第212話 龍神の子は、白い迷宮に通い始める
ルオ・ゼルファニアが初めて迷宮へ来てから、数日が経った。
その数日で、余は一つ学んだ。
侵入者。
敵。
災害。
客。
この四つは、必ずしも別々ではないらしい。
特に、龍神系統高位個体というものは、その全部を同時に満たす。
最初の日、ルオは迷宮を半ば散歩のように突破した。
灰霧を手で払った。
影針を踏まずに浮いた。
黒泥城を遊具のように越えた。
湿骨王列の骨王門を押し倒した。
そして、魔神戦王ゴブリン・ガルザヴェインを、一撃で膝づかせた。
にもかかわらず、本人に敵意はほとんどなかった。
目的は、エリラの実。
もっと言えば、甘い果物。
さらに言えば、食欲。
そしてフィルエが出ていくと、ルオは止まった。
これが一番、余には納得しがたい。
余の罠では止まらなかった。
ガルザヴェインの拳でも止めきれなかった。
迷宮の防衛をほとんど無視して進んできた少年が、フィルエの、
「止まって」
の一言で止まった。
世の中は不公平だ。
◇
「管理音声」
《はい》
「本日のエリラの実の数は」
《現在結実数:百五十二個》
「増えているな」
《はい》
「前は百個前後だった」
《はい》
「この数日で、明らかに増えている」
《はい》
「原因は」
《推定:ルオ・ゼルファニアの龍神系統由来と思われる高位生命反応が、エリラの木周辺の生命循環に影響した可能性があります》
「つまり、あいつが来て、実を食って、ガルザヴェインと殴り合って帰ったら、木が元気になったと?」
《可能性があります》
「理不尽だな」
《はい》
白い部屋の壁面には、魔神契約跡に生えたエリラの木が映っている。
赤金色の幹。
赤い葉。
金色の裏葉。
そして、以前より明らかに多くなった実。
昨日は百四十六個。
その前は百三十八個。
少しずつ増えている。
フィルエの管理が良いことは分かっている。
それは認める。
だが、ルオが来た後に増え方が変わったのも事実だった。
あの少年が発する何かが、エリラの木にとって悪いものではない。
そのこともまた、余には納得しがたい。
「フィルエ」
《うん》
「木はどうだ」
「元気。前より葉の裏が明るい」
「ルオの影響か」
「たぶん少しある」
「なぜだ」
「エリラの木が嫌がってないから」
「嫌がっていない、か」
「うん。ルオが近くにいると、少し実の香りが強くなる」
「誘っているのか?」
「分からない。でも、木は怖がってない」
余は黙った。
木が怖がっていない。
フィルエがそう言うなら、そうなのだろう。
エリラの木は、余よりフィルエに正直だ。
それも納得しがたい。
◇
エリラの実の管理規則は、この数日で変えた。
以前の余は、警戒しすぎていた。
天蓋の猟犬に二つ奪われたことが、よほど響いていたのだろう。
最後の一個を残せば、翌日には元の数へ戻る。
それなのに、一個だけだの、食べすぎるなだの、細かく言いすぎた。
今は違う。
全部取らなければよい。
木に十分な実を残せばよい。
フィルエが状態を見て、必要な分を採る。
それで回っている。
白骨書記は、新しい骨板を作った。
⸻
エリラの実管理規則・改訂版。
一、全採取禁止。
二、木に十分な実を残すこと。
三、採取量、使用量、保存量はフィルエ判断。
四、治療、訓練後補給、配下報酬、来客対応に使用可能。
五、ゴブリンの無断採取は禁止。
六、最後の一個を取った者は、全員で怒る。
七、ロードの「管理確認」はフィルエ許可制。
⸻
「七番は不要だ」
白骨書記は消さなかった。
フィルエも消さなかった。
つまり、消えない。
今では、エリラの実は迷宮内で普通に使われている。
グズの泥核が疲れた時には、果汁を薄く混ぜる。
ハイハネの羽が傷んだ時には、果汁を霧に溶かす。
カゲヌイの影糸が焼けた時には、果皮を粉にして影へ馴染ませる。
湿骨王列には口がないので、戻り水へ一滴だけ混ぜる。
ゴブリンたちは、小さな欠片をもらうと目を輝かせる。
赤金果守ゴブリンなど、最近は実の数を数える時に妙に誇らしげだ。
ガルザヴェインは、重い訓練や組み手の後にいくつか食べる。
フィルエは、命脈安定のために食べる。
余も、管理上の確認として食べることがある。
白骨書記は、それを試食と記録する。
違う。
管理上の確認だ。
何度言っても、白骨書記は修正しない。
◇
その日、フィルエはエリラの木の前に立っていた。
赤金果守ゴブリンたちが、木の周囲で実を数えている。
「百四十九……百五十……百五十……ギ?」
「違う。そこは百五十一」
「ギギッ」
「最初からやり直さないでいい」
フィルエが淡々と言う。
ゴブリンたちは真剣だ。
実を数えることに誇りを持ち始めている。
宝箱を噛むよりは、ずっと良い。
「今日はどれくらい採る」
余が聞く。
「三十四個」
「多いな」
「多いけど、木は平気。熟しすぎて落ちそうなのもあるから、採った方がいい」
「用途は」
「保存用十個。治療用五個。配下報酬用五個。ガルザヴェインの組み手後に五個。グズとハイハネとカゲヌイに一個分ずつ。ゴブリン用に三個分。あとは来客用」
「来客用」
嫌な単語だ。
嫌な予感がした。
「誰のことだ」
フィルエは少しだけ黙った。
その瞬間、白い部屋に警告が響いた。
《外縁に高位魔力反応》
「……またか」
《個体反応照合》
《ルオ・ゼルファニア》
余は目を閉じた。
目はない。
だが、閉じた気分だった。
「また来たか」
◇
迷宮入口の白い霧の前で、ルオ・ゼルファニアは手を振っていた。
「よー! 来たぞ!」
大声だ。
誰に向けて言っているのか。
余か。
フィルエか。
迷宮全体か。
全部かもしれない。
ルオは相変わらず、人間の少年のような姿をしている。
淡い銀青の髪。
金色の瞳。
首筋、手首、耳の後ろに見える白銀の鱗。
軽い足取り。
緊張感のない顔。
だが、その内側にある魔力は、相変わらず規格外だった。
入口の霧が勝手に薄くなる。
カゲヌイの影糸が縮む。
ハイハネは羽を閉じる。
グズの泥門は、また半分閉じかけた。
「グズ、怯えるな」
「グ……ズ……」
「いや、気持ちは分かる」
余も、正直少し怯えている。
だが、初回のように全防衛をぶつけるのは無意味だと分かった。
むしろ迷宮が壊れる。
ならば、対応は一つ。
被害を出さず、目的だけ済ませて帰ってもらう。
腹立たしいが、現実的判断だ。
《ルオ・ゼルファニア》
余は外部音声を開いた。
ルオが顔を上げる。
「お、ロード!」
《入口で止まったことは評価する》
「だろ? フィルエに言われたからな!」
《余も言った》
「そうだっけ?」
《言った!》
ルオは悪びれずに笑う。
「まあまあ、ちゃんと止まったんだからいいじゃん」
《用件を言え》
「果物食べたい。フィルエと話したい。ガルザヴェインと組み手したい。あと、外の果物持ってきた」
《用件が多い》
「ちゃんとまとめたぞ?」
《そういう問題ではない》
ルオは袋を掲げた。
中には、青い果物がいくつも入っている。
「これ、空梨っていうんだ。外の果物。フィルエに持ってきた!」
白い部屋で、余は沈黙した。
「……貢ぎ物まで始めたか」
《ルオ、フィルエへの好意行動と推定》
「推定ではなく、明らかだ」
フィルエの声がした。
「ロード、入れてもいい?」
「条件を確認してからだ」
《迷宮を壊すな》
「壊さない!」
《勝手に奥へ走るな》
「走らない!」
《エリラの実はフィルエの許可を取れ》
「取る!」
《組み手は専用区画でやれ》
「やる!」
《ゴブリンを飛ばすな》
「……軽くなら?」
《駄目だ》
「分かった!」
本当に分かっているかは怪しい。
だが、初回よりはずっとましだ。
《入れ》
「おう!」
白い霧が開く。
ルオは、今度は本当にゆっくり歩いて入ってきた。
霧を払わない。
影を踏まない。
泥門を越えない。
ゴブリンを弾かない。
それだけで、迷宮内の緊張が少し下がった。
この時点で基準がおかしいが、仕方ない。
◇
ルオは、まずエリラの木の前へ来た。
フィルエが待っている。
ルオは彼女を見つけるなり、顔を明るくした。
「フィルエ!」
「こんにちは、ルオ」
「こんにちは!」
声が大きい。
嬉しそうなのは分かる。
ルオは袋を差し出した。
「これ、空梨。甘くてうまいぞ」
「ありがとう」
「フィルエ、果物好きか?」
「好き」
「じゃあよかった!」
ルオは、分かりやすく嬉しそうに笑った。
その後、エリラの木を見上げる。
「今日もすっげー実ってるな!」
「増えてる」
「オレのおかげ?」
「少しは」
ルオは胸を張った。
「やっぱりな!」
《調子に乗るな》
「ロード、細かいな!」
《細かくなる原因がお前だ》
「そうか?」
《そうだ》
フィルエが、熟した実を選び始める。
「今日は八個くらいなら食べても大丈夫」
「八個!」
ルオの目が輝いた。
「いいのか!?」
「うん。でも、枝を傷つけない。食べる分だけ取る。食べ残さない。勝手に追加で取らない」
「分かった!」
「ガルザヴェインの分も残す」
「分かった!」
「ゴブリンの分も残す」
「分かった!」
フィルエが実を八個取る。
赤金色の実。
甘い香り。
ルオは両手で受け取り、一つ目をかじった。
「うまっ!」
前回と同じ反応だった。
だが、今回は二つ目、三つ目と続く。
「これ、何回食ってもすげーな。甘いけど、ただ甘いんじゃないんだよ。なんかこう……空? 水? 命? よく分かんないけど、うまい!」
「体に変化はある?」
フィルエが聞く。
「ある。ぽかぽかする。あと、鱗がちょっと軽い」
「鱗が軽い?」
「うん。体が動きやすくなる感じ」
「龍神系統にも効くんだ」
「たぶん効いてる!」
フィルエは、じっとルオを見る。
観察している。
ルオは少し照れたように笑った。
「そんな見るなよ」
「反応を見てる」
「そっか。じゃあ見ていいぞ」
「うん」
素直だ。
フィルエが相手だと、やたら素直だ。
余は複雑な気持ちになった。
◇
エリラの実を食べ終えると、ルオは魔神練兵窟へ向かった。
ガルザヴェインが待っていた。
魔神戦王ゴブリン。
初回、ルオに一撃で膝をつかされた配下。
だが、それから数日。
ルオとの組み手と、エリラの実による回復で、あの一撃の傷は少しずつ戦歴になり始めている。
完全に乗り越えたわけではない。
だが、ガルザヴェインはもう、ただ負けた魔神ではない。
負けを覚え、次へ進もうとする魔神戦王だ。
「ルオ」
「ガルザヴェイン!」
「クミテ」
「やろうぜ!」
《迷宮を壊すな》
「分かってるって、ロード!」
《本当だな》
「フィルエにも言われたし」
《余にも言われている》
「うんうん」
《軽い!》
魔神練兵窟の中央に、組み手用の区画を開く。
床を厚くする。
壁に衝撃逃がし層を張る。
グズに補修待機をさせる。
ハイハネには霧を薄く散らさせる。
カゲヌイは影針を出さず、影の揺れだけを見る。
それでも不安は残る。
相手がルオだからだ。
「始めるぞ」
ガルザヴェインが構える。
ルオも構える。
構えというより、軽く膝を曲げただけだ。
「いくぞ!」
ガルザヴェインが踏み込む。
魔神拳。
ただし、殺す拳ではない。
組み手用に抑えた黒牙砕。
それでも、普通のAランク冒険者なら死ぬ威力だ。
ルオはそれを避けた。
前回のように完全に消えるのではなく、今回は少し遅く動いている。
ガルザヴェインに合わせているのだ。
「お、前より速い!」
「マダ」
ガルザヴェインの拳が続く。
二発。
三発。
ルオはかわす。
時に受ける。
受けた腕の白銀の鱗が、きん、と鳴る。
ガルザヴェインは、足元の重泥霧を使った。
ルオの着地先を一瞬だけ重くする。
ルオの足が、ほんの少し沈む。
「おっ」
そこへ、魔神爪。
ルオは身をひねる。
鱗が一枚、浅く削れる。
「やるじゃん!」
ルオが笑う。
ガルザヴェインの目が光る。
「ツギ」
今度はルオが動いた。
速い。
だが、前回ほどではない。
ガルザヴェインに見える速度。
それでも十分すぎるほど速い。
ルオの拳が、ガルザヴェインの胸へ軽く触れる。
どん、と低い音。
ガルザヴェインが三歩下がる。
倒れない。
初回は膝をついた。
今回は踏みとどまった。
「おお!」
ルオが目を輝かせる。
「耐えた!」
ガルザヴェインが、にやりと笑う。
「タエタ」
「じゃあ、もうちょい強くするぞ!」
《するな!》
「ちょっとだけ!」
《そのちょっとが信用できん!》
フィルエが横から言った。
「ルオ、壊さない」
「分かった!」
即答だった。
余が言うより効く。
なぜだ。
組み手はしばらく続いた。
ガルザヴェインは何度も吹き飛ばされた。
だが、何度も立った。
ルオも、少しずつガルザヴェインに合わせて力を調整した。
最後には、ガルザヴェインの拳がルオの肩へしっかり当たった。
ルオが一歩下がる。
「今の、結構きた!」
ガルザヴェインの金色の目が燃えた。
「アタッタ」
「当たった!」
「ツギ、モット」
「いいぜ!」
《今日はそこまでだ!》
「えー」
《そこまでだ》
ルオは少し不満そうだったが、フィルエを見る。
フィルエが頷く。
「今日は終わり」
「分かった」
まただ。
やはりフィルエの言葉が効く。
ガルザヴェインも、素直に拳を下ろした。
こちらもこちらで、以前より聞き分けがよくなっている。
組み手後、フィルエはエリラの実をガルザヴェインへ渡した。
今日は五個。
ガルザヴェインは慎重に食べる。
「ウマイ」
「訓練後だから多め」
「ウン」
ルオが横から言う。
「オレももう一個」
「今日は終わり」
「ちぇー」
《よく言った、フィルエ》
「ロード、うれしそうだな」
《うるさい》
◇
ルオは、数日で迷宮に通い始めた。
毎日ではない。
だが、来る。
ある日は昼前。
ある日は夕方。
ある日は朝早く。
来るたびに、入口で大きな声を出す。
「来たぞー!」
最初の頃は、そのたびに警戒警報が鳴った。
今は少し変わった。
《ルオ・ゼルファニア、来訪》
《警戒:高》
《敵対意思:低》
《エリラの実消費予定:フィルエ判断》
白骨書記は、彼をこう分類した。
⸻
災害級来客。
⸻
余が抗議すると、白骨書記は書き直した。
⸻
災害級常連。
⸻
悪化した。
だが、否定できなかった。
ルオは来る。
エリラの実を食べる。
フィルエと話す。
ガルザヴェインと組み手をする。
時々、ゴブリンたちに外の果物を見せびらかす。
赤金果守ゴブリンたちは、最初こそ震えていた。
だが、ルオがエリラの実を勝手に取らないと分かると、少しずつ慣れた。
ある日など、ルオが持ってきた空梨を前に、三匹で固まっていた。
食べていいのか分からなかったらしい。
フィルエが許可したので食べた。
その後、赤金果守ゴブリンたちは、ルオを見ると少しだけ期待するようになった。
やめろ。
餌付けされるな。
ガルザヴェインも、ルオとの組み手で強くなっている。
最初は一撃で膝をついた。
次は踏みとどまった。
その次は、肩に拳を当てた。
昨日は、ルオに「今のは結構きた」と言わせた。
それを聞いたガルザヴェインは、一日中機嫌がよかった。
面倒だが、訓練相手としては異常に優秀だった。
強すぎる。
しかし、殺さない。
力を調整する。
ガルザヴェインにとって、これほど良い組み手相手はなかなかいない。
問題は、余の精神が削れることだ。
◇
その日、ルオは帰る前にエリラの木のそばでフィルエと話していた。
「フィルエ」
「うん」
「ここ、面白いな」
「迷宮だから?」
「うん。果物うまいし、ガルザヴェイン強いし、ちっこいの騒がしいし、ロードうるさいし」
《誰がうるさい》
「ほら、うるさい」
「ロードは心配してるだけ」
「心配性だよな」
《誰のせいだ!》
ルオは笑った。
フィルエも少しだけ笑った。
その光景は、平和に見えた。
ここがSランク迷宮の深部でなければ。
ルオが災害級存在でなければ。
エリラの木が神級素材を生む命の木でなければ。
「また来てもいい?」
ルオが聞く。
フィルエは答えた。
「来る時は、入口でちゃんと言って。勝手に奥まで走らない」
「分かった!」
「実は私が採る」
「分かった!」
「組み手は場所を決めてから」
「分かった!」
《余の言うことより聞くな》
ルオは胸を張った。
「フィルエの言うことは聞く!」
《余の言うことも聞け!》
「内容による!」
腹立たしい。
だが、最初の日よりずっとましだった。
ルオは迷宮を壊さないようになった。
エリラの実は管理されている。
ガルザヴェインは強くなっている。
フィルエも、ルオへの対応に慣れてきた。
問題は、ルオが完全に通う気になっていることだ。
「じゃ、またな!」
ルオは明るく手を振った。
「ロードも、またな!」
《来るな》
「来る!」
《来るなと言っている》
「果物あるし、フィルエいるし、ガルザヴェインいるし。来るだろ!」
理由が揃っている。
嫌なほど揃っている。
ルオは白い霧の外へ出ていった。
迷宮入口の霧が、ゆっくり閉じる。
余は白い部屋で、深く疲れた。
◇
ルオが退去してから、しばらく白い部屋は静かだった。
静かだったはずだった。
しかし、その静けさは長く続かなかった。
《外縁に微弱反応》
「……またルオか?」
《照合》
《ルオ・ゼルファニアではありません》
「では、天蓋の猟犬か?」
《一致しません》
「人数は」
《五名》
「人間か?」
《通常人間反応と一致しない個体が含まれています》
「含まれている、ということは混じっているのか」
《はい。五名の反応波形は統一されていません》
「何者だ」
《不明》
「最近、不明が多すぎる」
余は壁面を切り替えた。
外縁。
封鎖線の外側。
森の北西側。
夜の影が濃い場所に、五つの影があった。
彼らは、すぐには霧へ近づかない。
距離を取り、白い霧を見ている。
冒険者のように、宝の気配へ浮き足立っているわけではない。
調査隊のように、器具を並べているわけでもない。
五人の立ち位置が、妙に揃っている。
前に黒鎧の男。
その少し後ろに、大盾を持つ巨体。
左右に、斥候らしき影と術師らしき女。
最後尾に、骨札を持つ痩せた男。
フィルエの声が、森灰観測室から届く。
「ロード」
「何だ」
「あの人たち、冒険者っぽくない」
「理由は」
「足音が揃ってる。動きが自由じゃない。真ん中の黒い鎧の人に合わせてる」
「隊列か」
「たぶん。五人なのに、群れじゃなくて、一つの形みたい」
「軍人か?」
「分からない。でも、動きはそう見える」
「音を拾えるか」
「やってみる」
フィルエが集中した。
森灰観測室が、夜の森の音を拾う。
葉が擦れる音。
革鎧が小さく鳴る音。
低い声。
黒鎧の男が言った。
「目的を確認する」
その声は冷静だった。
「攻略ではない。征服でもない。戦利品自慢でもない」
大盾の男が低く笑う。
「では、何を取りに?」
「戦争に使える素材だ」
血晶の瓶を持つ女が続ける。
「人間どもが灰白庭、白箱迷宮などと噂している白い迷宮。Sランク相当として封鎖されたという話は、複数の経路で一致しています」
骨札の男が言う。
「正式名は不明。内部情報も薄い。ですが、封鎖されているなら、何かはある」
黒鎧の男は、白い霧を見た。
「我らは黒冠軍第七牙。ゼルヴァン・ギルロアの小隊だ」
余は、その言葉を聞いてから、ようやく呟いた。
「黒冠軍……軍か」
《外部勢力名と思われます》
「戦争に使える素材、と言っていたな」
《はい》
「なら、どこかの戦争勢力か」
《その可能性が高いです》
「王国側か?」
《断定不能》
「勇者側か、魔王側か、それとも別の軍か」
《現時点では不明です》
「不明か」
《はい》
「だが、少なくとも冒険者でも王国調査隊でもない」
《はい》
「軍の小隊だ。目的は、戦争に使える素材の回収」
余は壁面の五人を見た。
天蓋の猟犬は、仲間を救うために来た。
ルオは、果物を食べるために来た。
そして今度の五人は、戦争のために来たらしい。
余の迷宮は、いったい何の窓口になっているのだ。
「白骨書記」
余は呼んだ。
白骨書記が骨筆を構える。
「新規侵入者台帳を開け」
骨板が並ぶ。
⸻
新規侵入勢力:
名称候補:黒冠軍第七牙。
隊長名:ゼルヴァン・ギルロア。
人数:五名。
構成推定:
黒鎧の隊長格。
大盾を持つ巨体。
影に長けた斥候らしき個体。
血晶瓶を持つ術師らしき個体。
骨札を持つ術者らしき個体。
目的推定:
戦争用素材の探索、回収。
攻略、征服目的ではない。
危険度:
高。
備考:
何らかの軍事勢力と思われる。
勇者側、魔王側、王国側、その他勢力のいずれかは現時点では断定不能。
⸻
「よし」
余は静かに言った。
「迎えよう」
フィルエが問う。
「殺す?」
「まずは見る」
「天蓋の猟犬の時みたいに?」
「いや」
余は、黒冠軍の五人を見た。
「こいつらは冒険者ではない。軍人らしい」
だから、欲だけでは動かない。
仲間のためだけでもない。
果物目当てでもない。
命令と戦争のために動く。
ならば、違う腹で迎える必要がある。
「浅層は少し開けろ。戦争素材らしい餌を置く」
《対象は》
「赤錆核、白骨水晶片、黒泥城片。だが、本命ではない」
《承知》
「ガルザヴェインは待機」
「ワカッタ」
「ルオの後で悪いが、次の客だ」
「クロイ、グン」
「ああ」
「タタカウ?」
「必要ならな」
ガルザヴェインは拳を握った。
まだルオとの組み手の熱が残っているのだろう。
余は釘を刺す。
「勝手に出るな」
「ワカッタ」
「本当だな」
「ワカッタ」
信用しよう。
少しだけ。
◇
黒冠軍第七牙の五人が、白い霧へ近づく。
ゼルヴァンが先頭。
影の斥候が半歩横へずれる。
大盾の巨体が背後を固める。
血晶瓶の女が採取具を確認する。
骨札の男が呪符を指に挟む。
彼らは、霧の前で一度だけ止まった。
そして、ゼルヴァンが言った。
「入る」
五人は、白い霧へ足を踏み入れた。
《侵入者、確認》
《黒冠軍第七牙、五名侵入》
余は白い部屋で、静かに笑った。
「ようこそ、黒冠軍」
白い霧が、彼らの背後でゆっくり閉じる。
「戦争の牙を探しに来たのなら、まずは余の腹の噛み心地を知るがいい」




