取られた膝だ。
ガルザヴェインの金色の目が、白い部屋を見上げているように見えた。
「ロード……」
声が掠れていた。
「オレ……」
マネが、余の声で囁く。
「従え」
「違う」
余は言った。
声は小さかった。
だが、今度は震えなかった。
「ガルザヴェイン」
契約線へ、余の意識を集中させる。
「余の声だけを聞けとは言わん」
ガルザヴェインの目が揺れる。
「フィルエの声も聞け」
フィルエが息を呑む。
「お前自身の声も聞け」
ガルザヴェインの拳が震える。
「お前は、誰の兵でもない」
ゼルヴァンの黒冠が、さらに濃くなる。
「お前は、余の配下だ」
マネの偽声が、同じ言葉を真似ようとする。
だが、余は続けた。
「だが、その前に」
ガルザヴェインの金色の目に、黒い冠と金色の火が同時に揺れる。
「お前は、お前だ」
その瞬間、ガルザヴェインの拳が、白い床を掴んだ。
爪が床へ食い込む。
黒い冠が額で軋む。
まだ消えない。
だが、止まった。
ゼルヴァンが目を細める。
「まだ折れんか」
ガルザヴェインは、片膝をついたまま、ゆっくり顔を上げた。
黒冠の命令に抵抗しながら。
仲間たちに囲まれながら。
自分の中の怒りと恐怖と悔しさを噛みしめながら。
「オレ……」
彼は低く言った。
「ゼルヴァンノ、ヘイ、チガウ」
黒い魔神性が、再び揺れ始める。
「オレ、ロードノ、マモリ」
まだ立てない。
まだ完全には戻れない。
黒冠隷命は、額に食い込んでいる。
配下たちは操られたまま。
マネの偽声も止まらない。
黒帰将の刃は、次の命令を待っている。
だが、ガルザヴェインは折れていなかった。
ゼルヴァンは、静かに黒剣を構える。
「なら、折る」
黒冠軍第七牙と、奪われた迷宮の配下たちが、再び動き出す。
片膝をついた魔神戦王へ向かって。
そして余は、白い部屋で、まだ何も取り戻せないまま叫んだ。
「立て、ガルザヴェイン!」
その叫びに、ガルザヴェインの指が、白い床を砕いた。




